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幼児の集団指導-新しい療育の実践-

第2章 集団指導の実際

はじめに

集団指導の基本的な原理は「関係学*)」に求められ、その方法を「行為法」(心理劇法、関係療法ともよぶ)と同一にする。
集団指導の原理と方法は、幼児教育(保育)、児童臨床(相談・治療)、医療・看護の分野における実践のみならず、学級運営、地域子ども金および母の会運営、職業訓練など多くの領域に活用されてきているが、近年、障害をもつ子どもの療育ののぞましいあり方についての関心が高まり、集団指導の実践を試みるグループ、施設も増えつつある。
現実の療育環境は、複雑な要素が交錯し、多様な専門領域にわたる内容がそこに展開していて、理念としても、組織的にも、どのような体制をとることが、のぞましい療育のあり方につながるかということを、一施設の実践をもってして見通すことは困難である。
しかしながら、集団指導の原理と方法は、ある限られた集団の活動に適用されて、その効果が云々されるという閉塞的性格をもち得ない。つまり、集団指導に参加して育つ個人の体験は、その個人の他の生活活動領域における積極的参加の構えをつくり出すものとならなければならないし、同時に、集団活動全体の発展は、その活動と相対的に関連してすすめられる他の集団活動および組織との媒介的役割を果たしながら、その社会的基盤の変革に深くかかわるものとなるはずである。その意味では、集団指導の実践を療育の場に定着させ、発展させていこうとする努力は、のぞましい療育のあり方をめざす運動のひとつの形であると考えられる。
さて、ここに述べる中央療育相談所通園部の実践は、集団指導の原理と方法が生かされた療育活動の展開であるとともに、その設立、発展の過程が、戦後のわが国の療育(特に幼児における)の変遷を具現していると考えられるところにその特色をもつ。したがって、本章では、集団指導の導入のプロセスにふれながら、実践の枠組を述べることにする。

*) その理論体系は本書第1部第3章に記載されている。

1 療育体系における集団指導

 1) 集団指導の導入
 (1) 「療育」の概念と療育活動

 中央療育相談所は、昭和27年、故・高木憲次博士が、肢体不自由児のための療育相談・療育指導の必要性を提唱し、わが国最初の肢体不自由児施設である整肢療護園(昭和17年開園)の関連施設として発足したものである。
折しも、児童福祉法(昭和22年)および身体障害者福祉法(昭和24年)の施行という歴史的な段階にあたり、“療育のあり方の普及・徹底”を目的として、高木博士を中心に療育チームが編成され、3年間(昭和24年~26年)にわたる全国の巡回療育相談・指導が実施されて、これが契機となり、肢体不自由児のリハビリテーションに関する各府県の関心が急速に高まり、その後の肢体不自由児療育の発展への大きな礎石となった。
このように、療育のみならず、わが国の児童福祉の曙光期ともいえる時期に中央療育相談所は開設され、“医療を中心とする関係スタッフの科学的、総合的診断と治療”“父母への療育指導”“一般への療育思想の普及”など、療育相談機関としての機能は当初から明らかにされていた。
「療育」ということばは、現在では、肢体不自由児の療育という意味にとどまらず、児童福祉全般に通ずる一理念として、概念的にも実践的にも新しくなってきているが、そもそもは、大正13年、高木博士によりうちたてられた概念であり、博士は自ら次のように述べておられる。
「療育とは、現代の科学を総動員して不自由な肢体を出来るだけ克服し、それによって幸にも恢復したら『肢体の復活能力』そのものを(残存能力ではない)出来る丈け有効に活用させ、以て自活の途の立つようにする*)」「不自由の軽減、克服を目的として医学的治療を主として加えるかたわら、教育・生活指導・更生(訓練)指導をほどこし、職能を授与するとともに、職業指導を含めた社会的指導に至る迄の一貫した治療体系の実施と、そのための施設、スタッフの拡充をはかる。**)
現在ではこのような、医療を中心概念において、他の領域(教育、福祉など)を体系化する立場は、狭義の「療育」の概念として位置づけることができる。
この概念は、さらに、医療に限らず、教育(保育)的な配慮や臨床心理学的方法を用いて治療を行い、治療目標にむけて各専門スタッフが協力しあう立場へと発展してきている。一般に、治療教育と総括的にいわれているものはこれに近い。
最近になり強調されている別の立場として、発達の過程そのものを重視し、発達を促す条件、阻む条件を、医療、教育(保育)および社会的立場などの各専門領域が相対的に独自性をもちながら、しかもより統合的に明らかにし、働きかけていこうとする新しい療育の概念がある。近年、「関係的存在」である人間のその関係の発展的変化が、発達の過程における媒介作用をなすということが次第に解明されつつあり、この“かかわりかた”に関する研究(立場)は、人間発達の過程と、発達を促す条件、阻む条件の解明に重要な手がかりを与えるものとして新しい療育の概念の基盤となるものであろう。
中央療育相談所の実践活動は、このような新しい立場にたった療育をめざすものである。

