(1)「重度包括支援サービスによる在宅療養支援の在り方について」
川口有美子
1 調査概要
2008年6月から12月にかけて、日本各地で重度包括支援サービスのモデル事業が実施できそうな施設と事業所を探したが、結局は見つからなかった。
その理由は昨年報告したとおり、重度包括支援のほうが重度訪問介護よりも単価が安くなること、施設内では医療的ケアや特殊なコミュニケーションを必要とするALS療養者の受け入れが困難であること、移動にかかるコストは事業者の持ち出しになってしまうこと、などが筆頭に挙げられる。
そこで、研究者は直接下記に列挙したような支援を行い、各地でALSに支援をおこなっている団体を重度包括支援サービスのモデル事業へと誘ってみた。
① 中野区では、自治体に協力を仰いで中野区総合保健施設「江古田の森」施設で、呼吸器前の療養者に対するサービスの説明会をおこなった。
② 京都では、医療保険で難病デイケアに毎週4日通院しながら、在宅では重度訪問介護サービスを利用しているNPPVの男性独居者に対して参与観察をしながら、重度包括支援サービスの可能性を探った。
③ 岩手県盛岡市では、週一回身体障害者通所施設に通いながら、在宅ホームヘルプサービスを利用している男性患者に対して制度利用を促し、重度包括支援サービスの可能性を探った。
しかし、いずれの地域でも、ヘルパーの医行為や人員補充については模索中であり モデル事業には至らなかった。現行の重度訪問介護の低単価、医療行為、ヘルパー不足が解決されないうちには、さらに高度な連携や技術が要求される重度包括支援サービスは、非常にハードルが高いということであった。
ただし現在、サービス提供者側が抱えもつ問題、重度訪問のヘルパー不足や地域医療との連携、独居患者の支援などは、包括的支援の枠組みの中で解決される可能性もなくはない。
2 重度包括支援サービスによって、改善可能性のある課題の選別
2-1, 提案1、病院から在宅移行時における包括的サービスの利用
2-1-1,現状
現在、重度包括支援では在宅サービスと施設系サービスを併用することになっているが、居宅支援サービスと重度訪問介護サービスを分け、ふたつのサービスとして認めている京都市では、在宅系サービスのみでも連携ができていれば、重度包括支援の利用を認める体制である。それで、独自に重度包括支援の説明書を作成し、市内に配布しているが、まだ利用には至っていないという。担当者によると、単価の安さ、宣伝不足、包括支援のメリットのなさなどが利用されない要因として挙げられた。
介護派遣事業者の多くが、吸引等の医療的ケアを行わず、そのような地域では、ALSで在宅療養中の呼吸器装着者も少なかった。そもそも、地域に国立病院があり、筋ジストロフィの長期療養者の多くは永久入院してしまう。またそのような地域では、医師会や看護協会などの医療機関が、ALSの介護負担の軽減についての問題意識が薄く、そのため地域では、連携もほとんど取れていない状況にある。 このようなことから、まず、第一に地域での医療と介護の連携を促進し、その上で、重度訪問介護の利用促進が行われるべきであると考える。
そのため、親身な家族や友人のいない独居者などは、一度入院するとなかなか退院できないか、あるいは善意の保健師やケアマネ、訪問看護師らの業務外の負担になっているケースである。在宅移行に関する支援は、病院でMSWや地域のケアマネが行う一般的な相談支援とはまったく異質のものであり、患者や家族のアドボカシーとして地域のあちこちに出かけていき、場合によっては患者の立場に立って代弁し、交渉するなどの行為まで求められることもある。
2-1-2, 包括的支援による可能性
専門性を問わない相談支援のための介助サービス(書類作成、役所への提出、引越し準備など)を、重度包括支援の対象サービスとする。
2-2, 提案2、非侵襲的人工呼吸療法(NPPV)開始から給付の対象
2-2-1, 現状
現在、重度包括支援サービスⅠ類型では、重度の進行性疾患全身性麻痺障害で、言語的コミュニケーションが困難、気管切開し人工呼吸療法を行っている者に限られている。これは医師法17条との関係から、ヘルパーの医療的ケアが制度上は評価できず、その代わりとして、意志伝達の困難と障害の重症度が評価されていると考えることができる。
しかし、重度包括支援の評価対象像とされる重度コミュニケーション障害も、呼吸麻痺に起因する危険性も、ALSに限っていえば、その対象になるかなり前から始まっている。したがって、現実では15%加算にならない重度包括支援対象前の、気管切開前後のNPPV患者に対する支援が、もっとも欠如しているといえるのである。
NPPVとは非侵襲的な人工呼吸器をさす。取り外しができる呼吸器であるため、TPPVと呼ばれる気管切開による半永久的な人工呼吸療法よりも気楽に使いだせる。しかし、ALSの場合は、必ずTPPVへの移行が必要になる時期がやってくる。
NPPVの患者は、まだ日中は呼吸器未装着で身体機能もわずかに残されているために、残存機能の維持に本人は大変に積極的である。動きたい要求が大変に強いが、筋力のない身体を支える介護には、相当の力と技術が求められる。そのため、常に転倒、窒息、誤嚥の危険がある。また、この時期に夜間の非侵襲的人工呼吸療法が開始されるが、その脱装着にも介助がなければ、リークや気管への唾液の垂れ込みなどの際に、大変危険である。食事もまだ口から食べることができるが、介助がなければ食べられない。しかしそれも時間を要するため、介護保険の身体介護3でも、時間内(1.5時間内)に終えることができない。
しかし、この時期になると、主になる家族介護者も仕事を続けられなくなり、家族全員が人生の岐路に立たされてしまっている。いわゆる、「非侵襲的呼吸器から侵襲的呼吸器への移行」に伴う生活激変期の患者家族に対する支援のあり方は、これまで幾度となく問題にされながら解決しがたく、支援困難な時期でもある。また、この時期の支援は制度化されていないインフォーマルな仕事も多いので、家族やボランティアがいなければ安全に在宅療養へ移行することができない。
2-2-3, 包括的支援による可能性
ALSではNPPVの時期がもっともクリティカルである。
介護保険では要介護度3~5.自立支援法でも障害程度区分では5であるが、最重度ではないため長時間の見守りサービスが利用できない者もいる。利用者と家族が長時間介護の必要性に気がついていないことも多い。
ここに、重度包括支援サービスによる施設利用と見守りの併用ができれば有効である。
どうしても閉じこもりがちになってしまうが、週に何度か療養場所を変えることにより、家族のレスパイトと患者の外出支援も図れるなど、めりはりのある連続した長時間の見守り介護が制度により可能になる。
小規模市町村では、地域の施設利用が活発に行われているが、施設内では医療的ケアがネックになり、ALS療養者が単身でデイに参加することもあまり行われていなかった。
そのため、ある療養者は家族を伴って施設通所し、家族にとっても気分転換にはなっていたが、家族の代わりに有償ボランティアを利用したいという本人の希望も強くあった。あるいはまた、施設職員が医療的ケアやコミュニケーション支援全般を学ぶことにより、ALS患者も安心して身体障害者施設への通所ができるようになるはずである。
そのためには、まだ会話が可能な時期から定期的に近隣の施設を利用し、施設職員と信頼関係を築いておくことが望ましい。
その後、呼吸筋麻痺が進行して本格的な長期人工呼吸療法を開始したとしても、そのまま続けておなじ施設を利用することも可能になるかもしれない。
重度包括支援サービスの対象像を、非侵襲的人工呼吸療法の者にまで押し下げ、その病態における窒息や転倒の危険性を評価して、有償ヘルパーが同行しての施設利用ができるとよい。
2-3, 提案3、ALSのためのグループホーム
2-3-1, 現状
ALSのグループホームや、家族も居住できる多機能型集合住宅の希望は多い。看護師が自己資金で立ち上げた(買い取った)難病小規模施設は、昨年調査済みである。これは福祉ホームに賃貸入居し、看護介護サービスは訪問サービスを利用するという形態である。しかし、昨年も問題となったように介護保険サービスしか利用できないため、外出も滅多にできず、排泄介助や吸引も時間で決められるなど介護量は不足している。
2-3-2, 重度包括支援サービスの可能性
対象者がグループホームのような場所で、包括的な介護支援を受けて生活できないだろうか。
原則24時間の見守りと外出支援や身体介護には二人体制の介護が必要である。これらを自宅でそれぞれ行うとどうしても、24時間以上の介護者の滞在が必要であるが、少人数のグループホームでは、家事援助や見守りなどで、集約的なサービスも可能になる。
常時見守りが必要なALSを含む身体障害者2、3名用の重度包括支援を利用した住居を構想してみた。 ALS患者用住居(個室2か3、介護者待機室1、中央にリビングルーム、台所トイレ風呂は共同)、常勤(寮母)3名(交替で1日8時間勤務、)。各利用者の介護は有資格者と無資格者の組み合わせで介護保険と重度包括支援で、外部の事業所が行う。仕事の分担は全員の介護と施設での一般家事、事務等は常勤者が行い、個別の身体介護、見守り、外出支援、入浴介助はヘルパーか有償ボランティアが行う。1日複数回の訪問看護ステーションによる訪問看護、週1~2回の入浴サービスを外部から受ける。建物と管理者は国か自治体が用意をし、施設サービスと在宅サービスを利用。 |
