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発表会
安心と安全
-在宅障害者とともに創るチームのかたち-

講演5 介護の立場から「難病療養者とその家族との関わりから学んだこと」

寺田 富二子(弘前福祉短期大学)

座長

●次に介護の立場からということで、弘前福祉短期大学の寺田富二子先生、よろしくお願いいたします。

寺田

●寺田と申します。地方からの報告をさせていただきたいと思います。

私は今年の3月31日まで、病院併設の在宅介護支援センターで社会福祉士として11年間勤務しておりました。 本日は抄録で紹介しました後段部分のBさんとの関わりについて少しご紹介させていただきます。

Bさんは女性としてものすごく働き者で、いわゆる「津軽のかあちゃん」という、家庭で中心的な主婦の役割を ずっと長らくなさっていらしたそうです。そんなBさんが、ある日畑で転んでしまわれます。61歳になられていた そのときは、もう自分も年なのかなというふうに、あきらめも半分、まあ心配も半分だったようですが、 持ち前の明るさで頑張って畑仕事も続けられたそうです。しかしそうこうしているうちに、今度は畑へ向かう 距離すらも歩くのが辛くなり、これはただごとではないと思われるようになったそうです。
この地方ではごく当たり前のことなんですけれども、そんな状態になって病院に行くということの前に、 いわゆる神様に行く、祈祷師なんですが、そこに行くという風習があるので、Bさんもそちらに拝みに行ってもらわ れたそうです。そこでかなり貢ぎ物をされたらしいんですが、何回も通ううちどうしてもよくならないので、 整骨院も同時に通われはじめました。その間が約半年間なんですが、それが続いているうち、ますます歩けない、 しんどいという思いが強くなって、とうとうご家族の薦めもあって、そのとき初めて病院受診をされたそうです。 その病院では整形的に見て、これは首の骨がずれているという診断があったそうです。その治療を通院でリハビリを しましょうというお話になったらしく、Bさんはご主人と一緒に2人して病院に通って、リハビリを懸命に続けられました。 その間、杖をついて何とか一生懸命歩いて病院通いをされていたんだそうです。そうこうしているうちに、ますます リハビリをいくらやってもよくならないということから、ドクターから首の手術をしてみましょうというお話になった らしいんです。Bさんもそれに賭けるという思いで手術を承諾されました。入院して、何とか歩いて入院したものが、 手術後からはもうまったく立てなくなりまして車いすの生活を余儀なくされました。それでもBさんにとっては、 今まで一生懸命働いていたから、こうやって入院して少し休んだことによって自分は弱くなってしまったんだという ふうに思いこんで、一生懸命また入院してリハビリを頑張られたようです。

2か月ぐらいたってから、私がいる在宅介護支援センターのほうにご主人と2人でお見えになりました。 私はそのとき初めてお会いして、そのときBさんは63歳になっていらっしゃいました。ご主人とお2人で歩行器や車いすを 見ながら、ああだ、こうだと賑やかにお話をされていたんです。ご主人が「歩行器でも車いすでも何でも買ってやるよ」と いうふうにおっしゃっていましたが、奥さんのBさんは「こんなものを買えば、もうそれっきりの人になってしまうから 絶対買わない」というふうに、傍目から見れば、ものすごく仲がいいご夫婦だなというふうに拝見しました。 そのうちに退院の話が出たらしく、そろそろ退院することになったので、僕が元気なうちは病院に連れてきてリハビリ頑張るから、 リハビリのスタッフも応援してくれているし、何かあったらまたあんたの所に来るよ、というふうにおっしゃって、 それっきりになりました。

このときはさすがにご本人も周囲の者も「え?これでいいのかな」という思いはありましたが、あまりにもお2人で頑張るよ というふうにおっしゃったので、まあ、それをただ見つめるという形になってしまいました。退院の話が出て、リハビリも順調に・・・ というか通っていらしたんですが、そのうちに今度は、退院されて2か月ぐらいたったときでしょうか、リハビリのスタッフのほうから、 今度は情報提供がありました。そろそろ通院のリハビリを打ち切りたいので、そういう患者さんがあるので、在宅支援をしてほしいと いうお話でした。在宅介護支援センターとして「あ、あのBさんだ」と思いまして家庭訪問をしました。 家庭訪問をしたところ、リハビリに打ち込んで、今でもあきらめずに、少しでもよくなろうと頑張っていらっしゃる変わらぬBさんの 姿を見て、在宅で何とか応援したいなと思いました。

64歳でしたので、まだ介護保険の適用にはならず、そのときの病名は「痙性麻痺」という病名がついていました。それで介護保険の 適用にはならず、身体障害者のほうのサービスはいかがですかというふうに、いろんなお話を説明しました。しかしそのときもBさんは 「身体障害者の手帳を持ってしまえば、自分はもう一生障害者なんだ、それは嫌だ」というふうにおっしゃって、このときもBさんの お気持ちを尊重して「もう少し、じゃあ、ご主人と頑張られますか?」ということで終わっております。

気にかかりましたので、在宅の訪問には何回か行かせていただいていたんですが、日に日に、行くたびに「あれもできなくなった、 これもできなくなった」とおっしゃるBさんを見守っていました。

65歳が目前になりましたので、そろそろ介護保険の説明をしようと、一生懸命かかってBさんのお宅に行きました。 病院のほうも「そろそろ変わってみませんか」というお話もしました。けれども、純朴なBさんご夫婦は、 「いや、お任せしている先生だから替わりたくない」ということで、そのまま通院を時々しながら、リハビリは近くの整骨院で 代替え的にやっていただきながら過ごしていらっしゃいました。

