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シュダーソン・スベディ

シュダーソン・スベディネパール障害者人権センター(DHRC)/ネパール
2005年よりアショカ・フェロー

ネパール障害者運動 不撓不屈のリーダー
プラナブ・マン・シン著

2003年、シュダーソン・スベティは、ネパール政府が法律上保障している障害者の無償教育政策を実施するよう、ネパールで最も権威の高い裁判所、最高裁に訴えを起こした。この訴訟はシュダーソンが自分の団体、ネパール障害者人権センター(DHRC-Nepal;以下、DHRC)を通して起こした。そしてネパールの障害者権利闘争において歴史的な第一歩となった。それまで、ほとんどの障害者は自分たちの権利について知らなかった。政府職員も障害者に与えられた条項を知らないか、それらを実施することに興味を持たなかった。何よりも重要なことは、ネパールの障害者が一致団結し、平等な市民として権利のために闘った最初の出来事になったことだ。最高裁の判決は障害者に好意的で、障害者の権利を認め、ネパールの障害者の地位をエンパワメントさせる歴史的な優位性を確保した。

シュダーソンは最高裁の判決を報償だと捉えている。彼は、正義に対するこの勝利に大きな希望と夢を感じた。1歳と6ヶ月でポリオを患ってからずっと、彼の人生は、自らを平等な社会の一員であることを証明するため過酷に闘わねばならなかった。幸いなことに、シュダーソンには強い正義感と起業家として才覚のある父親がいるという利点があった。彼は、西ネパールのバルディヤ村に初のコミュニティー・スクールを立ち上げる際に、父親がどのようなイニシアティブをとったのか思い出した。「父は施しを信じていなかった。私は森に行って、彼が市場で売る野菜を採ってきたことを覚えている。そうやって彼は学校のお金を貯めたのだ」とシュダーソンは説明した。シュダーソンの父は村の裁判官でもあった。「正義という概念は、父に正義を求めてやってくる村人たちを見るまで僕には分からなかった」とシュダーソンは話す。このように社会性や道徳観に晒されてきたことが、彼の権利闘争を形成するのに重要な役割を担った。「社会のなかで馬鹿にされる、ということが怖くて以前は縮み上がっていた」と彼は言う。しかし家族の支えと、自分が不当な扱いに隷属させられているという自覚が大きくなり、彼は少しずつ殻を破って行った。

歴史的に、ネパールの為政者は医療、基礎衛生、もしくは教育などへ一度も大きな投資をしてこなかった。このようなインフラストラクチャーやサービスの欠如は、医療ケアやサービスへのアクセスができない障害者にとって深刻な問題となっていた。WHO(世界保健機関)の推計によれば、ネパール国民2900万人のうち5~10%が障害を持っている。しかし2001年の国勢人口統計では、ネパールの障害者人口はわずか0.45%とされ、また一方で国家計画委員会は同じ年に1.63%としている。WHOとネパールの2つの政府機関との間で生じた数値の違いは、障害者人口を正確に計ることへの完全なる怠慢を表している、とシュダーソンは信じている。シュダーソンは、障害を恥と捉える家族らによって正確に障害者の数を計ることが難しくなっていると説明する。シュダーソンの独自調査から、彼はネパールの障害者人口は300万人以上いると推測している。そのうちわずか5%の人しか雇用されていないと、シュダーソンは憤る。彼はこの現状こそが、障害者が依存して生きていると社会から言われ具体化されている証拠だと考えている。

ネパール社会では、障害は運命という視点で捉えられている。それはカルマ(輪廻)の結果として考えられている。障害は、人が良いカルマを積むための手段という捉え方はまだ良い方で、大抵の場合、障害者は社会に対する重荷のようなものとして扱われる。また障害は前世の罪とも考えられていることから、障害は個人の問題とされ、障害者とその家族が対処すべき問題であり、国が責任をもったり対応したりするものではないと考えられている。障害者を単純に罪もしくは重荷と捉えるような環境で育てられると、ネパールの大半の障害者が自尊心に欠け、自分自身の能力を信じないことは驚くに値しない。

