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ネパールへの眼科協力 その成果と反省

黒住格

書誌情報
項目 内容
所属先 アジア眼科医療協力会、市立芦屋病院眼科
転載元 臨床眼科 第53巻 第4号別刷
発表年月日 1999年4月15日
備考 発行者 医学書院

第52回日本臨床眼科学会講演集 特別講演

 アジア眼科医療協力会は、アジアの国々に対して失明防止のための眼科医療隊を派遣しようという構想から、1971年に創設された。当初アジア各国で活動を展開するつもりであったが、やがて対象国をネパールに絞った。アイキャンプが主流であったこの国の眼科医療も、ゆっくりと組織立ち、援助の受け皿が整い始めた。そこで、当会も援助の目標を眼科医療体制確立に切り替え、1 アイキャンプ(野外開眼手術)の実施、2 眼科関係の人材育成、3 新しい眼科医療技術と眼科医療機器の導入、4 盲人の歩行訓練、リハビリテーションの指導、5 眼科病院に対する支援および眼科病院の運営、の5つの援助項目を立てて活動を続けている。

1.AOCAの歴史と規模

 アジア眼科医療協力会(Association for Ophthalmic Cooperation to Asia:AOCA)は、1971年からネパールで眼科医療活動を行っているNGOである。図1は会の経済的規模を示した。会員はほぼ2千名で、このうち、約500名が継続会員である。1981年の寄付の突出は、テレビ出演の効果である。収益というのはバザー、本や絵はがきの販売など、会の努力による収入のことである。活動費というのは、海外事業費である。はじめは活動費500万円の時代が続き、テレビ出演以降1千万円を超えるようになった。1989年からは外務省、郵政省の補助金がもらえるようになり、海外事業費も2千万円を超えるようになった。

図1 アジア眼科医療協力会の収入と活動費 グラフ
図1 アジア眼科医療協力会の収入と活動費

その後、会の目的を広げながら、(1)失明防止活動(アイキャンプ)の実施、(2)眼科医療分野の人材養成、(3)新しい医療機器の導入、(4)盲人リハビリテーションの指導者養成、(5)眼科病院、眼科診療所の運営という5本の柱を立てて活動している。

2.ネパールの一般事情と眼科医療事情

ネパールは、北をヒマラヤ、他の3方をインドに取り囲まれた内陸国である。面積は北海道の2倍、国土の90%は人の住めない山岳地帯である。緯度は大体沖縄ぐらい。気候は寒帯から亜熱帯まであるが、これは土地の高低で生じる。人々は中部盆地と、北インド平野に続くタライ平野に集中して2千万人が暮らしている。
表は日本とネパールとの基本事項の比較である。参考のためにカンボジアのデータが入れてある。国民1人当たりのGNPをみると、日本の1/200、内紛の終わったばかりのカンボジアよりも低い。

表 日本とネパールの基本事項の比較
基本統計 日本 カンボジア ネパール
人口(100万人) 125.4 10.3 22.0
国土面積(万km2) 37.8 18.1 14.7
1人当たりのGNP
(米ドル)
39,640 270 200
平均余命(年) 80 53 56
妊産婦の死亡率
(出生10万人当たり)
18 900 1,500
5歳未満児死亡率
(出生10万人当たり)
170 116
成人の識字率(%)男/女 100 / 99 80 / 53 41 / 14
適切な衛生施設を持つ人の比率 85 14 18
中・重度の発育阻害(%) 38 48
低体重(中・重度の)(%) 40 47

