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コラム 3

被災事業所の体験から

引越しのその日が大震災

松原 千秋(NPO法人きらら女川 副理事長)

 

 3月11日、その日は作業所の引っ越しでした。前の年の12月1日に、女川町(宮城県)で初の障害のある人のための就労支援事業所“きらら女川”が誕生しました。4人だった利用者は、またたく間に11人に増えました。もう少し広いところをと探し始めてから間もなくでしたが、海沿いにとても条件の良い物件がみつかりました。引越しが本決まりになってからというもの、毎日のようにみんなで新たな“きらら女川”のイメージを膨らませていました。

 そして待ちに待った引っ越しの日がやってきたのです。いつもより早く出勤したみんなはよく働いてくれました。男性陣はもっぱら力仕事で、作業台やロッカーなどの大型備品の運び入れに精を出しました。途中でネジ山に合ったドライバーが無いとなると利用者の平塚勝さんが「おらが、買ってくっぺ」と駆け出して行きました。女性陣も一生懸命でした。カーペットを敷いたりカーテンを取り付けたりとこまごまとした片づけや整理をこなしてくれました。よほど新天地への期待が大きかったのでしょう。笑い声が絶えない中での引っ越しでした。

 予定よりだいぶ早く、午後2時前の時点で、引っ越し作業の大方を終えることができました。早目に解散することにしたのです。みんなは口々に「じゃ来週またね」「来週からはこっちよ、前の作業所に行かないでね」などと挨拶を交わしながら、引っ越したばかりの作業所を後にしていきました。利用者のうちの2人は、まだ時間が早かったので施設外就労していた事業所(企業)に戻ることになり、もう1人の職員が連れ添って出かけました。私は、後片づけもあって一人作業所に残りました。

 いよいよその時を迎えるのです。記憶にあるのはこれまで体験したことのない凄まじい横揺れが始まったことです。あとは揺れが随分と長かったことです。

 そこから先は無我夢中でした。必死になってハンドルを握りしめ、まず向かったのは先ほど2人の利用者と職員が向かった事業所でした。事業所の従業員の1人を加えて4人とともに、高台にある女川町立病院をめざしました。4人を町立病院に残してすぐさまUターン、後から避難すると言っていた事業所の従業員2人のもとに向かいました。間に合ったのです。私たちが目指したのは、町立病院とは別の高台でした。もし町立病院に向かっていたら今の私たちは存在していなかったように思います。行ける所まで行き、車を降りたときは足元に水が迫っていました。こんな高台にまで水が来ること自体信じられませんでしたが、周りの光景はもっと信じられませんでした。家や車、否、町全体が根こそぎ流されていくのです。目の前は結構な断崖で、一瞬ここまでかなと思いました。そのときに目の端に入ったのが、先の方にあった鉄製の階段でした。「こっちゃ来(こ)―!」という叫び声に導かれて懸命に走りました。20段ほどの階段を登ればもう少し高い位置に逃れることができます。ここに集中してきた近所の人たちと一緒に、私たちも必死に登りました。長く感じた階段でした。押し寄せる津波は、見る見るうちに階段の中ほどまでに達し、あっという間に乗ってきた車をさらっていきました。男の人たちが、いったんは津波に飲まれたおばあさんを懸命に引き上げました。人工呼吸をつづけましたが、息を取り戻すことはありませんでした。みんなで手を合わせました。

 水が引いたのは暗くなりかけたころでした。薄暗い中に道路が浮かんできました。向かうは女川町立病院です。まともな道ではありませんでした。途中で遭遇したずぶ濡れのおばあさんの手を取りながら、夜が更ける前までにと歩き続けました。たどり着いたときに目に飛び込んできた光景は、数時間前とは別世界でした。駐車場の車はすべて流され、病院の中はめちゃくちゃでした。階段を探し出して駆け上がりました。2階も無残でした。祈るような気持ちで3階に向かいました。3階は打って変わって人がびっしりでした。ひしめき合うという状態でした。4階と合わせて、2つのフロアがたくさんの人の命を救ってくれたのです。“きらら女川”のみんなは4階の一室にかたまっていました。再会したときは言葉もありませんでした。ただただ抱き合い涙だけがあふれてきました。そんな感激も束の間でした。それは、利用者の1人が津波に向かって走って行ったという事実を聞かされたからです。