1990年代を通して、シュダーソンは、彼らに幻滅するためだけに、人権や障害者支援に取り組む様々な団体で働いた。ほとんどの人権団体は障害者の人権を重要と考えておらず、またネパールの障害者団体は障害の特定の事例を扱うことだけに特化していた。彼は旅をしながら障害者に会ううちに、ネパールの多くの場所で彼らが非常に不利な立場に置かれていることに直ぐに気がついた。障害者は、ネパール社会の態度と障害者の権利を保証するはずの貧弱な行政組織の両方から差別に苦しんでいた。たとえもし障害者が自分たちのために立ち上がる勇気と度胸があっても、障害者を無益な存在と考えている多くの人たちから絶え間ない差別に直面するだけだろう。シュダーソンは、この不正義に対し根本的に衝撃を受けた。

シュダーソンは、障害者も社会の平等なメンバーとして自らの権利のために立ち上がるべきだと考えていた。障害者が自分自身のために立ち上がったときだけ、社会の障害者に対する態度を変えることができると彼は強く信じていた。障害者は、「サービスに依存する受け手」から、「権利と恩恵を得るに値する自立した存在である」へ、まず自分たち自身の物の見方を変える必要があった。彼は同時に、国の制度も障害者の基本的権利を保障しなくてはならないと認識していた。国で障害者の権利が認められれば、ネパール各地で障害者が啓発やロビー活動、権利の要求を行う際に、その権利が障害者の希望の灯火となることをシュダーソンは予見していた。この本質を見抜く力が、シュダーソンを真の先見者にしている。

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彼のビジョンを叶えるため、2000年3月にシュダーソンはDHRCを設立した。アドボカシー、メディアへの広報、法制度などを活用して障害者の人権と法的権利を訴えるネパールで初めての団体だった。シュダーソンはこの組織を障害者の権利を政府にロビー活動したり、他の団体や機関、企業に対して障害者問題に敏感になるよう働きかけたりする手段と考えていた。そして何よりも、自分たちの権利を掴み、人生をコントロールするために、障害者をエンパワメントする方法だった。

団体を設立して最初の5年間、DHRCは少ない予算で活動し、最初の収入創出の試みである「障害者の声(Disability Voice)」という雑誌で何とかやりくりしていた。2003年5月の創刊以来、「障害者の声」は障害者問題、権利、政策に関する情報を広めてきた。情報コミュニケーション省やネパール新聞協議会などから的確な情報源として認知されるようになり、この雑誌は直ぐに全国的な雑誌として認識されるようになった。現在約3000部が刊行されており、全国で読まれている。そして、直接または間接的に障害の分野で活動する75の様々な団体が購読している。シュダーソンは、障害者は希望や励みを必要としていること、また雑誌では多くの人たちに届けることができないということに気がついた。そのため2002年4月に、DHRCは雑誌「障害者の声」にちなんで同名の一般ラジオ放送を開始した。当初はラジオ・ネパールを通じて配信され、ネパール全土をカバーしていた。そしてDHRCがこれまで雑誌を通して届けることができなかった人たちに、情報を届けられるようになった。放送開始以来、DHRCはネパール全体で5000人以上のメンバーを有する245以上のラジオ・リスナーズクラブの設立に成功した。「障害者の声」の各ラジオ・プログラムのリスナー数は200~300万人と推測されている。

「障害者の声」は、雑誌としてもラジオ番組としても、ネパールで初めてのものだった。両方とも障害者問題に特化しており、またより重要なことは、障害者によって完全に所有され、運営されている初めての報道機関ということだった。障害者が報道機関を運営し経営しているという事実は、障害者コミュニティの人たちにとって計り知れない刺激の源となり、「自分たちも何かできるかもしれない」と彼らを信じさせるものだった。このプログラムとその対象範囲を広げる目的で、DHRCは連続してジャーナリズムの研修ワークショップをネパール各地で開催した。結果として、「障害者の声」は彼らのために働くよく訓練されたジャーナリストのグループを持つことになった。雑誌「障害者の声」が開始されてから、障害者問題にフォーカスした新たな雑誌が3つ創刊された。障害を持つジャーナリストが10人存在し、ネパール全土の10ヶ所の地方ラジオ番組を運営しており、また別の20人は一般の報道機関で働いている。

