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30年のあゆみ

日本障害者リハビリテーション協会30年、戸山サンライズ10年

NO.2


30年誌刊行に寄せて


日本障害者リハビリテーション協会と高木憲次先生

日本肢体不自由児協会会長  津山 直一

 日本障害者リハビリテーション協会が30周年を迎えるに当たり、「高木憲次先生と日本障害者リハビリテーション協会」という題で書くように依頼があった。考えてみれば、高木憲次先生が東京大学整形外科学教室の主任教授をしておられた頃に先生の門に入り、直接教えを受け、また整肢療護園でも先生の許で働かせて戴いた者は、すでに数少なくなった今日であるので、筆をとらせて戴く。
 日本にリハビリテーションなる言葉が伝えられたのは、昭和25,26年のまだ日本が米国占領軍マッカーサー元帥司令部(G.H.Q.)の統治下にあった頃で、G.H.Q.の計らいで、故小池文英先生、故水野祥太郎先生がWHOのfellowとして欧米に留学されてはじめて日本に伝えられたものである。身体障害者の社会復帰対策的なものとしては、盲、聾唖学校などを除けば、それ以前はわずかに傷痩軍人のための軍事保護院と高木憲次先生が大正時代からライフワークとして努力された肢体不自由児療育活動があった程度であったから、この新しいリハビリテーションなる領域の受け皿として、戦前、戦中、戦後を通じて努力し続けられ昭和17年5月に整肢療護園を創設、開園、昭和23年9月日本肢体不自由児協会設立、会長就任という立場にあられ、最も信頼された愛弟子故小池文英先生を協力者として肢体不自由児(者)の社会復帰に先駆者的な活動をしておられた高木憲次先生が、日本に新しく導入されたこの分野の活動推進の中心的指導者的立場に立たれたのは当然であって余人をもって替え難いものであった。先生は、昭和25年に政府の中央身体障害者福祉審議会委員、同副会長兼同審査部会長、昭和27年には中央身体障害者福祉審議会会長となられ、文字通りわが国肢体不自由者(児)リハビリテーション活動の指導、推進に当たられ、また昭和26年には、リハビリテーション・インターナショナルの前身である国際肢体不自由者福祉協会理事、昭和33年には国際肢体不自由者福祉協会日本国委員会会長、更に昭和35年には国際肢体不自由者福祉協会(リハビリテーション・インターナショナル)の副会長になられたのであり(会長はカナダのPopham)、大正年代の初期より昭和38年4月に逝去されるまで、生涯を通じ一貫してこの分野に尽痒されたのである。
 日本障害者リハビリテーション協会が発足したのは昭和39年であり、翌40年には、待望の汎太平洋リハビリテーション国際会議が行われたのであるから、もしあと2年、齢を重ねて下さっておられたなら、当然日本障害者リハビリテーション協会会長、汎太平洋リハビリテーション会議会長になっておられるのであり、私は真に先生の御逝去の早過ぎたことを残念に思うのである。このように、あらゆる意味で先生は日本障害者リハビリテーション協会の生みの親であり、わが国における障害者リハビリテーション活動の創基者ということができる。その意味で私は先生の最後の門下生たりえたことを誠に倖せと考え、また誇りに思っている。
 リハビリテーション・インターナショナルもその根源を尋ねれば、身体障害児に対する活動から起こっていることを付言しておきたい。
 私は恩師高木憲次先生を憶うとき、この上ない愛弟子であられた故小池文英先生と、高木先生の終生にわたる美しい師弟愛に基づくわが国におけるリハビリテーション推進のためのお二人の御努力とその御貢献を思わずにはおれない。
 高木憲次先生が大正時代前半のまだ若年医師であられた頃、すでに決意された肢体不自由児療育のわが国における推進を実現するために、肢節不完児福利会を設立、会司となられたのは大正14年、先生が37歳の時であった。それ以来先生は、東京大学教授という激職の傍ら各界を説かれ、その支援を得て現在の心身障害児総合医療療育センターのある板橋区根の上の地に2万坪という広大な土地を入手され整肢療護園として完成されたのである。それは昭和17年5月であり、正に太平洋戦争の真唯中であった。しかもこの先生のご苦心の結晶整肢療護園は開園わずか3年にして重なる米軍空襲、爆撃の犠牲となり、全滅近く灰燈に帰してしまったのである。しかし先生は、終戦後昭和21年に小池文英先生が戦地(トラック島)より復員帰国されるや、「必ず元より立派なものを再建して見せよう、たとえどんなに細々としたものであってもすぐ療育活動を再開しよう」と言われ、昭和21年5月には、早くも整肢療護園の焼跡に奇跡的に焼失を免れ残った唯一の建物であった看護婦寮を利用して診療を開始されたのである。この事実こそ正に、療育の孤塁を守り、孤灯を消さぬという鉄の意志の現れと言うべきある。
 先生の決意に打たれ、同感された小池文英先生は、故郷松本市で開業されることを希望された御両親の言葉に耳を傾けることなく、高木憲次先生と共に自分は療育の道を歩むと決意され、師を支えるべく焼跡の療護園に留まられ、御家族と共に焼け残ったガレージに住まわれながら再建に努力されたのである。そのお姿は、想い出して今に私の胸に熱いものを感じさせるのである。丁度その時期に医者になったばかりの私が大学医局より派遣されご一緒に働き手伝わせて戴けたのであるが、このことは私の生涯にとっても宝というべき経験であった。思いを致せば、あの板橋根の上の草茫々とした焼野原の一隅の、誠に貧弱な看護婦寮を使った整肢療護園の再建の第一歩は、正に今日の日本障害者リハビリテーション協会が生まれ、発展し、30周年を迎えるまでに到った第一歩でもあったと信じるのである。
 私は国立身体障害者リハビリテーションセンターを退任後、日本肢体不自由児協会会長を拝命した。これも高木、小池両師のお導きであると信じ、できるだけ努力しなければと自らに言い聞かせている次第である。1988年にわが国で開催されたリハビリテーション・インターナショナルの世界会議の記念として両先生を「In Memory of」の故人を偲ぷRIのライフパトロンとなって戴き、高木、小池両先生のお名前とそのご貢献を讃える謝辞がニューヨークのRI本部の壁を永久に飾れるようにし得たこともまことに嬉しいことであった。日本障害者リハビリテーション協会が30周年を迎えるに当たり、高木憲次先生と小池文英先生お二人に対する、追憶、敬慕の念をあらたにする。

太宰博邦先生と日本障害者リハビリテーション協会

日本肢体不自由児協会理事長  竹内 嘉巳

 日本障害者リハビリテーション協会が30周年を迎えるに当たり、特に太宰博邦先生について書くよう依頼があった。
 太宰さんが1978年に日本障害者リハビリテーション協会(以下、リハビリテーション協会という)の会長になられたころもそうだったが、国際障害者年が始まった1981年当時でも、率直にいってリハビリテーション協会の活動は国内的にも国際的にもいわば低調であって、太宰さんはリハビリテーション協会の活性化を図るにはどうしたらよいかということで随分頭を悩ましておられた。特に1986年の4月29日に昭和天皇の満80歳の記念としてリハビリテーション事業の奨励をとの趣旨で昭和天皇から金一封が御下賜をされたのがきっかけで、太宰さんはリハビリテーション協会の活性化ということに積極的に取り組まなければというよりも、活性化に取り組まざるをえないが、さてそれではどうするかということについてかなり真剣に色々な問題を提起し、その方法論あるいは方策について我々に意見を求め、そしてまた自分からも幾つか提案をして検討するように指示をされた。
 国際的な面では次のRIの世界会議がリスボンで開かれるのを機会に、そのリスボン会議までに1988年のRI世界会議を東京に誘致すること。そして、その世界会議を機会に、我が国のリハビリテーションの水準を国際的な水準に高めると同時にリハビリテーション協会の存在を確固たるものにしたいということがまず基本線として固まり、提示された。ただ厄介だったのは、国内的な面でリハビリテーション協会のいわば活性化をどのようにもっていくかということが一番の難問で、太宰さんから、リハビリテーション協会の国内的な体制を固め、そしてリハビリテーション協会の存在をアピールするという意味から、日本肢体不自由児協会とリハビリテーション協会との合併を考えたいのでこの点をいろんな角度から検討してみるように指示された。
 太宰さんのリハビリテーション協会と日本肢体不自由児協会との合併論というのは、いわば障害者対策と障害児対策とを一本化していきたいという気持ちが一つあるわけであり、又、リハビリテーション協会の創始者といってよい高木憲次先生の始められた日本肢体不自由児協会との合併は、流れからいって当然ではなかろうかという気持ちがあっての提案であったようである。しかし、全国的な組織を持っていないリハビリテーション協会が日本肢体不自由児協会と合併することで、はたして国内的なリハビリテーション協会の足場固めというのが本当に出来るかどうか、それは疑問といわざるをえない。
 特に障害別の民間組織として長年にわたり、そして又社会的にも強い影響力を持つ日身連なり日盲連なりとの関係を考えると、いくらリハビリテーション協会は政治的な色彩を抜きにした活動、リハビリテーションに関する調査研究と国際的連携のもとにリハビリテーション事業の振興を図ることに徹するのだといってみても、現実にはこうした既存の民間団体として活躍・活動してこられた人達を無用に刺激をすることになり、けっして好ましい結果は生まないのではないかということが大きな理由でもあるが、その他、リハビリテーション協会は厚生省社会局の所管であり、日本肢体不自由児協会は児童家庭局の所管で、異なる局の所管団体を、しかも財団法人と社会福祉法人とを一体にするということになると、なかなか実際問題としても、仮に行おうとすれば前提になる問題点というのは少し多すぎて、なかなかRIの世界会議が行われる1988年頃にはとても間に合いそうもないこと、そして又、こういう二局にまたがるしかも大きな民間組織というものを、一体化という行動をおこすということになると、これはその前提になる問題として社会局と児童家庭局との障害福祉関係を一本化した障害福祉局の創設論がどうしても必要になってくるし、更には全然角度を変えてみると日本肢体不自由児協会自体にも国立コロニーと秩父学園とそして心身障害児総合医療療育センターとなった整肢療護園との三者の合併論がまだくすぷっている時期でもあったので、いろんな角度からみて日本肢体不自由児協会とリハビリテーション協会との合併論は難しすぎる、というか少なくともまだ時期尚早といわざるをえないし、無用の平地に波瀾を起こすようなことは避けた方がよいのではないかという結果となって現在に到っている。