図2は、ネパールの眼科医療の動向を示すものであるが、最下段は時間軸の上に眼科医療の重大事項を記した。図形やその他の矢印は、個々の医療や医療機関を示している。

図2 ネパール眼科医療の動向
図2 ネパール眼科医療の動向

1947年には、インド人眼科医によるネパール初のアイキャンプが行われている。この国の初めての近代的な眼科医療である。
1952年にはネパール人単独のアイキャンプが行われた。
1962年には奈良県立医科大学の故神谷教授らによる日本・ネパール合同の診療、その9年後にアイキャンプが行われた。日本人によるネパール初の眼科診療活動である。そのあと日本キリスト教海外医療協力会の依頼で古谷、吉野医師が短期間アイキャンプを行った。
当会は、1973年よりアイキャンプを始めた。これが組織的な眼科医療活動を目的にネパールに関わった世界最初のNGOであった。
1962年、インドの援助でカトマンズにビル病院、ビルガンジにナラヤニ県病院(公立総合病院)が作られ、病院としての眼科医療の提供が始まった。
1972年Dr.ポークレルがイギリスから帰国し、翌年にはNGOとしてネパール眼科病院を作った。次いで1977年には、眼科医療統括団体であるネトラ・ジョティサン(以後、ネトラと略す)を作り、傘下に次々と眼科病院を作っていく。こうしてネパールに眼科病院時代が来る。
ネパールの眼科病院には、まず、公立病院の眼科部門がある。この中のトリバン大学病院は日本政府が作った。ネトラには15の眼科病院群がある。ケディア、ゴール、ダンクタなどの眼科病院、診療所は当会が運営しているが、これもネトラの傘下である。ネパールで眼科医療活動を行う外国のNGOの大部分は、この団体をカウンターパートとしている。
ライオンズクラブは、別の系列として眼科病院1つと眼科診療所3つを持つ。
オーストラリア政府の作ったティルガンガ眼科病院は、さらに別系列として、人工レンズの製作や、機械修理部門までを持った近代的な病院である。
ネパールの眼科病院は以上の4系列であるが、その傘下病院の数、カバーする地域の広さ、医療に対する理念の高さからいって、ネパールの眼科医療体制の中心をなすのは、ネトラである。これらの他に眼科医療助手による(眼科医のいない)25の眼科診療所がある。
中央盆地部と平野部に関する限り、眼科施設は平均的によく分散している。

3.援助についての考察

 発展途上国に援助を行うことは簡単なことではない。技術を教えること一つを取ってみてもそれだけではすまない。経済的、社会的なすべての遅れが取り込みを阻んでいるからである。さらに、文化的、習俗的な事柄が絡むと、問題は複雑になってゆく。
われわれが30年間試行してきた援助のやり方を各項目について、具体的に述べたいところであるが、誌面の制限もあるので、「アイキャンプ」と「医療器材導入」の項にのみ絞り考察を試みる。成功も失敗も、これらの項目において最も典型的な現れ方をしていると思えるからである。

1)アイキャンプ

ネパールが病院時代に入ったとはいえ、アイキャンプも依然として必要なものである。それは、ネトラがいうように、今でも「この国では、アイキャンプはヒマラヤからインド平野まで、東のメチ県から西のマハカリ県までの広い需要を担った事業」であることに変わりはない。
アイキャンプの始まりについてはすでに述べた。その実体は、眼科医を中心に看護婦、眼鏡士、マネージャーなどで10人ばかりのボランティアチームを作り、眼科医がいない地区に派遣して、主として白内障の手術を行わせるやり方である。この場合、国は交通手段・医療機器・薬品を提供し、アイキャンプを迎える町村は、仮設病院となる学校や公会堂を用意し、食事を提供する。こうして3者がそれぞれの持つものを出しあって、眼科医療を国の隅々にまで届けるシステムである。
ネパールには8万人の両眼白内障患者がいると推定されている。
図3は最近のネパールにおける全アイキャンプの手術実績である。1994年までは年間4千人を越える白内障手術をアイキャンプで行っているが、1995年からは、2千人台に減っている。これは、ネパールの風潮が病院運営のほうに向いたからである。ちなみに最近、病院では年間2万5千人~3万人の白内障手術を行っている。当会は、ネパールで行われる全白内障手術の1%を、年末年始のアイキャンプだけでこなしている。

