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ジャビッド・アビディ

ジャビッド・アビディ全国障害者雇用促進センター(NCPEDP)/インド
1998年よりアショカ・フェロー

エンパワメントに向けた権利擁護への道
ラマ・チャリ著

「まず何よりも、我々が存在することを政府に気づかせた。そして、ただ存在するのではなく、我々も市民である事を認識させた」。ジャビッド・アビディは、インドの障害者権利運動の歩みを極めて上手く描写した。それは障害者が自らの権利を主張し、意見を述べた道程であった。これは、アビディが挫けることなく16年間貫いてきた戦略だ。

1990年代、インドの障害者は非常に厳しい状況に置かれていた。障害者人口は6千万人と推定され、人口の5~6%を占める。この巨大な障害者人口は、インドの多くの州の人口に相当するが、彼らに注視したり、耳を傾けたりすることは、ほとんどなかった。何らかの教育を受けている障害児童の割合は、2%を下回った。教育は別途、行われるようになっていた。にもかかわらず、障害児に対する特殊教育学校の数は、ほんのわずかであった。また就労にいたっては、障害者の1%以下しか仕事に就いていなかった。1959年に、インド政府により最初の障害者公共職業安定所が設立されて以来、たった10万人の障害者しか雇用されなかった。1977年ころから、政府部門や公共部門の事業には障害者雇用枠が設置されたが、低い役職しか与えられず、障害者は高い役職に就くものではないという固定観念を、政策決定者や政府関係者は明らかに持っていた。

独立して40年以上経っても、インドには障害者の権利を守る法律は制定されていなかった。道路、建物、交通機関なども、障害者にとって利用できないものばかりだった。「アクセシビリティ」という言葉すら誰も聞いたことがなかったのだから!障害分野においても、視覚障害者や聴覚障害者のための団体、脳性マヒ協会、精神薄弱児親の会など、いくつかのグループに分かれていた。彼らは、個別には素晴らしい活動をしていたが、一緒に活動することはなかった。さらに、非障害者が障害者支援を主導し、彼らの活動は主に障害児へのサービス提供に特化していた。それにも関わらず、これらのサービスは、障害者の権利に焦点をあてたり、アクセス可能な建物を保証したりしていなかった。さらに、これらのサービスのほとんどは都市部に集中し、地方には届いていなかった。政府の役割は、NGOに助成金を与え、障害者支援機器を提供するといった福祉施策に限定されていた。教育、就労、交通、都市開発、女性や子どもなどの開発を担う各省庁は、障害に取り組んでいなかった。障害に関する問題認識は、ほとんどなかった。このような状況で、ジャビッド・アビディは、インドにおける障害概念の変革を目的とする、広範な障害者権利運動を思い描くようになった。

アビディは、1965年6月11日に、ウッタル・プラデシュ州のアリガーで中流階級の家に生まれた。生れたときに二分脊椎症と呼ばれる先天性の脊髄の病と診断され、15歳で車いすを使うようになる。1985年に、マス・コミュニケーションを学ぶべく奨学金を得て米国に留学した。ジャーナリストとして成功するという夢を持ってインドに4年後に帰国した。自分の経歴なら大手新聞会社のどこでも簡単に合格すると思っていた。しかし、現実はそう甘くなかった。彼は6ヶ月間仕事を見つけることができなかった。アビディは、この時の経験をこう振り返る。「彼らは私の経歴をみることを拒否した。代わりに、彼らは私の車いすをじろじろ見ようとした」。でもアビディは諦めなかった。フリーのジャーナリストとして、まずは小さな地方紙から始め、徐々により有力な新聞社へと活動を広げて行った。彼は、政治家、俳優、事業家、大臣、そして首相にまでインタビューを行った。そして1991年にラジブ・ガンジー元インド首相の未亡人、ソニア・ガンジーとの予定外のインタビューの席で、新しく設立されたラジブ・ガンジー財団で障害者部門を立ち上げたくないか、と聞かれた。彼はこの要請を受入れた。それは、「自分がジャーナリズムを辞めてもこの業界には何の影響もないが、自分がソニア・ガンジーのオファーを断ったら、今まで怒りを感じていた様々なことから背を向けることになる」からだった。「それは自分が障害を抱えていることへの怒りではなく、障害者を見る社会の目に対する怒りだった」。そして1992年5月に、ラジブ・ガンジー財団に参加した。

障害者権利運動の誕生

1994年3月17日、ワシントンとニューデリーの間で衛星による会議が開かれ、アビディはインド側の代表を任された。障害を持つアメリカ人の政治的な目覚めを描いたジョセフ・P. シャピロの「哀れみはいらない」に関して議論が行われた。インド側からは、障害者セクターの幹部クラスが多く出席していた。衛星会議の後、インド側の参加者でディスカッションに熱が入り、アビディは「今、ここでインドの障害者権利運動を始めてはどうか、今が決断のときではないか」と熱を込めて提案した。幹部リーダーたちは、そのアイデアに賛同した。そしてついに1994年4月3日に、インドで最初の包括的な障害権利擁護グループとして、「障害者権利グループ(DRG)」が誕生した。

