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平成6年度障害者文化芸術振興に関する実証的研究事業報告

ART & DISABILITIES 障害と芸術

Florence Ludins-Katz,MA. and Elias Katz,Ph.D.

これは、アメリカ障害者芸術協会(NIAD)の創設者、フローレンス・ルーデインス・カッツ(故人)と、エリアス・カッツ博士の著作『障害と芸術』の一部を翻訳したものである。

--解説--

  障害をもつ人たちの芸術活動の可能性を開いたアメリカのNlAD

「人間には、誰でも、どんな障害をもっていても、なにか才能がある。自分でそれに気づかないだけだ。それをうまく引き出して自信を持たせるのが、われわれの仕事である」
 アメリカ障害者芸術協会(NIAD;National Institute Of Art and Disabilities)の創設者であり、心理学者のエリアス・カッツ博士の言葉である。
 NIADは、1982年、カリフォルニア州リッチモンドにフローレンス・ルーディンス・カッツ(故人)とエリアス・カッツの夫妻によって創設された。障害をもつ人たちの芸術活動の可能性に着目した二人は、それまでの10年間、先駆的かつ実験的に障害をもつ人たちのための芸術センター作りに取り組んできた。そして、そのモデルを国の内外に広げるためにNIADを設立した。現在、芸術センターはカリフォルニア州に13か所あり、他にもワシントン、カナダなどにもある。その多くがカッツ夫妻がつくったものか、それをモデルにしてできたものである。
 NIADは、民間の非営利組織(NPO)で、州からの助成金、企業からの寄付金、運営委員のメンバーが集める資金で運営している。障害をもつ人たちと社会の文化生活に創造の自由と、いのちの豊かさを提供することを使命としている。
 例えば、先駆的な取り組みとして、ビジュアルアートのスタジオ・プログラムを展開している。その主な目的は、障害をもつ人たちの作品をプロのアーティストの作品として展示すること、知名度を高め、収入の道を開くマーケットを開拓することである。また、そこでは障害をもつ人たちの芸術活動に関心のある人たちのプロとしてのトレーニングもしている。
 NIADが開いている芸術センターは、特別に芸術のセンスがある人だけを集めているのではない。希望した人全員をメンバーとして受け入れている。文化的にも人種的にも、また社会的にも経済的にもさまざまである。ほとんどが知的、多くの場合身体的にも障害をもっている人たちである。中には精神病の診断を受けた人もいる。
 芸術センター内にある斬新でオープンなスタジオでは、障害をもった人たちがいろいろな表現方法を使って自由に創造的活動をすることができる。楽しく、生き生きとした創造的活動の中から、やがて彼らは芸術の世界で高く評価される作品を生み出し、障害をもつ人たちの世界でもめざましい活躍を見せるようになる。このような芸術分野での成功によってNIADのアーティストたちは、これまでの苦悶の連続だった人生から、自らの可能性を追求する中で自由に生きられる世界があるという手応えをもつようになる。
 NIADの芸術センターの素晴らしいところは、こうした彼らの芸術活動に刺激を与えたり、アドバイスをしたりする芸術家など専門のスタッフがそろっていることである。そうした人たちは「アーティスト・ティーチャー」と呼ばれる。この「アーティスト・ティーチャー」は、指導者というよりも助言者のような役割を果たしている。そして時には仲間として、お手本としてメンバーに関わり、スタジオにさまざまなアイディアやエネルギーを注ぎ込んでいる。
 こうしたスタジオにはギャラリーが併設されており、いつもNIADのアーティストたちの作品を展示・販売している。また、一般の人々の関心を引くために、有名なアーティストの作品も一緒に展示することもある。このほか地域のギャラリー、美術館、大学、企業などに働きかけ、NIADのアーティストの作品展を企画したりする。現在では、こうした活動が実って、国の内外で高い評価を獲得しつつある。最近では、個人の美術コレクションにもNIADのアーティストの作品が収集されるようになってきている。
 このスタジオではまた、毎週土曜日、地域の子ども向けの芸術クラスを開いている。障害のある子もない子も、あるいは文化的背景の違う子も、ここにやってきて創造的活動を楽しんでいる。
 このほかNIADでは、芸術と障害についての研究・トレーニングセンターをもっている。ここでは障害をもつ人たちの芸術に関する研究、プログラムの開発、宣伝活動はじめ、障害をもつ人たちの創造性を開拓するためのトレーニングや技術援助活動などもしている。
 このような研究・トレーニング・センターで得た成果や新しいアイディア、情報を分かち合うためにNIADの全国会議を開いているが、「芸術と障害」や「創造の自由」「創造の精神」といった出版活動や「創造の自由」のビデオシリーズなども出して広報活動にも力を入れている。
 NIADでは、最初は障害をもつ人たちの心の中の表現方法としてアートに取り組んできたが、地域の中の芸術センターの実践を通して、社会の文化生活にも大きな影響を与えており、また、社会の障害をもつ人たちに対する認識やイメージを大きく変えていっている。
播磨靖夫

