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30年のあゆみ

日本障害者リハビリテーション協会30年、戸山サンライズ10年

NO.12


第2部 全国身体障害者総合福祉センター
(戸山サンライズ)の概要

あいさつ


 月日の流れは彗星のように早い。このセンター(戸山サンライズ)も全国の身体障害者の社会参加へのかけ橋として、昭和59年12月9日に開館して、10周年を迎えることとなった。
 この10年間、センターを利用された関係の皆様には、多くの叱声と感謝の言葉を賜った。職員一同、心を一つにして利用者各位へのサービスと安全に努力を注いできた。大きい事故、災厄も無く今日までこられたことはまことに幸いである。
 このセンターの裏庭(体育館の横)に「天皇の松」と銘うった石碑とやや古びた松が一本植えられている。石碑には昭和29年10月1日という日付が刻まれている。これは昭和29年10月1日に、かつてこの地にあった国立身体障害者更生指導所に、昭和天皇と皇后陛下が行幸啓され、これを記念して当時の入所生有志がこの松を植えたものである。爾来30年ここにあった国立身体障害者更生指導所も、すでに昭和54年7月、新所沢に移転し、その跡地に残された由緒ある松が、全国身体障害者総合福祉センターの建設に伴い、昭和59年10月1日、建設省から厚生省に引き渡しが行われると同時に移植されたのである。くすしくも天皇、皇后両陛下の行幸啓と同一の月、日(30年前)であった。
 石碑の裏に「功文社」と記してあるのは、この松の由緒を後世に残すため、石碑と小さい庭を作ることとなり(当時国立身体障害者リハビリテーションセンター管理部長、故土屋三友氏と相談)、これに要する経費をすべて株式会社功文社(代表取締役、花岡功氏)のご好意に仰いたからである。
 この松も一時、心ない人によって、夜間数次に亘り、無残にも下枝を傷つけ折られるという悲哀を嘗めた。
 長い歴史の歩みをセンターの庭の片隅からどのように眺めてきたことか。
 今一つ、このセンターにとって極めて思い出深いイベントがある。それは昭和60年7月23日、現天皇、皇后両陛下、当時の皇太子殿下御夫妻の御来館、御出席を仰ぎ、西ドイツ車椅子バスケット選手と日本車椅子バスケット連盟との交流懇親パーティを開催したことである。
 事柄の発端は、昭和59年7月、イギリスのアイレスバレー市の英国グッドマン障害者スポーツセンターにおける第7回世界車椅子競技大会に故中村裕博士(元別府市大陽の家理事長)の代理で、私が団長を承り、選手35名(役員19名)と共に参加したことにはじまっている。現地では毎日外国役員との打合会、懇親パーティ等が催されていた。2回、3回と顔を合わせ、乾杯を重ねているうちに親しくなったのが西ドイツの障害者スポーツの世界では著名な、H.ストローケンデル氏と、西ドイツのバスケットの監督である。
 ついつい話が進展し、日独の親善試合を日本でやったらどうか。この大会が終り帰国したらお互いに検討しようということで別れた。
 しかし彼等は発想してからの行動は早い。直ぐ旅費等の工面がついたので、次の年、前述の60年7月に日本を訪問すると申入れがあった。日本車椅子バスケット連盟も大騒動、日本身体障害者スポーツ協会の葛西会長も余りの急テンポな話にいささか驚きとご不興が見受けられたが、当センターでも相当の負担を覚悟することで了承を得ることができた。
 しかし西ドイツからの珍客であるので、両国の親善を図るため、あえて障害者スポーツにご理解の深い、当時の皇太子御夫妻のご臨席をお願いして、交流懇親パーティを開催することとなったのである。
 当時の東宮職への折衝、戸山サンライズ(大研修室)での設営の仕方、警備、料理、通訳のことなど、今にして思うに正に分にふさわしからざるイベントに致ったことを、この10年誌の1ぺ一ジに残しておきたいと思う。その他、昭和61年3月、車椅子マラソン世界一周の壮挙を成し遂げたカナダのリック・ハンセン選手(数々の国際記録保持者)の日本支援委員会(名誉顧問三笠宮寛仁親王殿下、名誉総裁高円宮憲仁親王殿下)の事務局を受け持ったことなど、この戸山サンライズの運営の中で、担当の職員等がそれぞれ縁の下の地味な業務をやり遂げたことも後世に伝えておきたいと思う。.
 ハード面では、この10年間、運営上や、利用者の利便、その他の理由から全館至るところ改修工事や、模様替え等が行われてきた。
 事業の面でも、養成研修の拡大、時宜に即した調査研究の実施、さらに本年度よりは、「戸山サンライズ情報」の点字版の発行という新しい事業も取り入れられるに至った。
 一方、この10年間における障害者問題の動向は極めて大きな変容を遂げてきた。精神保健法の制定、福祉八法の改正による市町村の時代への移り変り、さらには国際障害者年の延長として、「アジア太平洋障害者の10年」のスタート、引続き平成5年12月の「障害者基本法」の制定と驚くべき進展を遂げてきた。
 このセンターの歴史もようやく10年である。
 これからの障害者の福祉向上、とくに自立、社会参加という大きい目標に向って、今日までの足跡を踏まえ、さらなる発展を期するよう、職員一同心を新たにして奮励することを誓うものである。