図3 アイキャンプでの白内障手術数の変遷 棒グラフ
図3 アイキャンプでの白内障手術数の変遷

当会では今日までに、約3千人の白内障患者をアイキャンプで手術してきた。当初はグレーフェ刀とピンセットによる嚢内法で、1993年から計画的嚢外法による人工レンズ挿入を始めている。
非衛生的な環境下で、度数測定のされていない眼に人工レンズを挿入するには異論もある。しかし、アイキャンプの追跡調査を行った文献によると、手術を受け、メガネをもらって帰った患者も、メガネを壊したり、失ったり、馴れることができなかったりして、その半数以上がメガネをかけていないという。その結果、半数近くがWHOの失明基準の6/60以下という結果になっている。
アイキャンプで無料配布されるメガネは1ドルメガネといって、2年ぐらいで蝶番が壊れるという。ちなみに、われわれが使う人工レンズの度数は19~22の平均的なレンズで、1ドルメガネというのは一律に10Dレンズを使用している。WHOは経済的理由から、基本的に水晶体摘出とメガネを推奨している。しかし、若い医師たちが増えるにつれて、人工レンズに流れていくのではないかという気がする。
ネパールの眼科医療の傾向がアイキャンプから病院に向かう中で、ライオンズクラブの病院はアイキャンプに主力をおいて、時によっては、年間2,300人という数をこなしている。2人の眼科医による成果としては立派である。
先にも述べた通り、1988年頃からネパールに眼科病院時代が来て、外国のNGOが競って病院を持つようになった。
病院の診察料は15~20ルピー(1ルピー=2円)、人工レンズ挿入手術は1,000~1,500ルピーであるから、貧しい患者は病院で手術を受けることができない。病院はたいてい、年間何十人かの無料手
術の枠を持ってはいるが、それを越える場合は見捨てられることになる。これを補完するのが、無料で提供されるアイキャンプである。
一方、病院の経営面から述べると、独立採算を求められる病院は、アイキャンプと衝突することになる。患者は、アイキャンプがやってくることを知ると病院へ行かずに無料のアイキャンプを待つからである。そのうえ、患者のためという旗を掲げるアイキャンプは、近くの病院から医師やスタッフの協力を当然のように要請するから、病院は二重の損害を被る。
ネトラ傘下の病院では、病院経営に影響を及ぼすような地域ではアイキャンプはやらない、やらせないという取り決めが作られているが、傘下外の組織が行う場合にはこれを止めることができないのが現状である。今までは制限を加えられずに行ってきたアイキャンプにも、手法の転換が迫られる時期が来ているというべきであろう。
ネパールでの事情とは別に、当会にとってアイキャンプは、ネパールに関わろうとする若いドクターやコ・メディカルたちのネパール入門の意味を持つ。1回だけのアイキャンプ参加にとどまらず、会のさまざまな活動にも心を寄せてほしい。
アイキャンプは年末年始にわずか20日間ほどの休日しかとれない素人的集団にとっては、参加可能な唯一の方法であり、発会の当初から今も続けている。

2)医療機械導入

1972年、筆者が初めてネパールを訪れた時、ビル病院眼科にネパールでたった1台のスリットランプがあった。当時、眼科医は国中で3人であった。現在は75人に増えている。
前眼部の診察は懐中電灯で診るのが普通であった。筆者はスリットランプの導入でネパールの眼科診療がミクロの時代に入ると考えた。そこで、翌年から1台ずつ入れはじめた。しかし、眼科医たちはこれを十分に使いこなしてくれず、変動する電圧のせいで、すぐに電球が切れた。ネパールの電圧変動は想像以上に大きいことがわかった。
見えないスリットランプの鏡筒にどこから入り込んだか、金属片がカラカラと音を立てて、それがわれわれの活動の虚しさを象徴しているようで、泣きたくなったことを覚えている。助手が懐中電灯で患者の目を照らして、電球の切れたスリットランプで観察するという、不思議な使い方もそのとき覚えた。
スリットで全患者を診察するやり方は、当会から飽浦医師、続いて佐藤、川口、黒田医師らがケディア眼科病院に長期勤務することで定着させた。しかし、これにはネパールの電気事情が改善されたという背景の事実もある。
スリットランプが必需品となってきた最近では、器械修理の研修を終えて帰国した者たちが、品質のよい中古スリットランプを8万円で買って、自作の光学台にトランスを付け、16万円で眼科医たちに売る商売を始めた。ネパールの経済力もついてきて、この程度の金額なら若い医師でも購入できるようになった。器械の送り出しの手伝いは会が無償で行っているが、流通の環をほぼ完成させたことは一つの成果であった。器械の輸送は空輸である。旅行者に頼んで、手荷物の権利を譲ってもらい送っている。空輸の超過料金は3千円/kgで、輸送は課題の一つである。最近料金が半額になったのは喜ばしい。
器械の金額がもう一桁増えると、スリットランプのようにはいかない。手術顕微鏡は据え付け型のもの、ポータブル型を含めて10台以上提供した。手術顕微鏡は必需品となって、手術室に定着している。この価格はスリットランプとは一桁違う。
この頃は価格の1/3とか、1/4とか、相手に払えそうな金額を払わせることを始めた。このやり方が定着しようとしている。
無料で器械を与えることは、安易な取り扱いにつながる。購入の痛みを教えることは、物を大切に扱うことになる。
ネパール人には一般に、無形の技術に対して金を払う習慣がないようである。彼らはわれわれが研修させて、帰国させた技術者に修理費を払わない。これでは技術者の生活も成り立たず、われわれの目論見も断たれる。時にはネパール人の習慣や思考方法を改めさせることも、われわれの仕事である。いくつかの病院では、年2回の巡回修理に賃金を払ってくれるようになった。
Aモードスキャンや、レーザーなど精密電子医療器械の場合は、さらに問題がある。Aスキャン
はこれまで程度のよい中古を4台寄贈した。1台を除いてすぐに壊れた。動いているのは日本人眼科医の赴任している病院のものだけである。
レーザーはアルゴンレーザー1台、アルゴン・クリプトン1台、ダイオード1台、YAG2台を送った。アルゴンは11年間稼働して今年レーザー管が壊れた。これは十分に稼働した後の寿命と考えている。ダイオードは5年後の今も稼働している。この病院には、日本で研修した技術者がいて、絶えず補修、点検が行われているので器械の状態がよい。YAGレーザーの1台は稼働しているが、もう1台は、ネパールの眼科医療制度が変わったため、送った5年後から使われなくなった。アルゴン・クリプトンは運搬の途中で壊された。5台中3台が良好稼働、2台が不良という結果である。
発展途上国に先端医療器械を送るときは、それが適正技術に合うかどうかが問題になる。一般に、高度器械は不必要という結論になりがちである。しかし、私たちは人的、社会的な環境を整備して、あの国の人たちにも可能な限り文明の恩恵を享受してもらうのが正しい考えと思っている。

