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コラム 2

支援センターの活動に参加して
~支援員の声~

みやぎ支援センター

「JDFみやぎ支援センターの支援活動に参加して」

麻生 浩平
(社会福祉法人さくらんぼの会(愛知県))

〔活動期間〕

2011年4月2日~4月9日(みやぎ支援センター)
2011年5月21日~5月31日(みやぎ北部支援センター)
2011年6月25日~7月4日(みやぎ北部支援センター)
2011年7月13日~7月22日(みやぎ北部支援センター)
2011年8月17日~8月27日(みやぎ北部支援センター)
2011年9月14日~9月23日(みやぎ北部支援センター)

 

 まだ雪が降る2011年4月4日、南三陸町に入りました。カーナビを頼りに町内の障害者事業所を探しました。しかし道路や町の姿を確認することさえできない状況でした。支援センターに戻り報告するための言葉がありませんでした。この時が南三陸町との短くて、そしてきっと今後も長く続くつながりの最初です。

 全国からさまざまな背景を持った支援員が、被災地に何かしたいという共通の思いをもって集まりました。2011年5月頃、行政機能の回復と復興に向けて大変な時期だった町役場のみなさんや再開に向けて奔走されていた福祉事業所のみなさんにとって、思いだけをもって動いた私たちが混乱とご迷惑をおかけしたこともあっただろうと振り返ります。

 2011年6月、のぞみ福祉作業所の畠山施設長から「行政も今、精一杯。復興に向けていきたいのはそうだけど、地元の復興スピードに合わせて支援をして欲しい」、そして風の里の三浦管理者から「震災直後からたくさんの支援団体が来て混乱していた。被災地は疲れている。支援の押し売りはせず地元のペースを大事にして欲しい」。といった内容を同じ日に話していただきました。率直に言っていただいて、自分が勝手に作っていた壁が壊れた気がした、忘れられない大きな転機、大切な日です。

 2011年10月から2012年3月までは直接支援ではなく、南三陸町福祉関係者懇談会への参加という役割でした。今ある課題をどうするのかという議題が、いつしか今後どうしていこうか、そして最後には将来こんな福祉の町にしようと変わっていきました。困難はまだまだ続くことと思います。それでも障害者が生き生きと暮らす新しい町の姿を、私ははっきりと思い浮かべることができます。それはこの間支援で関わった全国の支援員さんの思い、復興に向かっていく地元行政や事業所、支援団体のみなさんの思いを知ったからです。

 だから私は支援活動でのすべての出来事を忘れません。

支援センターふくしま

「応援しています。南相馬市」

宮崎 玲子
(社会福祉法人福岡ひかり福祉会 かしはらホーム(福岡県))

〔活動期間〕

2011年6月5日~11日
2011年12月4日~10日
2012年7月28日~8月4日

 

 年月が経つのは早いもので、あの東日本大震災から1年半です。私は、これまで3回、福島の南相馬市に行かせてもらいました。毎回、少しずつ町の様子が変わり壊れた建物が取り除かれ、少なくなっていた人の数が増えてきています。しかし今でも原発の影響で離れ離れになった家族や、仮設住宅で暮らす人たち、放射能を感じながら、暮らす人たちの日常を目の前に、支援を続けることの意味を考えています。

 1回目は2011年の6月に南相馬市に行きました。郡山の支援センターで白石さんや和田さんのお話を聞いて、熊本の坂本さんに運転していただき、鹿児島の岡本さんと南相馬市に向かいました。途中、行きかう車に自衛隊の車や他の県の警察者などに白い防護服を着て乗っている人たちを見つけて、これから行くのは、放射能被害の大きなところなんだと改めて思いました。福島は原発事故のあとで、たくさんの人たちが避難している状況と聞いていました。まだ残っている人たちを早く避難させたほうがいいのではないか、残っている人たちへ遠くから来た私たちのような支援は受け入れられるのか、限界があるのではないか……など、私もそんな気持ちを抱えたまま、支援センター「ぴーなっつ」に着きました。

