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東日本大震災被災障害者支援活動から見えた教訓と課題

AAR Japan[難民を助ける会] 
東北事務所長 野際 紗綾子

0.AAR Japan[難民を助ける会]と障害者

 難民を助ける会は、1979年にインドシナ難民の支援を目的に発足してから、これまで55を超える国や地域で活動を実施してきたが、1989年にカンボジア・タイ国境の難民キャンプで車いすを配布したことが、障害者支援の始まりだった。難民支援の一環として、地雷や戦闘のため障害をもつこととなった方々が当初の支援対象の中心だった。以降、障害者支援は、その活動の幅を以下の7つのフィールドに広げてきた。①理学療法やリハビリテーションの提供(アフガニスタン、タジキスタン、ラオス)、②車いすの製造と配布(ラオス、カンボジア、タジキスタン)、③職業訓練の実施(ミャンマー(ビルマ)、カンボジア、タジキスタン)、④地域に根ざしたリハビリテーション(CBR)事業(ミャンマー(ビルマ))、⑤緊急災害支援時の障害者支援(スリランカ、ミャンマー(ビルマ)、フィリピン、インドネシア、パキスタン、ハイチ、日本)、⑥国内外の会議への参加・提言、⑦障害児生活支援プログラム(ミャンマー(ビルマ)、トルコ)と、さまざまな活動をさまざまな地域で実施している。

 障害者支援は、緊急支援、地雷対策、感染症対策、啓発活動と並んで、当会の活動の5本柱の一つとなっている。

1.東日本大震災と障害者

 東日本大震災における障害のある方々の死亡率(2.06%)が全体の死亡率(1.03%)の2倍にのぼったことが、NHK「福祉ネットワーク」取材班によって発表された。また、寝たきりの高齢者が多く入居する施設では、入居者の過半数が犠牲になるところもあった。兵庫県の調査で、阪神淡路大震災では、犠牲となった方々の5割が65歳以上の高齢者であることが判明したが、警察庁によると、東日本大震災でも、被災者の65%以上を60歳以上の高齢者が占めたという。

 また命が助かった後も、困難な避難生活が続いた。身体障害者にとって、高さ60センチの台をのぼらなければならない仮設トイレの使用は著しく困難だった。ある避難所の小学校で、車いすの少女が、体育館前に敷かれた簀の子の前で立ち往生していたことが忘れられない。避難所の張り紙は、視覚障害者に何の情報も語りかけなかった。精神障害や知的障害をもつ人が避難所から追われるケースもあったし、ある聴覚障害者が「無口な人」と思われたまま、体調の悪化を伝えることもできずに亡くなったケースもあった。なぜ、先進国であるはずの日本が、これほどまでに大きな障壁のある社会になってしまったのか。本稿では、東日本大震災の被災者支援活動におけるAAR Japan[難民を助ける会]の活動の経験と教訓から、これからの災害復興に求められることを考えたい。

2.緊急支援活動(震災3日後~)とその教訓:行政機能がマヒする中で

 当会は、震災2日後から被災地入りし多岐にわたる支援活動を実施してきたが、中でも、のべ約18万人の被災者への緊急支援物資の配布においては、被災した障害者や高齢者を重点的な支援対象としてきた。

 2011年3月14日に全体状況の把握のため宮城県庁障害福祉課を訪れたところ、課長から「各施設へ安否確認をしたいのだが電話がつながらない。物資配布時に安否確認もお願いします」と県内の障害者施設のリストをいただいた。それからというものは、人海戦術で車の荷台に支援物資を満載しながら福祉施設を順にまわり、配布と安否確認の両方を行っていった。

 震災直後、ガスや水道や電気が止まった中で特に喜ばれたのは、加熱不要な食料やウエットティッシュやオムツなどの衛生用品に加えて、軽油・灯油・ガソリンといった燃料であった。震災3日後に宮城県障害福祉課から「停電時に人工呼吸器が止まらないよう、3日以内に自己発電の燃料となる軽油や灯油を3,000リットル調達しなければならないのだが、その目処が立っていない」との連絡を受け、大至急手配し福祉施設に届けた。

 被災1か月後からは、一刻も早く福祉施設が事業を再開できるよう、事務機器や家電、福祉機器の配布を本格化した。震災から2か月近く過ぎた中で当会の支援がはじめてという配布先もあり、支援の届きにくい障害者・高齢者や、道路アクセスの劣悪な被災地で、支援物資を配ってきた。

 緊急段階においては、海外での災害支援の経験や、迅速性や柔軟性といった市民セクターの特徴を活かしながら、人道的な観点から、本来行政が担うべき社会権保障の補完的役割を果たすことを目指した。東日本大震災では、多くの被災地の行政機関が甚大な損害を被ったため、当会のような民間団体の役割がとりわけ大きかった。各県の福祉課、日本障害フォーラム(JDF)、宅老連絡会、社会福祉協議会等と連絡を取りながら、状況把握と物資配布を同時に行ったことが、今回の迅速かつ柔軟な活動に繋がったと考えている。