 津波に向かって行ったのは平塚勝さん(38歳)でした。いったんは町立病院に避難したものの、「母親と祖母が心配」と職員の制止をふり切って自宅の方へ駆け下りて行ったのです。それは津波に飛び込んでいくようなものでした。間もなくして、勝さんの母親と祖母の死亡が確認されました。勝さんは行方不明の状態が続いていますが、絶望的と言っていいと思います。今は、独り残されたお父さんがご家族みんなの遺影を守っています。

 震災から二日目でした。辛い知らせが入ってきました。利用者であった高橋祥子さん(29歳)の消息が不明であることが分かりました。当日は、週に1度の喫茶店での勤務日でした。いつもより早目に仕事を終え、震災の発生時は自宅にいたそうです。揺れがおさまった直後に、母親と祖母の3人で近所の集会所に逃げ込みました。安全な避難場所とされていました。しかし、集会所ごと流され、大半の方が亡くなってしまいました。高橋さんはもしかしたら生存しているのではと、私たちは1か月ほど連日避難所を巡りましたが、それは叶いませんでした。結局、高橋さんの家族は遠洋漁業で家を離れていたお父さんと県外に出ていた弟さん以外は亡くなられたのです。

 悔しい、無念、悲しい、こもごもの思いが去来します。これからも生きているかぎり去来し続けるでしょう。でも今を生きる私たちはそれだけではいけないように思います。犠牲となった二人の仲間への最大にして誠実な報いは、“きらら女川”を再建する以外にないと思います。奇しくも引越し日と大震災が重なってしまった私たちですが、少なくとも引越しを果たしたあの時点までは取り戻さなければなりません。迷いのあった私ですが、今は覚悟ができました。残された“きらら女川”の仲間や関係者と一緒にがんばりたいと思います。平塚勝さんと高橋祥子さんの笑顔をだきしめながら。

 


逃避行

西 みよ子(NPO法人あさがお 理事長)

 

 未曾有の大地震は、思いもよらない福島第一原子力発電所の爆発事故と重なって私たちに言葉では言い表せない恐怖と苦しみをもたらしました。あれから1年4か月余となりますが、この恐怖と苦しみは本質的には今も変わりません。ただ、時間の経過とともに冷静さを取り戻しているような感じがします。冷静さを取り戻しつつある今、そして私とグループホームのみんなの記憶が薄れないうちに、ごく簡単になりますが、爆発直後のあの“逃避行”を記しておこうと思います。判断や決断することの大切さ、まとまることによって発揮される力のすごさ、偏見や差別の感情はそう甘くないということ……、わずか2週間の逃避行でしたが、かけがえのないことを教えてくれました。おそらくは「あさがお」の一人ひとりにとって、私自身にとっても、これからの人生の礎になるように思います。

 まずは、地震と津波をふり返っておきます。3月11日の午後2時46分過ぎですが、それはひどい揺れでした。私たちの南相馬市(福島県)にも太平洋に面した海岸線がありますが、そのほとんどが根こそぎやられてしまいました。作業所とグループホームも痛めつけられ、備品類はみんなひっくり返ってしまい、建物の損傷は無数に及びました。ただ、不幸中の幸いと言っていいかと思いますが、40人の利用者(作業所利用者、グループホーム入居者)と38人の職員は一人としてケガはありませんでした。人的な被害の無かった私たちは、それぞれの家庭の事情などが許す範囲で、被災した人たちを応援しようと、避難所での支援や炊き出し、飲料水の運搬に全力をあげました。利用者の何人かが、また職員の多くが献身的に支援活動に加勢してくれました。実は、あとで分かったのですが、このころ、既に福島第一原発は深刻な状態にあったのです。震災発生後の翌日の3月12日から爆発が続いていたことは伝わっていましたが、それが放射線との関係でどういう意味があるのかが分かりませんでした。行政からの情報は曖昧で、電話やテレビ、ラジオなどのライフラインが寸断されたことでも正確な情報から遠ざけられたように思います。

