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幼児の集団指導-新しい療育の実践-

 (3) 人との関係で安定する場所がつくりにくく、位置空間における特定の位置へのこだわりがあり、集団の方向性から離脱傾向がみられる子どもへのかかわり方
<内容>
(例1)
K男:昇降スロープの踊り場に小さいボールの入ったかごを持って行き、全部出して、1つ1つかごに入れては、また出して遊んでいる。
T男とN子と指導者:大きいボールを大波にたとえ、「ザブーン、ザブーン」とスロープからK男のところにころがして来る。
K男:踊り場から、ころがして返す。
T男、N子、指導者:小さいボールを小波にたとえバトミントンラケットで小波を打っている。
K男:昇降スロープの踊り揚がらT男、N子のところに来て、同じようにラケットで打って遊ぶ。
T男、N子、指導者:小さいボールをバスケットボール用のバスケットにお星様や流れ星にたとえて入れている。
K男:T男、N子、指導者と同じようにバスケットにボール投げを継続して行う。
K男:T男、N子がボールを魚に見立てて魚つりをはじめようとすると、みんなから離れて昇降スロープの踊り場へ移動。
(例2)
K男:昇降スロープの踊り場で、ボーリングの入ったかごからボーリングを出したり入れたりしている。
T男:昇降スロープに登って来て踊り場がら「雨だ」とじょうろで水をまくまねをする。
J子とN子と指導者:「ウワー、雨だー」と逃げまどう。
J子、N子、T男:じょうろ遊びが展開され、相手にかけたり、かけられそうになった人は逃げまどうという活動に発展。
K男:昇降スロープ、踊り場がらじっと見ている。みんなのところに来て、部屋をぐるぐるまわりながらじょうろで水まき動作をする。指導者や子どものところに、わざとかけに行く。「キャー」と逃げるのがおもしろいらしく、続けてやり出す。
じょうろ活動の場に置かれたボールの入ったかごに気づき、かごから箱車の荷台に入れたり出したりが始まる。
(例3)
昇降スロープ、踊り場から、おもちゃの電車にまたがってスロープをすべったりのぼったり繰り返しやっている。
N子、J子、T男、Ke男、Te男:お家を、2つつくる。
N子:「N子のおうちのベットなの」とトランポリンをN子の家のそばに置く。
K男:スロープですべっては、トランポリンのところへ行き、Ke男と一緒にトランポリンをする。またスロープへ。スロープですべってはトランポリンヘ。
<考察>
例1~3でわかるように、K男は昇降スロープでの遊びが多く、そこを基地としている。集団で集まって何かをしようとすると集団に圧力のようなものを感じるのか、スッと離れて昇降スロープヘ逃げ込むような傾向があると考えられる。こういう子どもに、他の子どもに気づき、対人関係の発展がもたらされ、人と一緒にいて楽しい体験が積み重ねられていくと、特定の位置へのこだわりもなく、自己の行動範囲も拡大されるのではないかと考えられる。3つの例では、子どもが現在使っている遊具を集団状況の中心に取り出すことで、子どもの方からみんなのところに来て一緒に遊ぶというように、子どもの興味のある物、現在使用している物、自発活動が、集団活動の状況と同一化することよって集団への参加がなされたと考えられる。また、集団状況を流動的で拡散的に展開させることにより外接的にいる子どもにとって、集団参加がなされやすくしていると考えられる。

