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平成6年度障害者文化芸術振興に関する実証的研究事業報告

4 第16回リハビリテーション世界会議(1988年)における芸術文化活動のまとめ

1988年9月に開催された第16回リハビリテーション世界会議では、世界各国から集められたリハビリテーション関係の優秀作品を一挙上映する映画祭、さまざまなパフォーマンスが展開される多目的セッションが開催されたが、この中に、日本における新たな芸術文化の取り組みとして紹介されたものは次のものであった。
○「触覚と芸術」デモンストレーション
 パリのポンピドー芸術文化センターとギャラリーTOMの提携によるもの。視覚や聴覚に訴える芸術があるように、触覚に訴える芸術の存在を主張し、実証しようとする野心的な企画であった。関連行事として、「手で見る美術展」(有楽町アート・フォーラム)、「全国盲学校造形作品コンテスト」(ギャラリーTOM)、「アメリカ盲人芸術家の造形展」(目黒区美術館)などを同時開催した。
○音楽療法の理論と実際
 全米音楽療法士協会のジュアン・ロビン氏による音楽療法理論の講演の他、心身障害者グループへの指導の実際をデモンストレーションした。
○さをり広場
 知恵遅れなどの障害者が繰り広げる美しい色彩の豊かな織物の世界を、本人たちの手織機による実演で紹介、彼女たち自身の自作自演のファッションショーも上演した。
 他にも日本独特の組み紐づくりの実演を作業所(束京・ゆたかホーム)の障害者が行った。
○ハイビスカスの部屋
 聴覚障害者を中心にしたミュージック・バラエティ・ショーである。手話ダンス、ロボット・ダンス、パネル・シアター、日本舞踊などで構成するユニークな舞台。
○作品展示
 京都府にある精神薄弱者施設みずのき寮・かしのき寮の寮生の油絵は、たびたび二科展などに入賞したことで知られているが、それらの作品も展示した。ユニークな童画の世界を築いた脳性まひの画家による「はらみちおの世界」も展示された。
 施設の作品としては、弘済彫りや織物で定評のある弘済学園(神奈川)や、神楽面など出雲和紙で民芸品作りをすすめている桑の木園(島根)なども出品された。他にも各種の写真、パネルなどの展示が行われた。

5 触覚による芸術鑑賞の発展

1988年にリハビリテーション世界会議が開かれるのを機に、束京都内で「盲人と造形芸術」をテーマに、五つのイベントが同時に開催された。世界会議の会場である京王プラザホテルで、国立ポンピドー芸術文化センター「子どものアトリエ」・手で見るギャラリーTOM共同企画の「瞑想のための球体」が開かれた。さらに、有楽町朝日ホールでは、国際シンポジウム「美と触覚」、有楽町アート・フォーラムで「手で見る美術展」、目黒区美術館区民ギャラリーでは「アメリカ盲人芸術家の造形展」、手で見るギャラリーTOMでは「'88ぼくたちの作ったもの展」が開かれた。
 視覚障害者にとっての芸術鑑賞はこれを機に大きく飛躍したが、各地で触覚による芸術祭が開催されるようになった。触覚芸術の動きを、高橋礼子氏(視覚障害)のレポート(「障害者の福祉」1988年11月号)によって以下に紹介する。

 88年、束京で、リハビリテーション世界会議と併せ、「美と触覚」と題された五つのイベントが開催された。「触覚教育と造形活動を考える」をテーマに、日本・アメリカ・フランス・西ドイツから、触覚の理論や美術教育に携わる4人のパネラーを迎えてシンポジウムが開かれ、触覚教育に関するさまざまな意見交換や問題提起が行われた。
 まず、哲学者の中村雄二郎氏が、「美とは生命感覚に根ざした躍動的なものである」と定義した上で、その「美」を最もよくとらえることができるのは視覚ではなく筋肉や運動感覚をも含む全身的な体制感覚としての広義の触覚であり、そのようにして美を鑑賞することで、人間は失われつつある「感性」さえ取り戻せるはずだ、と結論づけた。続いて、各国からの3人が、それぞれの経験をもとに講演し、①触覚教育が健常児にとっても、創造力を養わせる上で非常に有効であること、②わかりにくい作品や絵画を、他の造形物や音楽・詩などで表現する試みがあること、③美術館は、視覚障害者の触覚に、できる限りの美を公開するべきであることなどが明らかにされた。
 「触覚で感じる美とは何なのか、すべての者が今一度、共に考え直してみては」。このシンポジウムはわたしたちにそう提案していたようだった。