人件費(介護にかかる人件費のみ) 入居者2名~3名の場合(最重度の呼吸器装着者と遷延性意識障害者の組み合わせなどで調整) 常勤30万~/月。呼吸療法のALS在宅介護の経験のある者3名のシフト制。月90万円~。 非常勤のヘルパーは無資格でもよく包括で100~300万円。 入居者2,3名に対して、介護にかかる手当て月190~390万円(介護保険込み)で運営する。 *利用者の家族で介護を希望する者は、家事か補助ヘルパーとして1日8時間を限度に採用。身内の場合は安くてもよい。 *無資格者も多く採用してコストカットを図る。経験次第で昇給。 *入浴サービスや福祉機器レンタルは集約的にサービスを提供できるので1,2割ほど安くしてもらう。 *施設コストとして部屋の賃貸料、食事光熱費等にかかる費用は別途。自己負担有り。ALSは人口10万人につき2、3人の割合で発症する。たとえば中野区30万人特別区なら、3箇所を区内に設置し、長期療養できるようにするとよい。最重度グループホームのイメージである。 呼吸器装着者は室内ではほとんど移動をしない。外出時のためにベッド周りと玄関、廊下が広ければ、施設は普通のマンションでも一軒屋でも、特別な住宅改造をせずに、借りて利用することができる。(橋本操宅を参照) 独居者のためには生保でも入居できることが重要である。 |
上記のプランはぜひ実施してみたいが、場所を持たない事業所ではモデル事業も困難。マンションの契約や年間の賃貸料、建物の改造などにかかるコストの助成をおこなう必要がある。 |
2-4, 提案4、有償ボランティアからパーソナルアシスタントやヘルパーへ
2-4-1, 現状
現行の重度訪問介護では、当事者が望んだヘルパーをマイヘルパーとしては任命できない。実地研修には半年以上もの時間がかかるが、その間は二人体制になるためいずれかの報酬は請求できないのが事業所の負担になっている。医療的ケアの実施も、現在はヘルパーと利用者個人との契約になっていて事業所の責任は問われないが、万が一を考えて、事業所がALSを倦厭する理由のひとつである。
支援費制度以前は、一部のALS患者は全身性障害者介護人派遣事業を利用していたが、この事業では、ヘルパーは資格を問われず、採用した日から自由に使うことができた。そして、利用者が自分の責任でヘルパーに介助方法を教えた。そのために研修コストはかからず、医療的ケアの責任の所在も当事者にあった。当事者が自己責任でヘルパーを使っていたのである。その頃は、介護事業者が介在しなかったため、プランの変更も柔軟にできた。今日休む代わりに明日の朝来るなどということが、電話一本で当事者と利用者の間のやりとりで行われていた。それにヘルパーも利用者を選んでいたので、利用者が一方的に傲慢になることは滅多になかった。もしそうなったとしても、ヘルパーは自分から介護を辞退することができた。しかし、現在は事業所の業務命令に従わないといけない。医療者とヘルパーとの関係がこじれても、仲介しなければならないサービス提供責任者のストレスは大変なものになっている。しかも、ヘルパーの欠勤には代行者を探さなければならないが、ALSの介護は誰にでもすぐに対応できるわけではないので、限られた人の中から代行者を見つけなければならない。これは相当困難である。
事業者による介護派遣は当事者にとって楽な部分も多いが、当事者の責任が見えにくくなり、事業者の負担は大幅に拡大した。その結果、重度訪問介護の事業者数は伸びず、利用者も弱い立場にある。
2-4-2, 包括的支援の可能性
包括的支援の第一のメリットは、無資格者に対する支払いができる点である。
また、二人体制以上の介護ニーズに対しても、ボランティアを利用すれば柔軟な実施と支払いが可能である。反面、デメリットとしては、より良いサービスを目指せばそれだけ、持ち出しになるので、事業所の利益が減るという矛盾も生じる。
解決策としては、たとえば身体介護や移動介護など見守り以外のケアについては、単独で請求できるメニューを一部残しておき、包括的請求で生じる問題を回避する必要がある。
重度訪問ヘルパーの不足が言われるが、当事者が一般市民に呼びかけ、自分のヘルパーを自分で確保し補充する活動に対して、支援するNPOがあるとよい。そのNPOではアドボカシーに関する様々な情報と資源を提供する。包括支援の相談支援専門員の所属先に当事者のエンパワメントを行う非営利機関を併設し、ヘルパーの雇用や年金等の金銭管理、ケアプラン作成についてアドバイスをするとよい。
3、相談支援専門員の役割
京都市内の独居患者に対する参与観察と支援から、発症から呼吸筋麻痺に至るまでの、相談や支援の量と内容とが明らかになった。
しかし、その膨大な、毎日必要とされる仕事量を、誰がどのように行うのかは不明であったため、しょっちゅう支援者の間で混乱が起きた。高齢難病で身体障害者であるALS療養者は、難病事業、介護保険制度、障害福祉、医療保険などから、同時に支援を受けることができるが、それぞれ異なる領域の専門家が領域を争って支援する状態にあるか、あるいは遠慮しあって何もされていない状況のいずれかに陥りがちである。
従って、相談窓口の一本化と、総合的で包括的、柔軟な支援が望まれている。
しかし、相談支援に関する事務手続きは、できるだけ簡略にしなければ、月に何百時間も制度を使う者のケアプランを立て、調整するのは支援者の苦痛になりかねない。
また専門知識がいらない支援も少なくない。その代表がピアサポートである。入院中の当事者は外出困難なので、代理者の実働が求められているが、その点で重度訪問介護のヘルパーなら事務手続きの代筆も含む実質的な支援ができる。特に重度包括支援に期待される相談支援の内容については、京都班が調査し結果をまとめた。
(2)「24時間介護の必要な長期療養の重度障害者の退院支援とケアホーム構想について」
伊藤佳世子
障害福祉サービスの事業所を営む報告者は、今年度千葉市で二人の筋ジストロフィー(以下、筋ジスという)をもつ長期療養者の地域移行支援を行った。その事例について報告しつつ、今後の選択肢として検討している重度障害者のケアホームの構想を報告する。
1、長期療養者の地域移行支援
筋ジスは長期療養ができる専門病院があり、それは旧国立療養所1で、現在は障害者自立支援法上の療養介護指定を受けた施設となっている。大方が診療報酬の区分でいう障害者病棟などである。平成20年の診療報酬改定でも障害者病棟の診療報酬は出来高払いを維持している。これらの病院の多くが積極的な在宅支援を行っていない。障害者自立支援法は障害者基本法に則ってつくられているが、自立と社会参加という理念からは地域移行支援は当然だが、現在のところはあまりなされていない。施設職員たちは、在宅の制度さえ知らないことが多い。
報告者は長期療養を行う筋ジス患者にアンケートをとっている。そこでのデータなどを紹介する。また、もっとも報告者に多くの情報提供してくださったR氏の願いは「病院からでたい」ということであったので、彼女の思いが実現できるようなアクションリサーチを行ったので紹介する。
1 現在の独立行政法人国立病院機構である。
1-1, 方法・対象
病院や施設を出て自立生活をされている方を対象としたアンケート調査2、また、アクションリサーチを行った3ここでのアクションリサーチは、参加型アクションリサーチというかたちで行った。具体的にはある筋ジス患者の平成19年7月から平成20年4月に地域生活移行するまでの支援プロセスの記録と平成20年12月に病院を退院した方の支援の記録である。報告者が社会資源となり、ニーズをうめる支援を行い、その支援について時系列で起こったことをメモし、課題や反省点などを定期的に記録した。そこから、困難がなぜ起こったのかなどを振り返って分析した。
1-2,調査期間
平成19年7月から平成21年3月にかけて行った。
長期療養生活を送る15人の患者のヒアリング、長期療養生活の後に24時間他人介護で独居生活をする方4人のヒアリングを行った。また、複数の療養患者と独居生活をする方へのEメールによるアンケート調査を行う。
R氏の調査では、家族は同じ病気の兄がいることもあり資金と介護の援助ができないという主張をしており、家族からの介護面と金銭面などすべての支援を受けることができない。フォーマルな支援のみで自立生活への移行となるので、制度の実情が明らかになりやすい面があった。M氏の調査では医療的ケアをめぐる医療と福祉の連携の困難さが明らかになる事例であった。
1-3,ヒアリング、アンケート調査の結果
○長期療養生活を送る15人の患者のヒアリング
・ 環境さえ整えば、病院を出て地域(自宅)に帰りたいか? はい 13人 いいえ2人
・ 病院から地域生活に移行するに当たり不安なことはどんなことか?複数回答可
① 介助者がきちんといるかの不安 ② 金銭面の不安
③ 具合が悪くなったときの不安
○長期療養生活の後に24時間他人介護で独居生活をする方6人のヒアリング
・ 病院に戻ることに抵抗はありますか? はい5人 分からない1人
・ 病院を出て変わったことは何ですか?