文献

1)黒住 格:ネパール神々の大地。神戸新聞総合出版センター、1995
2)黒住 格(編著):ネパール通信。神戸新聞総合出版センター、1983
3)AOCA編:ハムロ ネパール。風来舎、1994
4)飽浦 淳介:ビルガンジ通信。風来舎、1990
5)黒住 格:日本の国際医療の反省と展望-NGOの立場から-。国際保健医療 2:24-28.1987
6)黒住 格:アジア眼科医療協力会(AOCA)の活動。視覚障害リハビリテーション 44:5-17.1996
7)黒住 格:奈良医大グループと日本キリスト教海外医療協会/アジア眼科医療協力会(AOCA).日本の眼科百年・第11章眼科と社会の関わり 9.国際協力.410-413.1997
8)アジア眼科医療協力会:AOCA事業報告No1~25.アジア眼科医療協力会、1971~1998
9)Erpelding AM : Evaluation on the effectiveness of aphakic spectacles after cataract surgery im Nepal.Univ.of Heidelberg,1991
10)Nepal Netra Jyoti Sangh : Nepal Netra Jyoti Sangh-A study on present status and future prospects-.Nepal Netra Jyoti Sangh Kathmandu Nepal,1994
11)Nepal Netra Jyoti Sangh : A profile on Nepal Netra Jyoti Sangh.Nepal Netra Jyoti Sangh Kathmandu,1996
12)Pokhrel GP,Regmi G,Shrestha SK et al : Prevalence of blindness and cataract surgery in Nepal,Br J Ophthalmol 82:600-605,1998
13)Pokhrel GP,Selvaraj S,Ellwein LB et al : Visual functioning and quality of life outcomes among cataract operated and unoperated blind population in Nepal.Br J Ophthalmol 82:606-610,1998
14)Joshi ND,Kamiya S,Nishioka K : Eye camp in Jumura district of Kalnali zone in Nepal.Acta Soc Ophthalm Jap 75:2234-2242、1971
15)外務省:世界子供白書。1998


Ophthalmic Cooperation to Nepa
Itaru Kurozumi アジア眼科医療協力会、市立芦屋病院眼科
別刷請求先:黒住 格(くろずみ・いたる)〒663-8112 西宮市甲子園口北町24-13


主題(副題):
特集 第52回日本臨床眼科学会講演集 特別講演
ネパールヘの眼科協力-その成果と反省-
発行者:
医学書院
発行年月:
1999年4月15日
文献に関する問い合わせ先:
アジア眼科医療協力会
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