平成6年12月

全国身体障害者総合福祉センター
館長 苅安 達男


創設の頃を振り返って

社会福祉振興・試験センター理事長
池堂 政満

 このたび、障害者のための総合福祉センター戸山サンライズが、開設10周年を迎えられ、これを記念して10周年記念誌を発行されますことは、誠に意義深く、ご同慶にたえません。
 かえり見ますと、戸山サンライズは、昭和56年国際障害者年を迎えるに当たり、その記念事業の一環として計画され、その後、整備等に概ね3年を要し、昭和59年12月に事業を開始して以来早や10年を経過いたしました。この間、戸山サンライズは、障害者の社会活動参加のための拠点として、その役割を果たして来られたところであり、誠に喜ばしい限りであります。また、これまでその運営に当たって来られた日本障害者リハビリテーション協会の会長をはじめ役職員の方々のご苦労に対し、心から敬意を表したいと存じます。
 私が戸山サンライズに関係いたしましたのは、昭和56年度予算における整備費の要求から昭和59年12月開設までの4年有余の間でありました。その間、整備費の確保から整備の進め方、さらには運営のあり方などいろいろと曲折はありましたが、概ね予定どおり開設することができ、ほっとしたことを記億しております。
 先ず、昭和56年度予算における整備費の要求に当たり、とくに留意した事項としては、(1)身体障害者福祉法に定める身体障害者福祉センターとして国が設置する。(2)管理運営については、既存または新設の財団法人に委託する。(3)運営費については、センター事業の基本となる相談、情報提供、研修等各事業に必要な経費は国の委託費で処理することとし、スポーツ及び宿泊等の利用施設は、受益者負担を原則とするというものでありました。
 これに対し、財政当局としては、国による整備は認めるが、一般会計での措置は財源的に難しいので厚生年金保険等特別会計で措置したい。管理運営については、特殊法人への委託を含めもっとも合理的で適切な団体に委託することを検討されたい。また、運営費については、原則として独立採算とするという条件が示されました。私どもとしては、委託先及び運営費のあり方については、開設までに検討することとするが、整備費については、センターの基本事業である相談、情報提供、研修等の各事業を行うために必要な部分の整備は、一般会計で対応すべきとの強い姿勢で進めた結果、最終的には整備年数を3か年とし、会計別の負担割合は、一般会計20パーセント、厚生年金保険等特別会計80パーセント(内厚生年金保険特別会計70、国民年金特別会計30の割合で負担)で決定し、多年の懸案解決に向けてその第一歩をふみ出すことができました。
 昭和56年度予算成立に伴い、早速整備を進めることとなりましたが、整備費80パーセントを厚生年金保険等特別会計で負担する関係もあり、その設計施工を厚生省、建設省のいずれで担当すべきかについて調整の必要が生じ、相互に協議の結果、建設省のこれまでの実績と本事業施工への熱意を勘案し、とくに障害者の利用に供する施設であることから、それらを十分配慮したものとすることを条件に建設省にお願いすることとなりました。
 整備の内容としては、相談、研修、体育施設、宿泊施設、駐車場、管理の各部門で構成することとし、とくに設備機能については、障害の部位に配慮し利用を容易にすること及び災害時における緊急避難の対応等を中心に検討を行い、実に200項目を超える留意点を建設省に申し入れ、これを忠実に取り入れていただきました。なお、当初の計画段階においては、温水プールの併設も予定しておりましたが、建ぺい率等の関係で断念せざるを得なくなりました。これは障害者からの強い希望のあった設備だけに残念だったといえます。
 整備が進行するに従い、早急に解決すべき問題として、管理運営をどの団体に委託して行うかでありました。財政当局としては国会への対応等もあり、社会福祉事業振興会(現社会福祉・医療事業団)への委託を前提に検討されたいとの意向でありましたが、私どもとしては、当団体は施設運営の経験が全くなく、また、独立採算を原則とするこの種施設の運営を委託することは、実態上も法律上も適当でないこと、他方、厚生年金保険法及び国民年金法に基づく福祉施設は、現に財団法人に管理運営を委託していること等を理由に調整の結果、これまで障害者対策等に関し、深い理解と実績を有する日本障害者リハビリテーション協会へ管理運営を委託することに落着したものであります。
 なお、運営費については、整備決定の際、原則として独立採算によることを約束した経緯もあり、その要求を断念していたところ、財政当局より将来経営が行き詰まり、国会等において問題を提起されてから措置するよりは、開設時に対応する方が良いのではとのご示唆をいただき、必要な経費を要求した結果、昭和59年度予算において、厚生年金保険特別会計で措置していただいたものであります。
 以上、当時を振り返りつつ述べましたが、その間を通じ強く印象に残っておりますことは、財政当局をはじめ、障害者団体並びに施設の整備等に関係された多くの方々が、それぞれの立場を超えてご理解とご協力をいただいたことであります。
 終りに、戸山サンライズが開設10周年を機に、ますます発展されますことを祈念いたしますとともに、今後とも障害者福祉の推進のために、より一層のご尽力を賜りますことを心から念願いたします。