多かった回答:自分の時間がつかえるようになった
介護環境が整えば多くの長期療養の重度障害者は病院を出たいと言っている。その時の不安としては、介護者、金銭面、具合が悪くなったときである。介護者については重度訪問介護などを利用し、確実な派遣をお願いすれば足りると思う、金銭面は障害福祉サービスにも上限があるし、障害年金や独居であれば生活保護で生活は可能と思われる。また、具合が悪くなったときは在宅医、専門医、訪問看護とホームヘルパー事業所などと連携がきちんと取れていれば可能と思われる。
課題としては、介護者不足といわれる中で、介護者が確保できるかということと、在宅医と専門医の連携はどこもそううまく言っているわけではないという問題がある。
2 3箇所の自立生活センターに依頼し、15名に施設や病院を出て自立生活を始めた方を対象にその違いや、出るに当たって困ったことなどに答えてもらった。
3 アクションリサーチとは、心理学、教育学、組織論で発展してきた実践的な手法であるが、それぞれ少しずつ違う。しかし、共通している点は「アクションリサーチは当事者の力づけによって社会実践の改善を目指すための一連の研究活動である」というところであると、草郷孝好(2007;254)は言っている。
1-4,アクションリサーチ
アクションリサーチでの調査対象者は、8歳から約30年間筋ジス病棟に入院している脊髄性筋萎縮症SMAⅢ型(クーデル・ヴェルグランダー、略してK-W)をもつ37歳の女性R氏である。
○アクションリサーチの調査対象者の紹介、概要、R氏について
R氏は父、母、兄2人の末っ子として昭和45年に生まれる。彼女は3歳のときに、大学病院の神経内科医から筋ジスと診断される。確かに、身体障害者手帳にも筋ジスとは書いてあったが、実際は筋ジスではなく、脊髄性筋萎縮症である。R氏の母が妊娠したとき、同病の兄がいたために、また同じ病気の子供を生むかもしれないと思い、このまま妊娠を続けるかを躊躇し、遠方の産婦人科病院で堕胎の手続きまでするが今日は先生が居なくてできないのでまた明日来てくれといわれて、出直すのが面倒になり、堕胎をやめたという。その後、産まれたのが女の子で、それはとてもうれしく、特にお父さんは毎日かわいがっていたという。小学校1年生まで地元の小学校に通い、家族と暮らしていた。学校の入学は母が授業中も付き添うことが条件であった。当時、彼女と他の子どもとの違いは歩くのが遅いくらいであった。2年生に進級したところから、学校からの勧めもあり、養護学校に通うこととなる。R氏が入ることになった病院併設の養護学校4は入院が原則であるし、そこまでの送迎を親が毎日するのは大変であったので、転校から当時まだ8歳だったR氏の療養生活が始まる。R氏は12歳まで歩行していたが、その後病気の進行により、歩くことが困難になり、電動車いすとなる。車いすに乗る頃は、過酷なリハビリや歩くことからもう開放される喜びでいっぱいだったという。養護学校高等部を卒業する頃、学校の教員から就労支援も、大学進学の話もなく、そのまま病院で療養生活を続けることになる。R氏は大学にも言ってみたいと思ってはいたが、それは選ばれた人たちのことで、自分などは到底願いのかなわないものだと思っていた。
R氏は筋ジスでも進行が遅い型であるが、筋ジス病棟にはデュシェンヌ型などの進行が早い型5が多いため、たくさんの友の死を見てくることになった。彼女は男性ではないしデュシェンヌ型でないことも分かっている。10代や20代で死ぬことはないだろうけど、死はそう遠くない未来にあると考えていた。変わり映えのない日々の中、ずっと病院を出たいとは思っていた。思ってはいたものの、具体的にはどうしてよいかも分からなかったし、ずっと病院にいることがいいことだと言われてきたことに逆らうほど社会を分かっていなかったという。また、1、2ヶ月に1度の外出のためのボランティアでさえも探すことが容易ではない中、病院を出て自分の介護者を毎日募ることは到底無理だと諦めていた。
4 現在、「特別支援学校」と名称変更。
5 筋ジストロフィーの主な型 デュシェンヌ型、肢体型、
1-5,調査対象者の主な困難
・ 体の障害と病気について
現在の障害の状態としては四肢・体幹機能全廃、しかし指先や手首くらいまでは少し動くことができる。また、言語障害がない。車いすには長く座ることができる。座位はコルセットなどの補助具をつければ、4~5時間くらい可能である。今のところ嚥下機能の低下などはない。10年近く機能低下の目立った進行はないと思われる。介護方法はさほど難しいわけではないが、筋ジス特有の介護方法である。具体的には体のバランスをとるのが難しいので、首や手足を数センチ単位で調整する。 30年間の療養生活と言っても、病気の治療をしているわけではない。毎日体温だけは測った。また、医師と病気の話をすることも年に1、2回風邪を引いたときくらいである。年に一度、検査をするくらいであとは特に治療はしていない。
・ 生活における問題
7歳から30年に及ぶ病院生活において、社会経験が欠如している。患者という立場でしかなく、一人の責任ある人間主体として物事を判断したことがないこと。病院の中の人間関係のトラブルなどは全て病棟の職員を通して解決してきたこともあり、自分で困難に対応するといった経験がないという。 更に、ほとんどカーテンで仕切ることのない4~6人部屋におり、まったく一人で時間をすごしたことがない。そのため、いきなりアパートでの独居になりヘルパーと二人きりは不安だとR氏は主張した。壁を作らないでほしいという。家事を横で見ている経験もほとんどなく、生活をどうつくればよいのか分からないから不安であるという。
食事はいつも病院のなかで出されているし、洗濯や掃除もすべてやってくれるので、生活の設計が自分ではできない。生活費にはどういったものが必要なのかを想定することが難しい。病院では外出の支援はないし、学校も廊下でつながっていて病院に併設されていたために、路上を一人歩きはもちろんそう多いわけではない。介助者を探して外出の際に介助をお願いして外出する経験も月1回程度である。そのために、病院側は年齢相応の社会的経験が欠如しているために、彼女には判断能力がないとしている。また、R氏は生活をつくっていく自信がないと言っている。でも、生活をつくることを悩みたいとも言っている。
30年間流れ作業的な介護を受けてきており、受身的にすごしているので、能動的に動くことが難しいとのことである。支援者による意志決定を促すための積極的な介入がなければ、R氏の自立生活は困難であった。
そんな中、2007年7月、彼女は「私は来年春に退院をします」と、病院にはっきりと伝えたという。このようなことは今までもち得なかった強い彼女の意志だった。そうして、彼女は支援者と思いの実現に向けての行動を開始した。
1-6,R氏の病院での経済状況
・ R氏の病院での社会保障制度の活用状況
① 身体障害者:四肢機能障害、身体障害者手帳1級認定(昭和48年3月認定)、障害基礎年金1級(年間99万100円)を受給する。
② 重度心身障害者医療制度による医療費の助成を受ける。
③ 障害者自立支援法施行後の療養介護指定を受けた病院の中の福祉施設にて療養介護を受ける。
・ R氏の病院での経済状況
(収入) 月約82000円の障害基礎年金、
(支出)
① 病院での支払い(平成19年7月)
○障害福祉サービスに係る費用
介護給付費総額(療養介護) 265670円
自治体等請求額 241070円
利用者負担額計 24600円
○療養介護医療に係る費用
療養介護医療費総額 609150円
保険者等請求額 594040円
利用者負担額計 15110円 (償還払いで返金)
○食事療養費総額 59150円
保険者等請求額 44750円
利用者負担額計 14400円
