特集/ケアマネジメント 日本のケアマネジメントの実際 (2)

日本のケアマネジメントの実際 (2)

―障害者への支援―

田村満子 *

はじめに

 私の勤務する在宅サービス供給ステーションは、特別養護老人ホームに併設するステーションである。提供するサービスは、高齢者デイサービス、障害者デイサービス、高齢者ショートステイ、高齢者ホームヘルプサービス、障害児・障害者ホームヘルプサービス、在宅介護支援センターである。対象者は、現在小学生から後期高齢者といわれる年齢まで広がっている。しかしながら、併設施設が高齢者施設ということもあり、利用者の多くは高齢者という状況である。

 その中にあって、ここでは障害児・障害者が利用者のほぼ半数を占めるホームヘルプサービスの利用者の事例を元に、我々の関わったケアマネジメントについて紹介していきたい。

1.事例から

a.身体障害者の共同生活を支援する

 男性ばかり5名がトイレ、浴室、階段を改造した一軒屋で共同生活をしている。彼らは身体障害者で、一般企業への就労ではなく関係する作業所(1カ所ではない)においてそれぞれに応じた役割を担い働いている。

 彼らのプロフィールは以下の通りである。

A氏:36歳 脳性麻痺(身体障害者手帳2級所持)電気車イス使用

B氏:38歳 脳性麻痺(身体障害者手帳1級所持)電気車イス使用

C氏:37歳 脳性麻痺(身体障害者手帳2級所持)独歩

D氏:30歳 脳性麻痺(身体障害者手帳2級所持)独歩

E氏:39歳 脳性麻痺(身体障害者手帳1級所持)電気車イス使用

 彼らのなかには施設での生活を経験した者もあり、食事・排泄・入浴・着脱については時間がかかったり、何回かに1回は失敗があったりということはあるが、それぞれのペースで自立している。それぞれ、実家との関係はおおむね良好で作業所の休暇には1度は実家へ顔を見せに帰っている状況である。

 経済的には障害者年金、作業所からの賃金が主な収入である。一部生活保護を受給している者もいる。休日・夜間にはパチンコに出掛けたり、繁華街へ出向いて買い物や映画を楽しんだり、自宅ではTVゲームを楽しんだりと個人差はあるものの比較的積極的に毎日を過ごしている。

 そんな落ち着いた生活ぶりの中、家事能力が十分ではないということでホームヘルプサービスの依頼があり、サービス提供が始まった。

 一軒の家で共同生活をしているといえどもホームヘルプサービスは個人に提供されるサービスであるということで、1対1の形態での派遣が始まった。清掃、洗濯、調理を中心に派遣が始まったわけであるが、作業所の仕事の都合で家が無人になったり、5名の住人であるにもかかわらず1名だけが残っていたりという状態のなかで訪問したホームヘルパーが依頼された家事サービスをこなしていくという形で、利用者である彼らとの関わりがほとんどない中、時間が流れていった。唯一の関わりは、希望する料理名が書かれたメモだけであった。

 家事援助であれ生活支援のためにサービスを提供しているホームヘルプサービスにもかかわらず、これでは彼らの生活状況が何もわからないままである、とのホームヘルパーからの相談を在宅介護支援センターのソーシャルワーカー(以下、SW)が受けた。

 そこでSWは、担当福祉課のケースワーカー、関連する作業所全体の責任者、彼らの生活を支援するグループのリーダー、彼ら全員と一堂に集まる機会を設けた。あらかじめ説明はしておいたものの、SWが今更何を言いに来たのか、解せぬという表情の彼らが作業所で待っていてくれた。

 そこで今1度、この話し合いの主旨を担当福祉課のケースワーカーからも説明して今後のホームヘルプサービス利用を中心に話し合いが始まった。

 彼らの通う作業所は日頃から頻繁に旅行など作業所外での活動も熱心に取り組み、彼らもほとんどそれらに参加して楽しみ、作業所側への強い要望もなく、彼らの作業所に対する信頼は厚いと感じられた。また、作業所側も管理的な運営よりも彼らの自主性を重んじていきたいという思いでこれまで運営してきたということだった。

 この話し合いで、ホームヘルプサービス利用時に住人全員が在宅することは仕事の都合上、不可能であることがわかった。そこで、担当福祉課のケースワーカーの確認の元に世帯派遣的にとらえていく方向に転換することにした。つまり、ホームヘルプサービス利用時には家が無人になることのないよう、責任者として最低1人が家に残ることになった。

