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発表会
安心と安全
-在宅障害者とともに創るチームのかたち-

講演3 家族の立場から「ALSの家族からみた看護師によるソーシャルワーク」

川口 有美子(NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会)

座長

●では続きまして、次はご家族の立場からということでお話しいただきます。NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会、 川口有美子先生、お願いいたします。

川口

●こんにちは。今、橋本の普通の生活を紹介したんですけど、決して普通ではございません。こういう患者は日本でまだたった1人です。 安心してください。

橋本も私も日本ALS協会というところで役員をさせていただいておりますが、地元東京ではNPO法人を立ちあげまして、 さくら会というところで主に介護職の養成・研修事業をやっています。毎月40人ぐらいの学生さん、本当に素人の方々を集めて 研修をして、重度訪問介護のヘルパーの養成をして患者さんのところに紹介をして、本当にズブの素人ばっかりですから初めから 何もできないんですけれども、ヘルパーに、実地訓練をして、育てていただくというようなことをNPOでやっております。

ヘルパーの吸引問題が、2002年、2003年のころにいろいろ問題が起こりました。そのときに川村先生にご相談させていただいたのが ご縁で、一緒に研究をしましょうというふうに川村先生に声をかけていただきまして、それで私は研究班のほうに入れていただいて今年で 3年目、まとめの年になります。何とかまとめなきゃいけないと思っています。

私の自己紹介を少しさせていただきますと、私もALSの家族です。私の母が1995年に発病しまして、だからもう今年で14年、12年、 13年、経つんですけれども、頑張って人工呼吸療法を在宅でやっております。私は、うちの母が発病したときにロンドンにおりまして、 本当にのんびりと専業主婦をしていたんですけれども、母から「ALSっていう変な名前の病気になっちゃったの」っていう電話を受けて、 それで「在宅療養するには人手が要る。うちのパパや、あとうちの妹では全然手が足りないから。」ということでした。でも「帰ってこい」 とは言わないんで、どうしようかなと思ったけど、私が帰らないとたぶんあっという間に太刀打ちいかなくなるだろうと思って、 息子と娘を連れて、段ボール箱3つに日常生活の物を入れて戻ってきたんですね。そこから、うちの夫とは別居をして、そのままずっと 別居になっているんですけれども、実家に転がり込んで私が介護をしてきました。

やってみたらですね、やってみるのと聞くのと大違いで、聞くと、聞くのもすごく大変だとは聞いていたんですけど、やってみたら 1週間で音を上げまして、これがずっと続くのかと思ったらとんでもないと思いました。そのころから橋本さんはグラビアを飾っておら れました。それがもう10年以上前なんですけれども、私が母の介護でヒイヒイ言っているときに、橋本さんはグラビアで「24時間他人介護」 っていうタイトルで出ておられまして「あ、こんなことができるのか」とおもって、母に聞いたところ「私はこんな生活、嫌だ、家族と 看護師さんに見守られて生活したい」と言っておりました。すごくよく思い出します。

それで本当に、いろんな研究をこの2年間させていただいて、今も現在進行中なんですけども、その中から一部だけかいつまんで 今日は持ってまいりました。タイトルのほうは、「ALSの家族から見た看護師によるソーシャルワーク」というふうになっています けれども、作ってきたパワーポイントは全然違ってまして、家族介護をカテゴリーで分けて、どういう形態の家族介護があるかという ことをまとめてみました。それぞれの家族に対する支援の在り方というのを考えていかなければいけないと思っております。

まずいろいろな家族の在宅療養の相談に乗っていくうちに、幾つかのモデルに分けられて支援の形が考えられることに気が付きまして、 それでモデル化したものなんですが、これが典型的なALSの在宅療養のスタイル(A)で、非常にこのモデルは多いです。というのは、 まず献身的な妻がいて、夫は大体定年退職前後で、もう子どもは大きくなってしまっているということです。年全生活が始まっていますから、 あんまり経済的に心配がない。でもとにかく新婚生活のようにべったりと妻が夫の介護をしている。これはこれでとても初めは大変ですけど 慣れてくると落ち着いてくるパターンなんですね。これが大変に多いです。どこの患者会に行っても、大体患者会に出てこられる方というのは このパターンです。このモデルの支援も大体落ち着いてきています。というのは、ずっと他人介護を橋本さんみたいに24時間必要なわけでは なくて、ポイントを押さえて訪問看護が入っていれば、まあ何とか続くだろうという感じですね。