アメリカ盲人芸術家の造形展

 ただ、えぐられただけの「死んだ目」をして、うずくまっている、冷たい金属……太い「腕」がためらいながら伸びている。「緑内障」は、現在NEBA(全米盲人芸術家協会)の副会長を務めるマーティン・ルビオ氏による作品である。「誰かにすがっていたいけれども、自立もしていきたい……、そんな心の葛藤を表現したんだ」とルビオ氏は語ってくれた。そのピカピカに磨き上げられた硬く重く冷たい造形物は、プロの芸術家として、今、まさに、はばたこうとしたとたん、失明を宣告された一青年の心のレプリカだったのだ。
 ルビオ氏を含めて、彼と同じような境遇を乗り越え、今世界で活躍する芸術家たちの作品を30余点集めた「アメリカ盲人芸術家の造形展」が、9月3日から25日まで目黒区美術館で開かれ、「内面の視力」と触覚の生みだした力強い美が来館者を魅了させていた。アメリカでNEBAと並ぶもう一つの盲人芸術家組織ART OF EYE。鋼鉄の小さなスクラップをシンプルに組み立てた「航海」を出品したのは、その主催者であるスコット・ネルソン氏だった。鉄の硬さとゴッツリした手触りが、荒波を越え、うねりを切り開きながら力強く船体を思わせると同時に、その「船体」を支える一本足が航海の不安を感じさせていたのがとても印象的な作品だった。「鷲と魚」は、NEBA所属のマイケル・カランホ氏によるものである。鋭い鷲の爪に抑え込まれた、丸々と太っている魚……。粗い大岩に叩きつけられ、いかにも苦しそうに反り返っているその姿から、私は生があくまでも生であろうとする力とどうにもならないむなしさとを感じて心打たれた。
 全米をカバーする二つの組織からよりすぐられ、展示された作品は、どれも個性豊かですばらしいと思った。しかし、一つ、とても残念だったのは、その中に一点も、12歳未満で失明した者の作品がなかったということだ。「特殊教育の先進国」であるアメリカでも、目の見えない芸術家は、まだ「育って」いないようだ。

手で見る美術展

 「触覚のための美」、それは私たちにとって本当に必要なものだろうか。前述したシンポジウムの会場でもこんな問題が取り上げられ、活発な討議が行われた。触察を意識して創造される美が、特別視されなければならないほど美感覚は触覚とかけ離れてしまったのだろうか。
 日本で活躍する芸術家36人による「手触りの異なる素材を用いた作品」を40点余り展示した「手で見る美術展」が、9月2日から13日まで有楽町アート・フォーラムで開かれていた。誘導ブロックや展示案内図等が取り付けられ、視覚障害者が一人でも安心してすべての作品を見て回れるように配置された会場で、私がまず見つけたのは河口龍夫氏の「13の部分からなる6面体」だった。シンプルな立方体が複雑で微妙なカーブをもつ13のピースに分かれる作品で、「すぐに戻せるだろう」と簡単な気持ちでバラバラにしたのに、どう組み合わせてもなかなかきれいな6面体に返ってはくれない。単純に見えるものが秘めている複雑さ。ものの表面だけを見てすべてがわかったと思い込みがちな自分を見せつけられたような気がして、ちょっぴり悲しくはずかしくなった。荒木高子氏による開かれたままの古い古い「点字の聖書」。ぼろぼろになったその聖書は、一体どれほど多くの人の深い悲しみや祈りを知っているのだろう。もう二度とめくられることのない分厚く重ねられてゆがんだページたちの間に、そしてそこにざっくりと口を開けている深い裂け目に、私は人間の持っているどうしようもない暗さを見たように思った。
 シム・ムンスー氏の「現前--(窓)」は、木と紙とで作られた箱形のシンプルな作品で、その柔らかな暖かみは私を何とも言えない懐かしさと安心感で満たしてくれた。触れているうちに、思わずその「窓」に耳を当てて聞いてみたくなった。愛に満ちた暖かい家族の静かな団らんが聞こえてきそうな気がしたからだ。この美術展には工夫の凝らされた力作が多数展示されていたのだが、触ってすべてを把握するには少し大きすぎるものや、触覚を意識するあまりおもしろい形や感触をたくさん取り入れすぎている「うるさい」作品が多かったような気がした。美しいメロディーをたくさん重ねすぎると音楽は透明感を失ってしまう。彫刻にもそれと同じことが言えるのではないか。美はやはり自然な方がいいなと、この美術展を見終えて私は思った。