 はじめに

現在、障害をもつ人のための創造的な芸術センターが大変必要とされている。障害者の世話をしている人と会うたびに、障害者の秘めた(眠っている)創造的な芸術的素質を発達させたいという情熱的で積極的なアイディアに出会う。障害者の親たち、芸術家、美術教師、教育者、精神衛生専門家、社会機関、障害者自身、そして一般社会の人々は障害者たちの創造力を引き出す芸術センターの設立に非常に大きな関心を示している。
 今までの考えと違い、障害者は地域共同体の一員であるばかりでなく、その地域で活発に活動するべきで、他の人々と隔離された州の施設に押し込められるべきではないという意識がかなり浸透している。その結果、障害者の多くが地域にとけ込んで暮らしている。しかし、どうすれば普通の生活ができるのかという疑問が残る。外をうろうろすることや、家でひとつの部屋に隔離されていることは普通ではない。したがって、彼らの特別なニーズや願いに応える地域活動や設備を提供する必要性がある。地域社会に障害者の芸術センターを設立しようと奮闘している組織や個人が多く存在する。地域社会で芸術センターを実現させるための仕事の範囲や、基礎、または段階を知らないままに行動を起こして動きがとれなくなったり、あきらめた人もいるが、多くの人は近い将来成功するだろう。
 自発的な芸術センターに加え、創造的な芸術クラスも次のようなところで必須だと思われる。精神病院、刑務所、リハビリセンター、障害者用の寮、宿泊設備のある障害者用の学校などである。さまざまな芸術プログラムは、障害をもつ人たちの人生を豊かにするとともに、彼らの環境である施設をも改善する。この本の主な内容は、昼間だけの施設と宿泊設備のある施設との両方で、芸術プログラムや芸術クラスに応用できる。既存の組織や施設や学校の枠の中で、どのように芸術クラスを設立するかについて書いてある章もある。
 しかしながら、この本が一番力を入れているのは、アートスタジオや芸術学校によく似た要素を持つ芸術センターの設立についてである。障害者たちは自分の意志で来ている。彼らは、自分の作品を展示する機会ができ、作品を他の人と共有することもできる。そして、そのことによって逆に社会が、彼らの力と創造力によって豊かになるのだ。障害者のためのビジュアル(視覚的)な芸術センターをいくつかつくったところ、そういうことが十分可能であることがわかった。
 われわれが直面している問題とその解決に必要なのは、哲学、社会の支持、スタジオ設立、備品(用具)の改良、予算、芸術の経験などである。これらは、芸術センターをより簡単に設立するためにも必要である。
 この本は、すべての問題を解決するものではく、実用的な資料である。人によって、地域によって、違う使い方をされるだろう。われわれが受けた数々のリクエストに答えを出そうとした努力の結果がこの本である。われわれの願いは、NIADの設立がこの分野の深刻な課題に対する答えとなることだ。

 The Artist Speaks 芸術家は言う

 「私が(絵を)描いているときは自分で何をしているかわからない(状態である)。(絵と)面識ができて馴染む時間があってやっと自分が何をやっていたかがわかる。変更したり、イメージを壊してしまうなどの恐れはない。なぜなら絵には(絵自身の)いのちがあるから。私はそれを引き出そうとする。私が絵とのコンタクト(接点)をなくしたときのみ混乱した結果になる。それ以外では全くの調和、楽なやりとりがあり、絵はいい出来になる。」
--Jackson Pollock

 「芸術の体験には魔法(マジック)や奇跡があると信じている。芸術作品と直接に出会うことは創造的過程の中で最も教育的な過程のひとつである。
 もう一人の人とのコミュニケーション(意思伝達)において、視覚的な表現はとてつもなく力強いものであったりする。芸術作品を体験した後、外へ出て世界が違って感じないわけがない。芸術にはそのような効果がある。特別な能力で頭の後ろにそっと回って知覚を変え、住んでいる世界と関連できるようにしている。
 芸術とその力に関しては、私は狂信者である。脳を半無意識的に攻撃できる力を持つものは他にはない。芸術作品をつくるということは最も革命的なことである。芸術が人に与える自由はすごいものだ。」
--George Neubert

 1 創造性

すべての人々に創造力を育成することが、何故必要なのか。重い障害をもつ人たちは、表現のために(創造力を)あまり必要としないのか。彼らの表現が重要でないのか。
 われわれの人生観は、各人は可能な限り最も豊かな充実した発育をする権利があるということである。そのときにのみ社会は、最も充実した可能性に到達する。創造力は、人間が機能を果たすことにおいて、最高の実現化であるということをわれわれが信じている限り、創造力が評価され鼓舞され勇気づけられる環境を作り出すのに最も必要なことがらである。
 創造力は、各個人が持っている最も重要な生活力である。それは抑制されているかもしれないし、活用されているかもしれない。時々それは衰えていくように見えるが、決して消滅はしない。それは、その人自身とその環境を超越することができる。
 創造力は、人間の核心である。そして、満足することがらを実行するようにかき立てる。人は感で石を磨き、それに触る感触を満喫するために刻み、目を入れ、楽しむために少し色をつけ、それから悦びと成果の感覚をともにするため誰かに与える。それがほんの小さなもの、渚で拾った小石であっても、人間の創造力はどういうわけかこのように自身と環境を変えてしまう。

