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「共生のまち」ガイド

第1章 生活条件改善について望むこと

-障害をもつ立場からの提言-

1 オストメイトの立場から

近時食生活の欧米化などの影響で、大腸や膀胱に癌、潰瘍などの原疾患が多くなり、人工肛門・人工膀胱(ストーマまたはオストミーという)の造設者(オストメイト)が増えております。オストメイトは一生涯自分の意志による排便・排尿の調節は不可能であり、排便・排尿の処置はパウチ(蓄便袋・蓄尿袋)によって行わなければならない、という辛い立場に追いこまれます。この他、便の臭いや洩れ、ストーマ周辺の皮膚障害、性機能障害など多くの問題もあります。これに加えて日本の社会では、便・尿の話は汚いものとしてタブー視する傾向があり、オストメイトは常に人目をはばかりながら排泄物の処理をせざるを得ないという状態におかれています。これらの苦悩の他次のような問題があります。

1 オストメイト全員の即時障害者認定を
 現行身体障害者福祉法の運用では、回腸または上行・横行結腸人工肛門および人工膀胱の造設者は即時4級に認定されますが、下行・S状結腸人工肛門造設者だけは排尿障害などの合併症が無い限り障害者には認定されません。これは明らかな差別といえましょう。
2 ストーマ用補装具について
 ① 補装具購入費の自己負担軽減 オストメイトにとって補装具、特にパウチは毎日の「生活必需消耗品」です。しかし現行では補装具交付制度の徴収基準額表による所得制限があって実際には3割弱のオストメイトにしか給付されておりません。これを改善してオストメイトの自己負担が軽減される措置を強く望みます。
 ② 同じく補装具交付制度における世帯所得の合算方式をやめて障害者本人の所得計算で行うようにして欲しい。
3 ストーマケア(管理)について
 ① 入院中におけるストーマケアの指導 ストーマとは何か、をはじめとして入院中の術前・術後を通じて担当医師や看護婦からストーマに関する知識、管理、補装具の使い方、洗腸法など可能な限りストーマケアの指導を受け退院後の日常管理がスムーズに行われるようオストメイト白身の自覚と病院側の指導とが必要です。
 ② 病院のストーマ外来とETについて ストーマについての悩みごとの相談、ストーマケアについての知識の吸収、新補装具や装着技術に関する情報入手など、オストメイドのためのストーマ外来が病院内に設置されることを望みます。またストーマ療法の専門的な教育を受けたET(ストーマ療法士)はオストメイトの良き相談者です。多数養成されるよう願って止みません。
4 オストメイトに対する社会的理解を
 オストメイトであるが故に離婚や結婚ができなくなった例もあります。また会社を辞めた人や職場で地位の降格を受けた人もいます。しかし死ぬまでパウチの装着による排泄処理というハンディを背負いながらも精一杯生き抜いているオストメイトに温かいご理解を。

2 ろう者の立場からの社会参加の障壁

障害者の社会参加の条件を考えるときに、まず頭に浮かぶのが、なぜ、社会参加に努力する障害者の勇気に応える行政的、社会的な勇気というか、意識の変革が遅々として進まないのかという素朴な疑問です。白い杖を頼りに交通事情の厳しいまちに出る行為。段差の多い危険な道路に不安をもちながら車いすで外出する行為。聞こえぬ障害をさらけ出して手話で対応を求める行為等は、社会参加に欠かせぬ障害者自身の当然の努力といえますが、その行為には、時には命が脅かされ、人間としての尊厳性を踏み躙られるような思いをしなければならないときもありますし、勇気なくしてできることではありません。
 まず、このような行為が同情的に受け止められるのではなく、その努力と願いに応える対応意識の醸成が望まれると考えるのです。
 ろう者の社会参加について述べますと、その障害の理解の促進とろう者がコミュニケーションの手段としている手話の本質的な理解が基本になると思います。
 ろうの障害の特徴は、運動機能の障害ではありませんから、外見から障害が識別できず極めて分かりにくい障害といわれています。行動面では軽度の障害者とみられ、コミュニケーション・情報の分野では重度障害者扱いされるのがその一例でもあります。また、障害の分かりにくさは時として、その人問的な能力にまで立ち入って評価されてしまう場合があります。また、ろうの障害はこの傾向をもろに受けやすい障害であり、臨床検査技師法・薬剤師法などでは免許欠格者に指定されています。この規定には、ろうの障害は教育的・社会的な環境により克服できるものであり、知能的・行動的な能力の可能性は無限であるとの認識が欠落しているといえます。
 いま、ろう者を含めた障害者の社会参加に必要なのは、障害否定の能力限界視に基づく制度や意識の変換であり、これが基本的な指標として確立されない限り、真の障害者の社会参加はありえないでしょう。
 次に手話ですが、ろう者のコミュニケーションの手段である手話は福祉的・社会的な理解が進み、この広がりに比例してろう者の社会参加も幅広く深いものになっています。しかし、広がりだけが先行して、基本的な手話通訳設置の施策が不十分なために、必要なときに手話通訳を得られないというろう者の悩みは解消されていませんし、不安定な身分と過酷な職務条件が手話通訳者の頸肩腕障害という悲惨な結果をもたらしています。手話は、ろう者が人間としての尊厳ある生活を営むために欠かせぬ言語であって、その伝達保障は専門的な制度として確立すべきもので、真摯な対応が求められているといえます。
 このように、機会均等の理念に沿っての法的制度の見直しと、障害に対する社会意識の変換を行うための具体的な展開が必要であり、この行為こそが障害者の社会参加を進める大道になると確信するのです。