瞑想のための球体

 十数本の木の円筒に載せられたコルクのボールたち。それらがゆっくりと動きながら寄りかかりあったりこすれ合ったりしている。電気仕掛けのこの不思議な造形物は、コルクの柔らかさと表面のなめらかなカーブが掌に心地よい楽しい作品だった。
 9月9日まで京王プラザホテルで開かれた美術展「瞑想のための球体」には、さまざまな表情をした球たちが展示されていた。真っ赤な火の中でたたきつぶされた鉄の玉、その小さな体は、冷たく冷え切ってしまった今も元の形に戻ろうとする内側からのエネルギーではち切れそうだ。つぶされたとき、四方にぱっくりと開いた裂け目は、今にも私の指先を飲み込みながら跡形もなく閉じてしまいそうだ。「この鉄は生きている」。私はその果てしなく冷たい力強さに言いようのない恐怖感を覚えた。
 滑らかな表面に川や湖のような溝をもつセメントの玉。二つに分かれると中はがしゃがしゃの空洞になっている。それはあまりにも破壊的な球だった。何かとても大切なものを失ってしまったことに気づいているのかいないのか、表向きには平静を装っている……。「これは悲しい球だな」と考えていると、いつの間にかそれが自分の内面の姿と重なってきてしまって、私はその作品を離れた。
 太いこよりを絡ませて作った直径1メートルほどの球が、上からつり下げられていた。堅く結ばれているわけでもないのに決してほどけずにたくさんの空気を含みながら中心までしっかり詰まっているその球が、何からも束縛されずにポッカリと浮かんだ平和と満足感にあふれる一つの世界を形作っているようだった。キューキューとこよりのこすれ合う音を聞きながら、紙の甘い匂いと素朴な手触りを満喫しているととても暖かな気持ちになって、自分もこの球の中に絡まり込んでしまえたらいいのになあと思った。
 この美術展で私は、球体に触るとその「中身」が無性に知りたくなる自分に気づいた。私たちの体ととても相性の良いこのパーフェクトな形の中にあふれている不思議を、これからももっと深く追求してみたいと思いながら、私は会場をあとにした。

'88 ぼくたちの作ったもの展

 日本初の手で見るギャラリー「TOM」では、全国の盲学校から寄せられた作品のうち特に優れたものを選び、2年に一度それらに「TOM賞」を贈っている。8月30日には第2回TOM賞の授与式が行われ、今回の公募に応えた33校75点の中から11校16点が表彰された。
 「僕のシンセ」を出品したのは京都盲の村上君だ。「僕の好きなシンセサイザーを粘土で愉快に表現」したというその作品に触ると、私の中にも愉快なシンセサイザーの飛び跳ねるような音色が響いてくるような気がした。
 この美術館のオーナーである村山亜土氏は、「全盲の芸術家がこれから最も活躍できるのは、このような表現法の場ではないだろうか」と話され、「今回寄せられた作品の質は前回のものよりもかなり高い、と審査にあたられた先生方もおっしゃっていた」と、盲児による造形活動の将来が明るいことを示唆された。
 「森の合唱団」は新生園の仲門氏の作品で、思い切り反り返りながら熱唱する動物たち一つ一つが生き生きとしていて、見ていると楽しくなる。
 触覚に開放された美に乏しい状態にありながら、日本の盲児たちの作品は各国の教育者から非常に高い評価を受けている。村山氏は「良い美術教師のいる学校の生徒からは良い作品が生まれている。今、生徒たちの美術経験や造形活動を豊かなものにするか否かは、美術教師一人の腕にゆだねられている状態だ。美術館が触覚に開放されれば、さらに生徒たちの作品の質は向上するのだが……」と現状を話された。
 私は、自分を豊かにしてくれたこの秋の体験を心に深くとどめながら、TOM賞を受賞した皆さんに希望にあふれた心からの拍手を送りたい。

