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米国の視覚障害者雇用におけるバリア –その実態と克服策–

ハロルド・スナイダー

書誌情報
項目 内容
所属先 全米盲人連合(NFB)

まず始めに、ここで私が主張することは私個人の意見であり、米国または日本の政府機関または民間組織の見解ではないことをお断りしておく。

視覚障害者に対する具体的な障壁を検討する前に、私たちの活動の影響を受ける人々について思い起こすことが大切である。彼らは、それぞれが個性を持った人々であり、彼らを一つに結びつけているのは視覚障害という特徴である。米国や日本を含む様々な地域の文化の中で、視覚障害は純然たる悲劇として捉えられている。しかし、私は全米盲人連合(NFB)の活動を通して、視覚障害という悲劇は、正しい訓練と、視覚障害者に対する機会が与えられれば乗り越えることができることを学んだ。この正しい訓練と視覚障害者に対する機会を与えることに加えて、効果的な自己主張の技術を挙げることもできる。私たちはそれぞれの環境や文化的背景を持っており、日本社会の中では、この米国で言う「効果的な自己主張」という考え方はなじみが薄く、多くの人々にとって理解するのが難しい概念であると思われる。もちろん、視覚障害者雇用におけるバリアは、自己主張だけでは解決できるものではない。自己主張の技術は解決のために重要ではあるが、その中の一つの要素にすぎない。

ここで、すこし、グローバル化がもたらす影響について考えてみよう。私たちは皆、同じテレビ番組を見、同じ本や雑誌を読み、同じ医薬品を服用し、マクドナルドで同じハンバーガーを食べる。これはすべてグローバル化がもたらしたものである。グローバル化には、よい面と悪い面があると思うので、グローバル化の是非をここで云々するつもりはないが、視覚障害者と晴眼者が実際に同じようにグローバル化の影響を受けていることをここで考えてみたいと思う。

グローバル化の影響が最も明らかなのは、テクノロジーの分野であり、そして、特に、視覚障害者のための支援技術の分野においてである。コンピューターは、英語または日本語といった異なる言語で出力するという違いはあるが、今日、コンピューターを使っている人々は、皆、共通していずれかのウィンドウズOSを使っていると思う。また、これもまた英語または日本語の出力の違いはあるが、視覚障害者のユーザーは皆、ウィンドウズOSに加えて、共通して合成音声や点字ディスプレー、点字プリンターを使っていると思う。このグローバル化は現代の私たちだけの問題ではなく、消費できる資源が減少し、人口が増加し、環境汚染が進む21世紀および22世紀においてさらに加速するものと思われる。

グローバル化のよい側面として、日本と米国の人々が共通の問題を解決するために、以前よりも密接に協力することが可能になることがある。これを可能にするのがインターネットであり、また好むと好まざるとにかかわらず、英語が国際共通語になったことである。

しかし、視覚障害の分野では、私たちは、グローバル化がもたらす恩恵を十分に活かしていない。視覚障害者のための支援技術の大部分は米国や欧州で生産されているが、それが日本に輸入されると、その価格は生産国での価格の3倍にもなる場合がある。視覚障害の分野で活動する私たちは、グローバル化がもたらす情報交換と協力関係を最大限に推進するための機会を十分に活かしていない。また、世界盲人連合(WBU:World Blind Union)が持つ組織的欠陥のため、私たちが世界規模で直面している支援技術に関して増え続ける問題の解決のために各国政府、民間企業、国際リハビリテーション機関に働きかけができない状況にある。

この支援技術の問題を考えるためには、身近な人間を通してこの問題を考えてみる必要がある。この問題を正しく理解するためには、それが不可欠であると私は考える。私たち自身と密接に関連する問題や機会を持つ人物を想像する必要がある。日本の社会や文化、また日本における視覚障害者制度についての私の限られた知識に基づいてこの架空の人物を描いてみよう。