3 意識の変革から壁を打ち破ろう

障碍の扱い方の壁
 国連では十数年前から“障碍”を、①損傷と②障害、そして③社会的不利(益)に明確に分けていますが、この区別が日本では、行政関係機関の役割の違いから、未だ全身性の障碍については不明瞭なのです。
 特に脳性マヒ等に代表される“幼い時からの全身性障害者”の評価と判定およびその認識は、専門家や関係者の間でさまざまです。
 本来、①損傷は医療の領域であり、②障害には、補装具や自助具・日常生活用具等により適切な対応がなされ、③社会的不利益には、年金等の金銭給付や税制をはじめ各種優遇措置、住宅や道路・駅等の環境改善、そして社会資源としての各施設等の改革整備が必要十分に行われることが求められます。
 今こそ専門家や行政およびその関係者は、脳性マヒ等の全身性障害者が人として独立し、責任ある自由が獲得でき、有意義な存在であるために、障碍の壁を明確にし、その対策を講ずるべきです。すなわち、脳性(小児)マヒ等の場合は、上肢・下肢・体幹・難聴・弱視・会話困難等を含むのですから、“全身性障害”として位置づけることが、望ましい土台づくりの上からも急務です。
 脳性マヒ者自身の壁
 戦後半世紀にさしかかっている今、独立と自由、そして誇りのもてる人生が送れる時代が到来しつつあると思った矢先、脳性マヒ者自身の壁の厚さ・重さに打ちのめされる昨今です。
 金は取れるだけ奪う、制度は最大限に活(悪)用する、人の心は使い捨てていく、我が者顔で動き回り(6K電動車いす)物を壊す、生活時間や金銭管理の不自然さ、体調を崩せば医療機関に走り、薬に依存するという動向は、私の身辺に起こっている実態です。こうした状況は、生まれてこのかた、親に代表される人達が衣・食・住はもとより、移動等を含めて代弁し、幼児のまま大人にさせられてきたからだと思われます。障碍者自身に罪はないのですが、その結果起こる事態を負わされる運命にあります。
 この壁を乗り越えるには
 国際障害者年十年を経過するなかで多くの人達の努力が実り、多くの国民が障害者のことを知り、程度の差はあれ、心を開いて暖かく受け止めようとしています。
 共に生きる国民的基盤はできているのです。
 今こそ専門家や関係者(家族)は、難しい用語を用いて重箱の隅をつつくような議論や対策を行うのではなく、損得で動くのでもなく、誰にでも解る言葉と内容で、納得のいく制度づくりをすることが求められているのです。
 一方、脳性マヒ等全身性障害者は、幼児性の克服をめざせる実体験を積み重ね、一日のリズム・一か月・四季のある生活を体で取り戻し、生き方を問い直しながら、歴史と文化を大切にする取組みが必要だと考えます。

4 コミュニケーション障害とアクセス

欧米並におおむね40デシベル以上を対象にした場合、耳の不自由な人々は、我が国に約600万人いると推定されます。聴覚障害の呼称は「ろう」「難聴」「完全失聴」「中途失聴」などといろいろですが、いずれにしても主な問題点は、コミュニケーションがスムーズにできないため、生活上のさまざまな情報が入らないことが問題です。その結果、生活上の不利益をこうむりやすいのです。
 ニュースについても、アナウンサーの声が聞き分けられず、また電車の中でも、車内放送を通じていろいろな情報が流されます。次の停車駅の案内から緊急放送に至るまで…。ろう者や完全失聴者は何も聞こえません。難聴者の場合は、うるさい騒音の中では頼みの補聴器も役に立ちません。ホテルには泊まることができますが、いったん部屋の中に入ったらお手上げです。難聴者でも補聴器を外した後はドアチャイム、モーニングコール、電話のベル音はもちろん、非常ベルの音も聞こえません。下手をすれば焼死する危険性もあります。それらをカバーしていくためにどんなサポートが必要でしょうか。
①警報 会議などの利用に提供しているところでは非常ストロボを、またホテルなどでは、さらに振動で警報を伝えるようにすること。
②アナウンス 緊急事態が発生した場合は、放送の他に、室内に常備しているテレビなどを強制的に切り替えて、字幕(テロップ)などで流せるようにすること。
③異常通報 トイレや部屋の中でなんらかの異常が発生したとき、外部の人や事務室などに連絡できるようにすること。
④緊急連絡 建物内で火災、急病、侵入などの異常事態を消防署、警察署、緊急指定病院などに通報できるようにすること。特に電話を使えない人々のためにも、緊急連絡用のファクス連絡網を完備すること。
⑤生活情報 ドアチャイム、電話着信、モーニングコールなどの生活情報をストロボ(宿泊施設は振動も併用)で知らせること。
⑥コミュニケーション機器 講演、映画などを視聴したり、ミーティングなどに対して必要な配慮として、OHP要約筆記機材、磁気誘導ループを常備して、必要に応じて貸し出しできるようにすること。
 以上の配慮はすべての施設に必要というわけではありません。施設の目的、性格などによって柔軟に対応させるべきでしょう。
 ただ、強調しておきたいことは、聴覚障害者は肢体および視覚障害者のように障害が外からみえないだけに、配慮面においても軽くみられています。しかし、情報のほとんどが耳から得られるという事実を考えると、それなりの対応が急がれて当然と思います。
 なお、これらの機器については、聴覚障害者関係の機器に関するノウハウを熟知している当研究会(TEL03-3380-3324 FAX03-3382-6565)に問い合わせを。