「国際障害者年」を契機とするリハ協活動の展開について

日本障害者リハビリテーション協会副会長
元厚生省社会局更生課長
板山 賢治

 わたくしが、日本障害者リハビリテーション協会(以下、リハ協という)の役割の重要性を知り、信頼できるパートナーとなってほしいと考えるようになったのは、昭和53年春、社会局更生課長となり、国際障害者年の準備を担当するようになってからである。
 当時、わたしどもが是非実現したいと考えていたいくつかの課題があった。
 第1は、ともすれば、陽のあたることの少ない障害者問題を「国際障害者年」という“黒船”を活かして、社会的、政治的、行・財政的に大きく前進させたいこと
 第2は、医療、教育、職業、社会等の伝統的リハビリテーションの専門分野の連けい、協力を実現させたいこと
 第3は、障害別、政治的立場から群雄割拠する障害者団体等の連けい、協力を実現し、その活動を促したいこと
 第4は、障害分野に関する国内・外、中央・地方の情報を迅速にしゅう集、提供し、公私関係者が共通の理解と連けいをもった活動を実現したいこと
 第5に、国際障害者年を記念するいくつかの事業を実現すること
等であった。これらの課題への取り組みは、単に行政的努力にとどまらず、タイアップして活動する信頼できる民間団体があってはじめて可能となることを痛感したのである。
 昭和53年秋、太宰博邦先生が、リハ協会長に就任された。当時の山下眞臣社会局長(現リハ協会長)のご指示を得て、早速、池袋の日肢協に太宰博邦会長、小池文英・宗石文男両常務理事をお訪ねし、次のようなお願いをしたのであった。
 〔1〕国際障害者年」にむけてわが国民間活動の中核的役割を果たしていただきたいこと
 〔2〕リハ協が世話役となって障害者団体、専門職団体の連けい、結集を進めていただきたいこと
 〔3〕 そのため事務局体制の整備、財政的強化についてお取り組みたいだきたいこと
 太宰会長は、「リハ協は、社会局所管の財団であり、この機会にテコ入れすることは賛成である。だが、歴史的、実質的にリハ協を生み、育ててこられたのは、高木憲次・小池文英両先生であり、日本肢体不自由児協会であることを忘れてはならない。なお、リハ協が、児童と成人、障害の種類、思想、専門分野のセクトをこえて国際的視野に立つ活動を行うのは至極当然であり、努力したい。」とご教示をいただいたことが記憶に残っている。

「リハ協」新生への歩み
 こうして、〔1〕昭和55年4月「国際障害者年日本推進協議会」(110団体参加、太宰博邦代表。現日本障害者協議会)の組織化、〔2〕昭和55年には、「リハビリテーション交流セミナー’80」、「障害者福祉都市セミナー」等の開催、〔3〕昭和56年4月、玉木修事務局長就任、〔4〕昭和56年8月「障害者の福祉」(月刊)発行等へと本格的活動が始ったのである。
 昭和56年4月、昭和天皇満80歳記念の御下賜金をもとに「障害者リハビリテーション振興基金」が設置され、同57年4月、常陸宮殿下の総裁御就任が決まり、さらに同58年、RI総会において「第16回リハビリテーション世界会議」の東京開催が決定した。そして同59年10月からは、「戸山サンライズ」の運営委託がはじまり、国内外におけるリハ協の地歩は、確固たるものとなっていったのである。
 ひとえに、太宰博邦会長を中心とする役職員の努力によるものであるが、特に、事務局体制整備にあたっての「全コロ」、機関誌刊行時の「日本IBM」当局の絶大なご協力は、特記して感謝の意を表したい。
 また、リハ協の各種活動に対する幅広い助成財団等の物心両面にわたる支援、各種イベント等へのボランティアの参加、協力は、協会活動を支えるエネルギーとして銘記するとともに大切にしていく必要があろう。
 最近における活動のポイント
 最近におけるリハ協活動のポイントは、次の6点に集約できそうである。
 1 「第2次・障害者の10年」の推進を目指しての国内障害者団体、リハ専門職団体等の連けい、協力をすすめる活動
 2 「アジア太平洋障害者の10年」の推進に関する活動
 3 RI本部及びアジア・太平洋地域関係団体との連けい協力活動
 4 障害者問題、各種リハビリテーションに関する調査、研究及ぴ情報のしゅう集、提供に関する活動
 5 各種専門職団体及び国内外障害者団体等間の連けい、協力をすすめる活動
 6 リハビリテーションに関するNGO活動の育成、連けい、協力を推進する活動
 ここ数年は、わが国を含め、アジア・太平洋地域における障害者リハビリテーションの展開にとって大変重要な時期に当たる。
 そして、本年、協会は、法人発足30周年、戸山サンライズ創設10周年を迎える。
 初心を忘れず協会の全力をあげて各方面の期待にこたえる活動を展開したいものである。

日本障害者リハビリテーション協会の30周年を祝して

-特にその国際活動の側面について-

日本障害者リハビリテーション協会副会長
RIナショナルセクレタリー、帝京大学医学部教授
上田 敏

 私が日本障害者リハビリテーション協会(以下、リハ協)の存在を知り、その活動の一部に参加させていただいたのは、1965年(昭和40年)4月に東京のヒルトンホテル(現、キャピタル東急ホテル)で開かれた第3回汎太平洋リハビリテーション会議の際であるから、もう29年以上前であり、それと知らないままにリハ協の活動のほとんど最初から参加していたことになる。この汎太平洋会議は前年に設立され、国際障害者リハビリテーション協会(ISRD,RIの前身)の正式加盟団体となったばかりのリハ協が主催したもので、日本のリハビリテーションの発展史上画期的な意義をもったものであった。それははじめて医学リハビリテーションから社会リハビリテーションまで、小児から老人まで、身体障害だけでなく精神障害をも対象とするといった、非常に包括的なリハビリテーションのあり方を具体的に提示したからである。
 参加者もまたこのような理念にふさわしく、これまで互いに縁の薄かった、非常に広い範囲の人人が一場に会することができた。私自身にとってもこの機会にお知り合いになった職業リハビリテーション、社会リハビリテーション等の方々とのお付き合いが今でも続いており、貴重な出発点になったと思っている。
 当時のリハ協は、このようにRIを通じて世界のリハビリテーション活動とのほとんど唯一の窓口としての重要な役割を果たしていた。その中心となっておられたのは小池文英先生で、整肢療護園長としての忙しい公務のかたわら、RIの会議にはほとんど単身で毎回出掛けておられたし、外国からリハビリテーション関係者が訪ねてくると種々案内しておられた。私は1964年(リハ協結成の年)にニューヨーク大学に留学していたが、その前年から小池先生は存じ上げていて、外国からの医師の御案内にお伴したこともあった。ニューヨークでも先生に紹介していただいてISRDの本部(当時は国連本部のすぐそばにあった)にウィルソン事務総長(当時)を訪ねたのも懐かしい思い出である。
 1965年の汎太平洋リハビリテーション会議の後にもリハ協は1971年11月に汎太平洋職業リハビリテーションセミナーを日本都市センターで開催し、これも盛会であった。
 その後1981年(国際障害者年)の国際リハビリテーション交流セミナーを経て1988年の第16回RI世界大会の東京開催(京王プラザホテル)に到るまでリハ協の国際的活動は続いていくことになるが、この間はリハ協が国際活動だけでなく、リハビリテーション交流セミナー(現在の総合リハビリテーション研究大会)や種々の調査研究プロジェクトを通じて国内の総合的・包括的なリハビリテーション活動の一つの中心にもなっていった時代であった。更に1988年の世界大会を契機に日本のリハビリテーションの実力が国際的に高く評価されるようになり、途上国から援助の要請が続々と寄せられるようになったが、その背景としてはすでにかなり以前からリハ協が進めてきたアジア地域対象のリハビリテーション専門家および障害者リーダー養成のための長期研修会のつみ重ねがあった。それは1991年のこれらの研修会OBを中心としたアジア太平洋地域の草の根のリハビリテーション活動家の組織であるRANAPとして結実し、更に日本と中国とが提唱してESCAPで決定された「アジア太平洋障害者の10年」(1993-2002)の推進に日本が香港と共に中心的な役割を果たすまでになってきている。かつてはアメリカをはじめとする先進国から学ぶことにせい一杯だった日本のリハビリテーションが、次第にアジア太平洋地域のリハビリテーションの発展を援助する立場になってきたのである。
 小池先生が現在のように国際的に重きをなした日本のリハビリテーションの姿を見ることなく、1983(昭和58)年にお亡くなりになったのは大きな損失であり、かえすがえすも残念なことであった。その頃までには国内外の活動で先生のお手伝いをするグループが少しずつは形作られてきてはいたが、RI総会に関する限りは先生はほとんどお一人で出席されたことが多かったようで、その精神的負担はいかぱかりだったかと今更ながら申訳なく思われる。特に先生が精根を傾けて下準備をなさったRI世界会議の日本誘致の成功(1983年10月にRI総会で投票、僅差でオーストリアに勝つ)を御覧にならずに亡くなられたのはかえすがえすも痛恨事である。
 日本肢体不自由児協会、リハ協をはじめとする日本の障害者リハビリテーション事業の父を高木憲次先生とするならば、小池文英先生は母とも呼ぶべき存在で、控え目で細かい心くばりで雑務をすべて引き受けられ、常に温顔で接して下さった。それでいていかにも信州人らしく、いざという蒔にははっきりと筋を通した発言をなさることも印象的であった。リハ協30年の歩みの最初の20年を担い、今日の発展の基礎を築かれた小池先生をしのびつつお祝いの言葉としたい。