建設奮じん記

日本介護福祉士養成施設協会常務理事
齋藤 松夫

 戸山サンライズを所掌する国立リハ整備室(国立施設管理室)に私が勤務したのは、昭和56年7月から58年5月までで、直接整備を担当した期間は57年10月から6か月です。
 整備予算も3年次の内示を受ける時期で、実施設計に入り、既存建物撤去工事中で、「建築確認-大規模のため建築計画適合」通知を得る仕事だったのですが、直接担当の片山補佐と事情を知る石倉主任がそれぞれ配置換えとなって担当した途端に、周囲に霧が立ち込めたようになり、先の見通しが利かなくなったのです。
 先ず第二種住専地域に福祉センターを建てられるか都建築指導課へ事前協議中で、福祉センターは法律に規定がなく福祉事業であることを説明し切れておらず、事業内容から社会福祉事業法にいう第二種社会福祉事業としての相談事業である、身体障害者福祉法改正で法定すると主張し通してもらいましたが、59年法改正で身体障害者福祉センターの規定が設けられ安堵したものです。
 11月20日「建築計画のお知らせ」標識設置の事前了解に町内会長宅を訪問、22日に設置しましたら、地区内に反対者があるので説明会の申入れが出たのです。
 それまで地区住民から反対されていることは全然聞いておりませんし、予期せぬ事態の発生に戸惑ってしまいました。
 住民説明は関東地方建設局と一緒に12月1日第1回から翌年1月13日第5回まで、その後は都建築紛争調停に持ち込まれ、3月まで4回、3月23日第6回住民説明会まで行いました。
 住民側の意見は、日照、騒音、風向、TV視聴難、景観を削ぐなどで、「建築基準法で許可されても建たないことがあるのだ。」と詰められ、前途多難を感じました。
 「住民にどのように知らせたか」「どうしてここに建てるのか」との問に対し、国立身体障害センターの跡地を利用するもので、55年8月、国際障害者年記念事業に位置づけられ、主要新聞、区報にも掲載されているとコピーを出したが、個人には説明がないというわけです。
 地区住民は境界地東側だけですが、昔沼地で葦原だった地形上、敷地よりも3メートル低い。南側に財務局所管の公務員宿舎と国立医療センターがあり、高層ビルの影響を受けているので、国の建物に対する反発があります。
 関東地方建設局北村建築二課長と共に住民代表宅を訪問したのは、第2回住民説明会後の12月14日でした。先ず、建物撤去工事の騒音、振動による内壁落ちを責められ、さらに3月の敷地ボーリング調査で水道の使用を求めに来た業者の態度を非難した。過ぎたことですが、当方の連絡不十分の非はあるのでお詫びするしかありません。
 その頃、国立病院を所管する医務局職員が「あそこは高い建物は建たないよ」と言ったと沼田主任から伝え聞いのはショックでした。
 事態は進展せず苦悶していた時期にいつも直裁にものを言う先輩が来室し、「そこの窓から飛び降りたらどう」と言われました。事情打開のためには人柱も必要という意に解し、誠意を持って努力するしかないと思いました。
 金田社会局長へ進捗状況を説明した際に、局長は「こどもの城」建設時に区長宅を回られた話をされ、時間がかかることを了解していただきました。
 年明けの住民説明会で、「この計画(住民に迷惑がかかるということか)を障害者は知っているのか。直接聞いてみる。」との発言が出て、身体障害センターの修了生の会(更友会)の要望を採り入れ建設するものだと回答しましたが、発言者は障害者の意向を確かめたく戸山ハイツに住む綱木更友会会長を2月8日訪問しています。