 創造性を定義する

 われわれは感情と思想をよりよく伝えるため、創造力を定義づける必要があるだろう。それは、雲やそよ風を縛りつけようとするようなものだ。定義しようとすればそれは逃げていくし、それだけ失われてしまう。
 創造的な自己表現は、人が内面に感ずる芸術表現形式が外面的に現れることである。この表現は、そのはけ口を絵画、彫刻、音楽、舞踊、詩やその他の多くのかたちに見出すことができる。それは、人が環境の変化の中で見たり経験したりするものによって、鼓舞されるものかもしれないし、またそれは内面の気分、感情や感覚に対する反応であるかもしれない。
 この定義の本質は、創造力は個々人の中にあって、それは健康と成長のために現されなければならないということだ。
 われわれが伝えようとしているものを説明するときに、それがほんとうの意味を持っているのかどうか、この定義を分析してみよう。
 「創造的な自己表現は、人が内面に感ずる芸術表現形式における外面的な徴候である」。われわれは、このことで、感情を表現するときの他者との完全な関わり合いを言っているのである。人はいかに感ずるかを正確には知っていない。しかし感覚はなお、あるときは非常に弱く、あるときは爆発的に、はけ口を求めて存在するのだ。よい環境を与えられると、この力は創造的行動を起こすようだ。これは、野蛮、世間慣れ、天才または発育遅れ、文明その他といった条件に限られていない。われわれは土着の芸術家、有史以前の芸術家、ルネッサンスの芸術家、そして20世紀の芸術家の中に創造力を見出す。それはお金や外面的な報酬のために生み出されるものではない。それは息をしているようなものだ--いのちあるものとして生きているからである。
 創造的自己表現は、表面に現れない内部感情であることができるのか。内部感情はわれわれすべての本質的な部分である。しかしこれらの感情は、創造的自己表現ではない。何度われわれは自分の心の中に素晴らしい絵を描き、頭の中で歌を歌ったか。絵がキャンバスか壁に描かれ、歌が音楽か言葉に変えられるまでは真の創造はあり得ない。これが夢と現実の違いであり、創造的自己表現こそが現実である。
 それは、その環境または変容の中で見たり経験したりするものによって鼓舞されるかもしれない。たびたび人は街の通りを歩き、高いビルを見上げ、自分が小さくて取るに足らないものであることを感じ、そしてそのとき突然に自分や他の人がいなければ何も存在しないということがわかり始める。胸の中に感情が湧いてくる。感情を言葉で描写し、感情を他の人に知らせ、共有したいと思う。たぶん彼は、今夜自分のスタジオに行って絵を描くだろう。しかし、彼の描く絵は高いビルでもなく、彼とビルが融合した無限の感情でもない。
 一人の人間が、森の中を歩いている。彼が家に帰ったら、森の絵を描くかもしれないし、あるいは彼にとって木とか命を象徴する巨大な木の幹を描くかもしれない。往々にして、われわれは自分を刺激するものや自分のムードや感情を変えるものに気づかない。われわれは自分の感情を、世界で起きていることに結びつけることが常にできない。しかし、われわれがいかに感じているのかという疑問はない。太陽は輝き、小鳥はさえずり、そして素晴らしい知らせを聞いた。しかし実際、内面にいかに感じるかという言葉はない。これに対する反応は、流れ出るような豊富な幸せのひとつであるかもしれない。そしてわれわれが絵を描くとき、鮮明な色を通じ愛の光を通じ、絵を描くことの悦びを通じて、他の人たちとこの感情を共にすることができる。そしてまた別の日に、同じような環境にあるとき、われわれは熱烈に感じたものを描くかもしれない。それは暗い陰気な絵かもしれない。
 もし、創造的衝動とその結果として生じる表現が突然なくなれば、何が残るだろうか。新しく違ったものが創造されずに、どうして進歩と変化があり得るのか。もしわれわれすべてが同じような調子で進み、規則どおりの型に適合しなければならないとしたら、世界はどんなに暗く侘びしいだろう。「私は私だ、私はユニークだ、私は人間だ」と飛び回り歌い叫ぶときのみ、人間はほんとうに創造的なのだ。