 私たちの前に京都から来られていたグループが既に入られていて、明日からの打ち合わせをおこないました。6月は訪問調査ということで、各自の担当やその目的などを話し合いました。

 まだ安否の確認や支援がつながっていない在宅の障害者や家族がいるという緊急課題に取り組むということで、障害をもつ方々の戸別訪問と地域の民生委員さんへ地域の障害をもつ人たちの状況を聞くために訪問をおこないました。

 この戸別訪問は、私にとっては大きな経験でした。訪問したお宅の大半は、遠くの地域から来た私たちを受け入れてくれ、いろんな話を聞かせてくれました。「はじめて訪ねてきてくれたね」「たいへんだったんだよ」と中には漬物を出してくれたりして、思わず長い話になってしまったりということもありました。私たちがあまり知らなかった事実もありました。避難所などに避難した人たちには支援は届くが在宅や避難所にいられず自分達で家を借りたりしたときには支援を受けるのは難しかったことなど、また避難した方向のほうが放射線値が高く、南相馬市のほうが低いこと、家族がばらばらになり、とても不安だと思っていること・・・を話してくれました。私は南相馬市に支援に入ることの意味を自分の思いだけで問うことしかしていませんでしたが、南相馬市に入り震災の日からずっと支援を続けているぴーなっつの職員や、避難せずに残った人たちの思いを聞くうちに、私たちの活動はそこで暮らす人たちが支援が必要だと思うかぎり必要だと思いました。大変な中で作業所やデイサービスを希望する人たちに開放することで震災の前の日常をとりもどす努力は、地域の人たちではぎりぎりです。JDFから派遣された職員は1週間ずつの支援ですが支援のリレーを行っていくことは、大きな力になると思いました。

 そのあと、3回目の支援の際には、「相馬 野馬追祭」を見に行きました。馬の行列に圧倒され、その鞍や旗や甲冑・兜が代々その家で引き継がれたものだということを知りました。昨年は一部しか、再現できなかったお祭りだったそうですが、今年はほとんどの行事が復活したそうです。ずっと続いた地域の伝統や自然の多いこの土地への愛着をさらに感じた一日でした。

 私にとっては、支援に行きながら、行くことが楽しみでもあり、ぴーなっつの職員とも知り合いのような気持ちになっていました。支援に来られた他の人たちも既に数回来られているようでしたが、行くたびに美味しい店を広げているとか、若い職員どうしで連絡を取りあっているとか・・・支援に出かけた人たちは支援だけではない、それぞれのつながりを大切に持ち続けていることを知りました。私たちの支援はそういうつながりで続けていけるのかもしれません。

 しかし一方で、たくさんの人たちが来てそれを受け入れるぴーなっつの職員の対応はどれだけ大変だろうかと思います。私たちのような短期間での支援は、各事業所の職員や利用者に余計に気を使わせているようにも思います。先の見えない中で、職員の定着や事業の安定化など、課題は大きく、これという手立てはないかもしれませんが、支援が必要な間は応援したいと思います。

いわて支援センター

「JDFいわて支援センター(陸前高田市)生活支援活動報告」

國吉 正之
(社会福祉法人東京コロニー 青葉ワークセンター(東京都))

〔活動期間〕

2012年8月6日~8月11日

 

 8月6日から11日まで陸前高田に被災地支援に行きました。お盆前で土曜日のオーダーがなくなったとのことで、予定より1日早く戻ってきました。

 JDFいわて支援センターは、きょうされんから事務局長1名と10月まで派遣の方1名、日本脊髄基金の方1名、現地採用の生活支援員の方1名がいました。他に社協の復興支援員の方などが出入りして訪問調査などに当たっていました。生活支援員の派遣は毎週コロニーからの1名です。調査員は毎週複数名、全国の関係団体から派遣されています。お盆明けは12名の派遣があるそうで、今後は気仙沼の宿舎(事務局長の実家)だけでは泊まりきれないので、支援センター近くの旅館を一部屋確保していました。今後行かれる方は人数や男女の割合でどちらかに泊まることになります。気仙沼の宿舎の周りは歩いていける距離にコンビニや飲食店がたくさんありましたが、旅館の回りはほとんど何もありませんでした。