30周年に寄せる

社団法人ゼンコロ会長
調 一興



 いま私の手元に「障害者リハビリテーション」1977~1980までの4冊がある。いずれもB5判120頁~170頁の比較的分厚いものである。これは1977年を第1回として開催した「リハビリテーション交流セミナー」の報告書であり、今日では「総合リハビリテーション研究大会」と、その名称も変更して、今年は第17回が愛知県(名古屋市)で開かれることになっている。
 報告書の1977、1978、1979年の各号は東京コロニーの発行となっているが、1980年からは事務局は東京コロニーのままだが、報告書の発行は日本障害者リハビリテーション協会と変わっている。ここにひとつのドラマがあったのである。

*     *

 1975年頃、四谷の弘済会館で、私の記憶では上田敏、小川孟、手塚直樹、小島蓉子(故人)の各氏と私のほか、一、二の人がいたと思うが、何かのことで一緒になったことがある。その何かが終わって近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら雑談をした。話の中身はもっぱらリハビリテーションの専門家(医学、教育、職業、その他社会的な分野、障害種別分野など)が、それぞれバラバラに仕事をしている。横の関係が切れていてはリハビリテーションの効果があがらないナー。といったような内容であったように記憶している。その話の中でだれかが「そんならそういう各分野の人を一堂に集めて交流会のようなことをやったらどうか」という意味の発言をした。が、そんなことは簡単ではないという言葉で、この話は幕となった。
 それから1年余が過ぎたある日、晩秋の頃だったと思う。小川孟氏から招集がかかった。その場所に行ってみると、小川孟氏のほか、手塚、松井(亮)、小島の各氏がいて、「実は…」と話し出した。障害者のライフステージ、ライフサイクルにそって、各分野のリハビリテーション専門家が相互に協力することがたいへん重要である。そのための全国的な規模での集まりをもちたい。東京コロニーで事務局を引き受けてくれないか、ダメならやれない、断念せざるを得ない、というのである。まったく強談判であった。しかし、私にはたいへん心地よい話だったのである。なぜなら私も全くの同じ意見だったからである。こうして今の「総合リハビリテーション研究大会」の前身「リハビリテーション交流セミナー」は始まったのである。

*     *

 東京コロニーで第3回まで事務局を担当した。1979年には国連・国際障害者年事務局長エスコ・コスーネン氏を招請して、国際障害者年についての講演や囲む会などを行って、内容と動向を理解する場としての役割も果たした。
 そうした流れの中で、私の中に少しずつ問題意識が芽生え始めていた。これほど有意義で、今後も継統しながら内容を深めていく必要のあるこうした事業を、東京コロニーという法人が、事務局の役割とはいえ、このまま続けていくことが適切なのだろうか。事業を先太りさせるためにも、適切な方法を考えるべきではないかという想いであった。
 この考え方を私は、東京のある場所で次の人々に相談した。板山賢治(当時厚生省更生課長)、上田敏、小川孟、小池文英(故人)、宗石文男の各氏だったと思う。ここでの話し合いの結果、この事業は日本障害者リハビリテーション協会(リハ協)の事業として位置づけ、恒常的に実施することが適切である。そのためにはリハ協そのものを強化することが必要なので協力をする、この二つのことが確認されたのである。
 「リハビリテーション交流セミナー」1980年度の実施は、それまでの実行委員会方式とし、事務局をリハ協と東京コロニーが共同で担当するという形をとりながら、リハ協に引き継いでいったのである。板山氏の行動は素早く、氏の骨折りで専任事務局長体制が確立し、翌年に玉木修氏が就任されたのである。

*     *

 その後のリハ協は、国際障害者年と、そのあとの「国連・障害者の10年」の期間には、国際障害者年日本推進協議会の事務局を援助し、各種補助金の窓口となるなど、わが国の障害者問題の発展のためにきわめて有効な役割を果たしたが、今日のこのような力をもった組織に発展したことを、日本の障害者問題のために喜びたい。
 RI世界会議の開催もたいへんな仕事であったにもかかわらず、見事に成功させたことも歴史に残る。
 故太宰博邦先生のことを、どうしても想い出すが、これからもリハ協が、わが国の障害者福祉の真の中身をつくるために、障害者の立場にきちんと立って発展することを期待し、そのために私も一翼を担いたいと想う。

リハ協の活動にかかわって

横浜市リハビリテーション事業団顧問
津山みのり学園客員研究員
小川 孟

 日頃“リハ協”と呼び慣れている日本障害者リハビリテーション協会の30周年記念誌に執筆の機会を与えられ、私とリハ協の活動とのかかわりでは最も縁が深いリハビリテーション交流セミナー(現在の総合リハビリテーション研究大会)の資料を探しているうちに、やや古びた一冊の報告書が目にとまった。「障害者リハビリテーション’80-リハビリテーション交流セミナー報告書」である。
 その冒頭に、実行委員長であった故小池文英氏が次のような刊行のことばを述べておられる。「……第1回から第3回まで、このリハビリテーション交流セミナーを運営してきたボランディアの実行委員会が、一応の基盤は確立したので、次回からはもう少し公的な組織による運営へ移すことが望ましいのではないかと考え、この第4回からは日本障害者リハビリテーション協会に主催を委ねよう、ということになりました。協会としてはもちろんその趣旨に異存はなく、同意したのですが、残念ながら協会の事務局の体制が脆弱で、実施面においてはほとんど従前どおり、実行委員の各位のご努力、ご協力に依存せざるを得なかったことを衷心よりお詫び申し上げるとともに、……」
 わずか数行の言葉ではあるが、リハ協の設立いらいその発展に文字どおり献身された小池先生の真面目なお人柄が偲ばれると同時に、その頃は池袋にあった日本肢体不自由児協会に間借りのようなリハ協事務局の様子がよみがえってくる。今から14年前、リハ協30年の歴史のほぼ中頃のことである。
 確かに当時のリハ協は、研究誌等の発行以外にこれといった独自の事業は行っていなかった。リハビリテーションに従事する者の間でもその存在を知るものは少なかったように思う。とはいっても、単発の事業としては、すでに国際会議を手がけている。1971年のリハ協とRI職業委員会の共催による汎太平洋職業リハビリテーション・セミナーには私も参加の機会を与えられ、多くの専門家を知るようになった。それにしても、リハビリテーションという言葉自体が一般化されていなかった1960年代に、障害者福祉でも更生でもなく、当初から障害をもつ人びとの“リハビリテーション”を事業目的に掲げ、それを組織の名称にまでしてしまった先覚者はどなただったのだろう。その先見の明は、1981年の国連・国際障害者年以降のリハ協の活動に花開いたといっても過言ではない。
 1988年の第16回リハビリテーション世界会議の成功は、日本障害者リハビリテーション協会の存在を改めて世界にアピールした。それには多くの関係者の協力があったことはいうまでもないが、故太宰博邦前会長が準備の段階から陣頭指揮に当たられていた姿を忘れることはできない。太宰前会長は、わが国のリハビリテーションの国際協力には早くから強い関心を持たれており、諸外国で開催されるRIの会議等には高齢にもかかわらず努めて出席されていた。それが日本での世界会議を成功に導く布石になっていただけでなく、リハ協の事業目的を一層明確にしたことは間違いないであろう。
 いまやリハ協の事業には国際協力関係が目白押しである。JICAの委託を受けて行われている途上国のリハビリテーション専門家研修も10年目を迎えた。今年も8月に来日する10名の研修生の受け入れ準備が進んでいる。研修を終えた専門家を中心に発足したネットワーク(RANAP)も活動の輪を広げつつある。新しくは、「アジア太平洋障害者の10年」の推進や障害分野のNGO連絡会(JANNET)への協力という息の長い事業も始まっている。
 国内では第17回の総合リハビリテーション研究大会が、今年は12月に名古屋で開催される。これまでの開催地の中には、地元の実行委員会を中心に関係者の結びつきができ、地方版リハビリテーション・セミナーが発足したという副産物もみられるようになった。
 かえりみれば、わが国のリハビリテーション分野の発展は先進諸国に学ぶことが少なくなかった。この間、リハ協は新しい情報を外国から受信し、国内に発信する基地でもあった。これからは、多くの先達が残された30年の実績を基礎に、リハビリテーションに関する情報センターの役割を一層充実するとともに、アジアをはじめ援助を必要とする地域の人びとに対して、私たちが得た知識・技術を提供、発信する窓口として活動していくことを期待したい。

歴史の一コマの中に

つくば国際大学産業社会学部長、筑波大学名誉教授
三澤 義一

 リハ協法人設立30周年、戸山サンライズ開設10周年、この記念すべき年に当たり、過去にかかわった者の一人として、心から祝意を表します。
 顧りみますと、わが国のリハビリテーション事業の草創期は、至るところに困難があり、その克服のために、当時の関係者が心血を注がれた姿が目の前にくっきりと甦ってきます。国内的にはもとより、国際的にも幾多の苦難があったことは想像に難くありません。リハ協30年の歴史の中でも、それが言えると思います。ボランティアに頼る厳しい道程でした。 多くの先覚者の中で、私にリハビリテーションの国際的視野を拡げてくれたのは、松本征二、高瀬安貞、稗田正虎、小池文英の各先生でした。いずれもすでに他界されましたが、ご生前の面影を偲び、ここに深く感謝の意を捧げたいと思います。
 幅の広いリハ協の活動の中で、私が関係した分野について、次に回顧してみたいと思います。