ヨシ(架空の人物)は、21歳になったばかりの視覚障害者である。彼は未熟児網膜症によって視覚障害者になった。彼の両親は、平均以上の所得と知性を持ってた。少年時代、ヨシは、利口で好奇心溢れる少年であった。自分の周りの環境を探索し、それを理解することが喜びであった。幼い時から、人々はヨシとその両親に対して、ヨシがその人生の中で多くのものを達成することはないだろうと言った。ヨシは、視覚障害者でしかないのだからと・・・。

両親がヨシを盲学校に入れた時、学校の担当者は、ヨシが将来職を得ることができたとしてもそれは按摩師としてであろうと言った。しかし、先程述べたように、ヨシは利口で好奇心溢れる少年であった。学校での成績は優秀で、学校を卒業すると大学に入学することが決まった。日本では極めて異例なことであった。盲学校でヨシは可能な限りの成功を収めていた。コンピューターで文書を作成したり、Eメールを使ったりすることもできた。それでもヨシが同年代の晴眼者の学生たちと対等にやっていけるとは考えられなかった。ヨシは視覚障害者でしかないのだから・・・・。

大学にいったとしても、卒業後は按摩師としてやっていくのが精一杯だろうと思われていた。ヨシの両親と学校の校長は、ヨシが彼の父親や兄弟のように大学に進学することを望んだ。そして、ヨシは大学に入学した。

彼は、大学で一生懸命勉強した。彼のための朗読者もいた。ヨシはコンピューターやインターネットを使った。卒業試験でもよい成績を収めた。そして学位を取得することができた。

この時点でヨシは人生の頂点に達したのかもしない。学位を取得し、21歳の誕生日を迎え、さてヨシの人生はこれからどうなるのであろうか。どのような機会がヨシに与えられているのだろうか。日本の社会の主流をなす人々の一員となり、充実した人生を送ることができるだろうか。それとも、文化的な偏見と機会の欠如から、伝統的に視覚障害者の職業とされる職業に就いて人生を送ってゆくのだろうか。ヨシの将来は、米国および日本で視覚障害の分野に身を置いている私たちが、視覚障害者のための支援技術を取り巻く世界規模の障壁にどのように取り組んでいくかということに密接に関連している。

ところで、支援技術への法的な障壁と言う意味では、日本にいるヨシと米国の視覚障害者は同じ立場にあるとはいえない。米国では、1990年に連邦議会が、米国障害者法(ADA法)案を可決し、ジョージ・ブッシュ元大統領が同法案を承認した。ADA法と同法に関連する規制は、障害者に対する雇用における差別、公共宿泊施設の利用における差別、公共の交通機関の利用における差別、さらにインターネット・ホームページの利用における差別を禁止している。

ここで簡単にADA法が何を意味し、米国の障害者にどのように影響を及ぼしたかを考えてみよう。ADA法は障害を可能な限り広く定義している。つまり、歩行障害、視覚障害、聴覚障害など日常生活の主な活動を制限する機能障害を障害と定義している。また、アルコール中毒や麻薬中毒などの自己による自己に対する障害も含めている。この他、過去に障害を持っていたけれども現在はその障害を持っていない人々や、障害を持っているとみなされているけれども必ずしも障害を持っていない人々も含まれる。

ここで注意していただきたいのは、一部の議員や政策立案者はADA法の定義の範囲が広すぎて、障害者とはみなすことのできない、すなわち本来対象に含まれるべきではない人々が含まれているとしてこれを非難しているということである。連邦議会や連邦裁判所では、この定義の範囲を狭めようとする動きが見られる。ADA法が成立してから数年後に、雇用における差別の禁止に関する規則が発効したが、差別禁止の定義は連邦議会が当初意図したものよりも狭められ、対象となる障害者の数や雇用において差別が行なわれていると考えられる事例の数も減った。これらの規則は、雇用機会均等委員会が発行したもので、同委員会が施行している。

規則の施行と判例によってその範囲が狭められたものに公共宿泊施設の利用における差別の禁止がある。この点について、私個人の経験を皆様に紹介したいと思う。

1999年7月、私と妻は、米国で全国チェーンを展開している某レストランで席に着くことを拒否された。この出来事があった後、私は弁護士を雇い、司法省に申立をしたが、そこでは、この問題は、裁判で解決するよりも仲裁で解決した方がよいと勧められた。長い議論の末、レストラン側は、この紛争を解決するために、私達に多額の現金を支払った。相手は罪状を認めなかったが、将来、同じような差別が起こらないようにサービスのあり方を変えた。

