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ヴィクトリア・ショクロン

マハ・ヘラリディスカー(DISCAR)/アルゼンチン 1994年よりアショカ・フェロー

社会で活躍するための知的障害者の支援 社会参画の方法としてのアート レオナルド・ショクロン著

アルゼンチンにおいて、知的障害者の数は他の障害と比べるとそれほど多くはない。しかし、彼らの社会参画を実現するためには、幅広く、想像力に富んだアプローチが求められる。

なぜ知的障害者に特別なアプローチが必要なのか? 大抵の場合、彼らは社会の隅においやられてしまっているからだ。かなりの社会的差別、雇用や教育の差別、家庭内での差別さえ受けている。実際、差別のレベルを測ることは難しい。恥と捉える親族から隠され、隔絶という古い文化的様式を押し付けられる。

アルゼンチンの人口の7%以上が何らかの障害を持っている。これは人口3600万人の約220万人を意味する。そのうち、精神障害者の数は障害者全体の約15%にあたる33万人程度である。「精神障害」が何を指すかというと、詳細の定義はされていない。知恵遅れ(63%)と、その他(37%)の2種に区分されており、小児精神病から自閉症までその他の分類は及んでいる。

精神障害者の約40%は健康保険に加入しておらず、国の保健政策は障害者に対する方針を一切示していない。したがって、各事例は保健の問題として始まり、家族の仕事が増えたり家計への圧迫が生じたりして、普通、家族に大きな影響を及ぼすので社会問題となる。現在、アルゼンチン家庭の3%に少なくとも一人の精神障害者がいる。彼らのうち何人が職に就けるかは、誰にもわからない。

憲法第75条は、すべての人に平等な機会と待遇を保障するよう国会に義務付けている。健康保険や幅広い保障システム、家族に対する特例制度に始まり、公的サービスを行う企業と政府に4%以上の障害者雇用を義務付けるなどの制度が設けられている。民間企業においては、障害者の雇用に応じて経済的な優遇措置が適用され、障害者を対象とした物づくりのワークショップも行われている。しかしこれらの政策は、伝統的に知的障害者を守ることのみに終始していた。知的障害者に一般市民として主権を与えたり、彼らが他の人と同じように社会の一員になったり、ということを人々に印象づけるような効果はなかった。

そのような状況の中で、障害にそれほど重点を置くのではなく、コミュニケーションに重点を置くことで社会に大きな変革をもたらそうとしたのがディスカー(DISCAR)である。

コミュニケーション

コミュニケーションは社会参画をよりよく進めることができるので、ディスカーは、知的障害者にアートを通した様々なコミュニケーション手段を提供することを目的に、17年前に設立された。ディスカーは、この目的のもと初めて設立されたアートセンターで、そのワークショップは知的障害者の能力開発の手段として注目を集めた。

「あとになって、彼らが置かれている状況を知らなければならなかったとき」とディスカー代表のビクトリア・ショクロンは説明する。「なぜなら初め、私たちは何も知らなかったので、就職面の問題など、まだまだ着手されていない部分が多くあることがわかってきたのです。そこから活動の幅が広がってきました」と彼女は白状する。

1993年、知的障害者の就職促進を目的に、雇用支援プログラムが生まれた。障害者のために仕事をつくるのではなく、仕事に障害者が適応できるようにする。それは真の社会参画を意味する。

パラダイム

ディスカーは、絵画、舞台芸術、音楽、読書、執筆(および生徒の作品の出版)、調理(現在はアルゼンチン料理学研究所で行われている)、大人への移行、パソコン、雇用など、多岐に渡るワークショップを提供している。これらのワークショップはすべて、障害者に対して提供されているワークショップとはまったく異なっている。これまでの方法論では、障害者を治療、特別教育、リハビリテーションによって支援することに目的が置かれていた。しかし、ディスカーのスタッフの言葉を借りれば、「リハビリテーションとは、機能させられるのではなく、何かを機能させる」という意味である。