1.国際会議への参加

 第2回のマニラ会議のあとを受けて、昭和40年(1965)4月、東京で開かれた第3回汎太平洋リハビリテーション会議は、この種の国際会議としてわが国で最初に開かれたもので、極めて意義深いものでした。私にもスピーチの機会が与えられ、重度肢体不自由者の心理的更生について英語で講演しました。これが私の国際舞台への初登場でしたが、医学分野などに比べて、専門家が少なく少し淋しい感はありました。しかし心理的、社会的側面についての問題の指摘は、多少なりとも意味があったと思っております。
 昭和41年(1966)9月、西ドイツのウィスバーデンで開かれた第10回リハビリテーション世界会議には、当時WHOのフェローとして北欧におりましたので、単独で参加しましたが、小池先生、稗田先生、下田巧先生、小島蓉子先生など日本からの懐かしいお顔に接することができて、大変嬉しく思い、かつ、わが国が国際的舞台の仲間入りに自信を深め意を強くした次第です。
 昭和47年(1972)8月、シドニーで開かれた第12回リハビリテーション世界会議には、わが国からも若手の研究者、実践家が多数参加し、文字通り盛況でした。
 その後、世界会議には、第15回(リスボン)、第16回(東京)へ参加し、それぞれスピーチを行いましたが、ようやくわが国のリハビリテーションの国際的地位も高まり、肩身の狭い思いからは全く解放されました。また、汎太平洋のリハビリテーション会議にも、第6回(ソウル)、第7回(クアラルンプール)に参加しました。
 今後は、「アジア太平洋障害者の10年」の発足とともに、一層力強くリーダーシップをとることが求められております。日本のリハビリテーション・モデルが、関係各国に強烈なインパクトを与えることができるよう祈って止みません。

2.RI教育委員会の一員として

 RIの中には、医学、社会や職業と並んで教育委員会(Educational Commission)が置かれています。私は日本からの委員としてその一員となりましたが、この活動は、率直に申して負担の多い仕事でした。わが国からの情報の送付はまだしも、世界会議、地域会議、及びそれとは別に単独での会議など、出席要請が次々と舞い込み、自費参加では到底マメな付き合いはできませんでした。また、教育関係は、福祉、労働などと異なって、行政的にも固い伝統があるため、ときには、制度の硬直性について外国から批判の眼に曝されたこともなしとはしません。1981年10月に開かれた国際リハビリテーション交流東京セミナーには、デンマークのヨルゲシセン(I.Skov Jφrgensen)が招かれましたが、彼は、世界的にも統合教育についてのデンマークモデルを広めた人で、日本の現状を相当厳しい眼で見ていたようです。しかし現実がそう簡単ではないことも悟って帰ったと思います。

3.機関誌「リハビリテーション研究」

 昭和50年代前半から後半にかけて、「リハビリテーション研究」の編集委員も経験しましたが、これも当初は海外文献の紹介などホットなニュースを含めて、意義深い活動であったと思います。しかし時が経つにつれて、地盤沈下が見られたことは少々残念でした。

 現在の戸山サンライズのある場所は、私が若かりし頃8年余り勤務した国立身体障害センターの跡地でもあり、リハビリテーション前身の舞台の一つでありました。最後にリハ協に望みたいことは、次の30年に向けての基盤の強化ということに尽きます。
 シドニーの世界会議の帰路は、偶然、故太宰博邦先生と機内で隣りの席でした。「早く帰ってヒジキが食べたい」と申されたことが印象に残っています。肉とヒジキとをどう結びつけるかが今後のリハビリテーションの課題でしょう。

思い出すままに

福山大学教授  岩崎 貞徳

 協会設立30周年、おめでとうございます。
 国際障害者年の諸事業の音頭取り、第16回リハビリテーション世界会議の開催等、実に多くの優れた活動を続けてこられました。会長をはじめ、多くの関係者の努力と御苦労は大変なものがあったであろうと推測申し上げております。
 ご指示により、自分中心に過去を想起していますが、大切なことが脱落していたり、失礼な部分がありましたらご容赦ください。
 小生は、昭和37年4月から、三澤昭文先輩のピンチヒッターに立ちましたが、五里霧中で片山義弘先輩や三澤先輩に手取り足取りの指導を受けており、佐藤俊之園長さんから与えられていました「重度障害児・者の職業自立」なるテーマの重要さや意味は、理解できていない状態でした。
 そんなとき、日本肢体不自由者リハビリテーション協会が設立されましたのは、私にとっても大いに動機づけるものになりました。
 そんな中、佐藤先生から、昭和38年7月に、突如として厚生省社会局主催「第1回機能療法技術者講習会」の受講を命ぜられました。全くレディネスがないこの講習会には、本当のところ参りました。
 この受講は、経験年数等のことで、理学療法士の資格試験の受験にはつながらなかったのでしたが、この時の学習は、後に非常に役に立ったと感謝しています。
 日本での資格が短期間で取得できないのであれば、米国で資格を取得してこいということで、佐藤先生がアメリカの知人の仲介でICD(現ICD,Rehabilitation and Research Center)と折衝を始められました。結論は、「君の経歴からすれば療法士よりも作業能力の評価者はどうだろうかと勧められた。ICDに『TOWER法』という方法があり、試みに英語圏以外から受講者を入れてもよいと言う。さて、TOWERって何だ?」という訳です。
 ここで前述の「講習会」の成果の一つがでたのです。それは、三澤義一先生が講義の中で紹介されたことから個人的にも講話項き、いわゆるtextbookを拝借していたのでしたが、それと結びついたのです。
 こういう時の佐藤俊之先生は、柔軟で決断が早く、即決されました。評価の大切さも理解していたつもりでも、急に曲がれと仰ると大変です。多分、県当局並びに県教育委員会も大変であったでありましょう。
 受講終了後、幸いにも、翻訳・製作・販売等の権利を得ましたが、今度は「伝達講習」です。翻訳が早く進まないので、金原副園長さん始め多くの人に応援項きましたし、小池文英先生には家庭教師のごとく監修を頂きました。今思い出しても冷汗三斗です。
 日本肢体不自由児協会が全面的に支援をしてくださり、今野文信さんが印刷等万事進行していただいたのです。印刷は東京コロニーの調一興さんが引き受けてくださった。
 さらに、幸いにも、西川実弥さん、池田勗さんが相次いでTOWER法を受講して帰国しておられたので、昭和45年から日本肢体不自由児協会の後援で重度身体障害者更生援護施設あけぼの寮で、御一緒に伝達講習をして頂きました。この講習会はおよそ200人ほどで終結しましたが、実に優れた方々の受講でした。
 受講者の「年に1度、実践の成果を発表したり、情報交換しよう」との発案で昭和48年に広島市で第1回大会を開催しました。その後、幹事諸氏の卓越した企画力と会員諸氏の熱意により、毎年1回開催され、平成2年(1990)4月から「日本職業リハビリテーション学会」に発展しました。
 今年は、11月に第22回大会が、堺市で開催される予定になっています。
 研究会が充実発展する中で、昭和49年(1974)から、事務局を広島から「日本障害者リハビリテーション協会」に引き取って頂き、協会にある研究会の職業部会として運営し、会員には機関誌「リハビリテーション研究」を購読するようにしてきました。
 生悦住求馬会長、太宰博邦会長は、雲の上の人でしたから直接お話を拝聴する機会はなく、時々太宰会長が佐藤先生と毒舌の応酬をしながら囲碁をなさるのを拝見する程度でしたから、推測の域をでませんが、協会に余分な苦労を背負わせたことになったに違いないと存じます。
 お蔭様で、今日の学会に成長する基盤を培って戴いたと存じています。
 最後に、公私にわたり、なかんずく、日本職業リハビリテーション学会を育んで頂いたことに厚く感謝し、貴協会と斯界がますます御発展いただきますよう心から祈念する次第です。

日本障害者リハビリテーション協会とともに

米国障害者医師会(ASHP)終身会員
アジア太平洋リハビリテーションアクションネットワーク(RANAP)名誉会員
永井 昌夫

 日本障害者リハビリテーション協会(以下リハ協)の創立30周年を迎えるに当たり、心から慶祝の意を表したい。
 筆者は昭和33年にフルブライト留学中の交通事故で頚髄を損傷し、去る平成6年に国立身体障害者リハビリテーションセンターを退官した者である。したがって、筆者のリハビリテーション歴はリハ協の足跡と軌を一にしてきたといえよう。始めは助けられる立ち場から漸次教える側に立つようになったが、リハ協も、往時は欧米に学ぶ立ち場にあったが、現在は多くの国を援助する側になり、ご同慶の念に堪えない。
 ここでどのようにしてリハ協と関わってきたかを幾つか記し、回顧のよすがとしたい。
 受傷当時、日本にはリハビリテーション医学がなかったので、米国でその恩恵に浴した身として、呼吸機能の改善とともに昭和34年に回転ベッドごと軍用機で帰国した。次いで、整肢療護園の故小池文英先生と国立身体障害センターの故稗田正虎先生を紹介された。介護のついた状態で、両氏が関与していたアムステルダムの国際医学文献センター(EMF)のアブストラクターとなった。
 昭和37年から国立身体障害センターで作業療法士や理学療法士の研修が日本でも始まり、その養成や発展に微力を尽くすことになった。その後、OT,PT受験資格取得講習会となり49年まで続いた。初期はWHO他外国の講師が、米国、カナダ、スウェーデン、オーストラリアなどから参加していた。当時の受講者は、現在全国で指導的立場にいる。
 昭和39年に東京でパラリンピックや国際パラプレジア学会が開かれ、リハビリテーションの国際化に拍車がかかった。国立箱根療養所長に頼まれ、日赤語学奉仕団に医学用語やリハビリテーションについて助力をした時である。後にこのメンバーや東京コロニーの協力で米国の情報誌を出版した。現在彼らは福祉の分野で活躍している。
 昭和40年にパンパシフィックリハビリテーション会議(RIアジア太平洋会議)が東京で開かれ、稗田先生の依頼で、OT,PT講習会の外国講師や日赤語学奉仕団とともに参加した。この頃までには日本肢体不自由者リハビリテーション協会も発足していて、盛会であった。肢体不自由児・者の機関がRIとなったように、これが後のリハ協である。
 そのうちRIがリハビリテーションの10年を開始し、人的、知的交流が問われるようになった。リハ協もリハビリテーションサービスの統合化を推進していた。昭和52年に、リハビリテーション交流セミナーが開催され、筆者もその記念講演を行った。第2回からは運営委員となり、司会者、シンポシスト、編集者として一端を担った。このセミナーは、学際のみならず、専門家と一般人、障害者と社会人の交流にも大きく貢献した。
 昭和56年は国際障害者年(IYDP)で、リハビリテーションに期を画した年である。筆者もウィーンの国連専門家会議に代表として出席し、日本の国際的責任を痛感したのである。スーザン・ハマーマン女史も関係者の一人であった。
 昭和58年にはクアラルンプールでRIアジア太平洋会議があり、小池先生の推薦でパネリストとなった。会場には、マレーシアを除き日本人参加者が最大のグループであった。このスピーチが幾つかの国に紹介され、翌年のウェリントン、クライストチャーチでの基調講演へとつながる。ニュージーランドのような先進国で話をする機が熟したのである。
 RIのノーマン・アクトン事務総長の推薦で、昭和59年のリスボンにおけるRIリハビリテーション世界会議でも基調講演を行ったが、ここでもリハ協のお陰で多数の日本人参加者がいた。今やリハ協も世界的存在である。
 国際会議や海外協力者の増加もあり、ついにリハ協は昭和63年にRI世界会議を東京に招致した。RI社会委員および総括講演者として参加させて戴いたが、この会議も日本のリハビリテーションにとって画期的なことであった。その後もインドネシア他に招待講演を請われたが、今度はCBRなど、こちらが学ぶことも多かった。
 リハ協は引続き国際会議のみならず、海外の指導者教育などに貢献し、いわばキーステーションとなっている。
 日本障害者リハビリテーション協会の30周年を振り返り、お世話になったの一言である。関係諸兄姉のご努力に敬意を表するとともに、今後とも一層の発展をするよう祈ること切である。