 支援内容は障害者や高齢者の通院、買い物、入院患者の一時帰宅・外出の付き添いや送迎が主でした。私が派遣された期間はそれほど忙しくなかったようで、ほとんど現地採用の支援員の方と一緒に交代で運転をしながら仕事をしました。車椅子の方や、ストレッチャーで寝たまま移動する方もいました。障害者よりも高齢の方が多かったです。

 初日に気仙沼と陸前高田の被災地を見せてもらいましたが、海岸沿いの地域は被災を受け何もない状態です。瓦礫は大体取り除かれていますが、市役所や学校等公共施設はそのままの状態で残っていました。逆に海岸から離れた支援センターの近くは仮設の店舗が建ち、何もなかったところが栄えてきているそうです。

 通院等は市内の仮設の病院か、20キロ離れた大船渡病院が主で、大体使用する道路は決まっていますが、道を覚えてきたころに終わりになってしまうように感じました。とても貴重な経験をさせてもらいましたが、支援員としてどこまで戦力になったかと考えると1週間ではなかなか難しいように感じました。

 また、陸前高田市に障害者が1,300人いるそうです。市から依頼を受け、1軒1軒訪問して聞き取り調査が行われていました。現在4割くらい終わっていて10月までに終わらせるとのことです。仮設住宅には社協の方が定期的に訪問しているそうですが、自宅の方にはなかなか手が届いていないようで、支援センターの方が訪問すると、「待っていました」という方もいたそうです。困っていることはありますかとたずねると「他の方も皆さん大変ですから」と言う方が多く、話を聞きだすのが難しいと言っていましたが、これから聞き取り調査が進むと支援が必要な方も増えてくるのではないかと思います。コロニーの派遣は12月までとなっていますが、支援センターの活動はしばらく続くとのことです。


「JDFいわて支援センターの支援活動に取り組んでみて」

八木橋 敏晃
(NPO法人あいゆう 就労継続支援センターあいゆう工房(青森県))

〔活動期間〕

2012年8月16日~22日

 

 私は、JDFいわて支援センターの支援活動の1つである陸前高田市の訪問調査活動に参加しました。知的・身体障害の手帳をお持ちの方の自宅や仮設住宅に訪問し、現在の生活状況や地震発生時の避難状況などの聞き取りを行いました。担当した対象者は20代前半から80代後半と年齢層も幅広く、また訪問した地域も津波で壊滅的な被害を受けた沿岸部から津波の直接的な被害は無かった山間部など広域に渡りました。

 聞き取りをした全ての方が津波の直接的な被害や、風評被害等の間接的な被害を受け筆舌に尽くし難い苦労をされ、そのあまりに辛い体験の内容に思わず、聞き取りをしながら胸がいっぱいになりましたが、本調査は今後作成する防災計画や福祉計画などの有効な資料として用いられる、またデータの流失に伴い障害者の安否や生活状況などの情報を再確認する、といった支援活動の目的に立ち返り聞き取りを続けました。

 聞き取り調査をして、強く印象に残ったこととして「仕事は無くなったが家が残ったから」「家を失くしたが、家族が無事だったから」「家族を亡くしたが、遺体は比較的早く見つかったから」と、それぞれが大変な体験をされてもなお、前向きに捉えて少しでも日常の生活を取り戻そうとしている「強さ」でした。そんな陸前高田市の復旧・復興のための本調査に少しでも役に立てればと思い、調査の聞き取りでは最初の挨拶の際に、「青森からお手伝いに来ています」と伝えるように心掛けました。地元の人や市役所などには言いづらいこと、つい遠慮してしまうことを、沢山言ってもらいたい、県外から来ていることが少しでも話をしやすくするきっかけになればと思い取り組みました。

 県外から訪問調査活動として参加して、被災地の住民からさまざまな話を聞くといったこの貴重な体験を、地元に戻ってからも忘れることなく周りに伝え、そして想い続け、同じ東北人として、1日でも早く復旧・復興が進み、日常の生活に戻れることを願い続けます。