5 てんかんの立場から

てんかんは、繰り返し起こる発作を主な症状とする慢性の脳疾患であり、我が国の患者数は100万人ともいわれています。てんかんをもつ人の社会参加を拒むものを考える時、その100万人をひとまとめにして論じることは難しく、かつ妥当でないかもしれません。原因も、発作もいろいろな種類があり、また、治療によって発作が完全に抑制され日常生活には支障のない人から、発作以外の臨床症状や合併している障害(知的障害や視覚障害、肢体不自由など)がかなり重度な人まで、障害の様相はさまざまであるからです。
 しかし、この病気が、患者数も多く病名もよく知られていながら、実態が正しく理解されていないことからくる壁が大きいことは共通していえるでしょう。
 治療の結果、発作も起こらなくなった場合でも、「てんかん」という病名が知られたために、就職や結婚を拒否されることが残念ながらまだあります。また、職場で起こす発作に周囲の人の理解が得られず、居づらくなったあげくに、退職をほのめかされたり、自分から職場を辞めていくといった例もよく起きています。
 雇用の場面に限っていえば、当のてんかんをもつ人の発作や障害と、職務遂行能力との関連で問題が論じられる以前に、てんかんを画一的にとらえ、事故を起こす可能性が高いのではないか、欠勤が多いのではないか、といったステレオタイプな不安感や拒否感に支配されている事業主が存在することがいくつかの調査で示されています。
 現に私たちと接してもらうなかで私たち自身の努力や、あるいは教育や啓発のなかで改められていく無知や偏見もあるでしょう。しかし、てんかんへの無理解(あるいは古い認識)が「制度」として社会参加を拒んでいるものに、例えば、自動車運転免許取得における絶対欠格事由があげられます。現在の法律ではてんかんと病名がつけば運転免許は全くとれないことになっています。誤解のないように申し上げれば、てんかんをもつ人のすべてに運転免許を認めよといっているわけではありません。発作が抑制されていない人に欠格条項を課することは道理のあることでしょう。しかし、発作が完全に抑制されている人に対する欠格事由の存在は、欧米諸国にはみられない、我が国における制度的バリアです。
 制度による参加制限がある一方で、それを補完する援助制度の側面からみるとどうでしょうか。上記の運転免許、すなわち移動問題を例にとれば、公共交通機関の運賃割り引きは私たちには認められていません。発作が頻繁に起こるために外出時に介護者を要する場合でも、それに対する公的保障はありません。現行の制度により保障される場合もありますが、それは精神薄弱者施策や身体障害者施策の対象となる人に限られます。
 過度の制度的制限と、援助制度の不備は、二重のバリアといえましょう。

6 弱視の立場から

ひと口に弱視者といっても、視力や視野や眼の病気の状態などによってその見え方はさまざまですし、同一の弱視者でも、周囲の環境やその日の体調などによって見え方が微妙に違ったりもします。そのために弱視者は、周囲の晴眼者にとってなかなか理解しにくい存在であるように思われます。弱視者が感じるバリアの根幹は、まさにこの裏返しで、自分が困っている状況を周囲の人々になかなか理解してもらえないという点にあると思います。
 そこで、弱視に対して少しでも多く理解して頂くために、私自身の体験と私が知り会った弱視の方々の経験をもとにして、弱視者が普段バリアだと感じている点について具体的に述べていきたいと思います。
 街中を歩いていてまず困るのは、下りの階段や段差です。特に最近は、階段や段差の色彩やデザインがその周辺の床面と同じようになっているものが多くみられます。このような階段や段差は、その存在そのものがわかりにくくとても危険を感じます。さらに、踏み面がレンガ風や石畳風の模様になっていたり、段がすべて同じ色になっているものは、段と段との境目、踏み面の幅、蹴込みの高さなどが視覚的にとらえにくく、とても歩きにくく感じます。そこで、階段や段差の始まりと終わりに視覚的にはっきりと識別できるような目印をつける、踏み面とは色や明るさの異なる滑り止めを設けるなどの配慮をして欲しいと思います。
 次に困るのは、各種文字の標示です、例えば駅構内の案内標示、番線標示、乗り換え標示、駅名標示などは、掲示位置が高いため、視距離が遠くなり見やすさが低下しますので、掲示の高さを低くするか、標示文字を大きめにするなどして欲しいと思います。また、建物内部の室名標示は、位置が高い上に薄暗い所に掲示してあることが多いようですが、これらは、目の高さの比較的明るい所に掲示してもらえるとずっと見やすくなると思います。
 さらに、バスの行き先標示は、掲示位置が高い上に読み取れる時間にも制限がありますので、入り口付近の目の高さのところに掲示するか、あるいは、一部で行われているような音声案内を徹底するかして欲しいと思います。
 また、建物の名称の標示にもわかりにくいものが多いようです。特に、石に彫ってあったり、銀色の背景に黒い文字で標示してあったりするとかなり見にくいものです。少なくとも公共の建物の場合には、文字と背景とのコントラストを十分にとるなどして、標示文字を見やすくして欲しいと思います。
 また、最近の銀行のCDやATMでは、画面上に標示されているボタンを触って操作するタイプのものが増えてきています。ところが、画面上で用いられている色によっては、標示されている文字が読みにくいものが多いようです。そこで、標示文字とその背景とのコントラストを十分にとり、標示文字が見やすくなるようにして欲しいと思います。