国際リハビリテーション交流セミナー事業へのかかわり

日本障害者雇用促進協会開発相談部調査役
徳澤 實

 私は縁あって、昭和51年4月から日本障害者リハビリテーション協会の事業に協力する機会を与えられた。訳が分からぬ内に国際障害者年が動き出して、中央対策協議会だ、推進協だなどと、あれこれと騒々しい。気がついたら国際リハビリテーション交流セミナー開催事務局の一員としてVIPを担当することになり、これはえらいことになったわいと少々緊張した。
 完全参加・平等・リハビリテーションを旗印に、池袋サンシャインシティのワールドインポートマートを会場として、初めてリハビリテーション交流セミナー、リハビリテーション工学セミナーとアジア義肢装具セミナーが協同して国際リハピリテーション交流セミナーを開いたのである。海外19か国から47名、国内から圧倒的多数の参加が予定され、重度の障害者も相当数見込まれたから、主会場、分科会場や宿舎の手配など、限られた予算の中で綿密な気配りを求められた。そのため、新都市開発、サンシャインプリンスホテル、三越劇場などに会場警備やサービス面で相応のご協力をいただいた。
 宗石常務理事(当時)と一緒に、幾度か全社協に太宰さんをお訪ねし、実行計画案を説明申し上げたが、常務は質問を受けると恐縮してまともな返答をされない。大会開会式の国旗の取り扱いにしても、参加国すべての国旗をそろえてステージに飾ることは実際的ではない。東宮ご臨席の壇上に国旗を掲揚しないのも非常識であろう。結局、厚生省大臣室から拝借した日本国旗だけを掲げることにした。
 皇太子殿下(今上天皇)のお言葉の後、国際的に活躍されている和波孝禧氏にバイオリン独奏をお願いした。その際、リクエストを求められて音楽担当スタッフがシャコンヌを頼みたいと話したら、和波氏からシャコンヌは数百あるのですが何の曲をご希望ですかと聞かれて、なまがじりの知識を恥じる場面もあった。
 海外から参加したエド・ロバーツ(当時カリフォルニア州リハビリテーション局長)が呼気道の力を利用して発声、機器の操作などを行いながらも障害者の自立を訴える姿が注目を集めた。後日、私は同州政府を訪問し、知的障害者・精神障害者の職業リハビリテーション施設等の視察の際に便宜を図ってもらったが、秘書やスタッフを自在に使ったり、回転式書架にぺ一ジめくり装置をとりつけ自分で書類に目を通したり、時の人という印象を受けた。初日タレセプションヘの東宮ご臨席は1日2度にわたる異例のことであったが、大勢がごった返してあっという間に飲食物が空になった。斯界一流の講演者がこぞって協力してくださったが、本大会の成功は多数のボランティアの活躍によるところが大きかった。

思い出のままに

東京都福祉事業協会理事長   宗石 文男

 私が財団法人日本障害者リハビリテーション協会(以下、リハ協)の常務理事に就任したのは昭和52年6月であった。当時は、その沿革から社会福祉法人日本肢体不自由児協会(以下、日肢協)内に事務局を設置し、同協会の会長以下の役職員が兼務して運営に当たっていた。私は総務担当で整肢療護園長の小池文英常務理事が、事務局長を兼ね業務部門を担当し、二人で会長を補佐し事業運営を進めていた。
 私は当時、事業不振に陥っていた日肢協本部の立て直しを図ることが緊要事であり、着任早々に現状にそった再建計画を提案し、その計画に基づいて事業の合理化を進め、職員も大幅に減員した。リハ協も日肢協に並行して財政基盤を確立し、事務局に専任職員を配置することを当面の目標にした。
 幸い日肢協本部事業も52、53年度にかけおおむね安定化の見通しがついたので、リハ協の機能強化に重点を向け、小池先生と密接に連携し、国際障害者年の昭和56年を目途に活動を展開してきた。厚生省に足しげく通い、助成団体の助成金、寄付金等の斡旋を依頼して事業資金の確保に飛び回った日々が壊しく思い出される。厚生省は私共の古巣であり、何かと積極的にご指導ご支援を賜り、日本小型自動車振興会、丸紅基金等から調査研究費として数多くの助成を受け、また日本アイ・ピー・エム(株)、日本民謡協会等から寄付金を戴き事業資金を育成し、その結果職員も日肢協の丸抱えを脱し安心したことであった。
 今も心に残るのは、厚生省の斡旋で54年5月、代々木の国立体育館で催された日本民謡協会主催の全国民謡コンクール大会に出席し、休憩時に福祉募金をお願いし幾ら集まるかと、それのみに気をもんでいたとき、代表者の100万円台に達している発表を耳にした時のうれしさ、これで会長が気にしていた国際リハ協本部の分担金増額も職員数の補完もできると腹の底からほっとした。また以前、寄付金を戴いた有力な企業に張り切って会長の趣意書を持って伺うと、応接に出た総務部長は私の顔をじっと見て「あなたは先般も見えましたね。ほかに大宰博邦さん名で3件来ていますよ。今回は遠慮します」と不機嫌な顔で断わられた。こんな事例は何件もあり、一般の寄付を受けるのは容易ではない。それにしても、厚生省の紹介の時はほとんど百パーセント成功しており、改めて国の強さを感じた。こうして財政面は順調に強化され、52、53年度の収支決算額は1千万円前後であったが、54年度は2千万円を超え専任職員も3名配置し、国際障害者年にむけて民間サイドの中心母体となって、太宰会長主宰の準備協議会を大小10数回行い、55年4月19日太宰会長を代表とする国際障害者年日本推進協議会(推進協)が設置された。その間における事務処理等には、何かと苦労の多かったことを思い出す。
 国においては、55年3月25日、総理府内に国際障害者年推進本部を設置し事務的な活動にはいり、民間団体に対する国の助成等については、厚生省更生課長板山賢治氏の強い後押しにより直接リハ協が受けることが多かった。また55年の初秋頃と思うが、推進協小委員会で日本てんかん協会常務理事の松友下氏から、大阪市のミスタードーナツ共同体代表が国際障害者年記念事業として費用持ちで10年間”障害者リーダー米国留学研修派遣”を実施したいが、お願いできるかと申出の旨報告された。私はこの事業の実施は、リハ協が最適であると、その理由数件をあげ説明し、審議の結果、太宰代表の決裁で承認され、リハ協の実施となった。早速竹内副会長指導の下に派遣計画が子細に検討され、予定より遅れたが、56年12月にこの画期的事業の第1回派遣障害者10名が希望を胸に米国に渡った。
 障害者年の56年にはいると事務が増大し、その対応に苦慮していたが、板山課長の肝いりで、東京コロニー常務の調一興氏のご協力を受け専任事務局長の費用を2年間見て戴くことになり、4月1日国立施設長の要職にあった、玉木修氏を迎え事務局が一段と充実した。さらに、この年明けに厚生省より「障害者リハビリテーション振興基金」の運営管理を受託し、内心これでリハ協の運営は安定すると小踊りした。厚生省当局のご支援を受け、募金集めに明け暮れた日々が懐かしく蘇る。
 私はこの年の12月末にリハ協を退任した。静かに当時を偲びこの4年半は、私には初めての仕事で厳しくて多忙であった。幸い健康に恵まれ、卓越せる指導力を持たれた太宰博邦会長の下で、心から敬愛する小池文英先生と、杯を安しつつ時には涙し励しあって両協会の再建に打ちこんだ日を思い、今は無きお二人のご冥福を祈りつつ感謝に咽ぶ次第である。また、誠心誠意一貫して私を助けてくれた今野、玉木両氏を中心とした同僚諸氏に衷心から感謝すると共に、私の心の中に消えることのない苦しく多忙を極めた年月が爽やかな楽しい思い出となって残る。