 *) 高木憲次「療育の根本理念」『療育』第1巻第1号、日本肢体不自由児協会、1951
**) 「高木憲次--人と業績」日本肢体不自由児協会、1967より

 (2) 幼児の療育の方向性

 幼児の療育の方向について 特に検討の必要性が認識されだしたのは、昭和40年前後である。
子どものもつ問題や障害といわれるものが、発達の早期に「診断」(特に医学的に)され、「治療」が開始されて、「早期療育」の必要性がつよく提唱されだした。しかし、現実には、その具体的方策は不十分であり、診断されて適切な治療関係もむすばれないまま不安な状態に子どもと家族がおかれていたり、あるいは、障害の側面に対する治療、対処のみが強調されて、結果として、治療を名目にごく幼少時から、障害の有無、種類別に分けられ相互に交流をもつ可能性も少なく子どもたちが育っていく療育の状況が次第に明らかにされはじめた。
中央療育相談所では五味重春所長(現筑波大学教授)は、早くから上記の状況をみぬき、「児童の成長に必要な心身両面のサービスの手だてが、療育の途である*)」との考えを明らかにしていた。そこで昭和40年から、幼児の新しい療育の方向を模索しながら、治療・訓練に適所してくる子どもたちの社会的経験を配慮して保育プログラムも組まれ、母子が参加しての集団での活動が開始された。しかし、その時点では、集団の形態はとっていても、集団の意義と教育的かかわり(保育)は、治療効果を高める手段として位置づけられていたにすぎなかった。
そのような時期に、お茶の水女子大学松村康平教授とその指導のもとに幼児の集団指導の研究・実践を行ってきていた研究者グループと、相談所スタッフとによる、いわば“療育の方向を考える会”がもたれ、その折、研究者側から出されたレポートの骨子が、その後の幼児療育の方向に生かされることとなった。レポートの内容は、今日においても、いまだ解決されていない課題への示唆を含んでいると考えられるので、その一部要旨を次に記載しておく。
なお、ほぼ時期を同じくして、すでにわが国における言語治療における第一人者であったお茶の水女子大学田口恒夫教授をはじめとする言語治療研究者たちの、幼児の言語治療の方法に関する検討が継続的になされており、のちに相談所の集団指導に関する提言および実践的協力が得られることとなり、現在に至っている。
集団指導における言語治療の成果は、第2部第5章に記されている。

*) 五味重春「脳性まひ児のリハビリテーション」医学書院、1976

<集団の指導の方向性について>-集団の構成メンバーである子・母・指導者の活動に焦点をあてて-
(1) 子どもおよび子どもグループに関して

   ① 機能訓練(治療)を中心にした多種の活動の場面全体を音楽が包み、それが集団の親和的な基盤をつくるのに役だっていた。
   ② 集団状況における「人」関係は、子-母、子-指導者の二者関係が強い。
   ③ 母子単位の機能訓練の状況では、特に、子どもの外へ向かう活動が展開せず、他からの働きかけを受けとめるだけに終わってしまうことが多い。
   ④ 機能訓練の状況においても子ども同士のつながりを育てていくことが必要である。子どもの自発的な活動により、グル-プ全体としての活動が活発に変化する可能性がある。
   ⑤ 子どもの個々の活動がつながり、人とのつながりに自分の活動が位置づけられると、集団活動においての個性化の方向と社会化の方向が同時に促進されると考えられる。