3.復旧支援活動(震災3ヵ月後~)とその教訓:制度からこぼれ落ちる障害者

 同様の状況は、復旧段階に移っても、形を変えて継続していった。震災3か月後からは、57の障害者・高齢者施設の修繕や作業所のパン製造機械等の機械設備の設置を通じた再建活動を行ってきた。また、福祉施設を利用する方々が移動するために必須の手段である車両も提供した。

 厚生労働省は2011年4月26日付で「東日本大震災に係る社会福祉施設等災害復旧費国庫補助の協議について」の通達を出したが、通常は支給まで1~2年かかるうえ、一部経費は施設負担となる等、どこまで迅速に対応できるか未知数であった。そこで、各県の福祉課やJDFと相談のうえ、国庫補助金の支給まで体力が持つか危ぶまれる施設を中心に修繕活動を進めた。ここでも、行政の補完的役割を果たしたと言えよう。

 だが、未来永劫このままではならない。宮城県障害福祉課からの報告で「賃貸物件など国庫補助対象外であったり、補助事業手続きと復旧計画のタイミングに合わない案件については、事業者の意向も踏まえながら、民間団体による資金援助等につないでいくこととしている」(『月刊ノーマライゼーション』2012年3月号、33頁)とあったが、当会が修繕支援を行ったのは、人道的観点から利用者の安全と健康を守るためであり、行政が難しいことを全て肩代わりしようというものではない。本来ならば行政が対応すべきことは、行政に認識・対応して頂くよう伝える必要もある。

 国庫補助金に加えて、災害救助法からもこぼれ落ちる人々がいた。同法は仮設住居入居者を対象とするため、在宅避難者は対象外となるのだ。しかし、頻繁な余震でいつ停電になるか不安な状態が続いたため、在宅の重症心身障害児・者に自家発電機や足踏み式吸痰器の配布も行っている。生存に関わることでありながら、このように、制度の谷間に落ちているニーズは多いと思われる。

4.メディアとの関わり(震災直後~一年後)

 当会のメディアとの関わりやメディア全般の動向についても、ここで延べておきたい。

 震災直後、当会は朝日新聞の記者に同行取材を受けながらの物資配布を行い、市民団体の活動や被災地の課題が2011年3月16日付で掲載された。2か月過ぎた頃からは、毎日新聞や地元紙(岩手日報、河北新報、復興釜石新聞、IBC岩手放送、NHK等)で障害分野にフォーカスした記事を掲載/ニュースを放送いただいた。また、震災一年後にも障害分野の支援で求められることを毎日新聞や日本経済新聞で掲載頂いた。ただ、地域面の掲載が多かったので、より多くの読者へ届くよう、全国紙の主要ページに掲載頂けるよう努力していく必要がある。同じように、障害分野の特集があるとしたら、NHKや民放では、教育テレビなど限られた放送枠が多いので、NHK本局や主要な放送枠でも取り上げられることが障害の主流化につながるのではないかと思われる。

5.復興支援活動(震災一年後~)と新たな課題

 被災地の雇用・経済状況に回復の兆しが見えない中で、震災一年後からは、障害のある方々の社会・経済活動参加を促進すべく、福祉作業所における仕事創出と販路拡大の支援を実施している。これは、震災前からの課題──行政による平成19年からの工賃倍増・向上計画でまだ成果が見られていないこと──が震災後、被災県で深刻化・顕在化したからである。また、各県の障害福祉基盤整備事業については、職員4名を関係機関に出向させ、ガイドラインの改善を試みる等、復興と基盤整備の後押しをしている。ただ、状況は個々で異なり、福島県の被害の大きな地域では、未だ「復旧」「活動再開」に向けての準備を進めている段階のところもある。

 また、震災一年後からは、国内外での会議において、日本の経験を世界へ発信し、また、障害者権利条約 といった世界の潮流を日本で推進することも目指しながら活動している。

 2012年7月3日から4日にかけて仙台市で開催された防災閣僚会議では、首相、復興大臣、外務大臣も参加の中、本会議のセッションにて、人間の安全保障の観点から障害のある方々の支援の必要性を強く訴える機会があった。また、10月には、タイ・バンコクの「地域に根ざした災害弱者防災会議」や、韓国・インチョンの「アジア太平洋障害フォーラム(APDF)会議」において、東日本大震災の経験を発表する予定である。

 しかし、今そうした会議で行うべきは、日本の良き経験を世界に広げるというよりは、まずは東日本大震災被災者支援活動を通じて見えてきた課題を共有する時期かもしれない。その課題は、災害のフェーズによって推移する。

