講座 障害者運動からみた福祉のまちづくり

●福祉のまちづくり・3

障害者運動からみた福祉のまちづくり

野村歓

□初期の福祉のまちづくりと障害者団体

 再三述べているように、福祉のまちづくりは、障害者自身の運動から生まれたものであり、障害者の活動なくしては語れない側面をもつ。障害者団体の活動は、既に他書にも触れられているが、本稿では、福祉のまちづくり運動に大きな影響を与えた障害者団体の初期の活動を中心に概観することとする。

・全国青い芝の会の活動

 脳性まひ者の人権回復を目的とした当事者団体で、生活保障、所得保障、介護保障を中心に運動を展開し、脳性まひ者の立場から多方面にわたる問題提起を行ってきたが、住宅・交通問題に対しても各地で積極的な行動を展開してきた。特に、昭和51年神奈川県川崎市で車いすを使用した脳性まひ者の市バスへの乗車を運転手が拒否したことに端を発した「川崎バスジャック事件」は、当時大きな社会問題となった。これは、重度障害者にとって交通機関が利用できないために生活が成立しないといった悲痛な叫びから発生した事件であり、まちづくり運動初期の象徴的な出来事であった。

・東京青い芝の会

 昭和50年代の前半に全国組織から分離した東京青い芝の会は、運動方針を行政要求型から行政との協働型に転換して活動を始めた。具体的には「東京都ケア付き住宅検討委員会」に当事者が参加し、行政・学識経験者と意見を交える形で報告書を作成した。さらに、それを基に検討を加えて建設された「八王子自立ホーム」は、日本のケア付き住宅の第一号として位置づけられ、いまでも存続している。この成果もさることながら、検討委員会で検討された「重度肢体不自由者は、たとえ社会的生産活動への参加が不可能であるとしても、人間として生きる営みを自分で判断し、決定し、責任を負い、自ら人間形成を行って、さまざまな面で社会参加することは可能である。これが重度肢体不自由者の自立である」といった自立の定義は、その後日本で起こった自立生活運動の根幹を成す思想の源流となった。

・全国障害者問題研究会

 昭和47年に結成されたこの研究会は、主として、障害者の生活や教育に関わる専門家と当事者による実践研究集団といえる。昭和48年以降における全国的な障害者の生活圏拡大運動に対しても指導的役割を果たしてきた。機関誌でもしばしば「まちづくり」の特集を組んできた。

・車いす市民全国集会

 昭和40年代半ばから急速に展開された障害者生活圏拡大運動の中心的存在であった車いす使用者が集まって2年ごと開催される集会組織であり、全国各地の運動体が持回りで開催し、現在でも続いている。この集会は、全国各地で行われているまちづくりを横につなげると同時に、福祉のまちづくりに対して大きな役割を担ってきた。たとえば、この集会に参加したことを契機に各地で福祉のまちづくり運動が開始され、車いすガイドマップづくりとまちづくり運動を通して、全国各地では障害者自身によるまちの点検活動グループが生まれ、「車いす東京ガイド」を始めとする「車いすガイドマップ」が多く発刊された。

・新宿身障明るい街づくりの会

 これまで述べてきた団体は、全国的な組織及び障害者団体としてまちづくり以外の問題をも考える団体活動であったが、この会は純然と「障害者の住みよい街づくり」を目指して活動してきた。この会は福祉のまちづくり運動が全国的に展開されたことに端を発し、自分たちの街を自分たちでチェックし、車いすマップを作ろうという動きから発している。そして、昭和55年3月に「新宿車イスガイド」を発行したことにより、各地の障害者との情報を交換を始めたが、その中で、障害者のまわりにはまだ多くの「街の段差」や「心の段差」があることを再認識し、障害者自身の生活や意識の実態を正確に把握することの大切さを痛感した。

 従来から実施されてきた障害者に関するさまざまな調査は、行政や研究者主導で実施されてきたが、当事者の立場から当事者自らが調査を行うことにより、障害者の本音が聞けたら意義があると考え、実態調査を行い、昭和57年「段差をこえて」を出版し、その後の動きを整理して「街づくりのあしあと」としてまとめた。さらに、昭和59年には地域生活の中で欠かすことのできないタクシー、鉄道、バス、自動車、飛行機・新交通システム等の移動の問題全般に焦点を当て調査研究を行い、昭和59年にこれを「障害者の移動と権利」にまとめた。この運動の特徴は、多くのボランティアが参加していたが、主体は常に障害者自身であって、それを周囲の人たちも十分に認識していたからこそ継続して活動ができたと評価されている。