(2) 母および母グループに関して

   ① 母-子の強いつながりの中で、どの母親も熱心に活動を行っているようすがうかがえる。
   ② 母-子のつながり方を、いくつかの型にわけてとらえることができる。
   ③ 母親同士および母親と指導者との会話から、母親が子どもの変化によく気づいていることがうかがわれ、その会話内容が、次の活動(訓練)によく生かされている。
   ④ 母親は、自分の子どもを中心に訓練を行い、そこでの新しい見解や技法の発見が、その母子関係にとどまっている。
   ⑤ 特定の母と子の関係における発見が、他の母と子の関係にも効果をあげ、それが集団的にも社会的にもたかめられるという実情がみられない。そのことは、新しい発見への意欲の低下をさそうおそれがある。母親の熱意と経験から得られた知識・技能が、集団的に評価され、専門指導者の専門技術と同様の認定がなされていくことが必要であろう(たとえば「肢体不自由児指導資格者」という名称で)。
   ⑥ 肢体不自由児の母親のもつ指導技術が、一般普通児との接触の中で受け入れられる機会をつくることが大切である(たとえば、一般の幼児施設と連携し、その技術が、幼児の体育指導の意味をもつようにするなど)。
   ⑦ 一般普通児の指導ができるなかで、障害をもつ子どもの指導が専門的にできるという認識および技術の習得が大切である。

(3) 指導者に関して

   ① 複数の指導者がチームとして動く時、同一状況において各々の指導者の果たす役割は違う。そのことが認識されて、指導の仕方の違い-訓練および教育(保育)の技法の違いとして表現されることが必要である。
   ② 訓練と教育とで、役割にどのような違いがあるかを明らかにしていくことが課題である。
   ③ 訓練をするところに教育がどのように積極的に参加できるか。あるいは教育的な活動の中で訓練をいかにすすめるか。そのどちらにも共通するものは何かを新しく発見する方向で、2つの役割のとり方に相互促進的関係が成立することが必要である。
   ④ 相互促進関係の発展を可能にするには、「いま成立している状況」をよいものとして認め、人間関係全体が発展する方向において、そこにあるものを可能な限り発展させていく態度が基本となる。
   ⑤ 矯正したり治療したりしようとする態度を優先させることなく、いまある活動をそれとして認め、その活動を促進する中で可能性を開発することを治療の目的とつなげていく。これは「話す機会をふやすことの中で言語指導(治療)をすすめる技法論(田口恒夫)」と一致する。

(3) 集団指導の位置づけ
中央療育相談所において、多少の試行錯誤を生みながらも、集団指導の実践が開始されたのは、昭和44年である。
さらに、翌45年より、職種を間わず全国の幼児の療育にたずさわる人たちによびかけ集団指導の研究集会がもたれることとなった。その主旨は、心身に障害のある子どもの療育を、どの子どもも“ともに”いる状況(集団)を、いま、ここに創ることから始める。これまでのように障害の種類別や程度別に、あるいは、発達の諸領域別や、指導する側の専門領域別に、“分けて”から療育を始めることをしない。ともにいる状況を「基盤的事実」とし、そこに参加しているひとりひとりのかけがえのないあり方が肯定され、差別をつけることのできない「関係」の担い手としてともに仂きかけあい、育ちあう状況への力動的な発展の過程が、どの子どもにも体験される集団づくりを実現させていく。そのような集団づくりの実践を、療育の内側からの働きかけだけに終わらせず、一般の幼児教育の実践との意識的、現実的連帯をよびおこす契機とする、などである。
その第1回に、集団指導の意義について、筆者は次のような報告をした*)