② 有償ボランティアさんに外出、身の回りの世話を依頼。一時間700円(近隣のNPOがやっているサービス)×必要時間
③ 電話代、雑費で1万円程度かかる。
これまでR氏は上記のうちからあまった数万円で、月に1回外出をすることが楽しみであった。ボランティアさんや有償ボランティアさんの食事代や宿泊費、交通費、入場料なども全部払うために6、外出にはいつもお金がかかる。また、市外に出るには介護者を2人以上つける必要があった7。しかし、たまの外出が生きがいであったため、常々お金を貯めようと思ってはきたが、貯金は中々困難であった。また、生きがいの部分には制度的な支援はない。
6 病院の中でボランティアを使う場合のボランティア委員会の中での決まりにより、ボランティアとはこのような関係になっている。
7 病院の外出の規則による。外泊届けは、外出する当日の1日前までに(土日は受付はない)、行き先、時間、付き添い者、食事の欠食や雨天はどうするのかなどの項目を外出許可書を療育指導室へ提出し、サインをもらって、医師からの承諾を得る。
2, 退院し在宅へ戻るまでのアクションリサーチ
以下で、在宅移行時の問題点を時系列的に記述する。その後、そこから在宅への移行に壁となる部分を明らかにしていきたい。
2-1,病院を出る思い
まず、在宅で暮らそうと思ったR氏の思いを聞いてもらいたいと思う、そこにはR氏の病院を出て在宅独居に対する強い希望が思いが伝わってくる。
R氏の思い。(平成19年10月に自立をするための介助者を集めるためのビラにかいたものからそのまま引用)
「私は29年、病院生活をしきました。病院で生活していると自分の思いや考えを言う機会が少なく、いくつになっても子供扱いされてしまいます。決定権は、私にありません。医師や看護師やその他のスタッフに委ねられます。小さい頃から患者さんという役割しかなく危ない事・責任のかかる事からは遠ざけられていました。それに甘えてしまえば楽ですが、時々そんな自分が悲しくなります。私という存在が、そこには無いからです。私は、患者の○○(※)ではなく『○○』になりたい。無機質・無色じゃない生活・・・食事を楽しんだり、洋服を選べる喜びだったり、仲間との交流や娯楽だったり趣味を満喫したり時間を気にせず彩り豊かに生活をしたい。喜びはもちろんですが、痛い失敗や苦い思いも経験したい。自分らしくイキイキと生きたいです。『したい』『やりたい』という思いがたくさんあります。これらを実現させるには、病院にいては無理です。社会に私達の役割をみつけ地域で暮らしたい。そこで、私は自立生活を目指す事にしました」※○○は個人名
R氏は長く療養生活を営んできていたために医療職、施設職員、家族以外との接点がない。病院以外の社会経験もない。先も述べたように、医療者側には筋ジス患者は年齢相応の社会経験がないために、生活の諸問題への判断能力がないといわれていた。そのためか、彼女が病院を出ることを決めたときから、「あなたは騙されている」と病院のスタッフに毎日のように言われてきたという。
病院から出ることは支援者の「そそのかし」であり、さらにその責任は当事者ではなく、支援者たちにあるという重たい空気の中、アクションリサーチが始まる。
2-2,病院を出るプロセス
<平成19年9月~12月>
R氏は平成20年4月退院を目指し、病院から行政機関へ行くことや不動産探しなどの細かな支援をしてくれる介助者を募る必要があった。彼女のそんな悩みを聞きつけて近隣のS大学のY先生が学生のボランティア集めに協力するために、Y先生の障害者福祉論の授業の時間にR氏が自ら赴いて講演する機会をつくってくれることとなった。そこで、自立生活への協力者を募らせてもらった。そこで一人の看護学生との出会いがあり、その後も継続的に協力してもらえることとなる。
この時期に、24時間他人介護を実現している3人の患者から、アドバイスを受ける。そのうち一人は16年間筋ジス病棟で生活していた経験があり、24時間人工呼吸器を装着していた。彼を見た瞬間、急に自立生活が身近になり、自分も病院を出られる気持ちになったという。自分は何をグズグズしているのだろうとも思ったという。彼は兵庫に住む男性でデュシェンヌ型の筋ジスをもっていた。呼吸器を車いすに乗せて、日に焼けた姿で彼女の前に登場した。同席した会場でのパーティーではお酒も少し飲んでいた。「自分も5年悩んで、病院を出たんや。色々不安やったし、病院の中にいると、分からなくなることがあってな。出たらな、生活は大変やけど楽しいわ。洗濯して、取り込むのを忘れて、びしょび濡れになったこともあったし、色々知らんことだらけでな。けど、慣れるとおもしろいもんやで」「なんでも相談に乗るで、いつでも連絡しといで」そう言ってくれたという。こんなデュシェンヌ患者はみたことがなかったそうだ。病棟にいる患者たちはみんな、顔色は真っ白だったり真っ青だったりして、元気はなかった。彼から色々な生活の失敗談を聞く中で、初めはヘルパーさんが気を利かせて洗濯物を取り込んでくれないのが意地悪というか仕事のできなさに感じていたが、こう言うことが生活なのだと思うようになったという。病院みたいに、看護師同士の申し送りで自分たちの生活を管理しているのとは全く違う常識がそこにはあった。そんな介護者とのやり取りは大変そうだけれども、生活を自分でつくることなのだと認識していった。
報告者のアクションリサーチとしては、相談支援事業者8に病院を出るための方法を聞き、実際に出るための準備も手伝ってもらえるように、R氏に電話をかけるようアドバイスをした。その後、地域の相談支援事業者は一ヶ月に一度くらいずつ病院に話をしにきてくれるようになった。相談支援員は病院を出るという支援はしたことがないし、どうしてよいのかはよく分からないとのことだった。どこに住むのかを決めて、その住まいの近くのヘルパーステーションに相談することと、どのような介護を頼むのかの介護計画を立てることをアドバイスしてくれた。
どこに住むかを考えていく中で、障害者が地域に生活できるような活動をしている団体である全国広域協会9にも連絡をしてみた。そこでは、未だ24時間の他人介護を出していない市町村を選んで、交渉するべきであるというアドバイスをもらう。ひとまずどこがどうなっているのかもよく分からないため、相談支援事業者から重度訪問介護を引き受けてくれるというヘルパー派遣事業所の紹介を受ける。そこから、その派遣事業所の近隣に引越しをすることで話を進めていたのであるが、突然、12月の最後の週にそこの事業所が来年2月末で閉鎖することになったと連絡をしてくることになる。ここで、話は振り出しに戻ってしまう。
R氏はすでに病院側には来年春には退院の旨を伝えてあった。病院の療育指導室という福祉部門に退院の意志を伝えても、期待通りの反応は返ってこなかった。なぜか、かなり慎重な姿勢であった。いつもどちらかと言えば病院の中でも患者側に近い立場である彼らがなぜそんなに喜んでくれないのかの理由は分からなかった。また、ほかの患者の親たちもこの話については怪訝な顔であった。口では「すごいね、頑張って」と言われることもあるのだが、何か大きな反対勢力を感じていた。それが具体的に何かは分からなかったという。そんな経緯がある中、話が振り出しに戻るというのはかなりの衝撃で聞いた。一度、病院を出ようと思ったとたん、病院にずっといるという気持ちはもうなくなっていたという。