 障害をもつ人たちの創造力

 すべての人々は、創造的表現を開発する必要性と権利を与えられている前提で、種々の問題が起こる。障害のある人、恵まれない人、自分自身を表現する機会がなかった人は、今もなお創造力の本質を保有しているのか。その人は今もなお創造的人間になる悦びを持っているのか。自分自身が満足し、他の人を動かす力のある芸術作品を生み出す力を今も持っているのか。
 多年にわたり身体障害者のための創造芸術センターに携わってきたが、このような問題はなかった。機会が現れると、ダムが決壊したときの洪水の大波のように、創造的衝動が噴出するのがわかった。自分の作品を眺めて叫ぶ人を見た。彼らの顔は悦びに満ちていた。
 創造の欲求に対応するため、身体による最高の努力が見られた。創造的刺激を得ようとスタジオに出かけるため、われわれの学生が描いた絵を求める偉大な芸術家を見た。われわれは既に見た、そして信じている。

2 創造的芸術、芸術療法、休養の中の芸術、芸術教育

創造的芸術、芸術療法、休養の中の芸術、芸術教育の間の違いと類似点を明らかにすることは重要だ。顕著な類似点のひとつは、すべてが芸術資料、芸術用語を使用し、指導者を必要とすることである。大きな違いは、それぞれの中心的な考えが明らかで、成功が望まれることである。

▲創造的芸術
 創造的自己表現は、人が内面で感じるものを外に向けて示すことである。この表現は、絵画、彫刻、音楽、舞踊、詩、その他多くの形で表される。それは、人が環境の変化の中で自分が見たり体験したものに影響を受けたりするかもしれないし、内面の気分や感情、衝動に対する反応であるかもしれない。
 この定義の本質は、創造性とは、個々の内面に存在するもので、それがはっきりとした美的表現で明示されるということである。共有したいという激しいエネルギーがあっても、それは必ずしも創造的行動の一部ではない。

▲芸術療法
 芸術療法の本質は、その名の両方を共にしなければならない。芸術と療法が関わり合わなければならない。芸術活動の目標はそれ故に、主として健康維持に役立つものでなければならない。これには、もちろん手当と同様に診断が含まれるだろう。なぜならば有効な芸術療法士であるためには、誰と何を扱っているかを理解しなければならない。また、芸術というこの雑多な分野の構成要素、すなわちメディア、過程、性質、潜在能力について充分に知っていなければならない。また、創造的過程、芸術用語、そして記号、形状、内容の本質についてである。もちろん療法についても知っていなければならない。自分自身について、また発育、精神力学、人間相互の関係の見地から、他人についても知っておく必要がある。そして治療関係の本質、人を変えるのに役立つ根本的なメカニズムについても知っておかなければならない。

▲休養の中の芸術
 休養の芸術プログラムにおける主要な動機づけは、芸術的活動に参加することで人々を鼓舞し、有益な楽しい方法で余暇を過ごさせることである。人間は、放課後、退社後、休暇活動後に芸術的な体験をしたいと思っている。多くの人にとって、休養の芸術活動は生活の中で最も意義深い部分であるかもしれない。
 休養の芸術プログラムには、サマーキャンプ、公民館、老人市民センター、市または町の公園、レクリエーション施設が最もよく利用される。

▲教育の中の芸術
 教育においては、芸術プログラムには異なった目標と方法がある。その中でも最も重要な三つを簡単に述べる。
① 学科としての芸術
 芸術は、教科課程における科目として教えられる。それなりに1日または1週間の特別の時間に限られている。主題は大きく変えられる。それは芸術鑑賞であるかもしれないし、芸術の歴史や描写、絵画・彫刻の学習またはその他の工芸の学習であるかもしれない。若干の教師たちは、芸術の授業を、創造的または裕福にするものとして活用する。
② 芸術集中カリキュラム
 芸術集中カリキュラムには、その主な目標として、一般および特別学習の上達のために芸術活動を利用することと、教えられる他の科目を豊富にすることがある。例えば、歴史の研究において、ローマの饗宴を描写することはローマ人の生活をよりよく理解できる。生物学において、花を線で描くことが花の部分と機能を理解しやすくする。算数においては、四つのリンゴが4という概念を引き出すのをたやすくするかもしれない。芸術活動は、教室の中で続けられ、常に学科の内容と統合されている。子どもが積極的に芸術活動に参加し、個人的に芸術活動に夢中になるとき、たくさんの学習が行われる。芸術集中カリキュラムにおいては、芸術は創造的経験として教えられる必要はない。
③ 芸術を通じての学習
 エリオット・エイスナー(1985年)著より
 「芸術は彼らが描写するもののために重要であるばかりでなく、彼らが人間の知的能力に関わり知的能力を開発するうえにおいても重要である。目で見える形のものをつくることを学ぶのは、複雑で緻密な仕事である。子どもは調べ方を学ぶ必要がある。見えるものに単に符号をつけるだけでなく、参加して体験することだ。芸術的な仕事は、現在学校で教えられているものと大いに違っており、判断する能力、評価する能力、言葉で表せないものを経験する能力を開発する。言語の限界は、われわれの意識の限界ではない。芸術は、人間の努力の他の領域以上に人間の理解力を開発する。」