 住民説明会が終ると、新宿区役所へ行き内容を説明し、今後の対応を協力依頼しました。
 新宿区も同じく国際障害者年事業で隣地を大蔵省から購入、障害者通所訓練施設建設計画があり、住民の対応に関心を持っていました。しかし、地域住民の立場に理解を示し、当方に利することは望めませんでした。都は住民側の要請を受け入れるよう調整するので、どこまで妥協するかの判断に苦しんだところです。
 住民側は、区議、都議、国会議員にも陳情し、それぞれ建設局担当者、設計事務所担当者と同道して対応しました。
 この間に、58年2月、建築工事入札が行われ、業者が決定しました。3月8日第4回都建築紛争調整室の調停で最終的な設計変更が固まりました。主な変更は、建物全体を境界からバックさせ、内階段を外階段にし、敷地を堀り下げて植栽し空間を確保する。騒音防止に塔屋を囲う。東側の公園に出入口を設け、隣接の新宿区施設の敷地経由で一般道路に通ずるようにする。などでした。設計担当者も苦労されたが心よく付き合っていただきました。
 それから関係官署との折衝では、牛込保健所と利用料の表示で何回も協議しました。第二種住専地域には旅館業法にいう旅館・ホテルは建てられない。研修宿泊室は旅館に該当するが、宿泊料を食事実費相当額しか徴収しないときは旅館業に該当しないということでした。これを逆利用して、騒音苦情について、地域の良好な環境を保つため歌舞音曲、放歌高吟は禁止されると応待しましたが、利用料金を入れた利用規程を前任者穂積補佐が経営指導官をしている環境局指導課の解釈も求めて作成し提出しました。これが後の運営をしばることになったのは心苦しい限りです。
 牛込消防署へは避難設備の説明をしました。消防署は以前の施設と同様に想定し、エレベーターの他に外部避難階段としてスロープ設置を求めてきました。しかしスローブ設置できる敷地は無く、バルコニーを通路として対応することになったため各室毎の区切りを可動式にし、プライバシーが守れず二律背反を生じてしまいました。
 そして、3月上旬、56年度予算未執行額の支払計画に大蔵省司計課でクレームがつきました。直接手続きしない特別会計の執行依頼の手違いで事故繰越のおそれが生じてきました。建設本省の原補佐が一部執行実績の解釈で必死に説明し、会計課青木補佐から国として建築せざるをえないと助言があり、漸く承認されました。ほんとに薄氷を渡る思いをしました。
 3月23日、第6回住民説明会で最終的に住民側と合意しました。厚生省に戻ると、直ぐ片山社会福祉審査官に伝え握手を求めました。
 4月27日、工事安全祈願祭が挙行され、岡田新一設計事務所長から挨拶の中で、厚生省担当官の苦労をねぎらうと言われ、第三者も判ってくれたと嬉しかったものです。
 5月6日、建築計画適合通知受理、6月に国立リハビリテーションセンターに配置換えとなりましたが、顧りみて満足する内容ではありませんが、計画された機能は維持できたことで了としているところです。
 建設省への支出委任事業であるので、予算はないのに工事施主として折衝の場に立たされた感ですが、建設省担当者の好意的協力の賜物でした。
 物事の折衝は断わられてから始まると聞いていますが、その後の運営費の要求では局内でも賛意を得ることが難しかったにもかかわらず、予算が確保され、それを運営された苅安館長以下職員のご努力に敬意を表し深く感謝申し上げたい。