7 重症心身障害児(者)の立場から

重症心身障害児(者)(以下「重症児」)は、重度の身体障害と重度の知的障害が重複しているため、言葉の表現の困難な人たちですが、表情や目、指の動き等で実にこまやかに自らを表現しております。この子たちの立場に立ち、重症児たちの熱い思いを申し述べさせて頂きます。
 私どもの会は「社会復帰もできない子に何で金を使うのか」というのが世間一般の風潮であった昭和39年に、「社会的に一番弱いこのいのちを切り捨てるということは、老人など次に弱い者を切り捨てることにつながる。一番弱い人から守ることで、すべての人の幸せの土台が築かれるのではないか」と訴え、結成されました。それから30年余を経た今日、多くの方々の努力により重症児を含め障害者問題への社会の理解は深まり、現在は重症児の「いのちを守って下さい」から「この子たちの生きがいを考えよう」までに広がりをみせていることは、正に隔世の感があり、有り難いことと感謝致しております。
 障害者福祉の原点は、障害者が地域社会に共にあることだと思います。「街に慣れる街が慣れる」という言葉がありますが、障害者が街に慣れ、街も障害者に慣れて、そこに障害者も含めた人々の生活が営まれる、それが普通の街の姿でありましょう。
 重症児は、全国に約3万人といわれていますが、他人の力を借りなくては、そして車いす無くしては外出が不可能です。そのためその姿が一般の方の目にふれる機会は少ないのではないかと思います。けれどもこの子たちも街に慣れたいと思っているに違いありません。街でこの子たちに接した方々は、重い障害をもちながら懸命に生きているその姿に、”生きる”ことの何かを感じて下さるのではないでしょうか。
 重症児が街に慣れるのを阻んでいるもの、一番大きい壁は物理的環境(これは老人等の場合も同じことだと思いますが)の問題です。車いすで移動しにくい道路、街の構造、電車等乗降の諸設備(駅のエレベーター等)のアクセスの問題。出かけた先の施設の構造(例えば車いすで通りにくいホテルのドア)、設備の問題。重症児の泊れるホテル等宿泊場所が少ないといった問題。また外出するには人手が必要ですが、ヘルパー派遣等人的バックアップ体制が整備されているかどうかといった問題点をあげることができると思います。
 「障害者基本法」や「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」がめざすように障害者の社会参加が円滑にできるようになることが望まれます。
 こうした環境の実現は、社会の理解と共感なくしてはあり得ません。そのために私たち親自らが意識の転換を図り、その実現のために努力しなければならないと考えます。

8 精神障害者の立場から

1 精神障害者にとっての社会参加
 従来の一般概念として、就労することができた状態を社会復帰とする風潮がありました。最近では精神病院から退院し地域で暮らすことが社会参加であるとの新しい位置づけが主流となっています。

2 精神障害者の特徴と現状
 精神障害者は外見上判断することは困難なケースが多く、さらに精神病と精神障害が共存するのが大きな特徴です。また障害が固定しない点も他の障害者との違いといえます。障害の内容にしてもマチマチで簡単に分類することは困難です。
 精神障害者の障害問題を取り上げる場合、医療機関との信頼関係が重要です。この治療的側面を度外視して論ずることは不可能です。
 私たちの周りには、私たちに対する偏見や差別の問題が大きく横たわっています。自らの病気と障害を抱えながらの地域での生活がいかに大変かを想像して下さい。

3 具体的なバリアと改善への道
 私たちの多くの仲間は心優しく、自己主張が下手で、生真面目で、周りの人に必要以上に気を遣ってしまう人たちです。このような私たちにとって最大のバリヤは、社会の私たちに対する無認識からくる偏見です。精神障害者は一体何をするか分からない、といった古典的な解釈が未だに根強く残っています。そのため、どうしても家に閉じこもりがちになってしまう傾向があります。地域との接点も失い将来に対する不安の中で暮らさざるを得ない仲間は沢山います。自分自身が精神障害者であると名乗れる環境は皆無といっても過言ではありません。このような状況が一般市民から精神障害者を一層見えにくい存在としています。一般市民にとっても精神障害者との出会いの機会は少なく精神障害者に対する正しい知識を得ることも難しいのが現状なのです。
 次に、経済的な援助体制の遅れがあります。昨年12月にやっと「障害者基本法」に精神障害者も入りましたが、関連法の整備がなかなか進まず他の障害者とは福祉の面での遅れは解消されていません。障害年金や生活保護で最低限の生活を余儀なくされた仲間も大勢います。経済的な安定が何よりも求められています。さらに、精神障害者が地域で暮らすためには共同作業所をはじめ、グループホームや援護寮なども現在ありますが量的に少なすぎるのが現状です。在宅の精神障害者は増え続けています。地域での生活上の問題などを気軽に相談でき、休息の場も兼ねられる施設「地域生活支援センター」のようなものが今後必要となってくると思います。
 最後に、仲間同士の触れ合いが何よりも大切です。セルフ・ヘルプ・グループの存在抜きに現在の厳しい状況を改善することは不可能です。仲間との信頼と支え合いの中で得られるものは計り知れません。私たちにとって安心できる身近な場がこのグループなのです。

9 内部障害者の立場から

内部障害者に共通の問題ですが、町を歩くとき、乗り物に乗るとき、人と接するとき、多くの場合その「障害」は目に見えません。腎機能障害者も例外ではありません。身体障害者手帳を見せると不思議がられて、「本当に障害者なの?」という感じで体中ジロジロと眺めまわされたりした経験を多くの内部障害者がもっています。
 腎機能障害者の場合、障害の程度(障害等級には関係なく)によって「障害にともなう障害」は個別的で、一様ではありません。人工透析治療を受けている障害者は身体障害者手帳では1級ですが、透析を受けてきた期問、年齢、性別、合併症の有無によってそれぞれ異なります。同じ透析を受けている腎機能障害者でも、健康な人とほとんど変わらない日常生活を過ごしており、社会参加の上からもとりわけ障害者としての配慮を必要としない者と、歩行も困難で通院さえできず、家族らの介護によってようやく通院している者もいます。
 まだ自身の腎臓が多少は機能しているがいずれは人工透析を受けなければならない状態にある者については、社会参加に当たってまた別の支障があります。
 物理的な障害でいえば、階段、坂道などは総じて苦手です。貧血をもつ者が少なくありませんから、すぐ息切れがしてそのような場所では休みながら歩かなければなりません。断崖絶壁のように見える駅やビルの階段を目の前にして、ため息をつくこともしばしばです。電車、バスなどで立っていることも苦痛な腎機能障害者も少なくありません。こうした腎機能障害者にとってのバリアは、高齢者や肢体障害者と共通したものです。
 前述のように、腎機能障害者は肢体不自由を併せもつ者などを除くと、周辺の人は障害者であることに気がつかないことが少なくありませんから、手を貸してもらうことができなくてつらい思いをした経験のある者も多いようです。通院や通勤の電車でシルバーシートに座っていて、「若いくせに……」という目で乗客に見下ろされて、恥ずかしい思いをしたという腎機能障害者の話はよく聞きます。腎機能障害者の中には、「車いすをあしらった障害害者マークのように、内部障害者を表すマークのバッジのようなものをつくってほしい」という者もいますが、「それは特別の扱いを受けるための水戸黄門の印籠のようなもの。
 ノーマライゼーションの思想に反する」と強く反対する声もあります。
 もう一つ、腎機能障害者の社会参加を阻む大きなバリアとして雇用・就労問題があります。特に透析患者の場合は、新卒者も中途求職者も就労が困難です。医療費が高額であることと、週3回、1回4~5時間の透析治療が就労機会を妨げています。こうしたバリアの除去は、腎機能障害者への理解を広げ、ある種の社会的差別ともいえるこのバリアを取除くことにしかないように思えます。