4 成人障害者のための創造的視覚芸術センター

人は、精神的・身体的・情緒的に障害を受けていようと、その障害によって自己の最大能力を発揮しようとする要求を変えることはない。反対に、この要求がより重要性を帯びてくる。病院・障害者用作業所・家族介護ホーム・機能回復センター等の障害者を取り巻く環境は、成長と自己能力発揮のための刺激性と諸設備に欠けることがよくある。障害者にとって必要なのは、自己の能力を発揮し、創造的可能性を解放して、自分自身を個性を持った価値ある個人として経験することのできる場所である。

 成人障害者のための芸術センターと地域のデイ・プログラム

 過去40年間に成人障害者のためのデイ・プログラムの数は大きく増加した。これにはたくさんの理由がある。主な理由は、精神的・身体的・情緒的に問題のある人たちが、遠く離れたところにある大規模ながら時に陰気な雰囲気の州施設から地域の居住区施設へ大量移転したこと、さらにほとんどの人が州施設へ送られなくなったことである。最も重要なのは、一般の人々が、成人障害者も地域社会において適切なプログラムを与えられれば、独立的で生産的な実り多き生活を送ることができるということに気づいたことである。
 デイ・プログラムにはいろいろな種類が考えられるが、大別すると二つになる。「開発的プログラム」あるいは「行動プログラム」は、障害程度の高い低機能障害者に適し、レクリエーション、または社会性を身につけることを志向している。「障害者用作業所」「作業活動センター」「リハビリセンター」等は、高度の機能を持った成人に適しており、綿密な指導のもと、作業の生産性に応じた時間給が得られる簡単な「作業」を志向している。
 成人障害者用の芸術センターは、主として芸術面において障害者が創造的な自己表現をしたいという要求に叶うべく設計された、新しいタイプのプログラムである。これらのセンターでは、芸術と芸術関連分野において予備職業的な、または職業的な訓練がなされる。この環境のもと、低度のまたは高度の機能を持つ人たちが、互いにとなり同士になりながら、障害の種類、程度に関係なく、自己表現の意図を持って自己の創造的作業に集中することができる。芸術センターではまた、昼食時や休憩時、小旅行、芸術関連の場所への訪問を通して、社会性を身につける機会を提供する。
 芸術センターの学生は、年齢、障害に関係なくプログラムでの自己の経験を通して、多大の恩恵を受ける。彼らの自己価値観は向上し、周りの者は彼らを新しい光のもとに見出し始める。彼らは自分の芸術作品の販売を通じて収入を得ることもある。より優秀な学生は、印刷所の美術顧問や助手として雇用され、一部あるいは全額自活の糧を得るよう訓練を受ける。
 障害者用の芸術センターは斬新なデイ・プログラムで、成人の障害者全員に適応されるべきサービス全般の一部分である。障害者用作業所や行動プログラムでは適切に能力を引き出されなかった障害者たちは、芸術センターで能力を発揮するようになった。他のデイ・プログラムには参加していなかった障害者が、芸術センターで大きな利益を得るようになった例がある。どの地域でもこのようなプログラムが実施されれば、芸術センターに参加することで利益を得る障害者がたくさん出てくるだろう。
 障害者の能力は機会さえあれば引き出せるものである。芸術センターはこのような人々が自己の能力を十分発揮できるように、また社会に役立つ人となれるよう支援する。特に、障害者がこれまで数多くの機会を否定されてきたことを思えば、今、障害者が人間として自己を表現する権利を奪い取ってはならない。今こそ、この理念を推し進める好機である。

 成人障害者用の創造的芸術センターの定義

 われわれは成人障害者用視覚芸術センターを、精神的・身体的・社会的に障害をもつ人々が、圧力・恐れ・競争なしに絵画・彫刻・版画・創作工芸等の創作活動を、アトリエの感覚で行える、全日制の刺激的な支援環境と定義する。創作過程とその結果としての芸術作品が共に重要視される。このアトリエ感覚が、しばしば個性や動作、生産性に大きな変化をもたらす。
 このようなセンターには、他の要素、例えば画廊・教習プログラム・遠足・展覧会など、障害者にとって創作意欲を促進させるためのありとあらゆる活動が含まれている。
 芸術センターはいろいろな形態をとる。音楽・ダンス・ドラマ・視覚芸術・詩・映画等のすべての表現芸術を含んだ芸術センター。例えばドラマと衣装デザイン、音楽とダンスというように、二つまたは数種の芸術を組み合わせた複合形態で行う芸術センター。または、ひとつの芸術にのみ専念した芸術センター。
 われわれは特に視覚芸術センターについて記述してきたが、これはこの分野がわれわれの専門分野であり、またこの分野で実際にわれわれが数年にわたり活動してきたからである。視覚芸術の中にもさまざまな分野がある。例えば絵画・彫刻・版画・線画・切り絵・アサンブラージュ(がらくたなどを組み立てた美術品)・寄せ木細工・壁画・写真・織物等、人ひとりが一生を注ぎ込むに充分足りるほどのものだ。