10周年に寄せて

国立身体障害者リハビリテーションセンター
理療教育部東光会会長
比留間 良夫

 早いものでこの度、戸山サンライズが、目出度く10周年を迎えることとなりました。誠に御同慶のいたりであります。
 さて私は東京視力障害センター東光会(同窓会)を代表して設立に参加した一人として誠に意義深いものがあります。ここに設立の歴史を省りみてますますの発展を念ずるものであります。
 そもそも3センターが総合発展し、所沢に国立身体障害者リハビリテーションセンターが創立されるにともなって3センターの象徴の証として、又所沢の別館、出店として、戸山サンライズが設立されることとなったのであります。したがって、スポーツ施設、宿泊施設、相談業務、生活施設(歯科治療、理・美容室、補装具、結婚式場、売店、食堂)等を設置するという構想でありました。
 さらに東京視力障害センターとしては、卒業生の融和協調と学術技能の向上を計る場として、マッサージ鍼灸治療の研修室並びに実習室の設置を要望いたしました。幸い、設立準備委員会で板山、池堂、両更生課長のご理解を賜り、又委員の皆様のご賛同をえて設立の運びとなったのであります。そして最終的な設計図は更生課の担当官が拙宅までおいでくだされ、東光会役員にご説明していただきました。
 このように3センター共にその計画を了承し全国身体障害者総合福祉センターとして建設されることになったのであります。
 たまたま国際障害者年にあたり、その記念事業として障害者の自立更生と福祉の増進を図る目的で戸山サンライズは誕生したのであります。そして完成後は日本障害者リハビリテーション協会が運営を委託されることになったのであります。このような歴史的経過をへて3センターの象徴の証としての趣旨も生かされ、又身体障害者の福祉の向上に寄与しておりますことは誠によろこばしいしだいであります。
 こののち共、微力ながら運営委員の一人として戸山サンライズの発展に役立ちたいものと念じております。
 ここに意義深い10周年にあたり関係者の皆さんに感謝申し上げますと共に、これを契機としてますますのご発展を念じお祝いのことばといたします。