2001年、DHRCで働きながら、シュダーソンはネパール法科大学の学士課程に入学した。卒業論文の研究中に、すべての障害者の無償教育に対する権利を保障している障害者福祉保護法(1982年)を偶然発見した。「本来無料とされていた授業料を払っていたことは全く知らなかった。どんなに驚いたか想像できるでしょう?」とシュダーソンは説明した。彼は続けて「まず大学の事務局に行ってその規定について説明した。でも職員はその様な規定など知る由もなく、その実施も嫌がっていた」。シュダーソンは次に教育省に出向き、すべての障害者は無料で教育を受けられるとする条項の即時実施を求めた。教育省はシュダーソンの訴えを記録はしたものの、何もしなかった。

2003年に、シュダーソンはDHRCを代表し、大学、教育省、そしてネパール政府に対し、裁判所に正式に提訴した。訴えは公益訴訟として最高裁の審議とされ、障害者の権利を主張する訴訟として、ネパール史上最初で最大の注目を浴びた。最高裁は、シュダーソンとDHRC、障害者の権利に好意的な判決を下した。それは障害者の人権を訴える活動家たちにとって歴史的な勝利であり、障害者の問題を国民全体に強烈に印象づけた。シュダーソンは、この勝利を主要な報道機関とともに「障害者の声」のラジオ・プログラムと雑誌で効果的に公表した。

これ以降、3,000人以上の障害者が政府によって保障されている無償教育を受けることができた。最高裁の判決は政府を突き動かすことになり、教育法の改正につながった。法律は、現在、障害者に対しより良い教育基準を保障しており、特定の障害の場合、試験時間が通常より1時間延長されるなどの特例措置も認められている。

2005年に、シュダーソンは有望な社会起業家としてアショカに推薦された。最初にアショカから連絡を受けた時、彼はアショカについて、また社会起業家についてもまったく聞いたことがなかった。厳しい審査過程を得て、彼は同年アショカ・フェローに選定された。これによりシュダーソンにいくつかの新しい扉が開き、彼は障害者の権利に関するあらゆる面で、突然自分が注目の的となっていることに気がついた。「僕の長年の夢は、いつも障害者問題のリソースセンターを作ることだった」とシュダーソンは語る。その意志を胸に、DHRCは世界中から300冊以上の障害に関する法律や立法の書籍を集め、障害者の問題と権利に関するリソースセンターを立ち上げた。そしてDHRCとリソースセンターを通して、シュダーソンは障害者の能力開発研修を実施した。研修によって、彼らも自分を成長させ表現する機会をつかむことができる。密度の濃い研修プログラムとワークショップを通して、DHRCは30人以上の障害を持つジャーナリスト、200人以上の障害当事者団体のリーダー、そして100人以上の障害と人権擁護者を輩出することができた。

「きちんとした技術や研修がそろっていても、アクセシビリティーや移動の問題から、多くの場合、障害者は職を得ることが難しい」とシュダーソンは嘆く。障害者に使いやすいように建物を建てることを保証するのは政府の責任だと彼は信じている。シュダーソンは国家障害者サービス調整委員会の一員として、政府の障害関連政策のアドバイザーという重要な役割を担っている。この委員会を通し、彼は政府高官と密接に働きながらネパールの障害者5ヶ年計画の草案に携わっており、またネパール初となる障害者に配慮した建築規則の草案にもすでに貢献している。規則の制定以降初めて計画された女性・児童・社会福祉省の建物は、完全にアクセシブルなコンセプトで設計されている。民間セクターの意識を喚起するために、シュダーソンはマチャプチャ銀行に口座をもつすべての障害者から支援を得た。「障害者にも使いやすい銀行にならなければ、我々の預金をすべて引き出して他の場所に預けるぞ、と我々は銀行に話した」とシュダーソンは言う。それに対して銀行経営者は、すべてのATMを障害者に使いやすくした。この銀行に対する挑戦は多くの注目を集め、一般の人々が障害者問題へ関心を高めることをさらに促した。団結することの力をシュダーソンは無駄にすることはなかった。それとは対照的に、彼は障害を持つ人々の権利を啓発するための共同戦線となる60以上の障害者団体のネットワーク、障害者権利フォーラム(Forum for Rights of People with Disability: FRPD)を設立した。