65歳近くなってから介護保険の申請をしましょうということで、介護保険であれば、自分たちも保険料を払っているから 遠慮無く使おうかというお話にもなりまして、このときとばかり訪問看護とか福祉用具のレンタルとか住宅改修とか、いろんなお話を させていただきました。選択されたのがトイレとお風呂は、とにかく自分の家でお父さんに、おじいちゃんに手伝ってもらいながら やっていきたいという希望でしたので、住宅改修をさせていただきました。介護保険の意見書を書くにあたって、そのときにかかった お医者さんが、それまでの先生とは違った先生にたまたまなることになりました。その先生が、ちょっと入院してみないかというお話で、 入院したところ、そのときに「脊髄小脳変性症」という診断を下されました。私たちは、その診断をされてから在宅の準備を一生懸命始めて、 住宅改修やらレンタルやらで、これから難病の診断が付いたけれども、進行を食い止めるために一緒に頑張っていきましょうということで、 チームを組んで在宅・退院支援をしました。

そのときに、私が不思議に思ったのは、こんなに大変なのにトイレにだけは絶対に行くとおっしゃって、夜でも昼でもトイレにだけは 自分で通うんだということでした。旦那さんのカをもう90%借りながら、日に何回でしょうか、本当にトイレだけは一生縣命行ってらっし ゃいました。絶対オムツはしたくないということで必死になって頑張ってらっしゃったのを思い出します。

最初の要介護認定は要介護2と出ました。そのうち更新のたびに3になり4になり、担当のケアマネである私としては非常に焦ってくる わけです。チームを組んでケアマネジメントしているにもかかわらず、徐々に徐々に介護度が悪くなっていくということで、さらにも 増して担当者会議をして、ADLの維持のために、スタッフみんなで向かっていこうねということで、家族とも確認をとり向かって いきました。

みんなの中にも「ちょっと随分進行が早いね」とか「不思議だね」という声は出ていましたが、いかんせん、それを医療者側に言う勇気を 誰も持たず、Bさんにも一生懸命向かってらっしゃるからこそ、「ちょっとおかしいんじゃない?」とか「また別な大きい病院に行こう」 とかっていうようなお話はなかなか切り出せずにおりました。

そしてBさん自身も旦那さんも、難病だし進行するし、このままもう少し自分が元気なうちはリハビリに通わせて頑張らせるからいいんだ ということを、再三おっしゃりまして、私たちも「そうですか」ということで、ケアマネジメントをしております。

そんな中で1週間、ご主人が健診で引っかかられて検査入院をされることになったんです。ショートステイをお薦めして1週間、 初めてお家から、在宅サービスであるショートステイをお使いになったわけなんです。いろいろ交渉をしましたけれども、 ショートステイでは夜間つきっきりになることはできないのでオムツを使ってほしいというふうに言われ、泣く泣くオムツを 使われました。たった1週間でしたが、ものすごくしぼんでしまわれたBさんを見て、このショートステイを組んだ私は 非常に反省をしつつも、これしか選択がなかったんだと思いこませたり、ご主人とまた在宅で生活なさる2人の姿を見て 「いろいろなことを乗り越えるからいいや」という思いで見つめておりました。

そうこうしているうちに、主治医が異動になりまして別のドクターに替わりました。初めて別のドクターに受診に行かれた際、 ご主人から「即入院になったよ」というお話を伺いました。正直私はびっくりしたんですけれども、聞いたところによりますと、 やはりきちんとした検査をもう一度しておきたいということで、その先生が入院を受け付けてくださいました。 そこで初めて、実はALSだという診断を下されたんです。

そういえば思い起こせば、その半年ぐらい前から、「痰も自分で出せなくなったよ」とか、「深呼吸ができないんだよ」とか、 そういうお話をたびたび聞かされていまして、本当に辛そうになさることが多かったので、私はそのとき、以前この仕事をしていて、 お2人のALSの患者さんとお付き合いしたことがあるんですが、その方たちとまったく同じことをおっしゃるなというふうに 思っていました。その半年前に、その思いを誰かにぶつける、もちろん医療者とか訪問看護とか、保健所の保健師さんとか、 どんどん大きな声で言っていけばよかったものを私は黙っていました。実はいろいろそれまでにも、うるさい在宅介護支援センターだとか、 しょっちゅう文句を言う社会福祉士だとか、いろいろ言われておりましたし、ここでもまた同じことになるんじゃないかという 自分の恐れから、そのときは思ったことを口に出さなかった自分でした。 今思えば、Bさんたちが「難病だから進行するんだから、仕方がないから、そんなに心配しなくていいから」というふうにおっしゃる 言葉に甘えていたんだと思います。

行くたびに風邪薬を飲んだり、救心を飲んだりしていらしたBさんたちを見て、今思うと本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。 なぜ心に引っかかったときに私は大きな声で言わなかったのかということを、田舎だからとか医療過疎だからとか 理由を付けて逃げていたんではないかなと思っています。私たちソーシャルワーカーとして、本当に患者さんたちの傍らにいるのであれば 代弁者であるべきだし、そんな地方だからこそ声を発していかなければいけない立場だったと思っています。

私は今現場を離れて教育の場に移ってしまいましたが、なぜ私がそのときに声に出せなかったのかということを、 これから新しい介護の人材を育てていく立場として答えを見つけていきたいと思っています。ご静聴ありがとうございました。

座長

●寺田先生、ありがとうございました。在宅介護支援センターでの社会福祉士としての貴重な体験をご発表いただきました。 ありがとうございます。