 (4) 固定遊具の使用に関する不安へのかかわり方
<内容>
公園等のスベリ台、ぶらんこ、シーソーをこわがり、遊具を避けて通ったり、人が遊具の方に誘うといやがる子どもの指導法である。
(例)
公園にK君のグループの子どもたち3人と指導者3人で遊びに行く。
K男、指導者の手をひっぱるようにして公園を歩いている。
指導者:ブランコ、スベリ台の方に誘う。「あ、ぶらんこ乗ってみようか」
K男:「アー」と力を入れた声を出して指導者の手をひっぱるようにし公園をぐるぐる歩いている。スベリ台の見える位置で、T男がスベリ台をのぼって行くのを立ち止まって見る。
指導者:「T男ちゃん、すべり台、登っているね」とK男に話しかける。
K男:自分から指導者の手をひっぱるようにして、スベリ台の階段に近寄る。階段に足をかける。
指導者:後から抱くようにして一緒に登る。
K男:2~3段登ると、すぐ降りる。
指導者:「こわいね」とK男と降りる。
他の指導者:スベリ台を登る。
指導者:「せんせいが、のぼる、のぼる」とK男を見えやすい方に連れて行く。
K男:指導者と手をつないで、他の指導者のすべるのを下から見上げている。
指導者:「あっ、すべった、すべった」「ウワー」
指導者:「Kちゃんも、すべろう」とK男を抱っこしてスベリ台へ連れて行く。
K男:指導者にしがみついてスベリ台を登る。(K男の体が固い、顔-緊張表情-感想)
指導者:「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とK男を抱っこして、スベリ台の頂上へ。「Kちゃん、すべるわよ」
K男:しがみついて、抱かれたまますべる。
他の指導者:「じょうず、じょうず」とスベリ台の下で拍手。「こんどは、先生がすべるからね」
K男は指導者に抱っこしたまま、他の指導者のすべるのを見る。
指導者:「もう1回、すべろうね」と抱っこしてスベリ台を登る。頂上でK男が前方をよく見えるように抱き方をかえる。K男を前方が見えるようにし、指導者のひざの上に乗せ、少しK男のおしりがスベリ台につかるようにしてK男の背中に体をつけてすべる。
他の指導者:「じょうず、じょうず」と拍手をしている。
指導者:K男を抱っこしてスベリ台の頂上へ。K男のおしりが全部、スベリ台につくようにして前回のようにすべる。(体の固さが、ややとれる-感想より)
T男:「こんどは、ぼくがすべる」
K男:T男がすべるのを指導者のそばで見る。
指導者:「オーイ」と下からT男に呼びかける。
「また、すべろうか」とK男を介助し階段を登る。
K男:後から介助されてはいるが、どんどん自分から登って行く。
指導者:「オーイ」とスベリ台の上から下にいるT男や指導者に呼びかける。
K男:スベリ台の頂上からT男、他の指導者を見る。
T男と他の指導者:「オーイ」と下から手をふる。
K男:にこにこ顔で前回のようにして、すべる。
T男と他の指導者:「じょうず、じょうず」と拍手でむかえてくれる。
K男:自分の方からスベリ台の階段の方に指導者を引っぱって行く、続けてすべる。
<考察>
こわいことが最後には、もっとやってみたいという気持ちになっていったということは、細かい指導と、ともだちがいて、他の指導者がいるという集団の効果によるものと考えられる。
細かいかかわり方とは
① 子どもの行きたいところに行き、公園の中にある遊具を見てまわり、全体を知る。
② 子どもに、ともだちの遊びを知らせ、気がついて人のしていることに誘われていく機会を作る。
③ 行って、スベリ台に登ってみたがこわがる。登るのをやめて他の人のすべるのを見せる。登ってみたいという子どもの気持ちを大切にして抱っこして一緒にすべる。
④ 抱っこの仕方を前方がよく見えるように(状況、ともだち、指導者、スベリ台が視野の中に入り見え方の違いが感じられる)変えて、スベリ台にも少し触れてみながらすべってみる。
⑤ スベリ台に直接、おしりをつけて、すべってみる。
という段階的なかかわり方を踏んだことであった。
集団の効果ということでは
① ともだちが、おもしろそうにすべっているのを見て、自分もやってみたくなったというきっかけになったこと。(モデル)
② これからすべろうとして緊張している時に、ともだちが先にすべってくれたり、「オーイ」と下から声をかけてくれたり、手をふってくれたりすると、物理的高さへのこわさが感じられなくなり雰囲気がやわらぐ(役割分化、行為を受けとめてくれる人がいる)。
③ 緊張して、すべっておりると、他の子どもたちや指導者が拍手してくれることで、もう一度やってみたいという、自発性を高めている(共感)。
集団の力動的な関係の発展に位置づいた結果としてのすべるという行為の獲得と考えられる。
《全体的考察》
① 指導場面における行動の動機性、過程性、目的性のかかわり方を意識することの重要性と
② 集団指導における三者関係体験、参者関係的体験、役割体験、生活体験、関係体験、の対人関係行為の促進に及ぼす効果を明らかにした。

(中田 雅子)