このアクションリサーチは中途半端で終わってしまう恐れがあった。研究として彼女に関わっている私は単に「重度訪問介護サービスを引き受ける事業所が少ない」として、重度障害者の地域移行を妨げる要因を明らかにしてもよかったと思う。しかし、彼女を傍観するだけではアクションリサーチとはいえないと考え、重度訪問介護サービスを引き受ける事業所を作ることにする。このようなアクションを起こすことにより、その数ヵ月後にもう一人、病院からの自立生活を行う希望者が出て、実際に支援を始めていることもあり、効果的なアクションであったという感触がある。しかし、研究というよりは活動に近いこともあり、彼女たちの人生を変えてしまう大きな取り組みにもなってしまう。そう言う意味で、研究として第三者としてあるというよりは、一つの当事者となっているという面もある。客観性にかける記述になりかねない。
9 全国広域協会HP http://www.kaigoseido.net/ko_iki/index.shtml
彼女は「一度、病院を出たら、二度と入れない」状況の中にあり、病院側は受身的な対応のみにとどまっている。
これから報告者がつくる事業所にヘルパーが集まるかも分からない。新しく住むところでR氏の在宅医療の病院を探しても、見つかるのかも分からない。この先はどうなるのかも分からない不安だらけの中、怯むことなく、挑もうとする強い気持ちをただ一人彼女は持ち続けていた。
<平成20年1月~3月>
年が明けて、白紙状態のまましばらくが過ぎる。アクションリサーチ継続のためにも事業所の立ち上げをしなくてはならないけれども、その労力を考えるより、東京への引越して重度訪問介護を潤沢に受けることなどを考えたらどうかなどとアドバイスをしていた。
そこで、東京の某CILに掛け合うが、介護者不足であるという理由からしばらく待ってほしいと言われた。R氏の目標の来春はもうすぐそこに迫っていたので、報告者は重い腰を上げることにし、会社設立と障害福祉サービスの指定申請を1月末に行うことにした。準備には事業所が足りないC市は協力的であった。なんとか指定を出せるようにするから、急いで準備せよと、市の担当者がかなりの労力を費やしてくださった。
そして、3月1日、晴れて障害者自立支援法に基づく、障害福祉サービスの居宅介護、重度訪問介護、地域生活支援事業の指定を受けた事業所を設立した。
それにより、アクションリサーチは継続することになる。
3月1日をもって彼女は病院側に4月1日退院を伝える。また、住民票の住所地の市役所にも4月1日に退院することを伝えた。市の担当者は「一度出たら、もう病院に入れないかもしれません。よいのですか」と、聞いたという。彼女の自立の話は同じ患者仲間は、応援してくれている。しかし、話が具体化すればする程、病院側と親の会からは冷ややかな対応があった。それがどうしてなのかははっきりと分からなかった。「あなたは騙されてるわよ」、「一生面倒見てもらえるの?」そんな中、今度はアパートが見つからない。事業所の近くのアパートを当たってみるも、「生活保護を受ける見込みの人にはアパートは貸せない」「難病の人が一人で住むのは困る」と言われてしまう。電動車いすで入れそうなアパートがそもそも少なく、また、生活保護を受けるに当たって、家賃45000円以下という厳しい制約のある中での物件探しは容易ではなかった。もしものときに、誰かが駆けつけることができるようにするためにも、事業所の近くのアパートを探すことも一つの大きな制限となっていた。このような条件をすべてクリアしている住まいなんてないかもしれないと、半分諦めかけていた。良い条件のところには不動産屋側に「難病の人が一人で住むのは、死なれてたときに困るので駄目だ」と言われてしまう。
こうして、いくつかアパートの不動産屋に電話をかけていると、不動産屋側から事業所が住宅を借りて、住まう形をとるのはどうか、それなら空き店舗を紹介できるという提案を受けた。この提案をR氏に話したところ、二つ返事で了解が出た。会社が大家と直接契約をすること、R氏が住むことは良いが、24時間一人にすることはないという条件を大家さんが希望しているということであった。他に住めるところを選べなかったし、何はともあれ住まいが確保できたのは喜ばしいことであった。保証人は保障会社に依頼してみたが、断られた。その理由が何かは分からない。そうして、連帯保証人をR氏の家族にもお願いしなくてはならなかった。事業所と報告者が個人的に連帯保証人になったが、どうしてもR氏側からの連帯保証人が必要であるということであり、R氏の健常者の兄が連帯保証人となった。それにもかなりの説得を要した。こうして入居がきまることになる。
同時進行で3月には色々なことをしていた。以下に詳しく記載する。
・ 生活保護申請
R氏は2008年1月新しく住む地区の生活保護課に行く、しかし、新住所予定地の生活保護課では住民票が新居に移るまでは申請はできないといわれる。そこで、現在の居住地の四街道市の生活保護課へ行く。退院に備えて、居住地に引っ越すために、敷金礼金18万、家賃45000円の費用の捻出を相談する。入院しながら生活保護の決定を出すことは基本的に難しいと言われ、一旦は相談扱いにとどめられたものの、引っ越し費用がないことにはどうしようもないため、生活保護申請を行う。ケースワーカーには入院継続状態では却下となりますよと言われる。すでに療養介護を受けており、病院という住まいが保証されていることが理由であった。それでは、退院して新居に引っ越しをしてから、引っ越し費用をさかのぼって請求できるかを尋ねたら、それはできないといわれる。
そこで、病院側の療育指導室に療養介護を短期入所という形にしてもらえないかと依頼するが、そうなると神経内科病棟への一般入院という形しかないので、結局入院という形をとらなくすることができなかった。
よって、退院と同時に必要となる住宅のための費用確保を、入院中の生活保護申請から受給することはできないことが明らかになる。
それでも、生活保護申請を行うが、却下となる。生活保護のケースワーカーにC市の社会福祉協議会の生活福祉貸付金制度10をつかうように薦められる。ケースワーカーからも社会福祉協議会に電話をして説明をしてくれる。しかし、C市の社会福祉協議会では「今後、生活保護を目的に自立生活を行う人にお金を貸すことはできない」という回答で、金銭を借りることができなかった。逆に生活保護を受けている人が、そこから抜け出すためならお金を貸すことはできるが、このようなケースはダメだと言われる。そのために、ひとまず支援者にお金を借りることになる。
R氏は30年間の病院生活では、毎年支給された上下セットのスゥエットをベースにあとはブラウスを上に着ることが多い程度であった。たまの外出着は姪っ子からもらっていた。年に一枚くらいの服を買うかどうか位であった。もしも買ったとしてもなかなか着る機会もない。外出のときに着るくらいだった。病院では介護しやすく、破れにくい服を着ていた。病院内での家財道具は病院の消灯台と棚が一つ、それから、壁に大き目の棚があるだけだったが、これらは全て病院から借りているものなので、購入しなくてはならなかった。もちろんタンス、テレビ、冷蔵庫などはなかった。お金もなく、新居の住所地で生活保護を申請し、一時金をもらうまでは、家具すらそろえることもかなわない。そこで支援者のものを借りて使うことで何とか生活をまかなう。しばらくはダンボールに穴を開けて使う状態であった。
・ 相談支援事業者
病院の中にいる間は、病院の中の療育指導室がソーシャルワークをするという前提であったため、地域の相談支援事業者が一緒にアパートを探すなど具体的な動きをしてはくれなかった。また、彼女の地域の相談支援事業者は相当の件数をかかえている実情もあり、細めに電話したりお願いすることはかなわなかった。引っ越しのことや、引っ越してからのことを話すと相談支援事業はエリアがあるので、引っ越し先の相談支援事業所に引き継ぐということであった。それはR氏にとっては予想外の話であった。事前に話をするのは、なかなか時間が取れないということであったので、引っ越しの当日に新たな相談支援事業所に来てもらうこととなる。