公共の交通機関の利用における差別に関しては、「パラ・トランジット」と呼ばれる障害者用の交通機関が発達した。この「パラ・トランジット」の問題点は、交通機関側が、バスや地下鉄などの通常の交通機関を障害者が利用できないかどうかを審査する点である。つまり、障害者が、都市の外の交通機関のないところに住んでいたとしてもそれは考慮されない。そのため、都市部の外に住んでいて公共の交通機関を必要とする数多くの障害者は、依然として交通機関を利用することができない。

さらに、視覚障害者や聴覚障害者、感覚障害者は、身体的に通常の交通機関を利用できるため、「パラ・トランジット」を利用することができない。これは、交通機関のない郊外に住んでいるこれらの障害者にとっても同じである。誰が見ても、これは間違っている。視覚障害者が受けた訓練や単独歩行の能力はまったく考慮されない。

ADA法に基づいて米国建物交通障壁遵守委員会が建物の利用に関する指針を作成し発表している。建物の利用に関する車椅子利用者のための指針がこの数年間、適用されているが、視覚障害者のための歩行ブロックや音声を出す信号機などはここに来てようやく導入されようとしている。この遅れが生じたのは、これらの歩行ブロックや信号機の設置方法と設置場所について、視覚障害者社会の中で意見の相違があり、コンセンサスがなかなか得られなかったためである。

対照的に日本では歩行ブロックや音声付きの信号機をいたるところで見ることができる。これらの設備が導入されてからすでに長い年月が日本では経っているが、日本ではそれらの設備の必要性と利便性についてコンセンサスが得られているように思える。日本の視覚障害者の方々はこれらの設備に頼ることができるので、単独歩行の訓練は必要がないかのように思える。

理論上では、インターネットのホームページは視覚障害者がアクセスできるものでなければならないことをADA法が定めている。連邦裁判所においてこの規定についての判断がなされたことはまだないが、司法省はこの規定を支持している。米国で最大のインターネット・プロバイダーであるアメリカン・オンラインが提供するソフトウェアやサービスの多くは、視覚障害者がアクセスできないものであった。しかし、全米盲人連合(NFB)が訴訟を起こし、司法省の介入の可能性が示唆された後、アメリカン・オンラインは視覚障害者が同社のソフトウェアやサービスにアクセスできるようにした方が得策と判断し、現在その作業に取り組んでいる。米国の他のプロバイダーやホームページ開設者もこの決定を重く受け止めるべきである。

次に、ADA法についての私の見解を述べてみたいと思う。日本の方々は、日本で同じような法案が可決される前にこれを参考にしていただければ幸いである。

1990年にADA法が成立する前、約70%の労働年齢にある視覚障害者が職業に就いていなかった。多くの視覚障害者は、家族や社会保障に頼って生活していた。ADA法が成立してから11年後、労働年齢にあって職業に就いていない視覚障害者の割合は73%に上昇した。このすでに悪かった状況をさらに悪化させた幾つかの要因があると思う。視覚障害者がテクノロジーを利用することを妨げる障壁が依然として残り、さらにその障壁が大きくなっているため、米国の視覚障害者が雇用を得るのはさらに困難になっている。

米国の視覚障害者がすでに体験しているように、私たちの架空人物ヨシが学校や大学で習得したコンピューター技能や、ハードウェア、ソフトウェアは、新しいOSの導入、ソフトウェアにおけるグラフィカルユーザーインターフェースの変更、企業ホームページの変更などによって、一夜にして使い物にならなくなる可能性がある。さらに、医療保険や交通機関の問題、そして驚くべきことに、依然として見られる受け入れる企業側の差別などが、視覚障害者の雇用を難しくしている。