ディスカーの革新性をどう説明すれば良いのか? もしディスカーが慣習的な手法を踏襲していたら、メンバーのほとんどは演劇ワークショップに参加できていなかっただろう。なぜなら、彼らには言葉を話すことができなかったからだ。「適切な時機をみて、もし可能なら、参加者に話すという機能を練習させてみよう」と、普通の人なら考えるだろう。

それはディスカーの考えではなかった。参加者を、ありのまま受け入れたのだ。参加者は話すことができなくても、他の参加者とともに演じ、言葉以外のジェスチャーで彼ら自身を表現することができる。ディスカーの手法を一言でいうと、「あるものを活かす。あるものを活かして、音楽や演劇、あらゆるアートを創り出す」。この手法で、ディスカーは「コミュニケーション」の壁を打ち砕くことができた。その成果はめざましかった。発足後たった2年のうちにアートセンターが立ち上がり、多くの俳優が活動に加わり、障害を超えて個々が持つ可能性を活かすという考え方は、みんなに受け入れられるようになった。

ディスカーは、障害者を研究や治療、教育の対象として見ていない。互いに影響し合い、遊びや音楽、時には楽器さえも創り出す人間となっている。活動を通じて、周囲の障害者に対する見方だけでなく、当事者自身の認識さえも変えていく。人間は進歩し、ディスカーの目的は治療ではなくインクルージョンにあるので、メンバーがある障害を克服しても、それは副次的な成果に過ぎない。何よりも参加することである。

ヴィクトリア・ショクロンヴィクトリア・ショクロン

ゴールは何か?

「障害のある人たちが他の市民と同じように生活を楽しみ、サービスを利用し、社会の一員として参画できるようにしたい」とヴィクトリアは話す。「私たちが提供する活動は、彼らの生活のいくつかの面でポジティブなものであるので、家族や医者に言われて義務としてワークショップに来るのではありません」。

走りながらプロフェッショナルになる

ディスカーの活動は、研究された理論から生まれたものではない。ヴィクトリアは、仕事でのインクルージョンの考えで事業を始めた経緯を振り返る。参加者の何人かが、女優として何度か雑誌に出ていた彼女のことを知っていることに、彼女は気づいた。参加者は芸術のワークショップに来る以外に、まるで自分自身の生活がなく、他人の生活をただ観察しているかのように、テレビを見たり娯楽雑誌を読んだりして過ごすしかない、という結論に彼女は直ぐに達した。彼らはなにもやっていなかった。働いた経験もなかった。彼女は、彼らが仕事に就けるようにしようと決意した。雇用支援プログラム(ECA)は、単にほとんど前提なく生まれたキャンペーンのための専門的支援制度である。今日ECAは、雇用形態のアセスメント、企業へのトレーニング、家族への働きかけ、専門家のトレーニング、体系化されたフォローアップ、会議でのプレゼンテーション、ウェブでの質問対応を通して仕事に就くために必要となる事柄を準備している。

仕事に行くということは、ある程度独立して、ひとつの場所からもうひとつの場所へと移動することも含まれる。だが、ワークショップ参加者の多くは、どうやって移動するのか知らなかった。その他のニーズが明らかになった。それは、成人としての生活への移行を目的としたワークショップである。その一部は、社会的、そして文化的イベントや博物館見学を中心に企画されていた。しかし実際の利点は、絵画や彫刻ではなく、何人かの学生がなにか新しい発見をするのにワクワクしている時に見えてきた。彼らは生まれて初めて、自分でバスの切符を買ったのだ!その何気ない行動によって、初めて自分の障害を乗り越え、彼らは社会参画への一歩を踏み出した。

自分たちのキャンペーンに対し専門的なアドバイスと協力を得ることによって、やがて自分たちのアプローチを改善していく必要があると、ヴィクトリアや彼女の同僚たちは気がついた。このことは前に向かって走りながら、さらに活動の幅を広げていくという彼らの決意を物語っている。