*) 「幼児集団指導」Vol.1 日本肢体不自由児協会、1970

 <集団指導の意義>

   ① 集団指導は、運動療法、言語治療、心理治療、保育などの専門領域からの指導者が同時に参加し、チームを組みながら活動がすすめられる。
   ② 集団活動においては、各々の指導者が主として動く状況が、いくつか展開する。たとえば、機能訓練指導者が、主として動いて動作活動の発展がもたらされる状況があって、次に、言語指導が、主として動いて言語活動の発展がもたらされる状況が展開する、というように。
   ③ その場合、同じ状況に参加している他の指導者は、その活動の補助促進者としてだけではなく、むしろ、そのような状況においても、自分の専門領域における活動の発展がもたらされるようなかかわり方をする。たとえば、主として動作活動の発展がもたらされる状況において、心理指導をいかにすすめるか。あるいは、保育活動の発展がもたらされる状況において、どのように機能訓練指導がかがわることができるか。
   ④ このことは、ある専門領域の活動の発展をもたらすために、他の専門領域が役だつということではない。「遊びをとおしての訓練」ということとばが、“訓練の目的を達するために遊びを利用する”とか、“遊んでいる状態では訓練がしやすい”という意味で使われていることがよくある。「遊び」という活動によってもたらされるものもあって、「訓練」という活動によってもたらされるものもあって「遊び」という活動の発展がもたらされることが「訓練」という活動の発展をもたらす、そのことが、また「遊び」という活動をさらに発展させるのに役立つ。それが同時にすすめられるような状況が、「遊びをとおしての訓練」の真の意味であろう。
   ⑤ 同一状況における各指導者のかかわり方(指導の仕方)の違いは、子どもの全体的発達がめざされる方向において統合される。たとえば、すわっている姿勢を保持している特に、、たくさん話しをしようとすると、その姿勢がくずれてしまうという場合に、姿勢の保持をさせるために話したい気持ちがおさえられたり、働きかけようする動きがとめられたりすることは、全体的発達がめざされている状況とはいえない。
   ⑥ 子どもの、いまある状態(気持ち、態度、能力など)を、“いま、ここに成立している状況”においては、よいものであるとして受け入れる。そして、状況全体が発展することのなかで、今ある状態をさらに発展させることのできた”新しい事実”(変化)を、そこに参加している人(指導者、子どもたち)は大切にする。
   ⑦ たとえば、立っている姿勢がまだ困難で、左手をあまり使わない子どもにおける動作活動を発展させることを目的として、背丈より高い板に絵をかく活動が展開しているとする。子どもは、やりやすい姿勢で、やりやすい方法で絵をかいている。子どもの、そのようなふるまい方は、矯正しなければいけないものとしては考えず、いま、そこに成立している状況においては、よいものとして受け入れ、よいものをのばす意味で、その活動が更に発展するよう働きかける。そこへ、他の子どもが“これバナナなの”と切りぬいた絵をもってくる。子どもはそれを受けとると、セロテープで自分の都合のよい位置にはりつける。またもってくる。またはる。もってくる。子どもの中に、他の人を受け入れる気持ちがのびてくるほど、両手を使ってはる方が、ずっとはやいし、よろこばしい体験をする。またもってくる。りんごであったり、おすしであったり、パンであったりする。指導者は「おみせにいっぱいね」とその活動を意味づける。またもってくる。はりやすい位置から段々はられて、ついにたちあがり、両手を使って、自分の丈より高い位置にはりつける活動が展開された、そういう”事実”がそこにいた指導者にも、子どもにもたしかめられる。その“事実”は、指導者だけによってもたらされたものではない。そのようにしてはっていった子どもがいて、そこに働きかけてきた他の子どもがいて、働きかけてきたその子どもが、他の場所で展開していた活動(絵をかく活動)がある。
   ⑧ このようにして、ある子どもに成立した”新しい事実”は、集団全体の力動的な発展においてもたらされたものであるという認識が参加したどの人々も体験的にも成立する。
ここに、子どもの集団活動における意義がある。
   ⑨ ”新しい事実”がもたらされるきっかけとなるものを”技法”という。
   ⑩ 幼児の療育にたずさわるすべての指導者は、以上のような集団全体の力動的発展をもたらすことの可能なチーム活動の一端を担える人がのぞましく、そのようなあり方がどの専門指導の基本にもなければならない。
 2) 集団指導における治療的意