10 社会参加をこばんでいるもの、バリアは何か

結論からいうと、その障壁は障害者に対する無理解と認識不足によるということになります。
 国際障害者年から早十余年、当時に比べ健常者の障害者に対する意識や関心は、確かに高まりました。しかし、正しい理解と認識ということになるとまだまだ不十分といわざるを得ません。それはソフト面、ハード面ともにいえることです。
 例えばソフト面からいうと、私は幸い全盲ながら白秋による単独歩行が可能なので、毎日自宅から職場まで1時間余りかけて通勤しています。この間5か所の交差点を渡り、三社の鉄道を乗り継ぐことになりますが、周囲の人々から声を掛けられたり介助を受けることはほとんどありません。交差点や駅のホームでは一歩誤れば死につながることから、全神経を緊張させての行動ということになりますが、こうした時ちょっとした援助があればと、いつも思います。長い通勤生活の中で、ホームからの転落が3回、交差点で横断中車に跳ねられること1回の苦い経験をもっています。また、安全誘導のために敷設されている誘導・警告ブロックの上の放置自転車や積み上げられたゴミ、違法駐車の車等にぶつかるたびに、そのモラルのなさ、意識の乏しさを痛感させられます。
 また、ハード面においても視覚障害者のための歩行の安全設備である誘導・警告ブロックや音響式信号機にもいろいろと問題が生じています。その一例を挙げると、ごく最近東京新宿の高田馬場駅前の都道に敷設された誘導・警告ブロックの色が、これまでの黄色から道路とほぼ同色のグレーに変えられてしまいました。その理由を質してみると「どうせ見えないのだから色は関係ないだろう」ということのようでした。これは大きな誤りで、あのブロックの色は弱視者、特に0.01から0.06ぐらいまでの弱視者にとっては、歩行の安全確保のためのものなのです。この傾向は全国に広がりつつあり、関係者にその意義、目的を十分認識してもらう必要があります。また、都内では音響式信号機の多くが押しボタン式になっていますが、視覚障害者にとって、その押しボタンを探すことは容易ではありません。この問題を解消するため、最近、無線電波による遠隔操作機器が開発され、徐々にこの方式に切り替えられつつあります。
 こうしたことは、すべて視覚障害者に対する無理解と認識不足から生ずるものです。
 それではどうすればこれらの問題を解決することができるのでしょうか。それには統合教育を実現するしか道はありません。障害者にどう接すればいいか、また、障害を補うためにはどうすればいいかということは、小さいときから共に学び、共に遊び、共に生活することによって、おのずから体得するものです。何ごとにつけ、よく引き合いに出されるスウェーデンではすでに盲学校は廃止され、重複障害をもつ盲児童のみに特殊教育が行われており、他の先進国もほぼ同様の傾向にあります。我が国でも一日も早く統合教育を教育行政に取り入れ、障害者に対する真の理解と認識を得られるようにし、障害者の社会への完全参加と平等を実現してもらいたいものです。

11 遺伝教育の普及と障害者住宅の整備を願って

あせび会は単一疾患では患者団体がなかった疾患を対象に、病名や障害名を問わぬ多疾病団体として、1977年に結成されました。したがって利害が異なるさまざまな病気や障害をもった人々の集まりです。
 活動内容も患者会に求める医療講演会などを、単一疾患で開催できるものはわずか5~6疾患であり、あせび会のなかでは恵まれた疾患です。会員の半数(800人)は専門医と呼ばれる医師も見当たらず、専門的な医療情報は皆無に近く、仲間同士の情報交換を唯一の支えとしています。
 このように当団体は、病気の数だけがやたらに多い小さな雑居組織です。しかし、会員は最初は戸惑いながらも隔月発行の機関誌や交流を通し、さまざまな病気や障害をもった人々の存在を知り、やがて異なった病気や障害を自然に受容していきます。
 しかし、この理解を当事者同士から一般社会へと広げるには、膨大な時間とエネルギーが必要です。一時の同情や知識として認識することは容易であっても、理解し痛みを共有するまでには、人間は多くの努力と忍耐が必要です。だが、変化が早く多忙な現代人の多くには、「亀を待つ兎」になる心の余裕がないことを痛感しています。
 その反面、先端医療情報として、遺伝子組替え、胎児診断などの国際情報が度々マスコミに登場します。日頃、医学教育の場でさえ遺伝についての基礎教育の遅れを感じるなか、このまま情報だけが先行したなら、排除の論理が正当化されてしまうのでは、と恐ろしさを感じます。そんな私が、いま直面している二つの問題を述べたいと思います。
 その一つは遺伝病についてです。遺伝性疾患による障害の場合、多くはその障害の状態もさることながら、原因が遺伝性と知ると、社会は同情よりも侮蔑の目が強くなります。遺伝子治療や、出生前診断などの情報よりも、医学の現場における遺伝教育を徹底すべきと感じています。さらに避けることのできない生物としての、遺伝の仕組みや障害発生のメカニズムを、小学生の頃から保健教育の一環として教えたならば、障害や病気をもった人々も自然に受け入れられる社会が実現するのではと感じています。
 二つ目は単身障害者の住宅問題です。年齢とともに障害が進行し、社会生活が困難な皮膚症状や形態障害等の環境整備も、数少ない障害ゆえか政策の遅れを感じます。生涯続く広範な皮膚処置ゆえに、成人しても生活の自立ができない人や、遺伝性疾患からくる障害ゆえに、結婚を諦め単身生活を余儀なくする人などは、所得も低く住まいの問題は深刻です。単身の障害者や、中高年者を嫌う民間賃貸住宅の現状を考えるとき、単身用公営住宅の整備を願うばかりです。核家族、高齢化社会の近未来は、単身者の増加時代でもあると考えます。所得保障とともに単身者が安心して暮らせる住宅の確保こそ、自立生活の第一歩であり、共生のまちづくりの基本だと考えます。