10 他からの融資の受けられない所得の比較的少ない世帯、家族の中に日常生活において介護が必要な高齢者(65歳以上)や身体障害者(身体障害者手帳所持)、知的障害者(療育手帳所持)、精神障害者(精神障害者保健福祉手帳所持)のいる世帯の自立と安定に役立てていただくための貸付制度で、市区町村の社会福祉協議会が窓口となって運営している。
<平成20年4月>
R氏は退院日を4月16日水曜日に設定する。そのため、退院の一週間前に新居の場所へ住民票を異動することになった。住民票の異動日に、障害福祉サービスの申請ができることになる。ただしこの時点ではおおよその概算で出る障害福祉サービスの重度訪問介護の一ヶ月の時間数は200時間と言われる。あとの話は実際に退院をしてからになるということ。また、障害福祉サービスの審査会があるのが5月22日になるので、それまでは区役所で出せる時間数はそれほど多くはできないといわれる。事業所側はどれだけのヘルパーを雇ってよいのか見通しが立たない。その中で、病院から何人のヘルパーを用意しているのか、と詰問され、混乱は深まる一方であった。
また、R氏は生活保護課にも行くが、援護課の職員からは退院しなければ申請の受付をしてもまた却下になるだけだからと言われ、相談扱いになる。
居住地の近隣の訪問看護と往診をしてくれる病院に依頼するも、看護師は引き受けることは可能であるが、生活保護がどうなるのか分からないので、すぐに派遣はできないといわれる。更に、本人に会う前に30代後半の筋ジス患者は、病院に再入院をする時期であって、新たに地域生活をする年齢ではないと地域移行には難色を示される。
16日午前退院。午前中に退院の手続きを行う。新居のエリアの相談支援事業者に退院時に払う金銭の手続きをしてもらう。退院をしたその足で、生活保護課へ行く。生活保護課では住居の形態が完全なる独居でないので難しいなど指摘される。また、14日で審査することはできませんといわれる。その日から、病院に居たときと全員違う介助者で介助を行う。そのために、慣れている支援者の一人である報告者がR氏と一緒に約10名の新たな支援者に24時間分の介護の説明をしなくてはならなかった。筋萎縮症者の介護は一般的な介護とは全く違っていたために、介護者が不安にならないようにすることが重大であった。R氏は17日に近隣の病院へ行く。筋ジスは嚥下が悪い、毎日ネブライザーをつかうものであるという偏見があったが、「そのようなことは人により、自分は違うのだ」ということを、直接、在宅医に伝える。
退院当日に、区の障害福祉課から重度訪問介護の支給量を月295時間もらうことが決まる。
22日に関連の事業所とケース会議を本人主催で福祉サービスを提供者の方々を集めて行う。地震になったらどうするのかということ、火事になったらどうするのかという医療側の意見がつづき、あまり前向きな話ができず、R氏はかなりストレスをためることになる。そんなこともあり、R氏の疲れがたまってしまう。R氏のみならず支援者たちも退院から手続きなどで休まらない日々が続く。
その後3週間たっても生活保護課からは連絡がなく、訪問看護も往診もなく、家財も買えず、日用品を買うお金もない状況のまま日が過ぎる。経済的な見通しがたたず、困窮状態に、窮状を訴えに、生活保護課へ行く。
2-3,病院を出ることを阻害するもの
今までの経緯を踏まえ、R氏のような長期間にわたり療養をしていた方が病院から出て24時間他人介護の独居しようとする場合の困難をまとめる。
① 介護者の確保
病院側のソーシャルワーカーは退院に対しては不安もあり、基本的には反対していると言うことで受身的に対応をしていた。そのために病院側からの協力が得られず、連携のないまま、R氏とその支援者数人で新たな生活や介護をつくることとなる。R氏は退院したとたんに、全く知らない人から支援を受けることになる。新たな支援者も筋ジスと言う病気が分からず、どのような介助が必要なのか不安が募る。準備期間に病院内で介助者との顔合わせをしたり、少し研修はしたものの、全員にはできなかった。何時間のヘルパーの時間がつくのかぎりぎりまで分からず、ボランティアをしてくれる学生を集めるべきか、お金を払って働いてくれるヘルパーをお願いするべきか迷っていたのが一因である。ヘルパーをしている人たちは基本的にボランティアでは仕事についてくれないし、ボランティアさんは資格をもつておらず、どちらもできる人たちはほとんどいなかった。
② 病院を退院することへの偏見
R氏の病院を出たい、と言う気持ちとは反対に、大方の専門職が反対意見を述べている。生活保護課のケースワーカーは「このような長期療養のケースでは病院から出てもすぐに時間数を出せないし、病院を出てから独居することはむりなのだとおもいます」と言っている。家族も反対であった。R氏の兄は病院から出てボランティアで独居生活をしていたが、次第に介護者がいなくなり、暮らせなくなり実家に戻っている。その中で、独居を決意し、やり遂げることにはR氏は後ろめたさを感じていたとのこと。また、在宅の訪問看護や医療ソーシャルワーカーたちも「30歳後半の筋ジス患者は再入院の時期だ」と本人に会う前から述べていた。入院していた病院からの申し送りの情報からの判断であるが、主治医が「退院はとてもできない」と書いていたそうである。
主治医の意見は地域医療との連携を困難にしていた。
③ 経済的見通しが立たない
入院中に生活保護の申請ができないために、住居の確保ができない。また、往診なども保護の決定が下りるまで、来てもらえなかった。
④ 相談するところがない
病院を出て移転をすると言う場合に相談支援事業者の管轄問題などがあった。もしかしてこれはこの地区特有なのかもしれないが、包括的に個人を支援することができない状況にある。また、この病院の中には民生委員は来ていなかった。病院のソーシャルワーカーと言うか、主治医が退院を否定的に捉えると、医療と福祉の連携は一切取れなくなる。
2-4,制度上の困難
生活保護 | 障害福祉サービス | 相談支援事業者 |
---|---|---|
入院時の申請が不許可となってしまう | 独居先が変わるので、支給時間が退院まで不透明 | 管轄により、病院にいるときと退院後は変わった |
申請から決定まで一ヶ月以上かかる | 上記により、事業所側のヘルパーの確保の困難 | 病院内の支援が困難 |
居住場所に制限があり | 標準支給量を超えて、審査会にかかると時間がかかる | 多くの件数をかかえているため、まめな支援が困難 |
2-4-1,明らかになった課題
多くの長期療養者が病院を出たいことを考えている中、それが実現しないことには多くの原因があると思われる。制度上の問題と、家族や医師の主観による否定的な捉え方により、地域の連携を妨げてしまうことの二つの問題があるように思われた。
現行制度では、サービス提供側や専門職側のテリトリーの中で支援を行っており、本人を中心とした支援を行うことができない。そこには医療職と福祉職の連携の悪さ、管轄や申請の条件などの縦割り行政の制度上の問題点も大きくあると思われる。
また、一人の人の支援をするにあたり、それが病院であっても、地域であっても、実現が難しい事例であっても、本人の気持ちの寄り添う支援が一番大切であるはずだ。特に医師は他の人間の人生の決定権者になり得ないことを自覚する必要がある。
人権擁護の観点からも、このような支援は必要である。また、地域に出るにあたり、病院で一定期間、地域移行後の支援者が練習に入る必要がある。それは介助者となる人にも必要である。そのためにはこの期間は介護保険(障害福祉サービスも)と医療保険の二重給付を認める必要がある。その移行期間は介護保険と医療保険の二重給付を行ってよく、その期間(例えば1ヶ月)は診療報酬と介護報酬との折半することを制度上可能にするべきである。そのようなことから、連携をできるようにすること。又、その期間に生活保護の申請や、自立後のサービスの支給量を決定できるようにしておくことで、ヘルパーの確保も可能となる。そうすれば、患者側はある日突然すべての介助者が変わる、とか、明日の生活が金銭面を含めてどうなるのかと言う不安をしなくてよいこと、また、空白期間をつくらずに済むことができるようになる。そうすれば、社会的入院の解消にもつながることができる。