盲学校の美術教育

 村山氏にお話をうかがった。
 日本国内の美術館で視覚障害者にも開放されているものはごくわずかであること。2年に一度TOM賞が全国の盲学校の児童、生徒からの作品を募集してTOM賞を授与していること。そのTOM賞受賞作品を移動展として貸し出しているが受け入れ希望が少ないこと。そんな状況の中で、昨夏、藤沢市が市主催で触れることのできる展覧会を試みたことに大いに感動した、と語ってくれた。市の福祉課の職員に熱心な人がいて、湘南在住の作家たちに働きかけて質の高い作品を揃えたという。しかも今後も続ける意向らしい。
 また、村山氏は、日本よりポピュラーになっている海外の触覚芸術の状況についても語ってくれた。ハノーバーのスプリンゲル美術館では時々、触覚のための展覧会が催され、意外と日本人の作品が展示されていたりするという。アメリカでは全国的に盲人に美術館が開放されている。特にフィラディルフィア美術館では盲人のためにアトリエがあり、専門的な指導を受けることができる。さらにそこでは、盲人のためのボランティアを養成している。期間は2年間で、美術について教育をし、勉強させる。もちろんどのように美術作品を触らせるかも学ぶ。費用はボランティアの自弁であるが、障害者に接し何かを学ぼうという姿勢があり、このようなボランティアをするというのは一種のカルチャーになっているという。日本の現状とは隔世の感がある。
 村山氏が嘆いた。開講9年目のTOMをいっそ10年目で閉めてしまおうとも思っている、とつぶやいた。日本の盲学生の作品は世界最高と思えるし、県立千葉盲学校の西村陽平先生のような優秀で意欲的な指導者もいる。しかしながらTOM賞の応募もギャラリーTOMを訪れる盲人も減少してきているという。盲人が美術に関心を持っためには、基礎的な美術教育が必要である。盲学校ではともすれば職能教育に傾きがちであるので、美術教育が不足がちになってはいないだろうか。
 村山氏が指摘した問題点は、ひとり盲人と美術教育のみにとどまらず、日本の障害者と芸術教育全般にも共通な課題ではないだろうか。いろいろな障害者が多種多様な芸術を知り鑑賞できるための基礎学習が、学校教育の中でなされること。そして美術館や劇場等で優れた作品を鑑賞する機会を豊かに与えられること。さらに障害者自らが創作活動を試みたいと思ったときに、指導者、アトリエの確保等のサポート体制が整っていること。芸術作品に感動する歓喜、創作活動をするときの自己開放感、高揚感、そんな無上の喜びにおいても障害者は等しく参加する、そんな当たり前の社会が徐々に形作られているが、まだまだ課題は山積している。

6 「国連・障害者の十年」最終年(1992年)における芸術祭

 1--芸術祭の趣旨

1992年は、「国連・障害者の十年」の最終年であった。「完全参加と平等」の実現に向けた啓発の取り組みとして、関係4団体の主催により「国連・障害者の十年」最終年記念国民会議が開催された。
 これは、障害者芸術祭とテーマ別集会などから構成されるものである。
 障害者芸術祭は束京都内の複数の会場で開催され、展示部門ではアート展、シンポジウム、ファッションショー、建築デザイン展が行われ、25日間の会期中1万人以上が入場した。都民広場、都民ホールにおける「おまつりひろば」では、全国から17団体が集まり、障害者のコーラス、演奏、踊りなどが行われた。また、日比谷公会堂でのステージは、イタリアろう者劇団、世界わたぼうし音楽祭出演者のほか国内からは13グループが出演した。
 芸術祭のテーマは「芸術は境界を超える--素晴らしき共生芸術の世界」で、それは以下のように解説されている。「芸術文化は人間の命のきらめきである。凛然ときらめくものがあれば、ひそやかにきらめくものもある。たとえきらめきは違っても、それぞれに価値がある。障害をもつ人たちの命のきらめきである芸術文化を一堂に集め、かけがえのない命の尊さとそのきらめきの美しさを共感できる楽しい芸術祭を国民的イベントとして開催する」というものであった。
 本芸術祭では、障害をもつ人々のジャンルを超えた芸術活動を紹介するとともに、国内外の文化の交流を深めることができたと言える。