素晴らしい方々との出逢い

国立身体障害者リハビリテーションセンター
指導部指導課主任生活指導専門職
奥野 英子

リハ協会での仕事

 私が日本障害者リハビリテーション協会(以下、リハ協会)で仕事をさせていただいたのは、昭和43年から昭和50年までの7年間でした。この間に素晴らしい多くの方々と出逢い、多岐に亘る貴重な体験をさせていただき、私にとっては正に、職業人としての基礎と人生の礎を築かせていただいた、かけがえのない7年間でした。創立30周年を迎えた今、その頃の事を振り返って見ると、様々な場面が走馬灯のように脳裏に甦って参ります。
 私は大学時代から日赤語学奉仕団に籍を置き、国立身体障害センター英会話クラブのボランティアをしておりましたが、その頃、リハ協会の仕事をしていた日赤語学奉仕団の先輩森隆子さんが出産を予定しており、彼女の後任としてリハ協会で働かないかとのお誘いを受けました。大学4年生の時でした。
 私としては、大学が英文科であったこともあり、英語を使って身体障害者関係の仕事ができることが最大の望みでしたので、リハ協会の仕事は私の希望にぴったりでした。
 昭和40年代のリハ協会は、整肢療護園園長の小池文英先生が常務理事と事務局長兼ナショナル・セクレタリーで、リハ協会の職員は、パートの女子職員1人でした。
 晴れて私は、そのパートの女子職員となり、週2回出勤の日給制で働くことになりました(その当時私は、あと2日を日本身体障害者スポーツ協会で仕事をしておりました。)。仕事の内容としては、国際肢体不自由者リハビリテーション協会本部や、各国における加盟団体との手紙の交信、海外から日本を訪れる訪問者のための施設見学の案内、海外の文献の翻訳等が中心でした。海外から訪日されたお客様の中には、ノーマン・アクトン事務総長のほかタイのケオカーン医師、米国のサフィリオス・ロスチャイルド女史等想い出深い方々が沢山います。その中には様々なハプニングもありました。施設見学を設定し、朝、待ち合わせ時間にホテルに迎えに行くと、約束の時間に起きてこられ、それからホテルのレストランでお紅茶とビスケットの朝食を悠然と始めるイギリス紳士や、横浜埠頭にお迎えに行き、待ち合わせのタラップで1時間以上待ってもお会いできず、特別に許可を得て客室を訪ねて見ると風邪で伏せておられ、施設見学どころではないオーストラリアの老婦人等等…、懐かしい想い出は尽きません。
 その後、「国際リハビリテーションニュース」や「リハビリテーション研究」を発行することになり、週2回の勤務では仕事を処理できないため、昭和45年から日本肢体不自由児協会のフルタイムの職員となり、日本肢体不自由児協会の仕事をしながらリハ協会の仕事をすることになりました。

小池先生の想い出

 小池文英先生と、その当時リハ協会の事務局が置かれていた日本肢体不自由児協会でお会いし、その後7年間仕事をさせていただきましたが、小池先生は英語も非常に卓越しておられ、判断も常に冷静で、的確な指示を与えて下さいました。小池先生も週2回、整肢療護園から日本肢体不自由児協会に出向かれ、そこでリハ協会の仕事を処理なさいました。ご自分が何事も迅速に処理できるため、私に英文の書簡の作成を指示なさると、タイプに向かって打っている私の後ろに立たれ、せわしそうに足踏みをして、打ち上がるのを待っておられた情景が、今でも鮮明によみがえって参ります。
 1971年に日本都市センターにおいて「汎太平洋リハビリテーション会議」を開催した折には、小池先生も私も日本都市センターに泊まり込んで運営に当たりましたが、小池先生は気がかりなことがあると、夜中でも、ドアをノックされ、仕事の確認にこられました。
 私のわがままにより、昭和50年にリハ協会を辞めて社会福祉の勉強をするために大学に戻らせていただき、やはり日赤語学奉仕団出身の間千穂さん(現姓清水)にバトンタッチをしました。大学院を終了する頃小池先生から、「また是非リハ協会に戻ってくるように」と、暖かいお誘いをいただきました。私は、「リハ協会のような仕事をするためにも、現場での経験がないと良い仕事はできないので現場に入りたい」と主張致しましたところ、それに対し小池先生は「国際協会のアクトン事務総長だって現場での経験がなくても立派な仕事をしておられる。想像力さえあれば、現場での経験がなくても良い仕事はできる」と、私を説得しようとなされました。
 しかし、私はどうしても障害者リハビリテーションの現場で働きたく、その結果、小池先生は国立身体障害者リハビリテーションセンターの採用試験を受ける私を厚生省に推薦して下さいました。小池先生が病いのため東大病院に入院なさった折、その病床で、国立身体障害者リハビリテーションセンターにおける私の仕事の内容について細かに問われ、私が希望通りの仕事ができているかを案じて下さっていたことを、今でも忘れられません。
 小池先生との出逢いが、現在の私の基礎を作ってくれたことを思い、心から感謝しております。

太宰先生の想い出

 当時、太宰博邦先生はリハ協会の副会長でしたが、本務は新宿の東京厚生年金会館に本部を置く厚生団の理事長でした。
 厚生団の秘書や職員の皆様から「おやじ」と呼ばれ、尊敬を一身に受けておられました。日本肢体不自由児協会には小池先生同様、週2回ほどいらしておられましたが、おいでになるといつも、まず、用務員のおばさんに「元気かね? いつもお世話がけるね!」と声をかけながら、事務室に入ってこられました。日本肢体不自由児協会の新年会や忘年会の席では、率先して余興をなさり、気さくに、職員サービスに努めておられました。
 太宰先生とご一緒に寄付金をいただきに出向くことが何度かありましたが、ホテルニューオータニで開催された「ミス・ユニバース国際大会」では、会場で私に「手をつないで入ろう」とおっしゃり、私は恥ずかしいやらおかしいやらでしたが、国際的な場ではインターナショナルに振る舞われた太宰先生のユーモアあふれるお姿を今でも忘れることができません。
 太宰先生からは厳しさの中に大きな暖かさを常に感じ、本年1月の「太宰先生とのお別れ会」に参列させていただき、太宰先生の見事な一生の一端に触れさせていただいたことを心から感謝致しました。

お世話にになった多くの方々

 リハ協会は現在大きく発展し、沢山の職員がおられますが、私がリハ協会で仕事をさせていただいていた頃は、リハ協会の職員は小池文英先生と私だけでした。
 しかし、この二人だけでは細々としたことしかできず、リハ協会の事務局を日本肢体不自由児協会の中に(具体的には机一つと英文タイプライター1台だけ)置かせていただいていましたので、日本肢体不自由児協会の職員の方々には大変お世話になりました。
 当時、日本肢体不自由児協会事務局長の宮田国精氏、出版関係では今野文信氏、タイピストの竹内マサエ様には殊の外お世話になりました。大きな行事を実施したり研究事業を行う時には大橋政照氏、中条源吉氏、平野勝誠氏ほか、多くの方々のご協力をいただきました。このような方々のご協力によりリハ協会という小さな組織でも、なんとか、事業を無事進めることができたのだと思います。
 「国際リハビリテーションニュース」や「リハビリテーション研究」発行については、割付作業等はすべて今野氏に頼り、お忙しい日本肢体不自由児協会の本務のほかにリハ協会の仕事を手伝っていただきました。リハ協会は財政面でも脆弱であったため、お手伝いいただいても何の謝礼もできず、「せめて、1号発行につきウィスキー1本でもお礼ができればいいのに!」と冗談を言いつつも、それもままならぬ状況でした。
 また、リハ協会の仕事を通して厚生省社会局更生課の方々にも大変お世話になりました。その当時、福祉係長であられた奥山元保氏や河野康徳氏はリハ協会の担当窓口になっておられ、常にご相談に乗っていただき、ご指導・ご支援をいただきました。昭和40年代に更生課におられた井手精一郎氏、塩崎信男氏、松尾武昌氏、石倉満行氏、竹内憲正氏等にもお世話になり、この方々にお会いできるのを楽しみに更生課のドアを開けたものでしたが、その頃からすでに約25年の歳月が経つことが信じられないくらいです。
 現在のリハ協会は優秀なスタッフをかかえ、事業も拡大し素晴らしい活動を展開していますが、リハ協会の草創期の7年間関わらせていただき、その仕事を通して故小島蓉子先生、小川孟様、また、三沢義一先生、松井亮輔氏、三ツ木任一氏、丸山一郎氏ほか沢山の方々とご縁をもち、現在もお付き合いいただきご指導いただけることを本当に幸せに思っております。
 リハ協会が今後も、日本および世界、そして特にアジア諸国との協力により、有意義な事業を更に推進なされることを期待し、私も少しでもそのお役に立てれぱと願っております。

RIと第16回リハビリテーション世界会議の開催

元日本障害者リハビリテーション協会業務課長   中島 和

国際リハビリテーション交流セミナーの開催

 1980年大学院を終えた時紹介された2、3の就職先の中から、他の条件はさておき週に2、3回数時間という点にひかれてお世話になることに決めたのが日本障害者リハビリテーション協会(以下リハ協という)だったのだが。それまでのリハ協は日本肢体不自由児協会の庇護の下、全くボランティアで尽力されていた小池文英常務理事とパート1ないし2人で細々と活動していた。それが私が入るなり、国際障害者年を目前にして、国際障害者年日本推進協議会の設置、国際リハビリテーション交流セミナーの開催、「障害者の福祉」の創刊、障害者リーダー米国研修派遣事業、天皇基金募金など次々と計画が降ってきてたちまち週2、3日ところではなくなってしまった。
 最初の大きな行事は、81年に池袋で開催した国際リハビリテーション交流セミナーである。人はいない、お金もない、経験もないの無い無いづくしで何とか皇太子殿下並びに同妃殿下をお迎えして開催できたのは、本当に多くの方々の暖かい協力があったからであった。いろいろと指導いただき、細かいことまで一緒にやってくださった宗石文男常務理事、今野文信部長、平野勝誠氏をはじめとする日肢協の職員の方々、板山賢治謀長、塩崎信男課長補佐以下の厚生省の方にも実務を色々教えていただいた。小池先生の指揮の下、アルバイトやボランティアを集めて何とか準備を進めた。しかしセミナーの2か月くらい前になっても先は見えずどうなることかと。新たに着任された玉木修事務局長と、厚生省から応援に駆けつけた徳澤実氏、佐藤忠氏、服部兼敏氏の協力ハワーでやっと開催に漕ぎつけたのである。フルタイムのボランティアを申し出てくれた当時学生の千田透さんは現在厚生省で活躍されている。交流セミナー実行委員はほとんど当てにならない事務局を当てにせず自ら準備に駆け回り、パラリンピックのために結成された語学奉仕団員もボランティアとして協力してもらった。途中で契約していた旅行社が倒産したり冷や冷やで、しかしすべて手作りで開催した国際交流セミナーの経験は、のちの世界会議の開催のための貴重な経験となった。