障害法の成立、1995年

障害権利グループが最初に取り上げた主要問題の一つは、国会での障害法の成立であった。懸命に政府に働きかけ、記者会見や会議、抗議運動や座り込み、大通りでデモなども行った。障害分野で法案成立を望まないグループからの反発さえあった。障害権利グループの努力は報われて、1995年12月に障害者法(機会均等、権利の保護、完全参加)は国会を通過し、1996年2月7日に成立した。インド国内で、障害者に対して統合、平等、権利が主張されたのは、これが初めてだった。

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権利擁護団体・全国障害者雇用促進センター(NCPEDP)の設立

雇用に特化した団体を設立する構想は、ラジブ・ガンジー財団の会議中に形成された。アビディは、雇用こそ、法律を履行する上でもっともレバレッジが働くポイントと考えていた。また雇用問題を主張することで、障害者のイメージをチャリティーや福祉から、経済や開発そして平等な権利へと変えるであろうと考えた。そこでアビディは、全国障害者雇用促進センター(NCPEDP)を設立した。理事会に、産業、政府、NGO分野の高官を招待した。そして1997年には、センターの事務局長としてアビディが加わった。

革新的なアプローチと戦略

NCPEDPが設立されたとき、多くの人が人材派遣センターのような役割を担うようになると思っていた。しかしアビディは、他の障害団体の多くが既に実施していたサービスの提供は行わない、とはっきり決めていた。政策提言と権利擁護を担うことこそが、社会に最も多くのインパクトを残し、より大きな変革を生むと思っていた。

また雇用は単独で考えることができない、とも確信していた。彼が主張したように「アクセスがインドの障害者のエンパワメントのために必要な絶対的で基本的な要素である。アクセスがなければ、教育も雇用も不可能である。そしてこの3つは、適切な法律と政策がなければ不可能である。このように、4つすべてが実現されるためには、社会の認識が最も重要だ」。これが、NCPEDPが主要5分野、つまり啓発、アクセス、教育、雇用、法律、で同時に活動していた理由である

NCPEDPは、ビジョンを共有する為にネットワークを広げることを決めた。最初に、国を5地域(東西南北と東北)に分けた。それぞれにコーディネーターが任命された。そして1999年に、権利擁護推進のため、NCPEDPは連邦直轄地域を含む全州のパートナーと協力し、障害団体ネットワークを創設した。これは全国障害ネットワーク(NDN)と呼ばれた。NDNは、現在、インドの320県にまで広がっている。NCPEDPはまた、自分たちのネットワークを通して啓発を進めるだけでなく、障害を自分たちの政策や制度にくみ入れるために、特に教育、雇用、建築、情報技術、人権、そして法律の分野のトップ団体と、分野を超えてパートナーシップを発展させた。

NCPEDPは、情報は力であると考えてきた。NDNは、主に障害者に情報を配信するために使われた。送られた情報には、政策文書、研究報告、発生している様々な開発に関する情報、定期的なキャンペーンのアップデートなどが含まれた。これによって、変革の風が吹き始めた。キャンペーンや集会の報告、訴訟の活動情報までもが国中から寄せられるようになった。インターネットがさらに一般的となった2003年には、NCPEDPは大規模な情報伝達の保証を意図したウェブサイトで、「障害ニュース&情報サービス」なるニュース・サービスを開始した。

NCPEDPは、自分たちのすべてのキャンペーンで、メディアを対等なパートナーとして扱った。障害者に影響をおよぼす問題に気づかせるために、メディアに対して常に特別な配慮を行ってきた。結果として、国中の新聞やテレビが、NCPEDPが提供する問題すべてを取り上げるようになった。これは、障害者問題を社会に浮き彫りにさせるだけでなく、政策立案者にも大きなプレッシャーを与えた。

NCPEDPが引き受けた権利擁護キャンペーンの多くは、自然に始まったものであった。それらはニュースや寄せられた苦情から発生したり、また時には、手紙や電話などから扇動されたりした。しかし、キャンペーンで採用されたアプローチは、至って計画的に行われた。まずNCPEDPのスタッフが、問題点に関連したありとあらゆる情報とデータを収集し、非常に簡潔な報告書をまとめた。焦点を絞った研究は、NCPEDPの最大の強みになった。そして、望む成果を得るためにとった戦法は、体系だった計画に従った。まず、関連機関に手紙が送付された。先方から返答がなければ、キャンペーンは第2ステージに進展した。障害者コミュニティーやメディアを動員した、署名運動によるキャンペーンであった。これでも結果が出なければ、非暴力的座り込みや集会の形に強化された。最終的な戦術は、ハンガーストライキか死に至るまでの断食抗議であった。いくつかのキャンペーンで訴訟も起こした。大半の場合、NCPEDPの要求に同意する最終決定を行ったのは、担当大臣か首相によってであった。