・脳性まひ者等全身性障害者問題研究会

 この研究会は、障害者団体ではないので、ここに記すことは正しくないかもしれないが、障害者の意見を正面から捉えてきた研究会であり、その後の行政や障害者運動に大きな影響を与えてきたと思われるので、あえて取り上げたい。研究会の発端は、昭和50年に実施しながら障害者の反対で集計できなかった全国身体障害者実態調査をやはり再度実施しなければ行政施策の企画立案に支障が出るとの厚生省の判断から、調査は調査として、これとは別に「脳性まひ者等の生まれたときからの障害者の生活問題に関する研究」を進めるとの障害者との約束から始まった、社会局更生課が主催する研究会であった。委員16人のうち障害者が6人というこれまでにない構成であったことや、特に反体制と目されていた「青い芝の会」等と厚生省が同じ土俵の上にのぼって相互理解を深めたことは、とりわけ有意義であった。この研究会の動きや提言が障害者の所得保障論議の原点であったことはよく知られている。

 なおこの研究会でのまちづくりに対する見解は「全身性障害者が地域社会で生活する場合の障壁として、①移動に際しての交通機関などの不便、②各種建築物、街の構造などが障害者に対する配慮を欠くこと、③コミュニケーションと意識の問題からくる地域住民との交流の断絶、④社会的経験を積む機会の少なかった障害者の生き方の問題がある。これらの問題を改善するためには、物理的障壁のみならず、障害者と地域住民との交流によるまちづくりが総合的に行われる必要がある。偏見および差別行為による連帯意識の欠如を是正するために社会啓発の推進が望まれる。また、障害者自身に社会性、生活力を身につける自立生活リハビリテーションのための教育の機会の拡充が重要である。」(原文のまま)としている。

□現在の福祉のまちづくりと障害者団体

 障害者団体を中心とした地域のまちづくり運動は現在でも盛んに実施されており、ある調査によると、1990~1992年の3年間に発行された車いすガイドブックは全国で87種に上る。当初は車いす使用者が中心であったが、近年は視覚障害者・聴覚障害者を含めた幅広い視野からまちづくりガイドマップが作成されている。

 このようにマップづくりがいまなお盛んに行われている理由として、障害をもつ人ともたない人が一緒になって調査ができること、簡単な準備でどこでも手軽に調査ができること、結果が簡単に出て理解がしやすいこと、障害者の動きや話からも容易に問題点が判るだけでなく自分も疑似体験することによってさらに理解が深まること、等が理由に挙げられる。

 また、これらの運動は、1980年代後半になって、障害者の自立生活運動に受け継がれながら、かつての運動の主眼点がどちらかというと住宅を一歩出た外部の「まちづくり」中心であったものを住宅確保の問題や交通問題を含めたより広範な視野の中でまちづくりが模索されているといえよう。特に、住宅は、障害者が地域で居住し、社会参加するための最低必要条件であるし、交通問題はまちづくりの分野で最も立ち後れており、既存の交通体系を抜本的に見直さなければならないにもかかわらず、制度上・財政上・意識上の大きな制約を抱えている。これからのまちづくりにおいて最大の課題と言える。

 最後に、これまでの障害者のまちづくり運動を総括すると、これが国民に与えた影響はかなり大きい。かつて、わが国では、高齢者や障害者は施設の中で生活をすることを前提とする政策を取りつづけてきた。このこと自体がまちづくりを遅らせることになったが、地域福祉へと政策が転換されるようになってから発生したまちづくり運動は、まさに不便不自由だらけの街の構造を見せつけ、多くの市民の同情を得、これが理解と協力へとつながっていった。その意味では、障害者問題への理解は、まちづくり運動が大きな役割を果たしてきたといっても過言ではないだろう。

□災害と福祉のまちづくりと障害者運動

 福祉のまちづくり全体の流れから見ると、特異な切り口となるが、阪神大震災が発生したとき避難所や仮設住宅で環境が整備されていなかったために高齢者や障害者が著しく生活困難に陥ったことを契機に、災害時における環境整備問題がクローズアップされるようになった。