戸山サンライズのこと

弁護士  村田 稔

 私は、戸山サンライズを訪れる時、いつも何んとなくなつかしく、ほっとした気分になります。それは、きっと、いまから約33年前、私が当時その場所にあった国立身体障害者更生指導所に入所し、そこで青春のひとときを過したことがあるからだと思うのです。
 時が流れ、周辺の風景は一変しました。若松町から道を曲がり、坂を下って戸山サンライズ前にさしかかる、その道すがらに当時のおもかげをわずかに見い出すといった感じです。しかし、坂道にさしかかると、とたんに私の脳裏には当時の風景がよみがえります。想い出とはそういうものなのでしよう。
 私は、戸山サンライズのオープンの時から戸山サンライズで開催される法律相談を担当することとなりました。早いもので、それから約10年間、私は法律相談を続けてきたことになります。今年の9月から新しい若手の弁護士さんと交替し、私の担当は8月で終りました。
 その間、私は多くの障害者の仲間の人達と相談室で面談をしてきました。
 多くの障害者の仲間が相談室を訪れた背景には、戸山サンライズであれば車イスのための設備が整えられているという安心感が、車イスの人達にあったからではないかと思っています。
 言うまでもなく、車イスにとっては段差は禁物です。玄関は階段もなく、スーッと入れなければなりません。次にトイレも心配です。車イス用のトイレが設置されていなければなりません。また、移動手段として自動車を使う人にとっては、駐車場があり、しかも車イスの出し入れに充分なスペ一スが確保されていることが必要です。車イスにとってはこれらがすべて満たされていなければなりません。心配のたねが一つでもあると、出かけることを断念することになります。法律相談に行きたいけれど、建物の構造が車イスに対応できる構造になっているのだろうか。車イスの人にとっては、このことが先ず頭をよぎります。しかし、戸山サンライズであればこの点の心配がないのです(ただし、たまに駐車場が満車になることを除いては)。こんなところにも、戸山サンライズの役割の一端をみることができるのではないでしょうか。
 私が戸山サンライズの法律相談を担当する気持になったのには、実は、こんな動機があったのです。
 前記の国立身体障害者更生指導所に私が入所していたころ、ある日、夜食のラーメンをすすりながら、仲間と談笑をしていた時、ある仲間がこんなことを言ったのです。
 「車イスだと、相談に行きたくても、建物に階段があって相談室までたどりつくことができないので困るよ!!」
 誰が言ったのかは思い出せないのですが、この一言だけは何んとなく記憶に残っていました。戸山サンライズができた時、この一言を私は改めて思い出しました。階段のない車イスが安心して来訪できる相談室で法律相談を担当しようと。
 いまでも、私は車イスの人から、「相談したいことがあるので、戸山サンライズで会ってくれませんか」と言われることがあります。そんな時には、都合のつくかぎり私は戸山サンライズまで出かけることにしています。戸山サンライズは、車イスの私にとっても利用しやすい建物ですから。
 これからの戸山サンライズに、私はこんなことを期待したいと思います。
 一般社会の環境の変化とともに、障害者のニーズもその時々で変っていくものと思われます。戸山サンライズには、障害者のニーズを]早く適確に受けとめ、障害者のニーズを柔軟にくみ取り、障害者のニーズにぴたりと合った戸山サンライズとして存続しつづけていってほしいと念願しています。


戸山サンライズ10周年に寄せて

国立身体障害者リハビリテーションセンター
はばたき会(聴覚同窓会)会長
内田 昭則

 創立10周年を心からお慶び申し上げます。
 もう10年と言うのが正直な気持ちです。、思えば、戸山サンライズが建設されたきっかけと申しますか、始まりは身体障害、視力障害、聴力障害の国立障害センター3施設が統合されて埼玉県所沢市に移転するということからでした。母校が無くなる。センターを修了してもまだ、後の指導を必要とする人たちもいる。相談するよりどころとなるものが東京から無くなってしまうという危機感もあり、移転反対運動を始めたものでした。
 3施設の代表が集まり話し合い、センターの職員にも要望し、厚生省にまで話しに行ったことを思い出します。
 しかし、移転の問題は、我々の考えているよりもずっと先を進んでおり、どうにもならないものとなり、では東京に拠点となるものを残して欲しいと要望することになりました。長い話し合いの末、当時の厚生省社会局更生課長板山氏を中心に、障害者センター同窓会代表、並びに関係者で「跡地利用検討委員会」というものが組織されました。
 3施設の修了者が集まれる場所をという考えで検討を進めておりました。しかし、最終的には当初の3施設を重視との構想から次第に離れ、ちょうど国際障害者年ということで、障害者年を記念し全国の福祉センターの見本となり、中心となるものとして建設が認められたのでした。
 当時は3施設のものがないではないかと、大分不満を感じたものでしたが、一方ではその構想のままでは建設できなかったであろうということもまた事実であったことと思います。
 そのような経過の末、戸山サンライズの建築がスタートし完成したのでした。
 しかし、その運営にあたって、スタート以来大変なご苦労があったことと思います。
 館長以下職員の皆様、関係者の方々に心から敬意を表する次第であります。現在のような状態でよく経営が続いて来たと思います。今でも十分利用され予約がとれないこともたびたびですが、もっと障害者の利用が増えるようPRすべきであり、障害者が今よりも気軽に集まれる場所にできるかを今後の課題の一つとして入れて欲しいと思います。
 10年間、本当に大変であったことと思います。今後もますますの発展を期待しております。


