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パネルディスカッション
発言要旨

田中 陽子 (岩手県聴覚障害者協会気仙支部長)

 地震のとき、私は仕事中でした。いきなりすごく揺れたので、会社の外に出てしばらく様子を見ていましたが、余震がずっと続いていました。会社は山の上にあるので大丈夫でしたが、会社の前から下のほうを見ると、津波が来ているのが見えました。まさか、こんな大津波が来るとは考えられませんでしたが、家や車が流されていくのを目の当たりにして、あまりのショックに落ち着かず、騒ぎはじめました。
 夕方、雪が降ってきてとても寒かったです。会社の食堂で、皆と待っていました。夜、停電のため真っ暗で見えないし、聞こえないので、筆談代わりに携帯のメールを打つしかありませんでした。夜、7時半ごろだったと思いますが、情報が入り、近くの農免道路を通って中学校の避難所に行きました。そこにはたくさんの人々が集まっていて、私は会社の先輩3人と一緒に座っていました。私の手話サークルの人がいるかと探しましたが、見当たりませんでした。係りの人に「社会福祉課の人はいますか」と聞いて探してもらいましたが、いませんでした。「何かありましたか」と聞かれたので、「手話のできる人がいたら教えてほしい」と言うと、その係りの人は、黄色のメガホンを持っていたので、「これで呼びかけますか」と言いました。恥ずかしかったのですが、思い切ってお願いしました。しばらくして女性が来ました。初対面だったのであいさつしたあと、情報を得ました。
 夜は本当に寒く、中学校の教室にあったカーテンを取って巻いても眠れませんでした。
 2日目、手話サークルの人がポツポツ来たので、お互いの無事を喜び合いました。夜、「明日は家に帰れる」と聞きホッとして嬉しかったです。2つの橋が壊れたために、別の道を遠回りするため時間がかかりましたが、3日ぶりに家族に再会しました。避難所では、3日間でおにぎり1個と水はコップ1杯しか支給されなかったので、家でたくさん食べました。
 私は、岩手県聴覚障害者協会(当時は岩手県ろうあ協会)の気仙支部長として、早くろうあ者の皆さんの安否確認をしたいと思いましたが、停電でメールもFAXもできないので、皆さんがどうしているか連絡できるまでの間がとても長く感じられました。およそ1週間でメールの送信ができるようになりました。「大丈夫です。でも家族と家が流されました」などの返信があったほか、避難所の生活はどうしているかとか、手話ができる人がいないとか、言いたいと思っていることを伝えることができないまま我慢して暮らしていることを知りました。皆さんと連絡できたことにホッとしましたが、大変な状況になっていることに胸が痛みました。また、手話ができる人とろうあ者相談員の悲しい知らせには本当にショックを受けました。これからどうしようと、心を無くしたように思いました。それから、県のろうあ者相談員が来て協力してくれました。
 震災の前に、市では車いすのための段差を無くした歩道やスロープ、盲人のための点字ブロック、音の出る信号などを設置しましたが、ろうあ者のためのものがあまりありません。私たちろうあ者は、外見では健常者と変わりませんが、警報が聞こえないとか、重要な情報をすぐ受け取ることができないなど、何か起きたとき、周りで何があるのか分からず、教えてももらえず落ち着かない不安や不自由を抱えて生きていることを知ってほしいです。また、私たちの要望によって、この旧ふれあいセンター、海と貝のミュージアム、松原海岸の所に字幕付き警報ランプが付けられていましたが、流されてしまいました。
 さらに、以前は市の消防署から、火災のときや何か注意が必要なときなど情報メールが来て見て知ることができましたが、今はまだ難しい状態です。
 震災後、復興につなげて、障害者だけでなく、皆が市民として安心して生活できるまちづくりのため、福祉避難所を設置してほしいと思います。そして、要支援者の支援が24時間できるような仕組み作りをお願いしたいと思います。
 支援いただいた皆さん、本当にありがとうございました。

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