12 リウマチ患者・障害者の立場から

リウマチ患者・障害者にとり社会参加へのバリアは、ハード、ソフトともに横たわっています。まず第一のバリアは、難病患者と障害者という二つの顔を持つ立場です。リウマチ(慢性関節リウマチ)は、原因が解明されず、根本的治療法が確立されていません。しかも働き盛りの30~40代の女性に多く発病し、患者の多くは周期的に軽快と悪化を繰り返し、休みない痛みと運動障害のなかで長期療養を余儀なくされ、身障者になる場合も少なくありません。年々障害は全身にわたって進行し、寝起き、着替え、洗面、食事、トイレなどの日常生活動作は低下し、通院、冠婚葬祭、趣味、旅行などの外出も、段差、バスのステップ、駅の階段の昇降などがバリアとなり、タクシー、介助費などの負担で社会参加を諦め、肉体的、精神的、経済的なバリアとも闘っています。
 第二のバリアは、生きている限り薬の服用などの治療、介助の必要な患者・障害者でありながら、医療面では難病対策の対象とされず、福祉面では、重度の障害者にならない限り医療費の公費負担、福祉サービスなどが受けられず医療と福祉の谷間に置かれています。
 第三のバリアは、日常生活動作の低下を補う福祉用具、装具などの処置、指導などがほとんどされていないことです。そのために、個人的な工夫や努力の限界、あるいは我慢により障害を進行させ手遅れにしています。もし、痛い足に歩きやすい靴や杖、食事、整容、更衣、入浴などに適切な自助具を利用できたら自立生活は容易であるに違いありません。
 私は9歳で発病し半世紀を超える病歴で、今ではひどい変形の両手指は握力ゼロ、両膝は人工関節で、身障者手帳は1級です。矯正靴と一本杖で近い距離はなんとか歩きます。でも行きたい音楽会、温泉旅行などはバリアを思い諦めることもしばしばです。
 去る6月、私は会議、病院視察、患者訪問などのため、福祉先進国のデンマーク、フィンランド、イギリスに旅しました。空港での車いす、リフト付きバスは快適でしたが、座席の高い車の乗降、レストランの階段などの移動バリア、ホテルのドアの開閉、シャワーや洗面所の蛇口などのバリアも多かったのは意外でした。しかしタクシーの運転手さんは太い腕を差し出し手助けしてくれ、バスの運転手さんも、リフトの昇降に同乗し、私の体を軽く支えるそのさりげなさに感動しました。国内のリムジンの乗降はおんぶでした。
 おわりに、リウマチ患者・障害者という特殊な立場で、外に見えない強い痛みと不自由のバリアと苦闘していることへの理解、医療費公費負担、福祉サービス、ケアなどが受けられるよう身障者手帳の3、4級所持者まで対象を拡大するバリアフリーを切に望みます。
 障害はいつ誰がなるか分かりません。一般の方々には、障害者に対して同情や好奇のまなざしでなく、気持ちよく社会参加できるバリアフリーのために、あたたかい理解とさりげない協力をと心からお願いいたします。

13 知的障害者にとってのやさしいまちとは

知的障害をもつ人たちが、「本人参加」の時代の流れのなかで、周囲の援助を得ながらも、できるだけ主体的に自分の意思で、まちの中に住み、まちの中で行動することが本当に多くなってきました。
 けれども、現在のまちのようすは、知的障害をもつ人にとっては緊張が多く、行動しやすい環境とはいえないと思います。
 「知的障害」という障害の特徴は「判断すること」それも「とっさの判断」ということが弱いといえます。また身体障害者の場合は行動する上で問題になる物理的環境、すなわち「ひとともの」との関係ですが、知的障害の場合は「ひととものと人間関係」ということになります。このことがまた知的障害の特徴の基本だといえます。
 例えば、次のようなことを経験します。
① 信号が青になって渡ることも、横断歩道橋を渡ることも身についた習慣として守れます。しかし周囲の大人が、赤信号で渡ったり、横断歩道橋の下の禁止を無視して渡れば、知的障害者はそれに引っぱられて危険な行動を起こすことになります。「止れ」「危険」の標識とそれを防ぐ配慮を、むしろ大人の方にはっきりさせることが必要です。
② 駅の切符の自動販売機や自動精算機は人混みの中での臨機応変さを必要とするので苦手です。そこに駅員や親切な人がいれば可能になります。
③ バスやタクシーでの行動は大きな助けになります。無料パスや割引証の利用に運転手が不親切であれば、行動は大きな制約を受けます。自分の方から人間関係を調整することができにくいからです。
④ 特に重要なことは、緊急の時の車内放送等です。目で見てわかるようにすることと、周囲の人の手助けが必要です。
 知的障害者への配慮の大きな基本は、絵や色などによる簡単で理解しやすい標識の必要です。このことが共通する基本だといえます。例えば、「真すぐに行くという↑の標識」は、階段を昇る、降りるところでも使用されています。またトイレの標識はまちまちで、特に外国語の標識は理解しにくいものです。
 まちの中で生活する上で住居はもっとも大切なものです。知的障害の子をもつ家族の公営住宅への優先入居や、大声をあげることを防ぐ二重窓の必要など改造費の特別援助が必要です。こうした物理的環境改善はまず必要ですが、家族やグループホームの世話人が日常生活の中で、周囲の人たちの理解を得るために涙ぐましい努力を継続しています。一般的に周囲の人たちは親切です。
 知的障害をもつ人とその家族が住みやすく行動しやすいまちになるように、市の公報もマスコミも、明るい前向きのイメージでたくさん報道してくれることを期待したいと思います。