戸山サンライズでの「型破り」の2年4か月

元戸山サンライズ業務課スポーツ・研修係
茅野 宏明

 戸山サンライズ開設10周年、そして財団法人日本障害者リハビリテーション協会設立30周年、誠におめでとうございます。
 戸山サンライズの職員として昭和59年12月1日付けで正式に採用され、昭和62年3月31日付けで退職するまでの2年4か月の間、今振り返れば「型破り」の日々でした。また、戸山サンライズで出会った多くの人々から得られたものは私にとって無形の財産です。それが今でも私の中に生き続け、毎日毎日大きくなろうとしています。
 当時、アメリカから帰国して半年余りで就職できた陰には、国立身体障害者リハビリテーションセンターの方々との出会いと戸山サンライズの開設とが劇的に重なったことがありました。自由奔放にしかも留学で得たものを最大限に活かして過ごした中から、3つほどエピソードを紹介します。
 『起案書づくり』。私には未知の世界でした。当時の斎藤正明業務課支配人から書き方を教えていただきました。ある日、起案書を書き終え、「終了!」と言いながら、左手に起案書、右手でリンゴを丸かじりしながら、当時の苅安達男館長に「お願いしまーす。」と起案書を手渡しました。館長日く「リンゴかじりながら、…しょうがねえなあ、アメリカ帰りは」と苦笑いして決裁して下さったのを覚えています。そばにいた富田イト子さんが「茅野さん、行儀悪いわよ」と言ってくれたのが幸いでした。周りの人が唖然としていた中、すぐにリンゴを机に戻し、館長に謝りました。その時の苅安館長の寛大さには惚々しました。
 『スポーツ教室』。当初から(財)日本身体障害者スポーツ協会のご協力をいただき、協会の野口泉さんと2人でスポーツ教室の企画と運営を始めました。幸いにも、地域の方々や近隣にお勤めの方方が多数会員になられました。スポーツ教室は「人間の坩堝」でした。身体的障害のある人ない人、老若男女が集い、各自の体力の回復・維持・増強を図りながら、お互いの輪を広げていきました。スポーツ教室を通じて、体力や健康面での指導の場に留まらず、会員のよろず相談の場や会員同士の商談の場であったり、夏を過ぎたばかりなのに忘年会の計画を立てたり、スポーツ教室がサークルのような雰囲気でした。それは、指導者主体型から参加者主体型へと意図的に導いた結果でもありました。
 『1回来れば3泊4日』。つまり、1回出勤したら3泊4日して帰るというパターンです。午前9時とともに、電話応対、宿泊・宴会の予約受付、会場の設営、体育館などの清掃、講師依頼、食堂業務補助(時々)、午後3時からチェックイン業務、夜はスポーツ教室での指導や売店業務、研修会開催中は受付や司会進行や講師接待、資料作成などがあり、落ちつくのは午後9時過ぎでした。それから各種研修会のカリキュラム案の作成やそのための資料や文献調査等をしていると、夜も11時をまわり、戸山サンライズの閉館時間になります。宿直であれば、一日の売上の計算や見回りなどが加わります。どうせならこのまま泊まって早朝から仕事を始めようと判断し、気がつけば3泊4日してしまいました。
 しかし、何と言っても、戸山サンライズの建物内にいた職員や他のスタッフの皆さんに恵まれたことは、私の人生の刺激になりました。二日酔いを決して表に出さずに脂汗を流しながら普段の倍以上の仕事をこなす人、電光石火のような人、虚弱体質脱皮のためトレーニングに励む人、お嬢様、人の頭の後ろめがけて輪ゴムを飛ばす人、いつも書類に埋もれている人、落ち込むと机でベソかいている人、悩んだ時に話しを聞いてくれる人、見ているだけで元気を与えてくれる人、仏のように穏やかな人、大のプロ野球ファンで試合結果が翌日の人生の楽しさを決めると信じている人、花を生ける姿の美しい人。いろいろな人と一緒に仕事をしました。そして、仕事を通じて人生の歩み方や楽しみ方、自己陶冶の大切さを学びました。戸山サンライズは自己を磨ける場であったのだと信じています。
 また、戸山サンライズを通じてできた、厚生省をはじめ各種団体の方々、利用された方々、そして研修生の方々とのヒューマンネットワークは今でも私の財産です。
 このように、人との出会いからさまざまなことを学べる機会を与えてくれた戸山サンライズのますますのご発展をお祈り申し上げます。そして、私自身は初代館長苅安達男氏の教えてくださった『友愛』をこれからも大切にしていきたいと思っています。