ADA法に関して私が特に強調したいのは、障害者に対する差別の禁止を立法化するのはほとんど不可能であると言うことである。たとえ適用範囲の広い法律を成立させたとしても、そのような法律の解釈、特定の事例への適用、その法律の施行は極めて難しいと言うことである。それでも、私たちは敢えてこの困難に立ち向かうべきであろうか。答えは、間違えなく「イエス」である。

ここで、1973年に成立したリハビリテーション法の第508節の規定について、また、この規定が視覚障害者にどのように適用されるかについて考えてみたいと思う。

第508節が書かれているリハビリテーション法の第5章は、一般的な市民的権利を定めた法律である。第508節は、米国政府が調達したり、その従業員または一般に提供するテクノロジーは、そのテクノロジーを利用する米国政府の従業員または一般がアクセスできるものでなければならないと規定している。したがって、米国政府機関のホームページはすべて視覚障害者がアクセスできるものでなければならない。また、政府機関で働く視覚障害者が使う機器はすべて視覚障害者が利用できるものでなくてはならない。米国政府が購入するハードウェアおよびソフトウェアは、それを利用する必要のある視覚障害者の従業員および一般の視覚障害者が利用できるものでなくてはならない。

第508節の規定を施行するための規則は発効したばかりである。これらの規則は、連邦諮問委員会が作成し、調達局(GSA)および米国建物交通障壁遵守委員会が施行する。第508節が効果的に施行され、視覚障害者の政府機関従業員および一般の視覚障害者がその恩恵を受けることができるかはまだ分からない。

第508節の規定を巡って、特にハードウェア、ソフトウェア販売業者や障害者が法廷で論争を展開することは必至である。第508節の効果を見る上で、私たちはその論争に対する法廷の判定に注意する必要がある。

次に、ハードウェアおよびソフトウェアが世界的に急速に発展していることも視覚障害者がテクノロジーを利用する上での障壁になっている。先に述べたように、ハードウェアおよびソフトウェア上の障壁を取り除く上で、グローバル化は重要な要素である。ここでは、マイクロソフトとアメリカン・オンラインがどのようにこの問題に取り組んだかを見てみよう。

マイクロソフトの社長ビル・ゲイツは、マイクロソフトの製品を視覚障害者やその他の障害者にも利用できるようにすることを重要視した。この目標を達成するために、マイクロソフトでは専門のチームを設置し、その専門チームは製品開発者と共同して、視覚障害者が使う画面読み上げソフトに必要なフックが、新たに発売される各製品のプログラムに書き込まれているかどうかを確かめる。

このルールは、マイクロソフト社の方針の重要な一部になっている。周知のように、マイクロソフトは、世界中のパーソナル・コンピューターで使うOSやアプリケーションの大手の製造業者である。マイクロソフトが新しく発売したOSであるウィンドウズMEおよびウィンドウズ2000は、視覚障害者ユーザーが利用できるようになっており、それにより、新しいバージョンのウィンドウズ・ソフトウェアのベータテストも行なわれている。

マイクロソフトとは対照的に、世界最大のインターネット・プロバイダーであるアメリカン・オンライン(AOL)はごく最近まで、視覚障害者ユーザーの存在を無視することに努めてきた。AOLシステムで稼動するソフトウェアの少なくとも6つのバージョンは、視覚障害者ユーザーが実質的に利用できないものであった。アメリカン・オンラインのソフトウェアの主な問題点は、プログラムがピクセルで書き込まれていて、描画のよう画面上に文字を現すことである。

視覚障害者ユーザーは、画面読み上げソフトによってテキスト型ソフトウェアを利用することはできるが、ピクセル型ソフトウェアを読み取ることはできない。全米盲人連合(NFB)は、数年間に渡ってアメリカン・オンラインとの交渉を続けたが、アメリカン・オンラインはその姿勢を変えず、あくまでもグラフィカル・ユーザー・インターフェースにこだわった。全米盲人連合(NFB)はついにADA法に基づいてアメリカン・オンラインを相手に訴訟を起こした。その結果、2000年7月26日に紛争の解決が見られ、アメリカン・オンラインは視覚障害者を含むすべてのユーザーが利用可能なソフトウェアを提供することを約束した。そして、ソフトウェアプログラムの変更に着手したが、バージョン6.0の利用についてはまだ多くの問題が残っている。