 創造的芸術センターのみにできる貢献

 そのようなセンターを特徴づけ意義あるものとするため、センターは何を行わなければならないか。視覚芸術において、創造性と自己表現に重点を置くことは、自己開発を促進させ、自由と規律に対する人間の基本的な向上心を養う。競争心を除外した非管理的な養成環境が、成長と自信をもたらす。創作の過程と結果としての完成品が、個人の中に違った能力を呼び起こす触媒として働く。そしてこれらの能力を一緒に結合させることで、生産的な全人格を形成する。
 障害者の創造的芸術センターは新しい形の施設である。しかし開設されてまだ日が浅いため、その特異性に誤解や不明瞭さがつきまとう。創造的芸術センターは、各個人がいかに精神的・身体的・惰緒的に障害をもっていようとも、その人を可能性を秘めた芸術家と見なし、支援的な環境のもと豊富な芸術経験を通じて創造し、成長する能力を開発しようとする。障害は病気(あるいは病理模型)とは見’なされない。克服されるべき対象として見なされる。
 芸術センターは、人々が、抑圧を受けず独自のペースで自分が選んだ素材をもとに創作を行え、また教師は必要なときのみ助言者や進行役として参加する開かれたアトリエである。芸術、そして全人的成長は、学生の内面的必要性を発揮しようとする。また、それらは、自分の芸術を通じて他と関わりを持とうとする彼自身の意志を通じて形成される。参加する期間に期限は全くない。創造性と成長には終わりがないからだ。
 芸術センターに通うのは、芸術教室に通うのとは全く異なる。芸術センターはプログラムに全面に委託する。期待されるのは、芸術における、また人間としての自己の成長と開発だ。
 芸術教室に通うのはずっと散漫になってくる。その主要な役目は娯楽もしくは教条的なもので、学習は通常、学校・老人センター・公民館・公園や娯楽施設・美術館で行われる。学習は週2~3時間と限られ、学生は1~2教室に登録する。障害のある人ない人、共に個人の楽しみや教養のために参加するものである。