 2--芸術祭の内容

多彩な芸術祭の内容を、山口みち子氏のレポート(「障害者の福祉」1993年3号)により以下に紹介する。

 コンピューター・アートと絵巻

 都政ギャラリーでは内外の画家の作品展、国際障害児童画展、コンピューター・アート展、コンピューターグラフィックによる「絵巻」と盛りだくさんの作品が展示された。
 プライ・アウスゲルソン氏は、ろうのアイスランド人画家で、北欧を中心に活躍しているらしい。作風は寒色中心の多色使いで、四角や長方形、また凍り付いたように静止する鳥や人物を重厚なタッチで描いている。国内からは「ざくろ」等を足で表現した西村勇三氏、重度の脳性まひのためわずかしか動かない右手薬指と小指で描くという増田敬子氏、それに土子雅明氏の作品が展示された。数点ずつであったが、前向きの力強さを感じた。
国際障害児童画展では、海外9か国、国内から各々100点が展示されていた。いずれも小品ながら奔放な構図、新鮮な色彩で、若々しいエネルギーを感じた。特に内外の自閉症児のあまりに鮮やかな色使いには感心した。
 コンピューター・アート展では、現在幼児学習用に採用され始めたソフトを使って、指一本の簡単な操作でいかに色、形を自由に豊かに表現できるかを実演していた。これを使うことによって、重度障害者にとっても自己表現やコミュニケーションの幅が広がることが示唆されていた。
 「絵巻」は、花田春兆氏がライフワークとしている「日本障害者史」のごく一部を渡辺久子氏が「鳥獣戯画」「一遍聖絵」「北斎漫画」等を参考に作画したものである。解説文は花田氏の「日本の障害者・今は昔」(こずえ社刊)から採用されており、興味深く格調高い。例えば日本文化、ことに琵琶、三味線、琴の歴史は盲人抜きでは語れないし、短歌、俳句等でも数多くの障害者が重要な貢献をしていること等がおもしろく学べる。氏のライフワークの完成後、この絵巻をアニメーションにしたTV番組を大いに期待したい。

聴覚障害者デザイン展

 新宿モノリスビルでは、日本聴覚障害者建築・デザイン展が開かれた。これは、日本聴覚障害者建築クラブと日本聴覚障害者デザインクラブに所属するプロの作品展である。ポスター等のデザインには斬新さで目を奪うものも多かったが、全体的な印象は、専門的に計算されつくし冷静に推敲された完成度の高い商品の展示会という様相を呈していた。
 土谷洋三氏の作品「メッセージ」には、「一生聞こえませんが不幸ではありません。ただ不便に過ぎないのです」と書かれていた。その不便さを補う意味で仲間が各クラブを作り、研鑚しあい情報交換し親睦を深めて次々と有能なプロを誕生させているのだろう。この現状は、後継者にどんなに励みになっているかしれない。スーパーの棚で見慣れた幼児用乳製品のパッケージ(宍戸孝一氏の作品)の子どもたちのあどけない笑顔が、両クラブの将来を暗示しているように思えた。