私たちは、皆、銀行に行き、ATMを利用する。現金を自動的に払い出すATMは、どの銀行でも見られるようになった。ADA法の施行に関する指針は、ATMの設計仕様についても言及している。しかし、ADA法成立から10年以上たっても銀行はATMが視覚障害者に利用できるようにする措置を取らなかった。視覚障害者や視覚障害者の団体は、公益のために活動している弁護士の支援を得て、米国各地で銀行を相手に訴訟を起こし始めた。銀行側は、この問題を法廷で争うことを嫌った。実際にATMを製造しているのは銀行ではなく、ATM製造会社であった。そこで全米盲人連合(NFB)は、ATM製造最大手のディーボルト・コーポレーションを相手に訴訟を起こした。この件は、法廷の外で解決された。ディーボルトは、合成音声機能をATMのソフトウェアおよびハードウェアに組み込み、視覚障害者が利用できるようにした。視覚障害者はATMにイヤホンをつなぎ、カードを挿入し、取引を行なうことができる。

私たちは、マイクロソフト、アメリカン・オンライン、そしてディーボルトの体験から教訓を得なければならない。一方では、マイクロソフトのように積極的にその製品を視覚障害者を含むすべての障害者が利用できるようにしている企業がある。他方、アメリカン・オンラインやディーボルトなどの企業は、その抵抗を抑えて、法を守らせる必要があった。ADA法は、視覚障害者のテクノロジーの利用に具体的に恩恵をもたらした。しかし、それ以上に私たちが注意しなければならないのは、全米盲人連合(NFB)が果たした役割である。全米盲人連合(NFB)を通して視覚障害者が一団となって自己主張していなかったならば、ADA法は実効性のない法律にすぎなかったと考えられる。私たち自身が行動を起こさなければならない。他の人が私たちのために行動を起こしてくれるのを待っていることはできない。これが、ヨシやヨシと同世代の視覚障害者の人々への教訓の一つである。

晴眼者の人々は、コンピューターの画面を見てコンピューターを使いる。視覚障害者は、合成音声や点字ディスプレーを使ってコンピューターを使いる。視覚障害者のユーザーが晴眼者のユーザーと対等にやっていくには、晴眼者のユーザーが使っているコンピューター機器と同等の性能と機能を持ったコンピューター機器を視覚障害者ユーザーが使う必要がある。問題は、晴眼者に比べて視覚障害者の数がずっと少ないことである。つまり、晴眼者のユーザーに比べて視覚障害者ユーザーの数も少ないのである。

この数年間、視覚障害者がコンピューターを利用できるようにするための製品を作ることで成功を収めた企業が出てきている。これらの企業がこのような製品を作るのは、視覚障害者を助けてあげたいと思うからではない。これらの企業は、単に収益を上げ、利益を出すだめにこのような製品を作っているのである。そのためには、便利で世界中の視覚障害者が受け入れてくれるような製品を作らなければならない。これらの企業は起業家精神に溢れ、晴眼者ユーザー用の製品を作っている同様の企業に比べて顧客基盤に近いところで事業を行なっているという特徴がある。

一般的にこれらの企業は政府から補助金を受けることがなく、また政府機関の規制を受けることも少ない。ユーザーのニーズを把握し、そのニーズを満たしていく。私がいつも驚くのは、視覚障害者用のコンピューター機器を作っているほとんどの企業が米国または欧州にあるということである。また、私がさらに驚くのは、米国または欧州での販売価格の2倍から3倍の金額を払ってこれらの機器を購入しようとする視覚障害者、雇用者、政府があることである。

もちろん、例外はある。例えば、プレクスターは、PREXTALKデイジープレーヤーを製造している。KGSは点字ディスプレーを、日本テレソフトは点字プリンタを製造している。しかし、日本で製造しているこれらの製品は、米国や欧州で製造している製品に比べて日本で低い評価を受けているように思う。