 (1) “診断「即」治療”の原則
療育における集団指導は、治療的観点からは、「関係療法」の体系に位置づけられる。
関係療法とは、治療を必要とするものにおける、自己、人、および物との関係的体験を通しての治療である。そのためには、治療の場面に必要な諸関係が用意され、これらが体験的に把握されるように治療がすすめらることがねらいとされる。これを対人関係に関していえば、「治療場面における人間関係の体験的把握は、被治療者の担うゆがめられた人間関係からの緊張の解消に役だつだけでなく、その解消をもたらす人間関係の洞察を可能にして、治療場面を超えた日常生活での人間関係への積極的な参加*)」。となるように治療がすすめられることである。
つまり、集団指導の治療的機制は、関係的活動体験を通しての、緊張の解消および情緒的解放、関係の肯定と洞察、関係への積極的参加の構えなどがもたらされる一連の関係変動体験の過程にあるといえよう。これらの過程を通していえることは、診断と治療を、相即的、同時的に展開していく立場--診断「即」治療の立場である。診断をすることがそのまま治療的役割をもち、治療的行為が診断的枠組みを明確にしていく活動、これが集団全体の発展に位置づいていく必要がある。具体的に述べよう。

  •  ある子どものグループで、当番による“なまえよび”の活動が行われているとしよう。Aくんは、子どもたちの輪から離れて歩きまわりながら、手近にある物を投げてはそのころがり方や音を楽しむかのように時折り立ち止まったりしている。Aくんが近くに来た時、指導者は小さなカードを手渡す。Aくんが受けとりざま投げたカートが子どもたちの輪の中こ落ちて、そこに「アー」という声があがる。立ち去ろうとしていたAくんはおどろいたようにふり向く。指導者はすかさずもう一枚渡す。Aくんは次第に、子どもたちの大声を期待するかのように輪の中に投げ始める。指導者は、Aくんの投げたカードを拾って“Aくんからのおてがみ”と子どもたちに順に渡す。“こんどはだれにくるかな”と子どもたちにも期待が生まれ、指導者は意図的に“~ちゃんにおてがみ”と、その時の集団の活動のねらい(なまえよび)も明確にしながら、Aくんの自発活動を肯定的に受けとめてその両者が同時に発展していくよう働きかける。

Aくんの、人とのコミュニケーション活動の状態に関して、その活動をなりたたせている対人関係的基盤を切り離して「診断」を下すことは無意昧である。診断は関係における診断でなければならないし、関係の担い手である他者(子どもたち、指導者)との間に、どのような関係が成立しているかを見通し、そのどこに働きかけて、関係を発展させると、Aくんのコミュニケーション活動が変化するかという一連の診断的過程は、そのまま治療的役割を果たすものといえる。
Aくんの“投げる”という自発活動は容認され、集団活動に位置づけられて、のちに、一人一人に手渡しするようになり、“Aちゃん式おなまえよび”として定着し、Aくん自身もそのコミュニケーションの方法を試すかのように、手渡しを積極的にしてみている。これをもし治療効果とよぶならば、これは、“ことばが話せない”“人への関心がない”“集団行動がとれない”などと「診断」され、対人関係的(集団的)基盤が失われ、あるいは狭められることとなったのちに、対人関係発展の処置(治療)をとることによっては困難であろう。

*) 松村康平、板垣葉子「適応と変革」誠信書房、1960

 (2) 関係行為の発展
集団指導において展開される諸関係は、具体的には、子どもの自発的な活動を介して体験されていく。ここでいう子どもの自発的活動とは、単なる自己表現、情緒的表出といったものではなく、関係状況における、子どもの諸関係への主体的なかかわり方、状況への積極的な行為という意味で、これを「関係行為」とよぶ。
従来、子どもの自発活動は、遊びという形で述べられることも多く、子どもの治療における遊びの役割は、重要視されてきている。特に、遊びの場面における情緒的な緊張からの開放と、さまざまな情緒体験から得られる自己に関する意識的、無意識的洞察が、子どもの現実の生活への主体的な構えをつくるなどの側面が強調されてきている。
関係行為としての遊びは、さらに積極的な意味をもつ。すたわち遊びは、子どもの発達および性格形成の単なる手助け、手段である以上に、子どもの外界(自己・人・物の関係状況)へのかかわり方、そのかかわり方における体験の仕方(感じ方、とらえ方など)の総体としての行為である。また、その過程は同時に、外界とかかわり、働きかける子どもの自己において、外界の諸相が明らかになり、それと対応する性質のものが自己に位置づいていく(自己構造化)過程でもあるといえよう。
このような遊びの発展は、子どもと外界とのかかわり方が変化、発展することによりもたらされるのであり、遊びの発展(発達)過程で生ずる遊びの変化が、まさに、子どもの精神的・身体的発達過程における多様な特質に対応するものである。子どもの発達や性格形成の基盤を遊びの状況に求めるとすれば、それは、「自己・人・物の接在共存状況活動そのものの創造であり、性格形成(発達*))の目標もまた、その接在共存状況活動の創造に置かれるべきである」