アート村とアートバンク

 テンポラリージュールAでは、「障害者アートの可能性」展が(株)テンポラリーサンライズの協賛のもとに開かれた。人材派遣会社テンポラリーグループは、1990年に“限りない愛を社会へ、鼓動する心を文化に”をスローガンにして、身体障害者雇用専門の(株)テンポラリーサンライズを設立した。また、同グループは1995年を目指し“アート村”を大阪市内に開設することにして障害者の能力開発や作品の展示、販売、およびチャリティコンサート開催企画等により一層の障害者雇用を社会にアピールしようとしている。
 会場にはアート村の資料、現在テンポラリーサンライズが開設しているアート講座からガラス絵の展示および同社の創作販売による知恵の輪アクセサリー展示即売コーナーもあった。そして会場の一角には、「爆風スランプ」のさをり織りによるステージ衣装が展示されていた。さをり織りの素朴な織り方、鮮やかな色彩を超モダンにデザインし、ユニークなグループにふさわしい強烈な衣装になっていた。
 会場入口から中央にかけて障害者アートバンクの原画が展示され、同時にそれらの原画がどのような広告媒体となっているかを、ポスター等の作品展示、およびビデオで解説されていた。障害者アートバンクは、社会福祉法人束京コロニーの印刷事業のうち、企画デザイン等のソフト面を担当するコロニープランニングセンターの事業の一環として位置づけられている。
 障害者アートバンクでは、障害者アーティストの絵画、イラストレーション等を募集し、作品を審査し、採用を決定したものはポジフィルムにして保管する。これを閲覧、有料貸し出しし、貸出料の6割をアーティストに支払うというシステムをとっている。1986年に開設1年目だったアートバンクは、同年のべ収録点数32点、年度使用点数8点、平均使用料金2万円という実績から、6年目の1991年度には、200名の登録アーティストによる1750点が登録され、年度使用点数も150点を超え、使用料金も2万から10万円まで細分化されて着実に実績を上げてきている。
 このシステムにより、障害者は障害とは無関係に芸術的才能を評価される。そしてその作品が、広告媒体として本やCDの表紙、ポスター、カレンダー等になり、より多くの人の目に触れる機会を得、しかも、使用料の支払いという形で経済生活基盤をもつ道が開け、才能による社会参加が容易になった。
 「障害者の職種職能開発」をテーマに、施設化ではない企業としての福祉事業化を追求してきた束京コロニーは、この障害者アートバンクという企画によって、障害者の芸術的な才能を社会的に開花させた。そして障害者の一個人としての尊厳を、社会人である芸術家として自他共に認識させることにも大いに寄与しているであろう。同社の基本理念である「仕事に人を合わせるのではなく、人に合わせて仕事を開発する」という精神が見事に生きている。

2人の芸術展

 浜離宮朝日ホールにおいて、“Open Mind Artl”という知的障害者による絵画、陶芸、織物約100点の展示会が開かれた。
 その中から、私が最も深く感銘を受けた2人の作家を独断的に紹介したい。一人は、青梅学園に小学校1年の時から精神薄弱児として入所し、現在35歳の関根正明氏である。当時からLPレコード1枚分を前奏後奏つきで口ずさんだりして、何か特別なことに抜群の記憶力を示していたという。そして、外出先で見た車、電車や建築中の建物を帰園後2時間ぐらいで描いてしまうという習慣が、今日まで続いているようだ。
 展示されていた作品はいずれも線画で、電柱の上部から電線があっちこっちに伸びている絵、トラック、コンクリートミキサー車、そしてたくさんの建築中の家であった。建築中の家は、せいぜい2階建てくらいの規模で、大工さんたちが気ぜわしげに働いている足音や作業の音が聞こえてきそうな親密感のある描き方である。家の側面には横に長い板が、何重にも几帳面に並べられ、根気強く綴密に描く作者の性格が表れている。
 街中でいくらでも見かけ、おそらくほとんど見過ごすような建築現場や作業用の車。彼は一体それらの何に心を奪われるのだろうか。大工さんや職人さんたちの活気のある動作か、目の前で次々と細部が作られていく共同作業か、あるいは家自体が完成に近づいていく有様か。
 特に私の興味をそそったのは、トラックである。頑丈そうな長年使い込んだ感じのものである。前部のナンバープレートには数字と記号のようなもの、車側面には宣伝用の何とかかんとか工務店らしく見える字もどきが書かれてあった。この絵から二つのことを学んだ。一つは、彼は現場で写生していない。しかしそれにしては驚異的な細部再現力を持っていること。二つ目は、例えば典型的凡人である私とは、関心を持つポイントが異なること。つまり、私が同じトラックを描いたら、正確な形、ナンバー、会社名を入れるであろうが、おそらく何か彼にとってとても大切なものを見落とすに違いない。彼にとって数字や漢字は、トラックらしさを描く小さな背景の一部に過ぎないのだ。物事を見る世界を感じるその座標軸がはっきりと異なっているのを感じ、そのことがとても快かった。日常の新しい局面に気づかされた気がした。今日も彼は新しい絵の材料を探しに散歩していることだろう。その彼の心には平和と弾むような期待と喜びが満ちている気がする。実にうらやましい限りである。
 もう一人の素晴らしい芸術家は、友愛学園の吉田尚吉氏(46歳)である。会場の舞台一面に50個近くと思われる女性の陶人形が並んでいる。色とりどり、形も一つ一つ個性的である。共通するのは、頭部に目、鼻、口、耳、そして両手、おへそ、それにおっぱいである。どれ一つも似たものがない。勢い余って耳が左右に二つずつ、ついでにイヤリングも二つずつあっても、それなりにどっしりとしている人形もあった。
 彼の最大の関心事はおっぱいらしく、それはそれは工夫を凝らしていた。ペチャパイ、ホルスタンパイ、垂れパイ、互い違いパイ、ありとあらゆる造形上の試みをしているようだ。枝のように細い乙女から肝っ玉母さんにようなおばさんまで、一様に腰から足にかけて安定感があり、その有様は太古から歩いてきて未来まで歩き続けるに違いない頼もしさといとおしさにあふれていた。
 女たちの周りには、演出者の好みか、枯れ葉が敷き詰められていた。その枯れ葉たちはおそらく、ひからびた現在、現実なのかもしれない。その中で女群は、にこやかに、時にコケティッシュにすべてを受け入れ抱きしめんばかりのエネルギーを発している。舞台の前を行ったり来たりして鑑賞していたが、見事なまでの壮観な眺めであった。生命の根源とか宗教の本質、人間の実態とか普段思いもつかぬ哲学的テーマを、これらの母なる女群と語り明かしたくなったほどだった。それは甘い香りのする神聖なエロスであった。つくづく会えてよかったと思った。
 人間が愛する人に愛するかもしれないたくさんの未知の人に、自分の生命の一番キラキラした部分を切り取って差し出すこと。あなたとコミュニケーションしたいからといって大切なものを差し出すその行為が、いのちのきらめく瞬間なのだろうかと感じた。今回のアート点巡りでたくさんのきらめきに邂逅することができた。が、それは、ほんの一部に過ぎないのだろう。山ほどの日の目を見ない作品もあれば、いまだ作者の胸中にあるものも多いことだろう。