 災害問題をここで取り上げるにはいくつかの理由がある。第一にこれまでの福祉のまちづくりは、地域社会で社会参加を可能ならしめる手段として捉えられてきたために、主として、物理的環境の整備が中心であった。換言すれば、建築物等に近づけ、利用できるにはどうしたら良いかといった視点から考えられてきたまちづくりであった。また、生活できるようにするためにはどうしたらよいか、どちらかというとミニマムの考え方が基本になっている。しかし、日常生活を取り巻く周囲の状況は常に変化している。気象条件が常に違うことは当然のこととして、工事中となれば、平常時と当然状況が異なってくるし、あるいは事故が発生していつもと異なる使用方法になっているかもしれない。また、周囲に人がいるときといないときでは介助を依頼できたりできなかったりすることによって、使用条件が変わってしまうこともある。そんな状況を考えたとき、災害時の対応は検討すべき重要な課題を多く抱えているといわざるを得ない。

 阪神大震災が発生してから早2年が経過した。被災者は本当に大変な思いをされたが、喉もと過ぎればというように次第に風化されていってしまうのも、残念ながら事実である。しかし、障害者がどのような問題に直面し、どのように対処してきたかを整理しておくことは無駄ではないだろう。障害者団体の活動(情報ネットワーク)を通して災害時の課題を検討したい。

 被災時直後、街全体が混乱を極めた。他の市民と共に障害者も街の中に放り出された。市の職員とて同じであったが、家族を省みず市民の救済に東奔西走した。福祉担当の職員も同じ立場であったから、障害者の家だけを訪問するわけには行かなかったのだろう。そんなわけで、行政との連絡が途絶えた障害者は不安のどん底に陥られることになった。特に、火災や家屋の倒壊といったことだけがマスコミに取り上げられ、被災地の人々の生活、ことに障害者や高齢者の状況についてあまり触れられることはなかった。時々刻々と伝えられる障害者の安否確認の状況や物資医療の要望は強く求められたものの、これにすぐに対応することは難しかった。

 そんな背景から、障害者自らの手による救援・支援活動が展開された。その中心的役割を果たしたのが全国各地の障害者団体の支援である。その中心的役割を担った大阪救援本部の尾上浩二氏が記した記録によると、救援・支援活動を支えたのは、被災地からのファクス情報を中心とした情報ネットワークであった。姫路市在住の障害者の家から全国の拠点約200箇所にファクスが流され、初期の安否確認が一段落するまでの2週間で、21通もの通信が出されたという。このファクス通信が全国の障害者グループを一つにまとめ、ボランティアの登録・派遣から物資・義援金カンパ活動、政府への要望など一連の支援活動が可能になった。その後、大阪では尾上氏が関連する障害者団体を含むいくつかの団体が中心になって「大阪救援本部」を作った。

 救援本部の通信にはパソコンや電子メールが威力を発揮することになる。特にパソコン通信会社が回線を無料にして協力してくれた。そして障害者関連のフォーラムにも「地震関連会議室」が設置された。障害者救援本部通信は1996年12月現在で26号が発刊されている。

 さらに、震災のテレビ番組では聴覚障害者向けに字幕放送の配慮がなかったばかりか、普段放送されていた手話ニュースの時間もカットされ、街には公衆ファクスの設置台数も少なく非常時対策面での障害者対策は殆どなされなかった。また、NTTが設置した公衆ファクスは送信専用であったために、相手からの受信はできなかったという。また、避難所では、高齢者と共に障害者の生活は困難を極めた。障害者への配慮はなかったばかりか、高齢者にも生活しにくく、知的障害者や精神障害者にもつらい避難生活を余儀なくさせた応急仮設建築物は、障害者対策が当初なかった。見るに見かねたボランティアグループが応急対策を行った。

 このような事実を検証すると、阪神大震災で障害者自身が果たしてきた役割は特筆すべきことであり、一方で、福祉のまちづくりによる物理的環境整備だけではなく、システムを含めた人的対応も重要な柱としなければならないことを意味する。福祉のまちづくりは、地震・台風等の災害を含めたさまざまな緊急対応時においても高齢者や障害者を含めた形で対策を講じることが重要であることが理解できる。