さらに、日本の企業が視覚障害者のために革新的なコンピューター・テクノロジーを開発し、販売するためのインセンティブもあまりなく、政府もそれを促すような刺激策を採っていないように思う。日本の企業が視覚障害者の人々を支援することに興味を示さないのは、視覚障害や視覚障害者に対して日本社会が持つ消極的な見方に基づいていると私は思う。日本文化の中で、視覚障害に対して消極的な見方があるため、ソニーや松下などの日本の大企業に対して視覚障害者用に革新的で最新技術を結集した製品を作ってもらうように働きかけることは困難であると私は思う。私が知っている限りでは、ソニーがこれまでに視覚障害者用に製造したのは、米国で開発されたテクノロジーを真似て製造した小型の4トラック・2速のカセットテープレコーダーだけである。松下が、日本点字図書館が貸し出している録音図書用に2トラック・2速のカセットテープレコーダーを開発したとも聞いている。しかし、これらの製品はコンピューターを利用する視覚障害者ユーザーにとって役に立たない。この点についてこれ以上申し上げるつもりはないが、日本の大企業および中小企業は日本の視覚障害者のためにコンピューター関連製品を開発する社会的、文化的責任を担うべきであると思う。

米国では、フリーダム・サイエンティフィックなどの企業が、視覚障害者専用機器を開発、販売し、多くの利益を上げている。また、ニュージーランドなどの小さな国でも、パルス・データなどの企業が世界中の視覚障害者のために非常に革新的なコンピューター機器を製造している。日本はアジアで最大の経済国であり、世界でも第2位の経済国である。日本国内で国内向けの視覚障害者用のハードウェアおよびソフトウェアの開発、販売の状況が大幅に改善されることに私は期待を寄せている。もし架空人物のヨシが必要とするハードウェアやソフトウェアが視覚障害者が利用できないものであったならば、ヨシはどうやって職に就くことができるであろうか。

ワールドワイド・ウェッブ(WWW)を含むインターネットは、世界中でコミュニケーションのあり方を革命的に変えた。インターネットがもたらしたグローバル化の影響を過小評価することはできない。視覚障害者もこの技術革命の影響を受けているが、グラフィカル・ユーザー・インターフェースのために、この技術は十分に活かせていなかった。インターネット・エクスプローラーが視覚障害者でも利用できることや、プロダクティビティ・ワークスなどが視覚障害者専用のブラウザーを提供していることから、今後ワールドワイド・ウェッブ(WWW)が、視覚障害者ユーザーにとって利用しやすくなることが期待される。

この可能性への障壁として考えられるのは、サイト作成者が視覚障害者のニーズを理解していない場合や、コンピューター機器やソフトウェアが利用できない場合などが挙げられる。先に述べたリハビリテーション法第508節の規定は、米国政府、米国政府の請負業者、米国政府から財政援助を受けている者が所有し、運営するサイトは、障害者を含むすべての人がアクセスできるものでなければならないと定めている。日本語の表記が象形文字であること、そしてサイトの中でもグラフィックが使われていることを考えると、日本の視覚障害者ユーザーが、ウェッブサイトにアクセスできるようにすることはさらに重要になってくる。サイト作成者が利用できるツールが、幾つかある。これらのツールの中には、ウェッブ・アクセシビリティ・イニシアティブ(WAI)という視覚障害者がアクセスできるサイトの設計のために活動している国際コンソーシアムの提言や、サイトが視覚障害者に利用できる度合いを測定するBOBBYというソフトウェアが含まれる。

さらに、サイトが視覚障害者にも利用できるようにサイト作成者に圧力を掛けてゆくことも必要である。ワールドワイド・ウェッブ(WWW)の利用について、視覚障害者のニーズを強調する幾つかの注目すべき訴訟があった。例えば、オーストラリアのシドニー在住の視覚障害者ブルース・マグワイア氏は、2000年のシドニーオリンピックの公式サイトが視覚障害者にとって利用できないものであることに気づき、正式な法的手続を取り、訴えを起こした。しかし、シドニーオリンピック委員会にサイトを視覚障害者にも利用できるようにすることはできなかった。オリンピック委員会は、時間や予算の問題などを挙げて釈明したが、そのいずれも正当な理由ではなかった。裁判所は、マグワイア氏に有利な判決を下したが、オリンピック委員会に対して差別撤廃法を適用することができなかった。