NCPEDPの主要成果のいくつか

障害者にも教育の機会を:1998年に、NCPEDPは、インドの全大学の頂点にある大学認可委員会(University Grants Commission)に障害者の高等教育の機会提供について訴えた。結果として、二つの画期的な計画が提案された。一つは、「特殊教育の教員準備研修」であり、教員が障害学生に対応できるよう導入された。二つ目は、「特別なニーズを持つ人の高等教育」であり、大学や短大に障害ユニットを設置し、障害を持つ学生に対してアクセスや機器を提供するものだった。2004年に、NCPEDPは通常学校や大学で、障害者の教育事情を調べる全国的な調査を実施した。その結果に基づき、NCPEDPは、人間開発省の大臣に詳細な計画を提出した。その結果、2005年3月21日に、大臣は国会で、2020年までに、すべての教育機関が障害者を受け入れられるようにすることを提案した。人間開発省の政策に組み込まれたことは、障害者教育にとって非常に意義のある一歩であった。

障害者の雇用促進:NCPEDPは、障害者の雇用状況を大きく変えるために、商業組合との協力を試みた。インド産業連合は、この呼びかけに応え、1998年に連合の社会的課題として障害を取上げた。2000年には、いくつかの著名な情報通信会社の最高経営責任者を集めた会合を開いた。その結果、この会社の多くは現在、障害者を積極的に雇用している。2004年には、障害者に対し、行政機関は不当な差別を行っているとして、キャンペーンを実施した。障害者は、求人の対象にされないか、能力と経験より低いポジションに就くように強制されていた。NCPEDPは、正義と明確な被差別の政策を要求した。結果として、認定された職種のリストが見直され、障害者に適したものとしてより多くの業務が認められた。

公共施設のバリアフリー化:1999年、NCPEDPは、建築家の教育課程に障害を含めることと建築委員会を説得した。2001年にスティーブン・ホーキング教授が来印した時、アクセシビリティに対する注目が一気に高まった。NCPEDPは、障害者のアクセス問題を大きく取上げ、結果として、ホーキング教授が訪問を希望していたすべての歴史的建造物に、スロープが早急に付けられた。その後、インドの考古学調査会は、全国の歴史的建造物を、障害者も利用可能にするための方針を打ち出した。そして2004年に、NCPEDPは、アクセシブルな投票ブースという重要な戦いで勝利した。2004年4月19日、最高裁判所は、2004年の総選挙で投票ブースにスロープの設置を命じた。2004年10月1日には、点字電子投票機も試され、採用された。

適切な法律と実施によるエンパワメント:NCPEDが組織化した全国規模の主要キャンペーンの一つが、2001年の国勢調査に障害者に関する質問を含めるよう促したものだった。もう一つの画期的な成果は、2003?2004年の連邦政府予算に障害問題が含まれ、所得税控除額の引き上げ、障害者の支援機器や用具に対する関税の引き下げが行われた。もっと良かったことに、翌年は完全に撤廃された。NCPEDPによるその他2つのの政策的イニシャティブとして、国家人権委員会の議題、ならびにインドの第10次、第11次の5カ年計画への障害に対する適切な提言案に、障害者の権利を入れるということに関わった。ごく最近では、NCPEDPの直接的な働きかけの結果として、2007年10月1日に、インドは国連障害者の権利条約(UNCRPD)を批准した。

社会の意識変革の向上:毎年12月3日は、国際障害者デー(WDD)とされているが、1997年にNCPEDPは、「自由への歩み」と題したプログラムを導入してWDDに新たな意味をもたらした。障害者が自由を手に入れるために歩んだ長い道のりを表現した象徴的なイベントであった。NCPEDPは、NGOに国中で同じ様なウォークラリーを開催するよう促した。「自由への歩み」は、毎年の象徴的なイベントとなった。国際障害者デーは、障害者が祝うために集い、楽しみ、満足感を表わし、自分たちの集団の力を披露する機会とみられている。1999年に、WDDは全州および連邦直轄領が、共通のテーマとロゴを使用して記念することでさらに発展した。テーマは毎年新しくされ、NCPEDPは、ポスター、映像、テレビ・スポットを通して、そして、有名人に運動を宣伝してもらって、遠く広くテーマの狙いが行き渡るようにしている。

NCPEDPは、多くの課題に直面してきた。取り上げた問題の多くは、政府当局から強烈な反対を受けて、聞き入れてもらうのに長期の抗議を必要とした。インド政府にとって、障害は未だ優先事項ではなく、ほとんどの省庁で障害は議題に上げられていない。障害者をメインストリームに統合するためには、まだやるべき多くの仕事がある。アビディは、障害がさらに国の課題として格上げされるように、UNCRPDと第11次5カ年計画の実施を保障するために、全国規模の勢力を創り出そうとしている。このように、NCPEDPは無視できない勢力としてあり続けている。NCPEDPの影響を直接的、間接的に受けて、広範な障害権利運動の課題を前に進めている多くの若手リーダーがいる。

Javed AbidiJaved Abidi


ジャビッド・アビディ 43歳 1998年からインドのアショカ・フェローであり、全国障害者雇用促進センター(NCPEDP)の名誉所長、創立理事。 二分脊椎として生まれ、医療ミスで車いすユーザーとなった。それにも関わらず、インドの6,000万人以上の障害者に対する政策活動と経済的機会の提供に影響を与えた。

NCPEDP: National Centre for Promotion of Employment for Disabled People
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