「触れる」ことの可能性

 最後に、手で見るギャラリーTOMで開催された「作家の作った触れる作品展」を訪れた。
 思うに、触覚は、五感の中でも最も原始的である根源的な感覚ではないだろうか。人間関係の根本には母子関係があり、その母子相互の認識確認は触覚抜きでは考えられないと思う。味覚も触覚プラスアルファーの感覚とすれば、人間の二大本能とされる食欲も性欲も触覚そのものであり、触覚は本能的感覚とも言える。対象物に触れることによってもたらされうる親密感、充実感がある。また、対象物に触れることを禁ずることによって、対象物の壊れやすさや貴重さを強調する考えもある。美術作品は後者の典型とされているが、TOMの代表者・村山亜土氏は、触覚によってしか美術を鑑賞できない視覚障害者のためにTOMを設立した。そして視覚障害者の美術鑑賞の機会の拡大、美術教育の増強に情熱を注ぐ一方、晴眼者をも含めた触覚芸術なる分野があるのではないか、という模索をしている。
 今回の作品展には、大庭準一氏、成石茉莉氏、平松敬子氏、藤田昭子氏、本田明氏が出品していた。藤田氏以外の作家は、今回初めて盲人のための作品を手がけたという。藤田氏は以前から盲人のための作品を製作していたという。今回展示されたのは「盲人の内面を形にしてみた」という入りくんだ迷路のような作品が多かったが、いずれも小品であった。村山氏に彼女の作品や製作過程を載せた写真集を見せてもらったが、それは想像を絶するものだった。あまりにスケールが大きかった。それは、「山、街、城」と称せられるものであった。日本では無理なので、ブラジルの原野で、たくさんの現地スタッフと共に製作し、野焼きをして完成するという。目の見える人にも見えない人にも、たくさんの人に藤田氏の作品に触れてもらい、内からも外からも鑑賞してもらいたいものだ。


主題・副題:障害者文化芸術振興に関する実証的研究事業報告書 平成6年度