次は、これが私のロンドンから東京に帰ってきた13年前のスタイル(B)なんですけれども、まず私がここにいます。この場合は妻か娘、 女性なんですけれども、まず2人子どもがいて、患者がいるわけですね。そうすると、家の中に2人面倒を見なきゃいけない人がいて、 どちらも介護と育児が必要だとか、こちらは子どもじゃなくて2人親が寝込んでいる場合、こういうことになるわけですけれども、 1人だけではないということで。しかも働き手がいない場合は所得保障も考えなければいけません。療養が長期化すると、どんどんお金は 出るばかりで入ってきませんから、こういう家族の場合はやはり経済的な支援というのを本当にしっかり考えていかないとまずいと思って います。うちはまだ私の夫もいましたし、あと私の父もまだ現役で働いておりましたので、経済的な心配はなかったんですけれども、 子どもが3歳と7歳でした。3歳児のほうはまだおしめも取れたばかりのような状態で、母の介護をしながら、彼はすごい甘えん坊だったので チックになってしまって、目がパチパチするってずっと言っていたのを、かわいそうですけれども息子の心配をする暇もなく、息子をいつも おんぶをしながら母の看病をしていたというのが思い出されます。

あとこれ(C)は、Aのパターンが次第にこうなっていくという・・・いつまでもAのパターンでいられない、モデルAは必ずモデルCに なるんですが、老老介護というか、要するに両方が被介護者になっていくというパターン(C)です。私は中野に住んでいるんですけど、 中野の患者さんでも何人かこういうふうにAからCに移ってきている方がおられます。これもかなり他人による介護保障が必要になってくる パターンです。

そしてこれ(D)が、今まさに橋本家なんですけれども、ちょっと前までですね。まず橋本さんがここにいて、ちょっと前までは、 3年ぐらい前までは同居していらっしゃいました。ただ、ずっとそのときも24時間近い他人介護を橋本さんは受けておられて、 娘のカヨさんは、自分はあまり日頃の介護はしていなかった。しかも彼女は自立していかなければいけないわけです。 就労とか進学とか、結婚しなければいけないから外向きの矢印が働いている。その場合は親ですね。親は子どもを引きとめるわけには いかないです。だからこちらに出してあげなきゃいけないというふうになるんですけれども、橋本家の場合はうまくいったんですが、 大抵は子どもが親を介護するということで、ずっと親とー緒にいて、初め10代、20代だったのが、気が付いたら40代になっていたという パターン(D)です。

これが橋本さんですね。だから橋本さんは今、完全にこれだけの、この斜線の部分というのは、介護保障の面積を示したものだと 思っていただいていいんですけれども、これだけたくさんの介護保障を受けて家族は別居している。独り暮らしになるわけですけど、 でもこれだからといって家族の緑が切れているわけではなくて、こういうふうに遠出するときには必ずついてきてくれるし、何かあると 「スープが冷めない距離」とよく言いますけれども、住んでいて飛んでくるという形です。これが何となく自然に、橋本さんの場合は 移行していってうまくいっているんてすが、なかなかこれが達成できる人というのはいなくて、希望者はいて非常に多いんです。 橋本さんのほうにも私のほうにもメールで相談はしょっちゅう来るんです。どうやったら独り暮らしができますかと。家族に介護を 期待できないんだけど長生きしたい、どうしたらいいですかと言われたときに、こういうやり方はあるけれど、まあ確かにあるけれども、 大変です、というお話はします。ただ、いろんな制度があります。もちろん訪問看護もそうですし、あと障害者の制度、介護保険、 いろんな制度を使うと、まあできないことはないので、やってみる価値はあるかなと思っています。

最後にですね、島田家、私は旧姓島田なので島田家なんですけれども、橋本家がこっちで、ちょっと比べてみました。10年前、私は 初めモデルBだったんですが、今はモデルDに移行しています。というのは、私、今、自分で事業所を立ちあげまして会社を経営して います。母は24時間他人介護保障を受けているわけではないのですけれども、事業所のほうの収益と、それから私が訓練したヘルパーさんで 今介護を全面的に他人でやっています。私はこういうふうに橋本さんにくっついてあちこち行ったりしているので、完全に他人介護の状況で、 私は外に出ちゃったという図なんですね。橋本さんも初めはこういう形で、橋本さんは初めから今の私の状況と近いもので、今完全に別居して いるということで24時間近い介護保障を受けていたんですけれども、だから初めは大変です。私、本当に大変でした。ここのときは大変だった んだけれども、制度を上手に使うことによって、こっちに行くことができる。あるいはこっちに行った人はこっちに行くことができるという ふうに、大変ですけれども、制度を学ぶこと、あとそれから、自分から、自ら地域の政治に対して、自分がここでこういうふうに生きている、 大変だということを訴えていくことによって変えることができるということを皆さんにお伝えしたいと思います。

さっき青森県支部の方々とお会いしましたけど、やはりいちばん不思議に思っていらっしゃるのは、橋本さんはどうやってこうやって 暮らしているのかな、社会資源の部分をどうやって獲得してきたのかなということだと思います。その話は今日時聞がなくて詳しい話は できないんですけれども、なるべく詳しく分かりやすく書いていきたいなというふうに思っております。

すみません、何かまとまりのない話になってしまいましたけれども、これで発表を終わらせていただきます。

座長

●川口先生、ありがとうございました。本当にたくさんの思いをなさりながら13年の療養、お母様を支えていらっしゃる中から、 本当にご療養されている方の自立、そしてご家族の生活ということでお話をいただきました。ありがとうございました。