14 喉頭摘出者の立場から

喉頭摘出者とは、喉頭がんに罹り声帯を含む喉頭の全部を摘出して発声機能を喪失し、会話が不能になった者です。
 発声不能ということは有名なヘレンケラー女史の言葉を借りると、目や耳の障害に比べ声を失うことは最大の痛手であると言っておられます。そのわけは自分の意志や考えを発表できないという人間として生きていく上で非常な精神的苦痛を伴うからです。喉摘者の平均年齢は60歳から70歳の人に多く、若い人にはほとんど発生しないのが特長です。そのため老齢まで元気に日常生活や社会生活を楽しんでいた人が突然声を失うことは死にも等しいことで、この苦痛は本人以外には分かりません。
 発病の原因は資料によるとヘビースモーカーの人に多いことです。そのため禁煙運動が盛んに行われていますが誠に結構なことです。
 アメリカでは対がん協会やI.A.L(国際喉摘者協会)が先頭に立って徹底的に禁煙活動を展開しています。具体的には禁煙ポスターを貼ったり、小学校に行って講演したりして子どもの頃から煙草の害についての普及活動をしています。
 日本でも最近禁煙活動が活発に行われています。しかし禁煙の目的が何であるかのPRが欠けている点が指摘されます。
 また喉摘者は会話が不自由であることは否めませんが、喉摘者の全国組織である日本喉摘者団体連合会が中心になって早く会話ができるよう発声指導を強化していますが、会員の年齢が高齢化しているため上達するまでに中途で脱落する者がおります。しかし、最近は指導技術が向上した結界、かなりよい比率で上達者が出ております。共通の問題点は発声が低音であること、言葉がスラスラ続かないためややもすると聞きづらい難点があります。そして語尾が不明瞭であること、遠方(約10m位)の人に声が届かないこと、さらに電車や工場等の騒音場所で会話が通じないことが欠点です。
 そこで街に標識を目につき易い所に多く出して話をしないでもすむようにしてほしいのです。
 喉摘者の傾向は依然として増えつづけているのが現状です。
 これらの喉摘者が在住する市(町)に発声勉強の会場を設置することは共生の条件を満たす上で不可欠の施設になると思います。
 できることならば市(町)が単位になって、在住の喉摘者の誰もが参加できる場所を提供することであります。
 また、最近喉摘者の間でカラオケを楽しむ人が増えているので、公共の場所にカラオケの施設をして楽しませると社会参加に役立つことは明らかです。
 最後に喉摘者は発音に明瞭さを欠くことが多く、役所や公共の場所に行った際、言語不明瞭で反問や聞き直しをされると非常に劣等感や抵抗を感じます。よく注意してほしいのです。
 以上の諸点をわきまえて対処するとなじみが深まって共生の道につながる早道になるかと思います。

15 車いす利用者の立場から

通路の真ん中に誰かが重い段ボール箱を置いていってしまったとします。杖や車いすを使っている人は通れなくなります。段ボール箱を取り除けばたちどころにバリアは消えてしまいます。簡単なことです。段ボール箱を置いた誰かは他者のニーズに気づかなかったのでしょう。誰かが何に困るかがわかる人が、この場合バリアを取り除く役割を果たします。
 「ひょっとして困る人がいるのではないだろうか?」という考え方がひろまれば、バリアは確実に減少します。他者のニーズを多くの人が理解することが大切なのです。
 下肢に障害をもっている人間、杖や車いすを使って移動している私たちにとってのバリアは、階段や段差、広い溝、幅の狭いドアや通路などです。具体的に家を出て事務所に到着するまでの間にどのような困難があるか、たどってみることにしましょう。
 私は東京都杉並区のマンションに住み、板橋区にある障害者団体の事務局で働いています。公共交通機関を利用するとすれば、車いすを漕いで歩道を走り、公園を横切り地下鉄の駅に出ます。自転車やバイクが置いてあって苦労する場所が数か所あります。駅では、事前に電話連絡をしておけばあまり長時間待つことなく駅員さんが集まり、階段を人力で降ろしてくれるはずです。ピークは過ぎていてもまだラッシュアワーですから他の乗客の視線が気になります。車いすで電車に乗るのは非常識だと目で言っています。地下鉄からJRへ、JRから地下鉄へ。エレベーターがない限り垂直移動は心地よいものではありません。片道6か所の階段を担ぎ上げてもらうことになります。実際は手動運転装置付きの自動車を使って通勤していますからバリアフリーですが、代わりに駐車場探しに苦労することになります。
 事務所のある建物には車いすトイレが設置されています。しかし所用で外出したときには、ドアの幅が約55センチの一般トイレに入ることができず苦労します。車いすの幅が63センチですから、たった8センチの差で入ることができないのです。55センチの幅のドアは段差と同様に大きなバリアであるといえます。他には、壁のスイッチやエレベーターのボタンに手が届かないことがあります。邪魔をしている什器を移動すればある程度バリアを除去できますが、スイッチ類を車いす使用者の手が届く位置に取り付ける配慮が望まれます。
 車いす便用者が他の人のバリアにならないように注意することも大切です。車いすが視覚障害者の通路を塞ぐことになったときは大きな声で「車いすがいます」と叫ぶことにしています。障害者がお互いにバリアにならないためにはゆったりした通路が必要ですが、障害者にも他者のニーズを理解するという視点が求められます。共に生きるために。