 これまで、ばらばらにメモなどを通して依頼していたメニューなどに関しては留守番になった人が責任を持って取りまとめて訪問したホームヘルパーに伝える。メニューは共通のものにすることになった。

 洗濯については、これまですべてホームヘルパー任せであった人も、全員ではないが洗濯機を回すだけならできるかもしれないと、可能か否か取り組んでみると約束してくれた。

 以上のことを確認してこの日の話し合いは終了し、SWはこれらをホームヘルパーに報告しておいた。

 少しの戸惑いは感じられたものの、何とか話し合いどおりのホームヘルプサービスの利用が始まった。「今日の留守番は僕です。…氏は、昨日おなかの具合が悪くて食欲もなかったようです」等、1人から2人ずつではあるが彼らの近況が文字ではなく言葉で訪問ごとに把握することができるようになった。

 ヘルプサービスが順調に経過していると思われていたある日、在宅介護支援センターのソーシャルワーカーに訪問してほしいとの依頼が彼らからFAXで届いた。彼らが在宅している日時を確認し訪問する約束をする。

 5名の住人のなかに、親しくプライベートまでつきあっている関係の者もいれば、同じ一軒の家に住みながら仕事を離れると全く付き合いのない関係の者もいるということもわかった。

 買物、献立、買い出しの費用などをいつも同じメンバーが行っており、これらの状況を解決するための話し合う場を持っていないことがわかった。

 しかし、前回のように関係者が一堂に集まって話し合うのではなく「できるだけ指導を受けずに自分たちで解決していきたい」というのが、SWに訪問を依頼した目的であった。

 そこで、これまで買物、献立、買い出しの費用などの負担をほとんど1人で行っておきながらそれらの不満を口に出していうことが出来ずにいたA氏が、初めて皆の前で口を開いた。

 「はっきり言ってすごい負担だ。買物は誰も手伝ってくれない上、立て替えたお金も自分から支払ってくれない、かといって僕から取立てることも皆にはできない。」

 以前のように各自の献立を各自の材料で作る体制に戻すという方法もある。どちらかといえば戻してしまう方が楽だと思うが、どうしたいかとのSWの問いかけに、大半がどちらでもかまわないという返事のなかA氏だけはきっぱりと元に戻さずこのままでしばらくやってみる、という返事だった。

 これまでA氏だけが真剣であった感じであり、そのA氏の不満を仲の良いB氏が受けとめていた。しかし、B氏は元来の性格から常に笑顔でA氏の不満は聞いてはいたが、A氏をサポートしていく役割までは担うことはできなかった。A氏を十分サポートしていく能力のある人物として、D氏が適任であるとこれまでの生活ぶりからSWが判断した。

 そこで、これまで1対1の関係でつきあうことのなかったA氏とD氏を中心にこの問題に取り組んでもらうため、SWからD氏に協力を依頼した。D氏も快く引受け、A氏とD氏が中心に話を進めることにしてもらい、以下の点を確認していった。

①料金は給与日にA氏が徴収し、これまで途中で赤字になっていたことを反省し、パソコンでA氏が家計簿を作成していくことになった。

②献立は皆のリクエストやホームヘルパーのアドバイスも聞きながら、料理好きのA氏が立てたいという希望を出した。

③買い出しは、1ケ月交代としてその見守りはD氏が責任を持つことになった。

 この計画は、早速来月の給与日からスタートすることに決まった。

 以降、どうにか順調に自分達で決めたルールを守りながら問題が生じればミーティングして話し合うというスタイルになってきた。

 D氏が同じ家に住んで初めて、全くプライベートにA氏を訪ねてきたのはそれから間もない頃だった。

b.知的障害者と高齢の親を支援する

 この一家は、高齢の夫婦と知的障害の長男3人で生活していた。が、父がくも膜下出血で倒れ、身体障害者手帳1級所持者となって病院から退院してきた。以降通院と日々のリハビリを兼ねた散歩が必要となった。母は持病に腰痛と糖尿病があり、父の介護は室内の排泄面と家事で精一杯の状態で、通院、散歩、買物は長男の役割となった。

 長男の機嫌のよい時は、役割もきちんとこなしていたが、父の歩行がスムーズに行かない時などイライラして父を引きずったり、たたいたり暴力を振るうことがあり、父が長男を怯えてしまい、介護にならないということでホームヘルパーの派遣依頼の相談があった。