2-5, 昨年12月に病院を出たM氏の状況
次に昨年12月に、病院を出たM氏の状況について報告する。彼女は10歳から21年間筋ジス病棟で入院している肢帯型筋ジスの女性である。R氏と同じ病院で暮らしていた。
○アクションリサーチの調査対象者の紹介、概要、M氏について
① 彼女は肢帯型筋ジスである。栃木県の那須町で父母と兄姉のいる末っ子として生まれる。
産まれたときは普通だったと言う。なんとなく歩くのがおかしく、階段の上り下りがうまくいかないと言うことに3歳くらいに気がついて、病院へ連れて行ったと言う。しばらく、原因が分からずいくつかの病院などに行き、そのうち「筋ジス」といわれて本当に驚いたと言う。
母親はとにかく驚いたし、なんでうちの子がこんな思いしなくてはいけないのかと思って悲しかったと言う。母親は今もそのことを受容できていないと言う。病気のことを考えるだけでつらくなると言う。
やがて小学校に入学する。立ち歩いているときに誰かとぶつかると転んでしまったりするので、ずっと机に座りっぱなしであった。休み時間は母がトイレをやっていた。それで1年生までは何とかやっていたが、だんだんそれも難しくなってくる。普通の学校では目が行き届かないために、限界といわれる。そして、2年生になる時に養護学校に通うために、家から1時間ほどの宇都宮の病院に入院し、病院併設の養護学校に通うことになる。
母は養護学校に通うことになり、ほっとしたと言う。元気な子の中にいると引け目を感じてしまうのだろうと思っていたからだ。しかし、本人は普通学校のみんなに親切にしてもらったと言うことをよく覚えていると言う。早く歩けず、段差にすごく時間がかかる自分を友達が待ってくれていたのを覚えていると言う。養護学校は遠かったので入院をしなくてはならなかった。つらかったが、仕方がないと思っていたと言う。母はかわいそうであったが、普通の学校よりは本人に良いと思ったと言う。本人は涙などみせなかったが、親と離れることに相当我慢して入院をしていった様だったと言う。いつも母が帰る頃になると、色々な用事を頼んでいたと言う。そういう癖は今も抜けないと言う。
やがて、この病気は進行するから専門の病院に行ったほうがよいと4年生になる頃に担当医に勧められた。当時、栃木からでは仙台にある国立西多賀療養所か千葉の国立療養所下志津病院を勧められたと言う。一番近いと思われた国立療養所東埼玉病院は満床だったと言うこともあり、そこに入院することはかなわなかった。仙台と千葉ではどちらも遠かったが、どちらも5時間くらいかかる場所であった。そこで、母は雪が降らない千葉の方が冬も行かれると考え、千葉の下志津病院へ転院したと言う。遠くて、毎週行くことはかなわなかったことあり、昔は病院から帰るときはよく泣かれたと言う。土曜日に行って、日曜日の昼過ぎには帰らなければならなかった。
離れた病院に住むことは親としてもいたたまれない思いだったと言う。親としては小学校5,6年生の頃病気のことを本人に伝えようか迷ったと言う。本人が筋ジスであることはきっと知っているとは思ったが、どうしてもそれについては親として話をすることはできなかったと言う。だから、看護師さんに頼んでみたりもしたことがあったが、本人が療養仲間と本で病気のことを調べているらしいと言うことを聞いたので、それっきり話をしないままであると言う。本人もどうして筋ジスと知っているのかは覚えていないと言う。ただ、誰かとこのことについて話をしたことはないと言う。
一年に一度病気の検査結果の数値について医師と話をすると言う。ただ、話を聞いているだけだが、それについて親子で話したことはなかったと言う。M氏はとにかく病気の話をするのは大嫌いだから、人とはしたくないと言う。いつもどこかに死んでしまうかもしれないと言う不安をもっていると言う。心臓が止まってしまうのではないかと特に夜は不安になると言う。でも、ナースコールをしても看護師さんはすぐには来ないと言う。だから、呼吸器を夜間につけてからはナースコールを押しまくったと言う。夜は来てくれなかったらどうしようと言う不安が駆け巡ってしまうそうだ。
L 親としては養護学校高等部の卒業時まで病院にいて、卒業したら退院をさせて家に引き取ろうと考えていた。しかし、当時はヘルパーも週に2回までしかも1回に2時間までと言う時代であったので、在宅で面倒は見られないと判断した。そして、そのまま入院を継続している。
M氏は指先もほとんど動かなくなっている。夜間には鼻マスク人工呼吸器を装着していると言う。病院にいることは我慢だらけだと言う。
2-5-1,調査対象者の主な困難
・ 体の障害と病気について
現在の障害の状態としては四肢機能全廃、しかし指先はほんの少し、言語障害はない。車いすには長く座ることができるが、細かな調整が必要となる。座位はコルセットなどの補助具があれば可能。嚥下機能の低下もある。夜間は鼻マスク人工呼吸器を装着している。肢帯型筋ジスと呼ばれる型である。介護方法はさほど難しいわけではないが、筋ジス特有の介護方法がある。具体的には体のバランスをとるのが難しいので、バランスをとれるように首や手足の動かし方をミリ単位で行う。R氏とおなじで21年間の療養生活と言っても、病気の治療をしているわけではない。毎日体温だけは測った。また、医師と病気の話をすることも年に1、2回風邪を引いたときくらいである。年に一度、検査をするくらいであとは特に治療はしていない。
・ 生活における問題
R氏と同じで、21年に及ぶ病院生活による社会経験の不足。
・ 制度上の困難
彼女の自立に最も困難であったのは、夜間の人工呼吸器の電源を誰が入れるのかという問題であった。これは医療的ケアと呼ばれている行為である。11
10月に行われたサービス調整会議にて担当医師のM先生が発言した内容では「人工呼吸器の操作は医療行為ですから、人工呼吸器のスイッチは医療者でないと入れることはできません。12本来はご家族もダメなのに、どうにかご家族ならよいというのが今の法律のぎりぎりのラインです。ですから、ご家族が引っ越してきて面倒を見るとか、訪問看護が必ず夜間来て装着できなくては、病院側として退院を承諾することはできません」ということであった。地元の訪問看護は月曜日から金曜日まで朝と夕方に鼻マスク人工呼吸器の装着に来るという。
そして、土日に関しては親が面倒を見ることになる。しかし、現実的には毎度は来られない。訪問看護側もホームヘルパーは医療行為をやってよいとは思えないという。そんな中、ご本人もご家族も同意をするのでホームヘルパーに鼻マスク人工呼吸器の装着をしてほしいという。
緊急の対応のためにも、病院の主治医に人工呼吸器の操作方法やアンビューの使い方などの研修をお願いするが、家族以外のものにはできないと言われてしまう。
その後、生活保護を受ける予定で45000円のアパートを探し、受け入れてもらえたが、入り口にスロープを作りたいので、市に住宅改修費の申請をしたところ、車椅子ユーザーであるのに、バリアフリーのアパートを探さないこと自体がおかしいと市の担当者に言われ、住宅改修工事の補助を受けられなかった。生活保護を受けての自立生活では、居住の場が制限される。一つに生活保護者を受け入れないアパートが多いこと。そして、家賃がこの地区では45000円となっていることがある。この地域ではかなり安い家賃の45000円以内でバリアフリーの住宅など見つけることはほとんどありえない。