 *)  筆者加筆
**) 松村康平「幼児の性格形成」ひかりのくに、1976

 (3) 役割のとり方の変化
集団活動においては、子どもは、具体的な内容をもった役割を果たしながら自己の体験を深めていく。
役割のとり方の変化とは、単に、いまある生活や社会を構成している要素としての役割間の関係を理解し(父母と子、あるいは売り手と買い手など)、それらの役割のとり方を習熟していくことを意味するのではなく、子どもの、外の世界へ向かう構え--かかわり方の変化としてとらえる必要がある。かかわり方の変化と対応するところの役割のとり方には、次の5つがある;①自己身体的役割(してしまう役割)をとる、②心理行為的役割(してみる役割)をとる、③対人関係的役割(することができてなされる役割)をとる、④場面構成的役割(することが許される役割)をとる、⑤社会構成的役割(することが必要な役割)をとる。
これらの役割は、どれも、人が生活していく上で必要な役割であり、集団(活動)においては、5つの役割のどれもが統合的に展開していたり、役割の分担活動、役割の交代活動がなされることにより、どの子どものあり方も集団において容認され、相互にかかわりを保つことが可能になる。

  •  たとえば、「ねたきり」の子どもBくんは、そのままであれば、身体的役割のみにとどまり、集団状況における役割の固定化、孤立化が次第にめだってくる。このBくんのいましていこと、できていることを受け入れ、ほかの子どもが「Bくんのおうちね」と場面構成的役割をとって、積木をBくんの前に置き門のようにつくる。それにより、Bくんの領域は集団の活動領域に位置つき、「こんにちは、Bくん」と対人関係的役割をとって働きかける他の子どもの行為をさそう。そのような自発的な子ども同士のかかわり(役割の連担状況)が集団の活動において展開されることにより、Bくんの、自ら働きかけに応じる意欲と態度がつくられていくであろう。

集団活動や保育の内容には、役割のとり方の変動が、効果的にもたらされるように設定されている遊びの種類が少なくない。

  •  たとえば“おにごっこ”をするとしよう。おいかけられて、他の人といっせいに走りながら逃げるのに楽しさを見い出している子どもは、役割を他の人と共通して担う役割体験をしているといえよう。また、オニの追いかける役割と、逃げる自分の役割をとらえて、追いかけたり追いかけられたりのやりとりを楽しんでいる子どもは、役割を他の人と分化して担う役割体験をしている。さらに、“12時になったらオニがくる”のように、オニの役割と自分の役割の間に交差するきまりや領域を設けて、それとの関係の変化を楽しんでいる子どもは、役割を他の人と交差(統合)して担う役割体験をしているといえよう。

集団活動においては、ひとりひとりの役割の体験の変化をとらえて活動内容が展開されているか吟味する必要がある。役割のとり方の変動が、体験的事実としてもたらされるように活動内容を展開することにより、治療的効果を高めることができるといえよう。