 在宅介護支援センターのソーシャルワーカー(以下、SW)が、自宅を訪問すると高齢の夫婦が出迎えてくれた。母はいかに父の介護が大変かを訴え、父自身はただニコニコと、そばで話を聞いているだけの状態だった。長男は、作業所からまだ帰宅していないということで不在であった。

父:85歳 両上下肢機能障害(身体障害者手帳1級)

母:75歳 腰椎脊柱管狭窄症にて、手術を勧められている。

長男(本人):49歳(療育手帳B1)

 長男は定時制高校卒業後、鉄工所に勤務していた時代に路上で頭部を殴られ、意識不明となる。意識回復し退院できるまでになったものの、知的障害が残った。

 現在、作業所に通い簡単な作業に従事している。作業所には送迎バスを利用しており、バス停まで10分ほど歩いて通っている。

 言語を使う能力が相対的に低いのと、ひらがな・簡単な漢字の読み書きや足し算はできるが、引き算は難しい。やや緊張しながらも、指示したことには一生懸命応じようと取り組むとの診断を精神薄弱者更生相談所において受けている。

 経済的には、生活保護を受給している。

 父の散歩と、長男が担いきれていない買物を中心に週1回のホームヘルパーの訪問が始まった。次第にホームヘルパーの訪問時に長男が帰宅している回数も増し、ホームヘルパーと同行して買物にも行くようになってきた。長男の買物のようすを観察していると、母から頼まれた品物を、ホームヘルパーに教えてもらい値札を見て、製造年月日などには全くこだわらずにとにかく安い品物を選んでいく。帰宅し、母が安いと驚くと自信をつけてホームヘルパーの訪問日以外にも時折買物に出かけるようになった。

 この頃、以前より勧められていた手術を行うため、母はT病院に入院予定となる。父も先日の通院時に肝臓の再検査が必要ということで、母と時期同じくS病院に入院予定となる。

 長男が1人となるため、福祉事務所と作業所の指導員より施設のショートステイ利用を勧められたが、このまま1人でいたいとのことで、SWに相談が入る。

 本人(長男)、母、福祉事務所ケースワーカーと作業所の指導員、SWが本人宅で話し合った。その結果、本人の強い希望で両親の入院中も自宅に残る方向で以下の点を確認した。

①入院中は、現在週1回のホームヘルパーの訪問を週2回に増やす。(サービス内容は、清掃、買物同行、調理アドバイス、家事全体のアドバイス)

②週2回の訪問日以外に、食事の準備ができているか、洗濯は行われているかなどを、毎夕短時間の巡回型訪問でホームヘルパーが訪問し確認する。

③両親の見舞に行く際、ホームヘルパーが訪問して施錠がされているか確認してから外出することになる。

 以上の点に合わせて作業所の終了時刻を30分繰り上げ、指導員の声かけにて帰宅することになる。この話し合いで、母も安心した様子で翌日より入院した。

 初めての1人暮らしが始まった。ホームヘルパーが訪問すると、うまく御飯が炊けないと夕食の準備が中断している状態であった。御飯の炊き方、炊飯器の操作をホームヘルパーより説明を受け、なんとか取り組んでいた。洗濯機、掃除機の取り扱いについては、これまで何度かの経験があったようで簡単な説明で操作することができていた。

 また、両親の入院している病院が離れているにもかかわらず、毎日のように作業所からの帰りに母の洗濯物を持ち帰ったり、夕食介助をするため父の病院に向かった。このような状況で3ケ月が経過したのだが、父の食事介助にも慣れ一緒にTVを見て過ごすなど父との関係も良好となってきた。

 また、炊飯器もしだいに使えるようになった。ホームヘルパーとともに調理することに関心を示すようになり、ホームヘルパーの定期訪問がない日には1度調理したことのあるメニューに1人で挑戦して父に届けたりして、1人暮らしに当初周囲が抱いていた不安点は解消されていった。

 ホームヘルパーに母の術後の経過は順調と報告できる一方で、父が手術の必要な状態になったと不安げな面も見せるようになった。本人の報告では、詳細がわからない点もあるので母、本人の了承を得て、生活保護のケースワーカーとともに病院側を訪れた。

 病状を確認すると、父は肝臓の末期癌であることがわかった。母と相談の上、本人にも父の状況を母から伝えることになる。本人かなり戸惑いを見せながらも「最後まで父の介護に病院に通いたい」ということで夕食の介助に引き続きS病院に通った。母の退院も決まり、父の状態悪化のため、長男は作業所をしばらく休み、退院間もない母の代わりに最後まで毎日父の介護を続けた。