今日、ディスカーは企業に対し、企業が足を踏み込みにくい世界へ扉を開く手伝いをしている。少ない資源と多くの想像力によって、大きな成果が得られることを企業経営者は知った。ディスカーの活動に参加する企業の職員は、どんどん増えている。若者向けトレーニングを手伝う人もいれば、ディスカーの経験を広く伝えるために国際会議の参加に尽力する人もいる。過去12年間で、参加者のうち実に80%以上が今も雇用を継続している。彼らの人生に、大きな、そして長期的な変革を起こしたといえるだろう。

プログラムの対象は、複数の都市で15以上の機関に及んでいる。ディスカーの専門家は、人々へのトレーニングのため、そして国内外でその経験を共有するために、積極的に外に出向いている。

すばらしい成果

現在では、ディスカーの知的障害者を職場に参画させたいと申し出てくる企業がある。かつては辛抱強く説得を続け、どんなに丁寧に説明しても分かってもらえないこともしばしばあった。企業の雇用方針において、障害者が他の職員と同等の責任をもって生産することが理解されなかったからだ。今では、アルゼンチンの会社はそうできることが分かっている。

変化

発足当初、ディスカーはブエノス・アイレス市の資金補助を受けて活動する小さなプロジェクトだった。その補助が打ち切られた時、その時点で活動が終了しても不思議ではなかった。しかし困難に直面した際に、新しいアイデアが閃めいた。ヴィクトリアは、関心がある俳優たちから支援を募り、3年連続で「スターとのサッカー」を彼らとともに企画した。この企画には、ディエゴ・マラドーナを含む有名なサッカー選手やアルゼンチン大統領のカルロス・メネムまでもが加わった。このようにして次の5年間の活動を維持し、かつ本部の事務所を購入するための財源を確保することができた。その後、社会的な活動をビジネスにつなげるアショカの奨学金とE2Eプログラム(訳注:Entrepreneur to Entrepreneur Program:ビジネスリーダーとアショカ・フェローをつなぐプログラム)を手にしたので、もっと多くの学生がワークショップに出席するだろう。

間違いを正す

初めは「非営利」と「慈善事業・無報酬」とを混同していたので、当初、ワークショップは無料で提供していたとヴィクトリアは認めた。このままでは継続できないと気づいて授業料を導入し、同時にディスカーのスタッフは、必要な人に奨学金を出してくれるドナー探しを始めた。今では、ディスカーにその時々のニーズに柔軟に対応させ、インクルージョンの活動を強化させる年間事業計画と評価システムがある。ディスカーはまた、ワークショップの記録者として各新聞社の実習生を招聘し、書くことでクラスを強化している。でも核となる目的は変わらない。もっとも優先されるのは、ワークショップを通じて生徒やその家族、同僚、ひいては職場や社会全般に対するよい影響を与える仕事でのインクルージョンである。その効果は多数の施設にも認められ、メディアの力で活動はアルゼンチン全国に知れ渡るようになった。

それでもなお重要な課題は残されている、とヴィクトリアは感じている。いかにより多くの人を持続的に社会参画させられるか。それを叶えるためには、より多くのマンパワーと広い事務所、フルタイムで動ける職員の力が必要になる。継続的な団体運営には、安定的な財源が不可欠だ。それは決して容易なことではない。