これとほぼ同じ時期に、全米盲人連合(NFB)もCNNのサイトが視覚障害者にとって利用できないことに気づいた。CNNは、この問題についての通知を受け取るとすぐにサイト設計者をボルチモアにある全米盲人連合(NFB)本部に送り、その問題点の確認と解決法について協議した。その結果、問題はすぐに解決され、視覚障害者ユーザーはシドニーオリンピックの結果をサイトで知ることができた。CNNは、すべての人にとって利用しやすいウェッブサイトを提供することを望んだのであった。

ウェッブサイトはますますマルチメディア志向を強めている。つまり、各サイトは、テキストの他にも音声や映像を発信し、マルチメディア・ソフトウェアを利用してユーザーに情報を提供している。英語圏では、これらのマルチメディア系サイトが視覚障害者にも利用可能になっている。日本やその他のアジア諸国では、言葉の表記に象形文字が用いられ、各国間でウェッブサイトの標準化が行なわれていないために、かならずしもマルチメディア系サイトが視覚障害者にも利用可能になっているとは言えない。視覚障害者ユーザーもグローバルビレッジ(地球村)の中で生活している。このグローバルビレッジ(地球村)は、情報を活力の源としている。視覚障害者の雇用は、ワールドワイド・ウェッブ(WWW)が提供する情報に視覚障害者がアクセスできるかという点に左右されることが多くある。私たちは、架空人物のヨシやヨシと同じ新しい世代の視覚障害者の人々に対する私たちの責務を放棄してはならないのである。

次に、視覚障害者がコンピューター・テクノロジーを利用するに当たって障壁となるのが、コンピューター産業における中央処理装置(CPU)の処理速度の高速化への動きや、三次元グラフィックの開発、ストリーム画像の処理速度の高速化、通信の高速化、人工知能(AI)の開発などである。20メガヘルツの処理速度を持つコンピューターが速いと思われていたのは、そう昔のことではない。それが短期間のうちに中央処理装置(CPU)の処理速度は2ギガヘルツまで伸びた。この結果、合成音声のハードウェアやソフトウェアの処理速度の高速化も要求されるようになった。これは、音声が速くなるという意味ではなく、中央処理装置(CPU)が1秒あたりに処理できる命令の数が飛躍的に伸び、ハードウェアやソフトウェアもそのような高速化した中央処理装置(CPU)に対応できなければならなくなったのである。例えば、これはオクタン価の少ないガソリンでジェットエンジンを動かそうとするようなもので、うまくゆくはずがない。

グラフィックスは、それが単純なものであれ複雑なものであれ、画面を見ることができない視覚障害者にとっては常に問題になる可能性がある。グラフィックスがどのようなものであれ、それを説明するタグがなければ、そのグラフィックは視覚障害者ユーザーにとってまったく役に立たないものである。近い将来に、まったく新しい手法で三次元グラフィックを画面上に描くことが可能になるかもしない。これもまた、視覚障害者ユーザーにとって問題になるかもしれない。

ワールドワイド・ウェッブ(WWW)上であるトリーム画像をリアルタイムで送受信することが可能になろうとしている。これが実現すれば、ウェッブ上でビデオをレンタルして、いつでもビデオを見ることができるようになる。このストリーム画像は、視覚障害者ユーザーにとっても利用可能になるのであろうか。画像に説明を組み込むことができれば利用できるかもしれない。また、高画質画像をリアルタイムで送信してコミュニケーションをするということも近い将来に可能になるため、コンピューターをテレビ電話またはテレビ受信機として利用することも可能になるであろう。

ISDNやDSL、ケーブルモデムなどの導入に伴い、通信速度の高速化も急速に進んでいる。通信およびストリーム画像の高速化によってワールドワイド・ウェッブ(WWW)の環境がテキストを主体としたものではなく、視覚的な画像を主体としたものにますますなっていくかもしれない。私たちが注意を怠れば、ワールドワイド・ウェッブ(WWW)の大部分が視覚障害者ユーザーにとって利用しづらいものになる可能性がある。このグローバルビレッジ(地球村)の中で私たちは団結して、ワールドワイド・ウェッブ(WWW)がこれからも視覚障害者が利用できるものであることを働きかけ、訴えてゆく必要がある。