参考文献
(1) 花上洋代、伊東藤江、松田美穂、中田雅子「言語活動の発達と集団指導」幼児集団指導 Vol.1,1970
(2) 松田美穂「行為の言語化による活動と充実と展開」「集団指導における言語活動」幼児集団指導 Vol.2、1970
(3) 浅野恭子「活動間関係発展を誘う言語活動」同上
(4) 中台憲子「言語媒介による活動内容の変化過程」同上
(5) 目良章子「対面状況でのことばによる動作明確化・人間関係発展の技法」「感覚をともなったことばによる、動作明確化・意識の定着化をもたらす技法」「集団指導状況における言語活動の発展」幼児集団指導 Vol.3、1970
(6) 中台憲子「イメージを育てることばで全体をつつみ活動内容を促進する技法」同上
(7) 杉山初美「役割意識明確化による役割行為してのことばを伸ばす技法」同上
(8) 神 礼子「自己・人・言題関係をとらえて語し合い活動が展開する技法」同上
(9) 浅野恭子、杉山初美、中台憲子、村元 紀「物の多様な見方を言語化することによって言語体験を拡大する技法」、「物媒介・状況述による言語の理解をすすめる技法」、「自己の体験状況媒介による言語理解を進める技法」、「集団指導における言語指導の技法」幼児集団指導 Vol.4、1974
(10) 田口恒夫編「言語発達の臨床1」光生館、1974
(11) 田口恒夫編「言語発達の臨床2」光生館、1976
(12) 村田由紀「人との関係をとおして外界への興味を拡げ・言語表現を獲得する指導」幼児集団指導 Vol.5、1975
(13) 上遠野待子「母子間の愛着関係を育て、言語発達をうながす指導」同上
(14) 中田雅子「前言期段階における子どもの外界の分化を誘う指導」同上
(15) 中田雅子「母子合同活動における母親の行為の変化」、「言語発達における対人行動研究に関する考察」幼児集団指導 Vol.6,1976
(16) 上遠野待子「集団指導における対人行為を促すかかわり方」同上
(17) 南条恵美子「集団活動における母子分化の過程」「集団活動における集団形成の問題」幼児集団指導 Vol.6,1976
(18) 上遠野待子、南条恵美子、中田雅子「コミュニケーション行動の発達とその指導」、幼児集団指導 Vol.7,1977

〔付〕 言語発達と集団指導

言語臨床と集団指導とが出会うきっかけを作り、その理論的基盤を提起された高橋洋代氏に本書への寄稿をいただいた。言語発達に関する関係的理解を深める上に重要な示唆が含まれている。
私はかつて「人はヒトとして生まれ、人間になるという、その人間になる過程に大きな役割をはたすのが言語Languageである*)」と書いた。現在も、私にとっての言語とはそういうものである。しかし、「人間になる」とはどういう内容を含むものなのであろうか。そして言語は「人間になる過程」においてどのような役割をどのように果たすものなのであろうか。言語発達の方向、および言語指導の目標を考える時、この間は避けて通ることはできぬはずである。今回は、現在までに私自身が言語をどのようにとらえてきたのかをふりかえり、その上に立って、これらの問について少し考えてみたいと思う。

*) 花上洋代「言語指導における課題」「幼児集団指導」第1巻日本肢体不自由児協会 1970、p.49

 1) 言語のとらえ方

 (1) 1970年においてとらえた「言語」**)
図5-1は「言語Language」が使われる状況での「人」に関するものである。「人」は自己が送り手の場合の「受け手」、自己が受け手の場合の「送り手」として関係しあう。情報交換の相手としてお互いがお互いを認めあう共通領域aが存在しなければならない。この領域を基礎として、ことばの表現方法も内容も育ってくる。
図5-2は「言語」の表現方法に関するものである。「言語」の表現方法の1つとしての「話しごとばSpeech」は、社会で通用する形式にあわせて自己の身体を操作することによって獲得される。自己の表現方法と人の表現方法との間に共通形式bが存在しなければならない。
図5-3は「言語」の内容に関するものである。「言語」の内容は、「個」(自己または人)の中にとり入れられた事象c,dであるが、送り手(または受け手)たる自己と受け手(送り手)たる人との間に意味の共通領域eが存在しなければならない。