「まだまだやるべきことはたくさんある」とシュダーソンは言う。彼は、2005年に在外ネパール人協会とネパール商工業会議所連盟による「変革のチャンピオン」賞を受賞した。「受賞は、この問題への関心を高めるための有効な手段です。でも私たちは、まだなんとか表面に触れただけに過ぎない。本当に差別に苦しんでいる人々にはまだ届いていない」とシュダーソンは謙遜しながら続けた。彼はいま、HIV/エイズのように障害の中でもこれまで見落とされてきた分野に焦点を当て、彼らの人権も擁護される手段を探っている。2008年3月、DHRCはネパールの主要な障害者団体をすべて集め、障害者の全国大会を実施した。この大会で、憲法制定会議による新しい憲法で国連障害者の権利条約の早急な批准と実施を求める「カトマンズ宣言2008」が作成された。この宣言はまた、助成財団や国際NGOそして国内NGOによって実施される主流な開発事業に、障害問題を統合することも訴えている。

シュダーソンが幸せを感じる理由がある。たとえば、自分の仕事にますます社会的な関心と支援が集まること、新たに発見した自信を持った障害者がどんどん社会に進出していくこと、そして政府の政策決定レベルを含む、社会のあらゆるレベルで障害者の社会参画が進んでいること、などである。彼の仕事は、ネパールの障害者にとって希望の光となるだけでなく、国際的にも彼らを刺激している。「障害と開発パートナー(DPP)」というイギリスのNGOは、DHRCの事業をイギリスでも再現できるように事業協定を結んだ。いまでは10年以上障害者の権利擁護のために活動してきた経験から、シュダーソンは、障害者の権利は社会構造そのものの一部であり、よりインクルーシブで公正な社会を保証するための手段と考えている。

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「シュダーソン・スベディと彼の団体であるDHRCは、権利ベース・アプローチで障害者問題に取り組んだ始めての人たちだ。2003年の歴史的な最高裁の判決は、彼の評価をより強固なものとし、障害者の権利を守るための重要な一歩となった。シュダーソン自身は間違いなくリーダーである。彼のリーダーシップと信念、献身的な努力がなければ、最高裁の勝利はずっと起こりえなかったかもしれない。しかし、その後の彼の業績の方がより感動的である。それまでの障害者団体間の派閥主義や政治的な争いにも関わらず、彼はすべての障害者団体をひとつにまとめ上げることに成功した。そして、新しい憲法下で国連障害者の権利条約の即時批准と実施を求めた『カトマンズ宣言2008』に署名するように説得した。シュダーソンがいなければ、このような出来事が、今もそして近い未来でも起こったかどうか、想像することも難しい」

ニラ・ワディ、
国際連合人権高等弁務官事務所、人権オフィサー


シュダーソン・スベディ、37歳、既婚、娘と息子がいる。ネパール障害者人権センター(DHRC)の設立者および代表者。障害と人権運動を動員し、ネパールの障害者を代表して公益訴訟を起こした。障害者の権利を啓発するため、1000人以上の活動家を育て、250以上のローカルラジオ・リスナーズ・クラブを設立した。また国内と国際的な人権ネットワークを活用し、障害者の権利運動をエンパワメントするために働いた。国家障害者サービス調整委員会のメンバー。ネパール障害者の法的状況に関する書籍を出版し、国内外のメディアを通し100以上の記事を発表している。2005年からアショカ・フェロー、2007年にアジア・ソサイエティのフェローに選ばれた。ネパール政府、在外ネパール人協会、ネパール商工業会議所連盟から「変革のチャンピオン」賞を受賞した。

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