小池先生から上田先生へ

 RI(リハビリテーション・インターナショナル)の加盟団体としてリハ協からは、もっぱら小池先生が日本代表、ナショナル・セクレタリーとして会議には出席されていたが、分担金を払えない協会の代表としていつも弁解ばかりのご苦労であった。しかし小池先生はそのお人柄と非常に上品で平明な英語で各国代表の信頼が厚く、是非日本で世界会議を開催して欲しいという要望を受けた。そして日本開催を関係者に熱心に説いて回った。1983年、クアラルンプールのアジア太平洋地域会議には出発直前まで準備されたのだが、病のために断念された。代わりに太宰博邦会長、中村裕先生らが出席し、私もRIの会議を初体験した。クアラルンプールでは、一般参加者を迎えての地域会議に先立って、フィリピンのフロー口委員長を中心にRI地域委員会が開催された。地域組織の運営と資金が重要な課題であった。
 その後、小池先生の遺志を継いで太宰会長の下、リハ協として世界会議招致が決定された。津山直一先生と新ナショナル・セクレタリーの上田敏先生を迎え、83年4月にニュージーランドで開催された地域委員会には、両氏が出席された。

世界会議招致運動

 さて、5年後に向けてそろそろと考えていた我々を驚かせる情報がRI本部から入った。オーストリアも開催地に立候補するというのである。新メンバーでワシントンで開かれるRI総会に乗り込み、開催を勝ち取らなければならなくなった。メンバーはRIに馴染みがないし、「弁舌さわやかに」という点では英語というハンディがあるし。まず事前にニュースレターを各国に送り、我々の開催意欲を伝え、当日は美しいパンフレットやおみやげでという作戦が立てられた。もちろん費用は最低限でやらなければならない。
 作戦はたっても、どんなものを作ればよいのやら途方に暮れた。幸い、開催未定の会議でも協力できるという会議専門会社のICSがあり、事務局としてはなんとか会議招致キャンペーンをやることができた。ワシントンにもこの会社と、国際観光振興会のニューヨーク事務所のスタッフが出張してくれて大いに助かった。
 1983年10月にワシントンで開かれたRI総会には、太宰会長、竹内嘉巳副会長、津山先生、上田先生と私で出かけた。世界RI初デビューのメンバーを各国代表に紹介し、開催を熱心に応援してくれたのは太宰会長の旧友で前RI事務総長ウイルソン氏だった。香港のファン氏をはじめとするアジアの代表の支援も心強かった。もちろん、日本代表も慣れない笑顔を振りまき、身体障害者雇用促進協会の松井亮輔氏も健闘された。
 総会の最終日、票決の結果日本開催が決まった。落選を聞くと席を立って帰ってしまったオーストリア代表には、申し訳ないような、しかし無事役目を果たして心からほっとしたものである。病身を押してワシントンに行かれた太宰会長の熱意と人柄が多くの人の心を動かしたのは間違いない。

第15回リハビリテーション世界会議-リスボン

 第一の目標はなるべく多くの参加者を確保すること、極東の地にみんなが足を運んでくれるよう日本を宣伝することであった。1984年6月リスボンで開催された第15回リハビリテーション世界会議では、ブースを設けて日本の宣伝を行うことになった。また一人で数十人の日本人参加者のことから、RI総会にかかわる業務、そしてキャンペーンまでと途方に暮れていたが、この時も日本交通公社から応援が得られ、ボランティアを頼み、切り抜けることができた。展示会場の一番良いスペースを確保し、観光ポスターや、日本風の飾り付けをし、折り紙作戦をし、日本紹介の資料や、会議案内パンフレットを配布した。折り紙作戦は思いの外好評でいつもブースが人でにぎわっていた。日本からの参加者も多数折り紙指導やらパンフレット配布に協力された。
 リスボンでの第二の任務は世界会議の下見であった。これは、行ってみて大いに楽になったものである。お国柄か、開会式は遅れること1時間、開会式中にも奥ではトンカントンカンとまだ工事中、プログラムが出たのは3日目など正直これよりはやれるだろうと。しかしスタッフのやさしさ、さりげない心暖まるレセプション、映画祭、分科会の密度の濃い討論などは大いに参考になった。予定の座長や講演者が現れない分科会には驚いたが、日本では彼らを時間通りに集めなくてはと思いやられた。会議後、リスボンの組織委員会に運営の概要をインタビューした。いろいろ参考になる助言を得られたが、RI本部との連絡や意見調整が一番大変だったそうである。これは、当たっていた。
 リスボンでの最大の仕事は、RI総会での役員選挙になった。アジアの国々からの強い要望もあり、津山先生がアジア太平洋地域副会長に立候補したのだが、この選挙もふたを開けてみるとオーストリアの代表との一騎打ちになった。幸いに多くの支持を得て当選した。この選挙で、オーストリアのカイエッカー氏が会長になり、事務総長はアクトン氏の引退によってハンマーマン氏が就任し、RIは新しい体制でいよいよ東京会議の準備に入った。

RIアジア太平洋地域委員会

 RIでは副会長が地域委員会委員長として地域の仕事をする。地域委員会の副会長には香港のリー氏、事務局長には上田先生が選出され、毎年の地域委員会の開催も日本の仕事となった。1985年は香港で、1986年はアジア太平洋地域会議と同時にインド・ボンベイで開催した。地域には小委員会が八つあり、それと地域委員会が開かれる。参加者の世話や会議場の準備、それに地域会議は開催地の担当だが、小委員会、地域委員会の議事や資料は委員長の担当である。津山委員長と上田事務局長は忙しい本職の合間に多大の時間を割かれ、会議に出かけるのみならず日本でもその任に当たられた。
 2年かけて整備した地域委員会規則は、日本のRIに対する大きな貢献になった。それまでRIの地域組織の位置づけが暖昧で地域ごとにバラバラな活動をしていたが、のちにアジア太平洋地域の規則が、RIの地域委員会規則の基本として採用されたのである。しかし最終的に採択されるまでには、地域の自立を恐れるRI本部からの圧力も大きく困難だった。
 それまで、地域の活動は年1回の地域委員会だけになっていたので、「RECAP News」という地域ニュースも定期的に刊行し、地域内の情報の交流を図りまたアジアの情報を世界にも提供した。RI本部が出す「International Rehabilitation Review」も遅れがちの中で大変評価された。
 東京世界会議の陰になりあまり国内では知られていないことだが、津山先生と上田先生がこの間、アジア太平洋地域のために尽力されたことは世界には広く評価されており、今日「アジア太平洋障害者の10年」に地域がまとまる基礎にもなったのである。

世界会議の準備とRI


 世界会議開催までの、RIとの調整は大変だった。世界会議は、RIと「会議の開催運営についての取り決め」を交わし、それに基づいて実施される。金銭面での折り合いはなかなかつかなかった。RI側は、登録費は安くすることとその一部をRIの本部の収入にしたいと主張し、とても簡単には飲めない日本側と役員会の席上では激しいやりとりも繰り返された。RIは財政困難の中で、唯一大きなお金の動く世界会議から何とか収入を得たいという切羽詰まった状況にあり、一方、一体いくらお金が集まるか全く予測のつかない日本である。普段は温厚なカイエッカー会長も顔を紅潮させて発言し、会計担当役員のシートン氏は声を荒げるという中で、リハ協の代弁役として上田、津山両氏は本当に苦労された。
 ようやく、1985年東京で開催した役員会では太宰会長も出席され、登録費を円建てにすること、開発途上国から参加者を招待すること、世界会議の準備の一部をRI本部が分担することに対し費用を払うこと、会議終了後に余剰金がでたときはRIに寄付することで調印となった。徹底した倹約作戦で、後日幸いにも十分な金額をRIに寄付することができた。このやりとりの中では、明らかにできることしか約束はできないという日本人の考え方と、できるかどうかはやってみなければわからないのだからとにかく金額を明示して努力を約束したらどうか、という彼らの考え方の違いも大きかった。
 「取り決め」では、金銭的なことのほか、特にアクセスについては完壁な確保が要求された。これは、当時当事者の攻撃の的となっていたRIとしては是が非でも主張したい点で、役員会は年2回、総会は1回開かれるが、そのたびに津山世界会議組織委員長もしくは上田事務局長は、進展状況を報告しなければならなかった。ここでも、心意気だけで胸を張って「アクセスは完壁にする」と言うことができる人々と違い、成田の雑踏や新宿、ホテルのバスルームが頭に浮かんでしまう我々は、とても「完壁」などとは口にできない。いろいろ文化の違いを実感させられた。
 RIの総会、役員会は、1985年ロンドン、1986年アフリカのスワジランド、1987年フィンランドのトルクで開催された。このほかにも役員会が開かれ、いつも深刻な議題は障害者の参加と財政であった。1980年のウイニペッグ世界会議の折に誕生したDPI(障害者インターナショナル)は、当事者が脚光を浴びる時流に乗って国際社会で強大な発言力を得、特にRIを攻撃目標にした。国連や国際団体のお金も代表権も障害者団体に流れるようになり、RIは窮地にあった。攻撃の矛先を避けるために、RIは役員の半数を障害者にするという大改革を行い、財政危機に対しては、ライフパトロンという個人寄付を受ける制度を設けた。この個人寄付は当時日本円に換算して60万円以上の高額だったにもかかわらず日本からも多数の方が協力した。
 RI総会の時には、RIの常任委員会も開催される。この常任委員会がRIのブレインであり、世界会議のプログラム作成には中心になり、また各委員会と共同でポストコングレスも開催しなければならないことを見越して、なるべく日本からも各委員に出席を願った。職業委員会には小川孟氏、松井亮輔氏、組織運営委員会には丸山一郎氏と小野隆氏、教育委員会には小鴨英夫先生、三澤義一先生、社会委員会には永井昌夫先生、小島蓉子先生、ICTA委員会には初山泰弘先生、野村歓先生、寺山久美子先生、医学委員会には岩倉博光先生が交代で熱心にご出席下さった。ここでも財政難のリハ協はどんな遠路であろうと、どなたであろうと一番安い切符でご旅行いただいたのである。