図5-1 図5-2 図5-3
自己、a、人の交わり 図5-1 自己、b、人の交わり 図5-2 自己、人、事象、c、e、dの交わり 図5-3

以上のように、「言語」というものを自と他という集団の世界に生まれ育つものとしつつ、その表現方法、内容において、各々の「個の世界」と、「他と共有する世界」の両者が存在するものとしてとらえている。
 (2) 1971年には、言語を次のような3つの側面からとらえようと試みた*)
A.「話しことば」の音響的側面。「言語」の一般的な意味の側面。つまり、ことばが使われる状況と切り離してとらえられる側面。
B.ことばの使い方に関する側面。どのような状況で何を受け、何に対して何を表現するか。
C.状況を認識し、状況を展開し、新しい状況を作ることばの側面。
これらは別の視点で考えれば、Aはことばの過去的側面、Bは現在的側面、Cは未来的側面ともいえるように思う。
 (3) 1977年には、言語発達を促す要因として、a.私自発性、b.共感性、c.認識性をあげた**)
前述した(1)、(2)、(3)の3つの視点を関係づけてみると図5-4のように図示することができる。
図5-4
図5-4 ※矢印は「影響を与える」という意味を示す。

**) 花上洋代「言語指導における課題」「幼児集団指導」第1巻日本肢体不自由児協会 1970、PP.45~50
*) 高橋洋代「言語能力の評価に関する-考察-脳性麻癖児の集団指導をめぐって-」「立教女学院短期大学紀要」Vol.2、1971、p.183
**) 高橋洋代「乳児の泣き声と言語発達」「関係学研究」Vol.5、No.1、1977。pp.207~214

 2) 言語発達の方向

 (1) ことばの個の世界
人間はひとりひとり全く異なった個性をもって生まれおちる。そのかけがえのない個人のうちに隠され、埋もれている富は大切に育てられねばならない。ことばの個人的な領域を育てることの重要性はまず第一にあげられるべきものであろう。
たとえば、白いぬいぐるみの子猫にニャンニャンと名付けた子どもが四つ足の動物、白いフワフワしたもの、ガサガサ動くものなどにも自分からニャンニャンと命名し、それも、小さい物には声のピッチを高く、大きい物には低くして表現することなどは、ある事象と共に伝えられた音響的表象に、その子独自の概念化を行っている事実がはっきりとみられる。おとなは猫を示すものとしてニャンニャンということばを教えたつもりでいても、そのままの意味を子どもが受けとるわけではない。音響的表象としてのことばにどういう意味をもりこむかは相当部分、個人にまかされているのであり、たとえば「悲しみ」ということばひとつでも、そのことばの意味内容は個々人で異なるものであろう。
個人の言語の世界の充実・発展という視点から、言語発達の方向を考えた場合には、図5-5のようにとらえることもできるかもしれない。
 (2) ことばの、共なる世界
「人はヒトとして生まれ、人間になる*)」と述べた糸賀一雄は、その文章に続けて「その人間というのは人と人との間と書くんです。単なる人、個体ではありません。それは社会的在存であるということを意味している。人間関係こそが人間の存在の根拠なんだということ、間柄を持っているということに人間の存在の理由があるんだということ、こういうことなんです*)<」と述べている。松村康平は「人間は「関係」存在である**)」とし、関係弁証法を展開させている。人間関係こそが人間存在の根拠であるというこれらの主張からは、ヒトが人間になるプロセスにおいて、ことばの果たす役割の重要性とその方向性を示唆されているように思われる。
ルソーは、ことばとは身体的欲求からでなく、情念の共感という精神的欲求から生まれたものであるといっている***)。実際、子どもがことばを獲得するのは、他の人に注意を向けることに始まり(手段的には身体的欲求が満たされることを通してであるが)、他の人との間に共感の世界を求めて声を出すことによって発展していく。
また1~3か月ごろの乳児の相手をしている母親のかかわり方をみてみると、子どものすること、発声する声すべてを受け入れ、子どもの顔を見つめ、子の名を呼んでは、自分で答えたりしている。アンヨをしはじめた子には手をさしのべて迎え、「アンヨできたね」と心から喜ぶ。
人が橋を渡ろうとするのは、むこう側で手をさしのべて、渡ってくる者を待ち望み、暖かく迎えてくれる人がいるからかもしれない。
子どもがことばをしゃべるようになるのは、基本的には母親が自分を受け入れてくれたことによって、他の人を受け入れることを学ぶからである。他の人を受け入れた結果が、他の人のさし示す世界に興味を示し、他の人が指し示すような形でその世界を認識し、自分からその証しを、共なる喜びとして求めるという行為-すなわちことば-を生み出す。
そして言語を獲得することによって、人との間により適確な共感の世界を築きあげることができるようになるといえよう。
武藤はかつて集団指導の基本姿勢、および集団指導の意義について述べた中で次のようにいっている。「他の人を受け入れる気持がのびてくることによって両手を使う活動が生まれ出る。……両手を使えることによって、実際により他の人を受け入れることができる*)」と。
松村も述べている。
「道具の使い方や身のこなし方がかわっても、それが教育活動に参加しているものの関係のしかたを変革することの中に位置づけられて行われるのでなかったら、それは、これまで述べてきた立場からの教育技術の改善を意味しない。**)
これらの文章は示唆に富んでいる。
ことばの発達がめざす方向はスラスラと上手にしゃべれることだけではないのはもちろんであるが、図5-5に示される。個人のことばの世界の広がり、深まりは、ある方向性をもっていなければならないといっているのではないだろうか。すなわち文学への道も、科学への道も、友情への道も、究極的には、人間への洞察を深め、人間の幸福を志向するものでなくてはならないと主張しているように思われる。