 センターの到達目標

 どのセンターも将来の達成に向けた明確なヴィジョンを構成するために、できるだけ早期にその目標を策定しなければならない。目標を発表することは、理事会・役員・職員の指針として、また地域の支援を得るために不可欠である。目標は明確に発表されなければならない。というのは、センターの評価は目標の達成度によるからである。創造的芸術センターに適した目標として次のことを提案する。
① 芸術性の開発
 芸術センターは、障害者が創造的自己表現を通じて成長し、喜びと自己能力発揮の達成感を経験するひとつの環境を作り出そうとする。学生が作業するにつれ変化し進歩していく。どの時期においても、それぞれの特徴があり、興奮を伴う。人が到達する表現の程度には限界がない。
② 芸術的長所を最大限に生かした作品の創造
 知的・情緒的・身体的にいかなる制約を受けていようと、人は皆何らかの段階まで芸術的業績を上げることができる。センターの職員は常に障害者が達成できる限り最高の作品を目指して努力するその一助とならなければならない。明らかに、全く未知の結果に結びつくこともしばしばある。画廊や美術館に並べても見劣りのしない作品がしばしば生まれてくる。
③ 視覚芸術の創造的経験によって培われる個性
 人は皆、創造的自己表現を通じて、利益を得ることができる。創造という行動が人の中に違った能力を呼び起こす触媒となり、生産的な全人格を形成する。
④ 自己イメージと自己尊重の意識の高揚
 自己を表現する能力を通じて、人は自己イメージを自信のある、価値ある人間へと高める。障害者は自己の芸術に誇りを持ち、自己の作品を他人と分かち合う喜びを覚える。障害者の生活において、熟練したり、成功を感じたりする場所はほとんどない。失敗・挫折・孤立は日常茶飯事だ。同輩や社会から与えられる認識が、芸術家としての喜びや満足に加わり、自分自身を社会の中で価値のある一員と感じさせる。
⑤ 自己のことを決定する能力の開発
 人は皆、自己の能力の最高を発揮したとき、勇気づけられる。周りの環境は競争を強いるものでも、判定を求めるものでもない。自分で決断することが奨励され、尊重される。学生は常に、主題・大きさ・色の配合・デザイン・技法の芸術的選択をしなければならない。作品完成までに10分を要するものもあれば3週間要するものもある。製作された作品は彼自身のものである。彼は、失敗する権利、再び試みる権利がある。自分の作品を破いてもいいし、センターに残しておいてもいいし、家へ持ち帰ってもいい。他に選択することもできてくる。つまり週何日センターに通うか、作品製作にどれほどのスペースが必要かなどである。
⑥ 内面の感情や気分の表現
 内面の葛藤・夢・幻想を表現できるということが浄化作用となり、さもなければ逸脱した行動となるのを恐れて抑圧されたままになる感情を、解放する手助けとなる。
⑦ コミュニケーション方法の改善
 人は皆、創作作品のみでなく、言語を通じてのコミュニケーションで自己を表現することが奨励される。これが、彼を取り巻く人々・同輩・職員・ボランティアたちとのよりよい相互作用に結びつく。
⑧ 装置や道具類の使用と調整感覚の改善
 すべて視覚芸術はイメージを実行するときに、鉛筆・ペン・のみ・刷毛等の道具類を使うという、目と手の調整作用を伴う。もし手を使うことができなければ、身体の他の一部、口やつま先が代理の役目をする。
⑨ 独立生活の可能性の開発
 人には皆、自給自足したいという願望がある。独立心の向上は多かれ少なかれ人格全体と品行に大きな効果を及ぼす。
⑩ 職業予備的な訓練と経験
 すべての人に必要不可欠な、例えば仕事への集中度、限界を理解すること、自己の動機付け、自己訓練、他人との協調等の基本的能力は、特に重要視される。さらに清潔感、仕事の後かたづけ、時間厳守、休まないで出席すること、ふさわしい服装等の習慣も将来の雇用に備えて必要だ。
⑪ 職業的な訓練と経験
 時には学生は、芸術の分野で非常勤、または専任の講師になるための訓練を受けることもできる。学生はこれまでも訓練を受け、回復期療養所や障害者のための美術教室で美術助手として、有給の雇用先に配属されてきた。能力のある学生は、印刷所や美術関連の分野で助手としての訓練を受けることもできる。訓練は徹底的なもので、学生個人の能力に応じて個別指導されなければならない。障害者がこれらの仕事を続けていけているかの追跡、支援体制も取られなければならない。
⑫ 芸術作品の売買市場
 芸術センターが学生の芸術作品を売ることは全く当然である。学生たちは、自分の作品が買われ複製されるだけの価値があるということに励まされる。仕事がうまくできたという賞賛に加えてお金が入ってくる。芸術センターは、障害者の芸術作品が強く求められ、社会的にも価値あるものだという認識に誇りを覚える。芸術作品の売買市場は、作品の創造性に対して敏感なこの分野の経験者によって、専門的にまた品位をもって行われなければならない。
⑬ 不穏当な制度化の防止
 地域社会に留まり続ける可能性は、環境に適応できるかどうかにかかっている。自己開発、芸術的成長、充実感という一連のプログラムを障害者に与えることで、障害者たちを地域社会に受け入れるに十分値する価値ある人々だと地域社会が認識する機会を与える。
⑭ 家族・世話人・社会機関の関与
 家庭をもつ学生は、家族や世話人の世話を受け、多くの社会機関に名を知られ、またその管理下にある。学生にもまた彼に関わる他の人たちにも最大の利益となるよう、彼との有意義な絶えざるコミュニケーションが維持されなければならない。このようにしてはじめて、すべての人に納得のいく計画が可能となる。
⑮ 地域社会・ボランティア・実習医員・学生の積極的な参加
 ボランティアの、またソーシャルワーク・特別教育・心理学・レクリエーション・芸術の分野でフィールドワークを行っている学生や実習医員の積極的な勧誘が望まれる。彼らの参加は、活動を常態化するお手本として重要だ。彼らはその見返りに、この経験から多くのものを得る。実習の学生たちは、この分野の職業的ワーカーとして、将来嘱望される人材となる。
⑯ 障害をもつ子どもや青少年たちの関与
 子どもや10代の若者たちは学校へ通っているので、芸術センターには通えないが、部分的に、また土曜日には参加できる。青少年たちが早い時期に芸術に関心を持つことは、時に一生涯を通じての興味に結びつくことになるので重要だ。障害児にとっては、身体的・精神的問題のために選択肢が限られているので、これはとりわけ重要となる。芸術においてはこれらの制限が取り払われ、彼らも他の子どもたちと同様、対等の立場になる。
⑰ 展覧会、出版、セミナー、ワークショップを通じた一般大衆の啓発
 センターは一般大衆のみではなく、この運動--章害者の創造--の擁護者である立法府・教育者・芸術家・各種の専門家等に公開の教育を行う機能を持つ。センターは常時学生たちの創作作品を展示する。また、ワークショップ・会議等を開催し、ポスター・出版物を配付し、新聞・雑誌・ラジオ・テレビを通じて公共に伝達する。専門家的水準に達している、あるいは現役の芸術家たちの作品の中に混じっても引けを取らない学生たちの作品を展示する画廊は、大衆の鑑賞と理解に大いに貢献する。