第16回リハビリテーション世界会議

 世界会議の準備については公式の記録を報告書に載せたが、思い出すままいくつか裏話を紹介する。
 会議には、世界各国からさまざまな要望や要求が届いた。発表したいという要望は数限りなく寄せられポスターセッションを設けて応じた。1988年はちょうどファックスがヨーロッパにも普及した時で、発表原稿がファックスでどんどん送られてきたのは予定外だった。来てしまった以上、アブストラクトに載せないわけにはいかず、かといってファックス原稿から印刷はできず、事務局は直前にてんてこまいした。
 登録には一人の障害者に数人の介護者という申し込みもあった。外貨持ちだし制限のため滞在費が負担できないという東欧諸国から、滞在費を負担して欲しい、その代わりに日本から視察に来たら滞在費を全額負担するという要望もあった。一部の国には、世界会議後に日本から訪問できたものの、大半は共産圏の崩壊で反古になってしまったが。
 幅90cmの車椅子を探して欲しいという要望は、遂に応じられなかった。会期中にはホームシックからパニックになった人、どうしても自分のビデオを上映して欲しいと事務局に座り込んだ人。真夜中にアフリカから、参加者におみやげにカメラをやって欲しいなどという訳の分からない電話もあった。
 しかし、事務局本部まで届いたトラブルが少なかったのは、総数500名近い応援の各団体職員やボランティアが各部署で適切に対応してくれたおかげである。
 各委員会に協力いただいた沢山の委員のお名前が報告書に載っているが、委員の方々も委員会に出席するだけではなかった。何しろ委員会ごとに担当する職員がいるわけではないので、自ら動いていただくことになった。たとえば、各プログラム委員は委員自ら講演者の交渉に当たり、座長を務め、あるいは担当分科会の進行を管理した。施設見学を担当した委員はコースの設定から、交渉、引率もした。式典行事委員は分担した行事の企画から運営まで責任を持って当たった。展示委員も同じである。そして、他の国際会議に見られないアクセス委員会の活躍ぷりは著しかった。会場、ホテルはもちろん、成田空港、羽田空港、東京駅、新宿駅、JR東日本、小田急などとおよそ考えられるところには出向き調査をし、改善や対処を交渉した。ある委員は京王プラザホテルの客室改造には建築コンサルタントを務め、他の委員は新宿の街を調査し新宿地区車椅子マッブを作り、またお知らせランプや車椅子などの機器の提供を得に行きと、次から次へと思いついてしまう障害を全部取り除こうと努力を重ねた。財政厳しい折、交通費すら十分に支払わないリハ協で、委員も文字どおりボランティア活動であった。
 さて当時、会議裏方を固めたのは今泉昭雄事務総括と斎藤正明事務局長の下で働いた事務局スタッフである。250件のアブストラクト、発表論文を管理し、プログラムや資料を次々と作ったのは後藤由美子さんと新井由紀さん、もちろんあの分厚い日英の報告書も二人の手になる。200名近いボランティアを募集し訓練し動かしたのは高島和子さんと藤井悦子さんで、高島さんはJICA研修生の受け入れも同時に担当し、藤井さんはアメリカに派遣した10人の障害者の世話もしながらだった。開発途上国参加者の宿舎の手配から旅費の支給まで131人を一手に引き受けた河村ちひろさん。トニー・ダルビーさんの頑固さとすばらしい働きは会議の英語の質を高く維持したが、その熱心さはあの穏健で知られる広報担当の松井亮輔さんも激怒させた逸話も残っている。鈴木正美さんも広報を担当、吉村伸さんは戸山サンライズで障害者の受け入れを担当、経理や事務の裏方をがっちり固めたのは高橋健治さんを頭に、西野謙治さん、小林洋子さん、そして、アクセス、成田空港送迎、美とパフォーマンスに映画祭とどうやってこなしたのか、そのうえ、JICAの研修生も引き受け、今となってはその働ぎぶりが伝説となっている上野博さん、事務局長の補佐役から官庁や関係団体との折衝などすべてのリハ協の雑務を引き受けたうえ、17台のリフトバスを東京中からかき集めて運行させた内海和明さん、会期中に奥さんから「一か月以上家に帰ってこないけれど生きているでしょうか」と電話がかかったというのは本当の話である。
 関係団体の協力は、会議、プレ・ポストコンクレス、施設見学、関係行事などを含めると文字どおり数え切れない。業務を委託した企業にも恵まれた。特にリハ協の陣容が整わない準備期間に、委員会業務からRI役員会の開催、RI地域委員会への出張とありとあらゆる注文に応じて6年間にわたって取り組んでくれた森部さん、布川さん、浅水さんら多数のICSスタッフと日本交通公社の岡田さん、岡本さん、そしてアクセスに真剣に取り組み、便宜を図ってくれた京王プラザホテルの遠藤さんの協力もありがたかった。

国際委員会

 太宰会長の節約令は厳しく事務局長も苦労されたが、苦労のかいあって余剰金を残すことができ、一部はRIに寄付した。半分はRI本部の資金として、半分はアジア太平洋委員会の活動資金としてである。さらにリハ協に残った分はアジア太平洋地域の障害者福祉のために使うということになり、国際委員会が設置されたのである。早速、インドネシアのCBRセミナーの開催費、タイの職業訓練事業などに補助ができた。

最後に

 リハ協会の思い出をと言われたとき、一番書きたいと思ったのは世話になった方一人一人のことだった。とてもかなわぬことだが、振り返ってみると、パートのつもりでうっかり働き始めてしまった私が12年間にわたってリハ協会で何とかやれたのは、本当に国内、国外の多くの方に導かれ、助けられ、支えられたお陰である。中には本当に迷惑したと思っておられる方も多いであろうと恐縮している。そして暖かく見守って下さった太宰会長はじめ歴代の役員、常務理事、事務局長そして同僚として働いて下さった方々に感謝でいっぱいである。
 最後に、故人になられた小池文英先生、中村裕先生、岩倉博光先生、日肢協の阿部正利常務理事、小島蓉子先生、太宰博邦会長、一緒にリハ協で机を並べた山田順子さん、ありがとうございました。ご冥福を心からお祈りいたします。

「障害者リーダー米国研修派遣」の思い出

元日本障害者リハビリテーション協会職員   井窪  有紀子

 日本障害者リハビリテーション協会の創立30周年、誠におめでたくお祝い申し上げます。その記念誌にあて、同協会で、国際障害者年を記念してスタートした、障害者リーダー米国研修派遣事業の最初の事務局担当者として、思い出を書くようにとのお達示でした。つたなく、まことに個人的なことかとも思いますが、ここに記させていただきます。
 私は1981年6月アメリカの大学を卒業、7月末に帰国、そして8月始めには何も人並みなことも分からず、できないままに日本障害者リハビリテーション協会に就職、この事業の事務担当をすることとなりました。就職してすぐに既に書類選考で選抜されていた米国研修1期生の2次選考があり、引き統き3次選考、と何がなんだかよくわからないながらもただ無我夢中、失敗だらけの日々でした。
 いまでこそ障害を持った人々の留学や海外旅行はそれほど珍しいことではありませんが、国際交流華やかなりしこの1981年、国際障害者年のころでも、障害を持つ人々、特に重度の障害を持つ人の海外渡航は一般的ではなかったと思います。最初の10名が選考されたのちの出発前研修でも、基本的な語学の研修に加え、日米の生活習慣、文化の違いをできるだけ理解していく、ということを目標に置きました。たとえば、目に物を言う文化、言葉ではっきり言われなくても相手の望むことを理解するなどというのは、アメリカでは通用しにくいことです。家で家族とともに暮らしていた研修生は、家では介護のうえで望むことを1から10まで口にしなくてもしてもらえたことも、アメリカでアデンタントを自分で雇いやってほしいことを伝える時は、細かくすべてを言えなければなりません。ある両手に障害のあった研修生が「顔をあらってください」と指示したら、洗うだけで拭いてもらえなくてびっくりしたということもありました。日本では顔を洗ったらそのあと何も言わなくても拭いてもらえるでしょうが。嘘のようなほんとの話です。
 これはささやかな例ですが、日常だけでなく研修の上でもすべてにこういった日米の違いが問題になりました。たとえば、多くの研修生が、「アメリカの何々を実際に見て、肌に感じとりたい」といったような研修希望を述べていましたが「肌に感じる」を何とか英訳してアメリカ側の担当者に伝えても、「ではそのために具体的に何をここでしたいのか」と切り返され、返答に苦しんだこともありました。事前研修でも「何を学びたいのか」英語のレポートを繰り返し繰り返し書いてもらったりしましたが、事前に文献などを読み具体的な目標を持っていた人は少なく、「見るだけなら、本に載ってる写真を見れば十分」などと随分きついこともいったように思います。いまになると、自分も同じ立場にいたらやはりアメリカに行く前に具体的な希望を述べるのは困難だったろうなと思い、随分意地悪な事務担当者だったなと反省しています。
 アメリカ大使館へ心配しながらビザの申請に通ったこと、「もっと障害者を理解してください」と航空会社の人に文句をいったこと、テレビ局のリポーターに殊更に感動秘話のようにしゃべってくれといわれてむっとふてくされたこと、視覚障害者の出発時、成田で航空会社の人に車椅子に乗ってくださいと言われ「障害者イコール車椅子」という認識になんて分かってないんだろうと嘆いたこと、若気のいたりで怒ったり、文句をいったり、振り返ると本当に未熟な事務局員で回りの方々にご迷惑をかけましたが、それから10年、いま障害を持つ人達はそのころよりもっともっとスマートに自然体で海外へも飛躍しているように思えます。派遣事業は10年継統されましたが、その1年1年の積み重ねも少しはそれに貢献しているように思えます。
 研修留学だけでなく、ひとりひとりの人が、たった一度の人生、世界の様々な所に出掛け、様々な人々と出会い、見聞を広めるのは素晴らしいことです。これからも多くの障害者がそのようなチャンスを持てるよう、そのためにも日本障害者リハビリテーション協会の一層の発展と飛躍を心からお祈りしています。


主題・副題:

30年のあゆみ
日本障害者リハビリテーション協会30年 戸山サンライズ10年

発行者:
財団法人日本障害者リハビリテーション協会
〒162-0052 東京都新宿区戸山1-22-1
TEL 03-5273-0601 FAX 03-5273-1523

頁数:1頁~31頁

発行年月:平成6年11月30日