2.考察

a.身体障害者の共同生活を支援する

 同じ一軒の家で共同生活をしてきた彼らは、食事をするという日常の問題を特に意識することなく過ごしてきた。そのことは、今回のホームヘルプサービス利用においても変わることがなかった。つまり、共同で生活し、同じメニューの食事をとるという場面になっても、食事の問題を自分達の問題として認識し、自分達の中でコントロールしていくということが、5人のなかでできていなかった。

 そこで、SWが彼らの中に入り話し合う場を持ち同席したことで、「自分達」の生活を「自分達」がきりもりしていくという認識、「自分達」の生活に対する責任、またA氏やD氏のように中心になることがなくても、お互いに配慮しながら決まったことがスムーズに進むよう協力するという姿勢が生まれ始めたのではないだろうか。

 彼らの生活に今まで存在しなかった「お互いの意見を交わす場を持ち、話し合う」という作業を経なければ、共通のメニューを決める、買い出しのメンバーを決める、買物の料金の工面をするという些細な日常の作業が進んでいかないという現実があるということがわかったといえる。

 少なくとも2年以上共に同じ家で過ごしてきた仲間にもかかわらず、ただ一緒にいるだけという現実があった。SWが、話し合う場を設定した事が、日常の食事についての問題を解決していくことにとどまらず、A氏はじめD氏との人間関係のありかたに変化をもたらせたといえるのではないか。

b.知的障害者と高齢者の親を支援する

 これまで両親と離れての生活をした経験のない長男(本人)にとって、父がくも膜下出血で倒れ要介護者となったこと、母の腰痛が悪化し手術を余儀なくされたことは、周囲の援助は受けながらも「1人で生活して行かなければならない」ということを実感しなければならない機会が、両親が考えていたより早く訪れたといえる。

 それでも施設を利用することで、日常の家事、父の介護を放棄することが可能であったにもかかわらず、在宅での生活を自分の意志で選択したことは意義深いものであったのではないか。

 これまで母が徐々に不可能になってきた家事の依頼を受けてもなかなかこなして行くことが出来ずにいた本人だった。1人で生活を始めることを選択した後は、強要されたり、依頼されたわけでもない洗濯、掃除を、積極的に機械の使用方法をホームヘルパーに尋ねながら取り組んで行く姿勢は作業所の指導員、福祉事務所のケースワーカー等周囲を驚かせた。

 これまでの生活に欠けていた生活技術、たとえば「鍵をかけて外出する」「食事のメニューを考える」などを身近にホームヘルパーの援助を確保することで、身につけていくことができたといえる。また、SWが本人の「在宅に1人で残りたい」という希望を実現する方向で、環境の調整を図ったという2段階の援助体制を整えることができたことは、父に対しての自分の役割、母の自分に期待する役割をその必要性を十分認識した上で、毎日を過ごすことに繋がったといえるのではないだろうか。

3.おわりに

 サービスの情報を持たなかったり、高齢者自身や介護者である家族が疲れてしまったり、サービス利用の必要性を感じながらも利用に抵抗感を抱いている等、なかなかスムーズにサービス利用に結びつかない場合が高齢者にかかわる中では少なくない。また、マネジメントを展開する場合も高齢者自身や家族が自ら展開していく力が弱っており、必ずしも自分たちの生活のマネジメントをイニシアティブをとってやっていくことができない場合がある。

 対して、障害者の場合事例を参考にみてみると、事例aでは身体面での障害、事例bでは知的障害と障害に違いはあるもののそれぞれ経験や機会がなかったがために身についていなかった技術を、本人自身が彼らの中にある力をひきだしていく手伝いをするという視点で関わるという高齢者の場合と少し異なった関わりであったといえる。

 事例のように具体的に関わる形は異なる場合でも、その人に応じたレベルでの「こうしたい」という表明ができるような部分的な支え、つまり「きっかけ」づくりをするという関わりの意義は大きいといえる。

 サービスを管理するだけの視点ではなく、本人自身が「こうしたい」という表明をするために、いかに「本人」側に立てるか、いかに「本人」自身の状況を把握することができるかという関わり、つまり「本人」自身はさまざまな形態、レベルはあるものの、その人にあったかたちで社会適応できる環境の整備ができるかどうかではないだろうか。

 高齢者への援助においてもこの「きっかけ」づくりから、「あんがいやれるかもしれない」ひいては、「こうしたい」という変化のための部分的な支えについて、その必要性を強く感じている。

*陵東館堺在宅サービス供給ステーション


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1996年8月(第88号)28頁~32頁

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