*) 糸賀一雄「愛と共感の教育」柏樹社。p.29
*) 同上、p.32
**) 松村康平「児童臨床学」光生館、p.143
***) ルソー、小林善彦訳「言語起源諭」現代思潮社、1970
*) 武藤安子他「幼児集団指導」第1巻日本肢体不自由児協会、1970、p3
**) 松村康平・板垣葉子「適応と変革」誠信書房 1960、p.213

 (3) ことばと自発性
個の世界をもちながら、他との共感の世界を深めることば。人間の幸福を志向するものとして生み出されねばならないことば。
そのことばは現実に行為として生まれ出たとき初めて力をもつ。その行為が生み出されるために不可欠なものは自発性である。
松村は次のように述べている。
「自発性なき創造性は生きながらえることができず、創造性なき自発性は生まれ出ることができない。創造の働きに宿っていた自発性は育てることができてもそのままたくわえておけるものではない***)
実際、ことばをしゃべるという創造的行為は、とだえることのない自発性の育成によって存続していくといってよい。
P.フルキエ****)は、教育の目的を、個人のうちに人間の理想をうえつけること、理想への熱い願いを育てることであるといっている。
津守真もまた「保育や教育は子どもにあるパターンを身につけさせればよいものではなくて、子どもが自分らしく、自分の課題を追求しつつ生きることを根本前提とするものであると思う*)」と述べている。
向上心ともいいうるこれらの志向的な自発性はどのようにして生まれ育っていくのであろうか。これは保育学、児童学、教育学などの大きな課題である。
松村は、関係弁証法の立場から「児童をも積極的に教育関係を担う成員として認め、その関係を変化・発展させる主導的な役割を児童もまた果たさせるもの**)」と「把握し認識し、教育していくことは、明日の社会における発展創造態としての役割の果たせるようなパーソナリティの形成を目ざしているのである***)」と述べ、数多くの実践研究を重ねている。「子どもといっしょに変わりながら創造されていく発達****)」ととらえるこの立場からは、乳児は乳児の、3歳児は3歳児の、そしてあなたはあなたの、私は私の発達課題が同時に与えられているわけで、皆それぞれ平等により高く、深く、真実な、人間の幸福を志向する言語の世界への道を歩んでいることになる。
集団指導のリーダーは、その活動の中で、子どもの言語だけでなく、自分の言語の世界を深めていく課題も負っている。
松村は述べている。
「どうしようもないものと出会ってそこで自分が何をするか、何をつくり出すかということを阻むものが出て来た時に、その阻むものとどうかかわって何をするかという課題を自分に成立させながら考えていくということが接在的なあり方を現実化していくということです。あきらめないんですね……*****)」と。子どもの、そして私たちの自発性はお互いに新しい関係を創り出す体験をつみ重ねていくことによって生み出され育てられていくといえよう。
私個人の今後の課題としては、母と子のどのようなかかわりの中からどのようなことばが生まれてくるのか、母と子双方のことばが過去的側面ばかりでなく、現在的、未来的側面をもつものとして分析し、その中から私自身のことばの世界の課題-教育および教育技術-をさぐり出したいと思っている。

(高橋 洋代)

***) 松村康平「心理劇」誠信書房 1960、p.13
****) フルキエ、P.久重忠夫「公民の倫理」 1977、P.13
*) 津守真「保育の体験と思索」「幼児の教育」77巻4号、1978、p.63
**) 松村康平・板垣葉子「適応と変革」誠信書房 1960、p.274
***) 同上p.274
****) 松村康平「集団指導の基盤」「幼児集団指導」第6巻、1976、p.18
*****) 同上、p.23


主題・副題:幼児の集団指導-新しい療育の実践- 169頁~180頁