10年前のこと

元戸山サンラィズ管理課食堂・サービス主任
富田 イト子

 久しぶりになつかしい方から電話がかかりました。思い出話を書いてくださいという依頼に、予期せぬことで10年前がよみがえりました。
 ご紹介いただいた縁で、それまでの生活視野から180度回転したような環境の中でのお手伝いに、不安と期待が交差したのは、年齢に関係なく新人と同じでした。これから働く職場は、開館まで1か月に満たない日々に、運びこまれる備品と、まだ設置場所の定まらない機器などでいっぱいでしたが、落ち着かないのは職員の方々も同じ、右往左往していたように思えましたが、不思議と、これから始まる舞台を盛り上げる如き活気に満ちていました。一つの施設を軌道に乗せるまでの試行錯誤が毎日渦を巻いていました。
 思いかえせば、不満も、苦情も、要求もない、ただ、しなければならないことに集中して体力のみを使った、気持のよい疲労感を味わえた日々だったような気がします。
 開館後は、主たるお客様としての障害者の方々の、会議、宿泊がいかにスムースに、快適に対応できるかと、食から宿泊にいたるまで、サービスの意味を追求されたように思えます。足りなかった思いやりや不備だった準備等、後ろめたさと反省の連続でした。
 福祉センターという特殊な施設であれば、余計、おざなりな提供施設ではあり得なかったからです。
 私の主たる任務のレストランで働いてくださるパートの方々、まして誇り高き調理士気質の方々との和。もう、めまぐるしく一日一日が、ゆとりのない心をゆさぶり続けました。でも、10年も経ってしまうと、全てのことが、なつかしい思い出になっています。
 たった2年半でダウンしてしまう情けない体力でしたが、その後の私の心を、2倍にも、3倍にもふくらませていただいた時期であったと、10年がつい先頃のことのようにも思い出されます。
 退職後も出会いをふくらませておつき合いの続いた、障害者の方の数年後の悲しい訃報も経験しました。やさしい励ましのことばをかけてくださった、共に働いた先輩の訃報もありました。若い人たちは、それぞれに結婚、子育てと、幸せなお便りもいただきました。10年は短かったのか、長かったのかと、改めて思っております。
 人にやさしい政治が謳われております。どうぞ、これからの戸山サンライズが、次の10年に向かって、やさしい施設でありますよう願っております。


主題・副題:
30年のあゆみ
日本障害者リハビリテーション協会30年 戸山サンライズ10年

発行者:
財団法人日本障害者リハビリテーション協会
〒162-0052 東京都新宿区戸山1-22-1
TEL 03-5273-0601 FAX 03-5273-1523

頁数:147頁~161頁

発行年月:平成6年11月30日