従来の手書き要約筆記では、筆記速度が発話速度に著しく遅いため要約によって筆記量を大幅に圧縮することが不可欠であり、結果として要約筆記により聴覚障害者に提供される音声情報は質量共に不十分となる例が散見される。
筆記速度と発話速度の差は、大人数が同時に筆記すれば埋めることができるはずである。発話速度が筆記速度の5倍であるとすると、5人以上が同時に筆記すれば、発話速度に匹敵する量の筆記が理論上は可能である。しかし、OHPやOHCを用い、単一の筆記面を提示する従来の方法では、物理的な制約により同時に筆記し得る人数が限られるため、大人数で同時に筆記することは不可能であった。
紙やOHPシートに代わり、個々の筆記者が個別のタブレットPC等を占有して筆記する場合、上述の物理的な制約は解消される。タブレットPC等をネットワークによって結びつけ、各筆記者の画面表示を制御しつつ各筆記者が筆記文を収集し再構成するサーバがあれば、筆記の結果を単一の系統立った要約筆記文として聴覚障害者等に提示することができる。
単一の話者による一連の発言を全ての筆記者が同時に聞き、各筆記者が各々のタブレットPC等に対して同時並行的に筆記を行う環境を想定する。
話者が発話を始める前の段階で、最初に筆記を始める筆記者は、ネットワーク化されたタブレットPC等により筆記するシステム(以下「システム」)によって指定されている。この筆記者を筆記者1とする。筆記者1に続いて筆記を開始する筆記者(筆記者2)及びその次に筆記を開始する筆記者(筆記者3)もシステムにより指定されている。この初期状態では、筆記者1の端末(タブレットPC等)のみが筆記可能な状態となっている。初期状態での筆記者の順序は、適宜指定できる。
話者による発話が開始されたら、筆記者1は直ちに筆記を始める。筆記者1が筆記を始めた瞬間にシステムは筆記者2の端末を筆記可能な状態にする。筆記者2は話者の発話を聞き、筆記者1がどこまで筆記するかを判断し、その後の部分の筆記を開始する。
筆記者2の筆記状況は、システムを通じてリアルタイムに筆記者1の画面に表示される。これにより筆記者1は筆記者2が発話のどの位置で筆記を開始したか把握し得る。それによって筆記者1は、自分が筆記すべき範囲の末端を正確に把握することができる。
筆記者1は、筆記すべき範囲の末尾まで筆記を終えたら、画面上のボタンをクリックする(ペンでタップする)ことで、筆記が終了したことをシステムに伝える。システムは、筆記者1の端末を筆記不能な状態とし、筆記者1を待機中の筆記者の末席に加える。
以降、筆記者nは、筆記者n-1が筆記を始めてから、筆記者n-1がどこまで筆記するかを推定できた時点で、その次の部分の筆記を開始し、筆記者n+1が筆記しつつある直前までを筆記する。これを繰り返すことで、各筆記者は自らが筆記すべき発話の範囲を無理なく把握することができる。
筆記者は、原則として一行のみ筆記する。一行に筆記する文字の数は厳密には定めないが、一般的に10文字以下となろう。端末上の筆記領域の大きさは一行のみ筆記する前提で設定する。(注2)
各筆記者が長い話を筆記しようとすると、発話速度と筆記速度との差に由来する遅延が大きくなってしまうので、一定の長さで筆記者が交代していく形が望ましい。一人の筆記者が書く量は、文では長すぎ、1つの句または節の範囲にすべきである。
行単位で筆記者が交代するのであれば、提示時点でも1筆記者あたり一行分の領域を用意すればよく、提示時点での処理が簡略化される。各筆記者の筆記量も平準化され、負担が偏らない。
なお、Windows 上の「インク」を利用して本システムを構成する場合、筆記中に筆記領域の不足が想定されたとき、それまでに筆記したものの幅を自動的に圧縮するようなことも可能である。自分の書くべき長さが一行では少し不足すると判断した場合は、筆記者自身が文字幅を意識的に狭くして筆記することによって調整するなどの方法もあろう。
本システム(サーバ)は、各筆記者が筆記を開始した時点及びその順序を把握している。筆記者は一行のみ筆記するのであるから、各筆記者の筆記領域を単純に積み上げていけば、筆記を再統合し系統立った一連の筆記結果として提示し得る。
充分な広さの提示領域(10行程度)を確保できるのであれば、各筆記者が筆記を開始した時点で当該筆記者に対応する提示領域を提示画面の最下行に確保し、筆記しつつある状況をそのまま提示すれば、常に最小の遅延で筆記文の提示が可能である。
一方、提示領域の広さが数行文程度であるときは、筆記者が筆記を終えてから提示領域を確保すると同時に提示してもよい。この場合、当該筆記者より前の筆記者の表示から適度な時間を置いて、スクロールして行くように設定した方が読みやすい。
本システムでは、常に誰かが次の筆記開始を待っている状態を想定している。すなわち筆記者数と筆記速度の積が発話速度をある程度上回っていることが前提となる。
本システムでは、発話速度、筆記者の人数、筆記速度、筆記者による筆記速度のばらつき、一行に筆記する文字数、提示する行数などの変化によって、提示画面の読みやすさ、平均的な遅延をふくむ提示文の品質が左右されると考えられる。
本システムを構築する前に、まずこうしたシステムがどのような機序を組み込むことで、実現できるかを確認するため、予備的なシミュレーション・プログラムを作成した。これは、発話された文を予めデータとして格納し、それを何人かの筆記者で入力し、提示していくプログラムである。言語は、Microsoft VisualBasicを用いて作成した。筆記者の数、各筆記者の入力速度を指定し、格納された文をそのまま入力するとして、シミュレーションする形とした。筆記者の交代は、句読点で行ったので、各筆記者で多少の入力文字数にばらつきがあった。このプログラムでは、非常に多くの筆記者(10人以上)を指定することもできるが、その場合でも筆記者の順番などは明確に指定でき、この方法で、混乱なく入力ができることが明らかになった。十分入力何人かがを行った結果、発話速度を200字/分とした場合、筆記者4名、一行の平均的な筆記文字数を12字程度(文の切れ目を機械的に判定した)、平均筆記速度を60字/分としたとき、かなりの程度安定した筆記文を提示し得ることが判った。但し、これは前の筆記者がどの程度書いたときにその終端を予知できるかという点で少し変わって来る。
*注2:この長さについては、その状況に合わせて設定可能である。1行では長く、半行ずつという設定もあろうし、2行ずつという設定もあろう。ただ、長くなると、遅延も大きくなることを留意すべきである。