 事態の深刻さを認識したのは、爆発から4日目にあたる3月16日でした。ようやくつながった東京の娘からのメールは必死に訴えていました。放射能による汚染は深刻で一刻も猶予が許されないこと、福島第一原発から少しでも遠ざかること、メールから容易ならざるものを感じました。何人かと話し合い、その日のうちにグループホームの入居者全員が「あさがお」を離れることを決断したのです(グループホーム入居者以外の作業所利用者については、全員と連絡を取り家族と一緒に避難することを確認)。とは言え、避難先をどこにするかははっきりしませんでした。福島県当局や南相馬市当局に避難先を求めても何も返ってきません。今にして思えば、混乱期とは言えひどい話です。見捨てられたような気持ちになりました。「あさがお」のある南相馬市を離れることを決断した私たちは、野宿をも覚悟していました。そうは言っても、3月中旬の福島はまだまだ冬の名残がある寒さが厳しい季節です。できる限りの備えをするために、3月16日は昼過ぎから深夜にかけて駆けずり回りました。頭にあったのはただ一つです。「入居者と職員の命を守らなければならない、そのためには福島第一原発から1メートルでも、2メートルでも離れること」でした。

 作業所の2トントラックにできるかぎりの物を積み込みました。雪が降りしきる中での夜遅くまでの作業になりました。水、布団、米、食料品、ガス、石油、ガソリン、ストーブなどで満載の状態になりました。夕方のうちに決めておいた各車両のリーダーには、万が一離れてしまうことも想定してキーパーソンの携帯番号のほかに、短い時間をしのげるくらいのおにぎりやアメ、チョコレートを持たせました。出発準備の合間をぬって、この先いつ風呂に入れるかも分からないため、1人残らず入浴し、洗髪もしました。水筒や薬、薬の処方箋などの個人の持ち物を確認して、入居者も職員も遅い床につきました。一刻も早くこの地を離れたい私は、ひたすら夜明けを待ちました。気持ちが先走っていたせいか、長い長い夜になりました。

 3月17日が明けました。いよいよ出発です。先頭に私の主人が、最後部に私の車が、間に4台の車が入りました。一瞬心をよぎったのは、「この地には帰ってこれないかも」でした。誰も口にはしませんでしたが、みんなそう思っていたに違いありません。「あさがお」の“逃避行”の始まりでした。

 雪道に慣れていない私たちはとても不安でした。必死の思いで栗子峠を越えたことを鮮明に覚えています。私の家はガソリンスタンドを経営しています。しばらくの間、スタンドを閉めなければならなくなり、お客さんからは大変な叱責を受けました。「障害のある人の避難を手伝いたい」などは通用しなかったようです。結局、主人は、私たちを最終的な避難先まで届け、即、戻りました。2日間の臨時休業で済み、幸いそれほど大きな混乱には至らなかったようです。

 3月17日は伊達の梁川体育館に身を寄せました。突然の訪問だったためでしょうか、指揮を執っていた県の職員にはとても嫌な顔をされました。放射線のスクリーニングを受けていなかったこともあって、「入らないで」と罵声を浴びせられました。ここは一歩も引けませんでした。相手の顔をじっとみながら懇願しました。ちょうど居合わせた南相馬市の市役所職員の応援もあって、ようやく一隅で固まることを前提に入ることを許されました。全員で一泊しました。しかし、梁川体育館の位置は原発地点から60キロ程度で、「あさがお」を出発する時点で腹に決めていた100キロ圏外に出るという目標からはまだまだでした。さらに逃避行は続くことになります。

 結果的には、山形県上山市にある「働く婦人の家」にたどり着くことができました。車の中からあちこちに電話を入れましたが、みんな断られました。最終的には上山市当局の理解が大きかったようです。ここで、グループホームの入居者と職員合わせて27人が2週間にわたって避難生活を続けることになります。難民を助ける会などからも食糧支援を受けながら頑張りました。しかし、慣れない環境は、障害のある人に体調の変化をもたらしました。一方で、原発事故の心配は小康状態に入り、最悪の事態は免れたという情報が入ってきました。南相馬市が「屋内避難区域」ということで、人が住めない状況ではないとする情報も入ってきました。迷いましたが、このまま上山に居ても展望が見えず、話し合いの結果私たちは戻ることを決断しました。そして、3月の30日と31日、2班に分かれて「ふるさと」に帰ってきたのです。

 現在の心境ですが、不安でないかというと嘘になります。先々がどうなるかも分かりません。作業所も、グループホームも新規の希望者があとを絶ちません。今は、南相馬というこの「ふるさと」で精一杯頑張っていこうと思います。この機会に、たくさんの支援をいただいた全国のみなさんに心からお礼を述べたいと思います。