社会変革で成功するためには

結果を求めるには、まず人のニーズに基づいていると確信し、自分が創造もしくは変革したいことに自信をもち、それが人の役に立つ革新的なアイデアだと感じなければならない、とヴィクトリアは主張する。しかしそれは十分ではない。「そんなやり方は通用しない」と否定的な考えが変革を阻もうとする時に、前進し続ける強さを持たなければならない。ノーという人たちがあらゆる転換期に現れても勇気を失ってはいけない。そしてたった一人で社会変革ができると信じてはいけない。「私はそれを決して信じない」とヴィクトリアは言う。「彼らがやりたいことを理解し、ともに実現したいと思ってくれる仲間を自分の周りに集めること。彼らにアイデアを伝えて、それを実現してくれる人たちを信頼したいと思っています。私はいつも言うの、活動を始めたとき、私はクレイジーだった。でも今はみんながクレイジーよって」。それはまるで、それが社会を変えようとする人たちを呼ぶ方法のように語った。彼女の同僚たちはこれを「ディスカー魂」と呼ぶ。しかしそれは、成功に導くための普遍的な方針以外のなにものでもない。ヴィクトリアが17年前に活動を始めた時にもそうであったように。

予期しない始まり

もともと、ヴィクトリアは障害の分野に関心があったわけではなく、自分がなにかを立ち上げるとは思ってもみなかった。きっかけは、ビーチ・バケーションの時に、他の子と話すことができず、ぽつんと佇んでいる一人の子どもに気がついたことだった。何かが起こった、言葉の代わりにある音楽、つまりリズムを聴いた時、その子が反応を示した。「3歳になる息子とバケツで音をたてて遊び始めた時、その子が寄って来てリズムを真似したの。この子は遊びたくなかったわけじゃないんだ、たださっきは、我々は互いを理解していなかったんだと気がついた。でもそれから、通じ合えるようになった」。男の子には知的障害があり、それで友だちができなかった。音楽のリズムはとっさに彼を引き込んだ。その時、さらになにかやりたいという思いが生まれた。しばらくは舞台や映画、テレビの仕事が忙しく、新しいことを始める時間がつくれなかった。そして突然活動が一段落し、仕事の予定がなくなった。それで彼女は新しい事業に挑戦することを決意し、その活動は今も続いている。

ヴィクトリア・ショクロンヴィクトリア・ショクロン

活動の協力者

人生で他の事を辞める以上に、ヴィクトリアは自分の時間から大きな利益を得たようにみえる。実際、一瞬一瞬を仕事に専念することを心から楽しんでいる。

仕事を持つようにとか、収入を得るようにとか、そんなことを家族は彼女に頼まなかったので、彼女は、一番の協力者は家族だと感じている。そのため無償で働き、ディスカーの活動に100%集中できている。「何かうまくいかないことがあって、家に帰って泣いても、家族はそこにいてくれる」。

ディスカーで頼りにしているのは、ディレクターのマルタ・メンディアとワークショップ・クラスのコーディネーター、ジョージ・ビロルド、そして最大限の貢献をしてくれる専門家スタッフである。

「ヴィクトリアは15年前、まだ私たちの事業が地域に根付いていない頃に、私を訪ねてきました。そしてエネルギッシュでリーダーシップのある彼女は、私たちに大きな機会を与えてくれました。多くの人は、これら子どもたちの支援を私に感謝してくれますが、実際は、彼らが私たちを助けているのです。私が彼女をアショカに推薦した理由は、ヴィクトリアのねばり強さと熱意によって、このプロジェクトを持続的なものにしたからです」。

マクドナルド南米地域代表ウッド・スタトン氏


ヴィクトリア・ショクロン
51歳、既婚者、息子が1人。
女優、ダンサー、歌手であり、社会起業家でもある。
映画、テレビ、演劇界で11年活躍した後、1991年にディスカーを設立。
1994年よりアショカ・フェロー。
ディスカーの活動により、国連最優秀事例[United Nations for Best Practice]、芸能・ジャーナリスト協会、ブエノス・アイレス市、スペシャル・アート等より、数々の受賞、栄誉とノミネートを受ける。ビジョナリーの決勝出場者、マクドナルドの国際女性デーでも功績が認められた。

Fundacion DISCAR
Mail: Santiago del Estero 866 (1075), Buenos Aires, Argentina
Phone/ Fax: +54 4305 9191
E-mail: fundaciondiscar@fibertel.com.ar
Web: www.fundaciondiscar.org.ar