16 失語症の立場から

身近な人が脳卒中のため、病院でリハビリテーションを受けていると聞いたら、ほとんどの方は、歩行練習や手を動かすための訓練の光景を思い浮かべるのではないでしょうか。脳卒中になったら、リハビリを受けるというのは、もう常識になっています。しかし、浮かべる光景の中に、ことばのリハビリを受けている様子はあるでしょうか。脳卒中で、必ず失語症になるわけではありませんが、脳卒中などの後遺症として「失語症」という言語障害が存在し、言語治療士という専門家によるリハビリがあるということはまだまだ一般常識にはなっていないようです。私たちの仲間にも、自分があるいは家族が失語症になって初めてそれらの存在を知ったという人が少なくありません。従来、失語症者が身体障害者手帳の交付を受けるための認定医は「耳鼻咽喉科」の医師でした。1990年ようやく、本来の「神経内科」の医師も認められました。また、言語治療士(ST)は資格制度の確立や養成が立ち遅れていて、その数が絶対的に不足しています。「失語症」の知名度の低さは、このような失語症者を取り巻く医療環境の不十分さと関連があると考えます。
 失語症は単にことばを発することに障害が現れるだけではありません。聞くこと、読むこと、書くこと、計算することなどにも、程度の差はあっても障害が出ます。しかも、症状は一様ではなく、言語に関する社会通念と異なった、誤解されやすい側面をもっています。例えば、文字に関していうと、漢字より平仮名が難しくなる場合があるのです。また、聞かれたことにとんちんかんな答えをしたり、言い間違えをしたりするのも、「痴呆」と勘違いされやすい点です。また、「失語症」ということばを、声が出にくくなってしまう「失声症」や、いわゆる「赤面症」と混同して使っているのをよくみかけます。
 ことばは社会生活に欠くことのできないコミュニケーションの道具です。そのことばに障害をもつ私たちにとって、「失語症」への社会の認識の浅さ、理解の不足、あるいは誤解が、社会参加を拒む大きな要因だと考えます。失語症者ができることは、自身の体験や思いを社会に訴え、一人でも多くの方に失語症や失語症者を正しく理解していただくこと、そして私たちを取り巻く状況を知っていただくことだと考えています。
 私たちの多くは、突然発病し、何らかの障害を残したまま、家庭や社会へと帰ります。それからの人生はことばの障害とともに生きていかなければなりません。が、障害を受け入れることができず、人前に出るのを嫌ったり、元の状態に戻らなければ何にもできないと考えてしまう人も少なくありません。社会の失語症に対する理解の向上、それに伴う失語症者の社会参加の促進は、そうした仲間に、気持ちを開放して、前向きに生きていく力を与えることにもなると考えます。

17 障害者の社会参加をこばんでいるもの

わが子の成長をここまで見てきて思うことは、一人でいろんな所へ行って、見て、覚えて、成長してきたということです。これが自然な社会参加への道程であり、大人になるための助走なのだと思うわけです。障害をもつ者も同じです。私は筋ジストロフィーを小さいときから患い、その点において、その普通の“助走”が遅れたと思っています。そういった意味から、進行性筋ジストロフィー患者から見た“社会参加をこばむもの”について、二~三書いてみようと思います。
 私は現在、こちらで福祉関係の仕事を手伝っていますが、その一つに名古屋市の障害者福祉啓蒙誌の編集委員会があります。この会議が毎月1回、名古屋市内で行われるわけですが、会議に出席する手だてがなく、仕方なく電話やファックスでの参加を許してもらっています。時間は確保できても、介助人や移動手段が簡単には確保できません。もちろん、有料介護や、リフト付タクシーなどの利用も可能ですが、ボランティア的な仕事では、経済的に二の足を踏みます。すなわち、社会参加や社会貢献のチャンスは準備されていても、そこまでのアクセスが未解決なのです。
 重度障害者の「外出」は、①介助する人、②交通手段、③街や建物の構造、この三つがクリアされてはじめて可能です。また、私のように電動車いすで移動する者にとっては、電動車いすの性能(走行距離、速度)も、一つの要因となります。①は、その人の意識や外出経験度によって、その依存度が異なります。外出が可能になればなるほど、介助依存状況も変わってくると思います。介助人費用を支給する都道府県もあるようですが、これも社会参加への道を開く一つの良策だと思います。②では、やはり公共交通機関の受入れ体制が大切です。特に電車とホームの段差。これは電動車いすには、大きなバリアといえます。駅員さんにもたいへんな負担のはずです。③街や建物の構造。これには“市民意識”も含まれると思います。ドアの前で車いすの人と出会ったら……。西欧では、車いすの人にドアを開け、先を譲るそうです。ところが、日本では無頓着に先に行ってしまう人が多いようです。市民意識は、やはり子どもの頃から培われていくものだと思います。それは、今の大人の意識と直結しているはずです。
 ところで、人の経験不足をフォローするのが「情報」です。「介助者情報」「交通機関情報」「街や建物の情報」。障害をもつ人々のための、こういった情報の提供を強く望みます。また「情報」ということでは、行政は、地域での福祉的ニースや社会資源について情報収集をより細かく行い、地域に合った福祉サービス展開につなげてほしいものです。在宅重度障害者の現実のニーズが、福祉担当者に十分理解されているのか不安です。
 障害をもつ者の社会参加は、環境の向上改善と相関関係にあります。良い競争がなされればと思っています。


主題・副題:「共生のまち」ガイド 3頁~19頁