その後、M氏は最初は年末年始だけという条件でひとまず退院した。
病院を出て、マンツーマンの介護を受けるようになり、よく眠れると言っていた。更に数日後には、どうしても病院に戻りたくないと主張し始めた。
障害福祉サービスの標準支給量を超える部分について審査する日程は、1月22日であった。それまではヘルパーが使える時間数は295時間であったので、到底足りず、44万円の介護費用の自費が発生することになってしまうので、病院に一度戻るように勧めた。市の担当者も「他の市町村からの転入だと、退院前に審査会を通せない制度の不備がある」と、言っていた。
その後、M氏は「44万円を分割払いしても良いので病院には絶対に戻らない」と、強く主張し、それを受けて、市の担当者が、44万を特例給付で償還払いしてくれたので、地域生活は継続できることになった。
11 医療的ケアとは「経管栄養・吸引などの日常生活に必要な医療的な生活援助行為を、治療行為としての医療行為とは区別して『医療的ケア』と呼ぶことが、関係者の間では定着しつつある」 日本小児神経学会社会活動委員会『医療的ケア研修テキスト』かもがわ出版 2008(8)
12 医師法第17条「医師でなければ、医業をなしてはならない」
医師法17条に規定する「医業」とは、当該行為を行うにあたり、医師の医学的判断および技術をもつてするので案蹴れば人体に危害を及ぼし、又は危害を及ぼすおそれのある行為(医行為)を、反復継続する意思をもつて行うことであると解している。(在宅及び養護学校における日常的な医療の医学的・法律学的整理に関する研究会 第一回 厚生労働省からの提出資料)
結局M氏は地域に居続けている。病院にはなんとしても戻らないと言う。
・ 夜間の鼻マスク人工呼吸器の装着
M氏は夜間のみ鼻マスク人工呼吸器を装着している。覚醒していない時は呼吸がうまくできていないことがあると言う。そんなことから、就寝前に病院を退院する約一年前から夜間の鼻マスク人工呼吸器を装着してきた。鼻マスク人工呼吸器のスイッチは医療者ではないと操作してはならないという。医師法17条のしばりから、鼻マスク人工呼吸器のスイッチは医療であるから、ヘルパーが行ってはならないということらしい。よって、夕方に訪問看護が来る時に鼻マスク人口呼吸器を装着しなければ、ならないという。M氏はいずれ24時間の人工呼吸器装着者になっていくのはみているからこそ、今だけは夜間のみの呼吸器装着でいたいという。呼吸器を装着していれば、目から涙は出るし、ご飯はそうおいしくない。パソコンなどもよく見えないと言う。だから、寝る前にヘルパーに装着してもらうことを家族とともに同意するので、どうかお願いできないかと言うことであった。
主治医はそれに対し、絶対にできないという。あくまで医療行為は医療者もしくは家族でない限りしてはならないという。しまいには、そのようなことをやるヘルパー事業所を摘発するとまで言う。 それでもご本人もご家族も、在宅を希望し、あくまで自分の体の一部である人工呼吸器の装着はヘルパーでもよいと言う姿勢を家族は貫いている。訪問看護は呼吸器を外しに着ているが、装着は家族と本人との同意を取ったヘルパーが行っている。
しかし、医療側は主治医がダメだと言うなら、自分たちは一切ヘルパーに研修させることはできないという。そういったわけで医療側からの研修は受けていない。鼻マスク人工呼吸器を挟んで、医療と福祉の連携は全く取れていない。医療側の考え、本人の思い、福祉職の役割のバランスをとることが非常に困難である。
難病患者の退院支援は主治医の主観が大きく影響している。
3, まとめ
3-1, 病院を出てから、重度訪問介護での地域での経済状況を見る
R氏M氏共に障害福祉サービスのみの利用である。
・ R氏 重度訪問介護 時間数802時間(事業所の請求金額140~160万程度)
入浴援護サービス 月8~9回(うち5回は生活保護の他人介護料から)
一回12500円 9回で11万2500円
・ M氏 重度訪問介護 849時間数(事業所の請求金額140~180万程度)
入浴援護サービス 月8~9回(うち5回は生活保護の他人介護料から)
一回12500円 9回で11万2500円
(更に、どちらも住宅改修費がかかっている)
介護費用だけで、150万程度と190万程度の費用がかかっている。25人程度の介護者で二人の24時間の暮らしを支援している。費用負担が重たいと言うことについては市からも話しは来ていた。何人もに同じことをすることはできないと市の担当者が意見していた。
3-2, 当事者の思いと問題点
病院を出た二人の当事者に話しを聞く。病院を出てから、マンツーマンの介護ができるようになって、自分の時間を使えるようになったという。体が痛いときにもすぐに対応してもらえることは非常に楽だという。R氏は生活保護から抜けようと、仕事を少しずつ始めた。放送大学でも勉強をし始めた。就労や勉強で日々を忙しくしている。病院では考えられなかったほど、自分では色々できるんだなと思ったと言う。M氏は自分の中には医療とか福祉とかというのは分からない、呼吸器も含めて、身体も障害もみんなに理解して欲しいと言う。
地域移行とその後の継続に係る問題点
① 住宅探しがとにかく困難(生活保護との絡みから家賃の制限があり更に困難、住宅の補助を生活保護枠でないところで組む必要があるのでは)。
② 住宅改修費がでなかったので、高い自己負担で行った(生活保護の家賃制限内のアパートであれば、バリアフリーであることはほとんどありえない)。
③ 重度訪問ではコストがかかりすぎる(包括払いで行えるようにする。現行の重度包括ではとても少なすぎてできないので、もう少し、事業が行える程度の金額の包括払いをする必要がある)。
④ 多くの介護者を雇っていても、一人の利用者が入院したとたんに介護者は職を失ってしまう。
住宅を探すことは非常に困難であった。また、改修費もかなりかかっている。重度訪問介護では非常にコストがかかる。介護職の人たちはかなり難しい難病の介護ができるようになっても、被介護者が亡くなったりすれば、即職がなくなる。大変尊い技術の必要な仕事をしているのにもかかわらず、ノーワークノーペイという非常に不安定な仕事であるのはよろしくない。
3-3, 難病ケアハウス構想
・ 事業所が同じ敷地に事業指定をとる
・ 2~4名の難病の方の部屋をつくる(余った部屋はレスパイト、あるいはチャレンジハウスにする)日中の活動支援も行う(入浴と食事を行う)。
・ 一人月120万~160万円の上限でサービスを展開(サービス内容、常時の介護、入浴、家事全般、食事提供)
・ 行政側が利用者1人7~10万円の家賃補助を事業所側に出す。(10年間は事業を行うということを約束の上で)。
・ 訪問看護や往診との連携をとる。
・ 利用者側の自己負担は30000円とする。生活保護を受けている方でも入れるようにする。
バリアフリーになっている4LDKマンションの1室を借りて、事業指定をとる。
個室2~4部屋、リビング、台所、介護者待機と事務室を作る。トイレ、風呂は共同とする。夜間は常時2人以上のスタッフがおり、日中はマンツーマンで介護者をつけることにする。夜間は2名体制で行う。
<利点>
生活保護枠のアパートではない、療養向きの部屋に住むことが可能になる。住宅改修費は一人のためだけではなく、公共の投資として、複数の人のためになるものとしてできるようになる。包括払いにすることで、コスト削減が可能。介護者の多くを常勤で雇うことができる、また、難病特有の介護をできる人たちを養成することができる。家庭で介護に困ってもひとまずお預かりできると言うレベルの高い介護者が複数いる場所とすることができる。難病患者の支援相談と、困ったときの対応をする場所として、地域の拠点となるようにする。