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発表会
安心と安全
-在宅障害者とともに創るチームのかたち-

当日資料

介護の立場から
「難病療養者とその家族との関わりから学んだこと」

寺田 富二子(弘前福祉短期大学)

相談援助という仕事に全く自信の持てない時期に、私は、多発性硬化症という難病の診断を 受けた一人の女性(Aさん)と出会った。体幹中心部の激痛にみまわれるという恐ろしい症状に おびえ、身体機能が徐々に低下しているという状態であった。 家族の揺れ動きや、Aさんの気持ちの浮き沈みに向き合いながら、この未熟な私は、実に多くの ことについて学ばせていただいた。 何より、Aさんと時間を共有したことで、今の自分があるといっても過言ではない程の出会いで あったと思う。Aさんは私よりほんの少し年上で、妻として母親として家庭での主婦という役割 に対する考え方に共通点があり、相談者と援助者という関係を越えて、初対面から非常に打ち解 けることができた方であった。しかし、ある日のこと、それは私の一方的な思い込みであること を思い知らされる。援助者としての経験不足と自分の傲慢さゆえ、Aさんにとっては、共有した 時間が苦痛であったかもしれないという疑念が生まれたのである。今日は、もがき苦しんだ自身 の援助過程を紹介することにより、望ましい援助者のあり方について考察してみたい。

振り返ると、身近な相談窓口である在宅介護支援センターに勤務して11年という月日が過ぎ ていた。十年一昔といわれるが、その間、社会情勢や地域住民を取り巻く社会環境も、住民の意 識もかなり変化してきていた。しかしながら、難病療養者にとっては、疾患を抱えているという 事実は不変であり、闘病生活という日々の営みが、現実として変化することなく継続していく。 支援内容や、社会制度や、疾病観が変化しても、自分の身体の内部で起きてくる症状に、毎日毎 日ひたすら向き合わなくてはならない。自分の不運に嘆き悲しみ、他者を恨んでみたり、自暴自 棄になったりということを繰り返しながら、とりあえず生活していかなければならないのである。

難病の診断を受け、受身で療養するしかないという、あきらめの境地にいた一人の女性(Bさん) との出会いもまた、衝撃的な結末になった。私の経験上からは非常に珍しく、まれにみる献身的な 家族に囲まれて療養生活を送られていた。脊髄小脳変性症という疾患に向き合い、ひたすらリハビリに 重点を置き、周囲も家族も本人も一丸となってADL低下防止に突き進んでいた。 そんなBさんに対して、私は、各種サービスや自助具などについてありとあらゆる方策を練り、 これでもかと言わんばかりの療養生活をセッティングしていた。しかしながら日に日に弱ってい く姿を目の当たりにし、私はかつて出会ったことのあるALS患者のことを思い出し、Bさんの 姿と重ねてしまっていた。だが私は長い間、そんな過酷な仮想など決して口にしてはならないと 思っていた。いい援助者だと認められたいとひたすら願っていた私は、医療者側へそんな疑問を 投げかける勇気を持たず、ひたすらBさんをリハビリへと駆り立てていた。 かなりの時間経過後、たまたま受け持ち医師が交替となり、再検査の結果、はじめてALSであった ことが判明したのである。このBさんとの関わりは、私が福祉の立場だからこそ、もっと別な介入を しなければならなかったと深く反省させられる機会になった。 Bさんの傍らに本当に真剣に寄り添っていれば、Bさんの心を心底代弁して、なりふりかまわず医療者と 向き合えたのではないだろうか。自分自身の保身と、ゆがんだプロ意識といったものが、無駄な時間を 費やすことにつながってしまったのではないかと悔やんでいる。

福祉の立場から、自身の至らなさを反省することで、援助者としてのあるべき姿を考察したい。