 このことについて、1995年10月に開催された「復興と福祉のまちづくり国際セミナー」(兵庫県福祉のまちづくり工学研究所主催)で講演したジュン・アイザクソン・ケイルズ氏(アメリカ障害政策コンサルタント)は、障害者自身の役割として事前対処及び自活の計画をもつことが欠かせないこと、混乱の中でもその状態で平穏に暮らせる準備を整えること、準備には、機器や援助器具へのアクセス・緊急時利用資源の一覧の作成、緊急時健康の作成、個別支援ネットワークの確立、「能力自己評価」災害対応及び避難訓練の実行、明快で積極的なコミュニケーションの実行等を含むとしている。さらに、障害者関連必需品を2週間分、計画的に確保することを薦めている。

 一方、アメリカでは住宅で火災が発生したときのことを想定して、障害者は予め管轄の消防署と連絡を取り合い、寝ている部屋はどこか、どのような方法で救助して欲しいかといった重要事項を伝えてある。このようなことは、消防署側からはプライバシーの問題があり聞くことはできないようなので、個人個人が申請すべきことなのだろうが、なかなか実施されないことでもある。障害者団体として災害に強いまちづくりに積極的に参加する一つの手段としてこれらの斡旋を行うのはどうだろうか。

□まちづくりにおける当事者の参加

 これまで述べてきたように、福祉のまちづくり運動は、障害者運動の主要なテーマとして捉えられ、全国各地で当事者参加による運動を中心に展開されてきた。しかし、全国的に見れば、点的な運動に留まっており、しかも都市部及びその周辺に限定されている。その理由は詳細に検討したわけではないが、地域によっては移動手段や建築物の構造が十分に整備されていないために集まりにくい、といったまさに解決すべき問題が支障となっていることや、一方で都市部での意識の高い障害者の活動状況が地方に十分に行き渡っていないためではないか、と思われる。

 一方、近年は、行政が率先して福祉のまちづくりを推進し、条例などを制定している。しかし、行政先導型のまちづくりは行政側の論理で進められ、生活者の視点が至極薄められている感が強い。たとえば、小規模建築物のような条例制定後、既存建築物をどのように扱うか、条例対象建築物以外の建築物をどうするかといった問題に対してのアプローチがない。当事者たちが黙っていても条例はできると思うことは、決して正解ではない。自らが主体的に動き、街にできる建築物や道路や交通機関を当事者たちに使えるか否かを見守ることは、最低限必要ではないのか。そういう意味で、全国各地で福祉のまちづくりの運動が展開されることを願う。

 しかし、福祉のまちづくりの運動がこれまで比較的うまく展開されてきたのは、多くのボランティアや市民の協力があったからこそ育ってきたともいえる。蒔いた種も土壌が良くないと育たないように。そこで、今後は市民レベルのまちづくり運動への行政の支援も必要となってこよう。これまで、行政による福祉のまちづくりの進め方は、要綱や条例を制定したり、一部の建築物に助成金を補助するといった形で進められてきており、地域で展開される住民主体のまちづくり運動に対して援助したり、支援をすることはなかったのではないだろうか。多くの自治体ではまちづくり推進協議会といった形で公的な委員会が行政内にもたれることが多いが、これとは別に市民レベルのまちづくり運動体を支援する考えも必要だろう。

 一方で、障害者の政策参加も必要になってくる。これまで、障害者の政策参加がなかったとみるのは早計である。かなり前から当事者団体代表として福祉関係の委員会に委員として参加してきた。しかし、十分に機能していたかといえばNOと言わざるを得ない。どちらかと言えば、行政と学識経験者といわれる一部の人たちによって福祉行政は進められてきた感が強い。

 少なくとも、ここでは、議員になるといった直接参加はともかく、まちづくりに関する何らかの意志決定機関に障害者が積極的に参加できる仕組みづくりを働きかけるべきであろう。

 また、障害者の政策参加が目立ってきたのは、国際障害者年以降である。特にまちづくり問題は、当事者にとって地域生活成立の基盤条件であるばかりでなく、教育や雇用やあらゆる場面で重要な意味をもつからである。それだけに障害者自身の参加が認められてきたが、人数や障害種別に制限が加えられることが多かった。また、詳細部分を決定することに参加ができないこともしばしばである。

 前回にも述べたが、東京都ではこれらの委員会は公開を原則としているし、公募の委員を含めて障害者(団体)の参加も多く、活発な意見が交わされている。

〈参考文献〉略

日本大学理工学部教授


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1997年5月(第91号)39頁~43頁

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