 3) 保育と集団指導

 療育の概念のところでふれたように、障害をもつ子どもの全体的発達をめざす方向における教育(保育)的かかわりの重要性は、ようやく認識され始めた段階であり、一般的には保育体系に、障害をもつ子どもの保育の意義が位置づいているとはいいがたい実状にある。しかし、子どもがいる「いま」「ここ」に--病棟のヘッドの上においても--意識的に保育の意味を成立させ、保育的かかわりを広げていこうという実践活動は、あちこちで続けられてきた。それらを大別すると、次の5つに分けて考えることができる*)
① 要求中心の保育:
子どもの諸要求を明確にとらえ、要求の充足、実現を図ることによって保育活動が充実し、それ自体が保育の目標とされる場合である。たとえば、子どもの身体的・生理的要求、情緒的要求、知的要求、社会・対人的要求などが内発的なきっかけとなり、要求実現の保育の方法により、保育活動の発展がもたらされる。「養護保育」とよばれるような形態において、自己の要求を十分な形で表現することの困難な子どもや乳児に大切な方法である。この場合、保育者と子ども、子ども同士の相互の共感(受け答え)を媒介としてすすめられること、要求が総合的に把握されることなどが必要である。
② 内容中心の保育:
活動内容に即した展開により、保育活動全体の内的発展がもたらされることを目標とする場合である。内容展開の保育の方法にはいろいろあり、子どもの自発活動を重視する“遊戯療法”、物の特性を生かして感覚運動の発達を促すことをねらいとした“モンテッソリー指導法”など、活動に参加する人や物に規定されて、子どもの側に形成されるものを保育効果としてとらえる場合が多い。「治療保育」(「教育治療」ともいう)において展開されることが多く、この場合、子どもの発達的変化と対応して内容がより高次なものへと、質的な発展がもたらされるよう配慮されることが大切である。
③ 関係中心の保育:
子どもをとりまく諸関係をとらえ、関係の発展がもたらされることにより、保育活動もまた発展する場合である。自己との関係、人との関係、物との関係が発展する保育の状況において、関係の担い手である子どもの「関係の担い方」が変化していくことが目標とされる。「交差保育」あるいは「集団指導」とよばれる保育の形態において、具体的には、障害児も健常児も共に参加しての集団形成活動、クラス、あるいは施設単位の交流活動などにおいて、関係発展の保育の方法(関係の発展をもたらすのに必要な関係のさせ方)が、その機能を発揮する。関係に参加して働きかけ、働きかけられて発展するプロセスを体験することにより、自発的、創造的なパーソナリティが育つ。この方法は、自発的に関係に参加し、主体的に役割をとることが困難であったり、関係の担い方が固定的になりがちな、障害をもつ子どもたちにとって大切なものである。
④ 場面中心の保育:
子どもの活動する場面に焦点を当てて、保育活動にそれらの場面を意図的に設定する場合である。
子どもの活動は、たとえば、生存活動(健康など)、遊び、劇、仕事(課題)、生活活動(生活習慣など)に分けられるが、保育課題として、それぞれの活動場面を意図的に設定し、保育活動の展開により、場面の性質と対応する子どもの発達的課題が解決されていくことが目標となる。
障害をもつ子どもを、一般の保育園に入れて健常児と共に保育する形態をさす「統合保育」においては、この場面設定の保育の方法(活動場面の枠組の形成および明確化)が重視される。つまり、保育活動に参加する子どもの活動の仕方に、さまざまな要因により差異がみられる場合、共通の場面(保育課程など)を設定して、それへの適応を図ることにより、その差異をちぢめながら、あるいは生かしながら、全体として発展をもたらすことが目指される。しかし、差異がひとつの活動の仕方として受け入れられるよりは、健常児の多数の活動の仕方に対する、少数のそれの適応の方法として評価される場合が多いのが現実である。
⑤ 役割中心の保育:
生活場面における役割の果たし方の違いを目立たせて、保育活動の発展をもたらす場合である。保育活動の発展に必要な役割を、分担したり、交代してとことによって、保育活動への主体的な参加体験が、生活全般への意識を高めて、社会的存在として協働して生活する態度を培うことが目標とされる。「混合保育」あるいは「自主保育」などの形態において、施設内や一定の地域内で、年齢の枠をはずしたり、障害の種類など、発達的な課題の違いを超えて生活の自然な形を通して保育が展開する場合で、役割操作の保育の方法(役割の分担、役割の交代)が機能性を発揮する。
これらの5つの保育の形態と、それを実現するための方法は、保育者にはそれと意識されていなくとも、どのような保育の場においても展開されているし、また展開することが可能である。5つの形態および方法が、特殊な施設の形態や、特殊な専門家による方法として固定的に考えられることなく、たとえば、一日の保育のどこかで意識的に生かされるとか、地域において、だれもが活用できるものとなるならば、障害の有無、種類、程度にかかわらず、どの子どももひとしく保育活動に参加して、その発達の促される可能性が育つはずである。

*) 武藤安子「障害児保育の構造」宇留野他監修『保育原理』医歯薬出版、1978


主題・副題:幼児の集団指導-新しい療育の実践- 89頁~102頁