 まず緊急・復旧段階で見えてきたことは、上述のように、災害がさまざまな形で──直接被害だけでなく「停電」という形を通しても──障害者の生命を危機にさらすこと、行政や既存の「法」では十分に対応しきれないニーズが多数存在していたことである。そして今後の復興段階に向かううえで注意すべき課題は、民間団体が行政の下請けになってしまうことである。市民セクターには柔軟性と迅速性という強みがあり、行政が十分に機能を果たせない緊急支援段階では、独自の方針でどんどん動くことには大きな意義があった。だが、発災後1年半を過ぎた今後は、すべての人の社会権を保障していく行政の役割が重要になっていく。震災から一年過ぎてから、ある行政関係者から10億円規模の障害者施設への支援の相談を受けたことがあるが、それは適切な形といえるだろうか。むしろ、行政と市民セクターがそれぞれの強みを生かして、相互補完的・主体的に復興に関わっていく必要があるだろう。私たちのような外部市民団体は、復興まで数十年を要する福島県は例外として、資金的な制約からも被災地に何十年も留まることは通常は行わない。緊急段階から復興段階にかけて、被災した行政に代わって人道的な観点からの支援活動を行ってきたが、今後はバトンを渡すタイミングを探っていく時期となる。

 震災から一年過ぎた平成24年度は「障害福祉基盤整備事業」が厚生労働省から岩手・宮城・福島の3県へ予算配分がなされ、3県から関連民間団体へと委託されるかたちで進んでいる。本来は国や県や市町村が行うべき事業を委託するうえでは、行政がその進捗を細かに確認し、また民間団体が得た経験を今後の政策に繋げるような仕組みが必要であろう。しかし、本事業は単年度事業であり、来年度の予算確保もままならず、中長期的な視野に基づいた今後の方向性も全く定まっていないことから、民間団体にとっても苦しい状況となっている。そうした背景から、地方行政と民間団体双方の主体性と持続可能性を削ぐ結果とならないよう、中央のルールを一律に当てはめるのではなく、地方の実情に合わせた自律的な運用ができるように枠組を変えていく必要があるのではないだろうか。

 最後に次項では、今後の復興と、すべての人々に優しい社会づくりに向けて、私たちにできることを考えてみたい。

6.私たちにできること ~当事者参画と官民連携による、すべての人に優しい社会の実現

 ここまでで、関連法や行政にも課題が山積していることが分かったが、立場を越えて私たちにできること、それは調整と連携ではないかと考える。

 県主導の会議は、宮城県の場合、震災から2か月半後の5月末にようやく初めて開催された。結局2011年度は3回会合が開催されたが、10団体程度の参加に限定されたうえ当事者の参加もなかった。今年度も1度目の意見交換会が9月と、のんびりしたペースとなった。今後は、継続開催はさることながら、情報交換に留まらず、目的を共有しながら、ともに課題解決にあたるような会議となることが期待される。岩手県でも、今年度の障害福祉推進委員会のメンバーに障害当事者は含まれていない。福島県では、行政主導の障害関連団体が一同に会するような会議すら開催されていない。一方で、民間主導のJDFによる意見交換会では各県の障害当事者が多く参加し、岩手県障害者プラットフォーム会議には障害当事者の参加もあった。しかし、行政幹部の参加がなく、リアルタイムの貴重な情報が各県責任者へ届かなかった。

 海外の災害支援の現場では「クラスター会合」と呼ばれる分野別調整会議が災害直後から開かれ、当事者含め希望者は誰でも参加できるから、日本は大きく遅れをとっているといっても過言ではない。

 官民連携を通じて改善すべき事項は、上述の緊急・復旧・復興の各段階で教訓として浮上した。緊急段階では、バリアだらけの避難所や、利用者が集まらない等機能しなかった福祉避難所の改善策として、誰もが使うことのできる避難所を全国に準備すべきであると考える。また、復旧段階における仮設住宅を最初からバリアフリー設計とすることと、復興段階における復興住宅をすべてユニバーサルデザイン化することを求める発言が、第37回障がい者制度改革推進会議においてなされた。これは、災害の各段階で誰もが利用できる住環境整備を求めるものだが、高齢化の進む日本において極めて妥当な提言である。加えて、災害救助法や復旧費国庫補助などを、よりニーズに応じた弾力性の高いものに見直さなければならないが、その計画・立案・準備段階から障害当事者が参画することが望ましいことは言うまでもない。

 震災復興は、障害者権利条約の推進と一体で進める必要がある。それは、障害当事者の視点を社会の中核に位置づけていくことでもある。復興計画では、障害者や高齢者に配慮した社会づくりが掲げられ、政府関係者も「女性、子ども、高齢者、障害者など、多様なニーズをおさえることが重要」と発言している。だが、調整と連携を通じてそれを真に実効性のあるものにしていかない限り、この社会はいつまでたっても脆弱で障壁に満ちたものだろう。これからも私たち一人ひとりに課せられた役割は大きい。


ⅰ 障害者権利条約とは、2006年に国連で採択された、障害のある人の基本的人権や尊厳を保障することを目的とする国際的原則である。現在(原稿執筆時)までに130か国が批准している。日本は2007年に署名したものの、未だ批准には至っていない。