通信の高速化とリアルタイムのストリーム画像の導入で、先程述べたテレビ電話が実現しそうである。

コンピューターの処理速度が伸び、メモリの価格が下がる中で、人工知能(AI)ソフトを稼動できるコンピューターが出てくるかもしれない。人工知能(AI)は、コンピューターの利用のあり方に変化をもたらすかもしれない。この人工知能(AI)と言う新しい概念は、視覚障害者ユーザーにどのような影響を及ぼすだろうか。今のところ、その答えはわからない。分かっているのは、この数年間のうちに人工知能(AI)を備えたコンピューターが現れ、視覚障害者ユーザーもこの人工知能(AI)を使うことになるということである。

コンピューター・ハードウェアとソフトウェアは絶えず進化し続けている。それは誰もが望んでいるところだと思う。しかし、視覚障害者が晴眼者と対等にやってゆくためには、私たちは技術開発者の先を行き、革新的で革命的なコンピューターアクセスに関する解決法を見出してゆくことを考えなければならない。例えば、少なくともこの20年の間に全ページ表示の触覚ディスプレイや点字ディスプレイの試験が行なわれてきた。この技術の低コスト化が進む中で、全ページ表示は現実的になっている。それでは、視覚的な図画は、触察の形で表示した方が便利であろうか。ますます視覚的な環境の中で働かなければならない私たちの架空人物ヨシにとって、これらの技術を役立たせるにはどうしたらよいであろうか。

視覚障害に対する固定観念は、視覚障害の歴史と同じくらいに古いものである。私たちがテクノロジー中心の時代を生きる中で、視覚障害に対する固定観念は、間違った技術障壁の形で現出する。私たちは手をこまねいて見ているだけでよいのであろうか。少なくとも、私はそのつもりはない。米国の視覚障害者と私は、これらの固定観念と障壁に対して力の最後まで闘うつもりである。

私見によれば、差別撤廃の立法は非常に難しく、そのような法律に実効性を持たせるのはさらに難しいことである。視覚障害者のテクノロジーを扱う能力に対してこれからも偏見と懐疑を抱く人々がいるだろう。政府と民間産業界が阻害要因を作り、視覚障害者が晴眼者と対等な立場で競争することをさらに難しくするかもしれない。

視覚障害者に対する社会全般の見方を私たち視覚障害者が変えてゆかない限り、先程述べたADA法成立後の視覚障害者の雇用に関する数字は変わらない。政府および民間セクターと協力して、視覚障害者であることの意味を変えてゆく意思があるということを私たちが政府および民間セクターに伝えてゆく必要がある。残念なことに、このような自己主張は、日本の社会や文化では見られないものであるが、米国の社会や文化の中では見られる。

社会の視覚障害や視覚障害者への見方も日本と米国とではかなり違うと思う。また、視覚障害者を代表する団体や視覚障害者にサービスを提供する組織の役割も両国でかなり違うと思う。そのことを考慮に入れると、日本の大企業が視覚障害者を支援することに消極的であり続けるのも不思議なことではないのかもしれない。

私たちのヨシは瀬戸際に立っている。21歳の誕生日を迎えたヨシと、米国と日本でヨシと同年代の数千人の視覚障害者の人々は、これからの人生をどうしてゆこうかと考えている。私は予言者ではないが、私の考えは基本的に楽観的である。私たちはグローバルビレッジ(地球村)の中で生きているので、米国の視覚障害者が生活の質を改善するために行なっている数々の活動の恩恵をヨシも受けることができる。ヨシとヨシと同世代の視覚障害者の人々は、日本の文化が捉える視覚障害に対する見方を変えてゆく可能性を持っていると思う。それ以外には考えられない。グローバルビレッジ(地球村)で生きる視覚障害者として、皆で協力して、私たち全員の生活をよりよいものにしていく必要がある。