 障害者用の芸術センター分館の論理的根拠

 理想的な状況のもとでは障害者用の芸術センター分館を設立する必要はない。障害者は、現在ある芸術プログラム・芸術教室・芸術体験等に統合されるべきで、彼らの障害を条件に他人と分離させられてはならない。彼らの特殊な要求は、統合された環境で満たされなければならない。しかし障害者の多くはまだ現在ある施設に受け入れられていない。それは彼らに対する否定的な態度の数々、また彼らを収容するにふさわしい施設にするための改修費用が原因である。だから芸術センター分館を設置することが急がれるのだ。
 そのような特別措置を全く講じなくてもよいような、またすべての人がそれぞれ個人の、また社会全体の最高の達成感を求めて一緒に働けるようになることがわれわれの夢だ。現在芸術センターは、統合に向けてできるだけの努力をしている。障害のないボランティアたちが障害のある学生芸術家たちと手を取りあって仕事をする、障害者の作品を障害のない芸術家の作品と並べて展示する、審査会へ行く、招待客と特別行事を行う、芸術家の訪問を歓迎する、絵の展覧会、芸術行事、芸術家のアトリエヘ小旅行を計画するなどである。

 障害者用の自主芸術センターの論理的根拠

 障害者用の芸術センターは独立した自主組織として、またより大きな組織の一部として設立される。さまざまな状況下での活動の結果、自主芸術センターが最も効率のよい形式だという結論に達した。自主芸術センターとその理事会が、はっきりと提案するべきことを決議し、その目標に到達するための資金と人材を求めることができる。それは、親組織から専横的に押しつけられた規則や要求に従うものではない。それは、寄付者や出資者に、そのプログラムで学生芸術家にどれだけの利益が還元されているのかはっきりと表示してみせる。また、そのような背景下にある学生たちの作品も展示してみせる。
 それは、他からの強要によって従属したり弱体化されない創造的芸術環境を提供する。学生たちはプログラムがどのようなものであるか、自分たちに何が望まれているのかを知り、それに喜びと勇気を持って応える。高水準の専門の芸術の教師たち、ボランティアたち、実習医員たちがこの理念に共鳴している。

 障害者用の自主芸術センターについて

 芸術は、創造力を刺激する環境下で最もよく生み出される。創造するときには批判的でない、競争心をあおらない、自由なアトリエの雰囲気が必要だ。空間は大きく、明るく、混んでいなくて融通が利くもの、こぎれいさや順応性という先入観に束縛されないものでなけれならない。床面は清潔さを保ち、掃除しやすいようにコンクリートかリノリュームでなければならない。どんなに障害のひどい人でも、部屋の隅々にまで行きやすいものでなければならない。
 さまざまな道具類、素材、アイディアを使っての実験が奨励されなければならない。安価な材料--大きさの違うさまざまな色の紙・ボール紙・木片・毛糸・粘土・多種類のチョーク・クレヨン・絵の具等が豊富になければならない。色、素材、様式、作品の大きさには制限があってはならない。窯、印刷機が備え付けられなければならない。
 学生たちは作業する際、机・床・イーゼル等を自由に選べるようでなければならない。芸術家の彼のみが、自分にとって何が適しているかを知っている。特に芸術においては、個性・アイディア・手がかり・技法の独自性を探求・開発するために、経験を通じて学ぶということが一人ひとりにとって不可欠だ。
 熟練した美術の教師をもつことも不可欠だ。なぜなら、美術学生の成長には技術面において教授を請いたくなるときがあるからであり、またその教授は経験豊かな美術教師にしかできないからだ。学生の要請や傾向に応じて開発の手助けをするために、職員もいる。教師の仕事は、いわば刺激と励ましを与えること、また特殊な技法を求められたときにそれに応えられることだ。教師は支配的な力を持ってはならない。特殊技法を学ぶことは二次的に考えなければならない。まず大事なのは、創造の喜びと希求心、発見と創造美術を作り上げる興奮だ。
 規制を最小限に抑えたこのような環境のもとでは、最初学生たちは与えられた特典を乱用するように見えるかもしれない。われわれ、つまりこの理念のもとで学生たちと一緒に仕事をしてきた者にとっては、結果は全く反対であった。学生たちは、自分のしていることを楽しむ。作品と一緒に留まり、研究意欲を高められる。彼らは独自のペースで進歩する。彼らは自分の作品をまた他人の作品を尊敬することを学ぶ。彼らは素材の可能性と制約を学ぶ。作品への没入、達成感の高まり、職員や地域社会への関心を通じて、学生たちは発達し変化を遂げる。何故それが起こるのか、われわれには知りようがないが、それは起こる。学生たちは自分自身でコントロールし始める。規律が職員とか外部の力によって課せられたときと、規律が自由な環境において秩序と組織を求める人々の必要性から発したときとでは違いがある。自分自身の問題を処理しようという能力と同様、自己イメージと自尊心が成長するにつれて、彼らは自分自身を価値あるものと感じるようになる。この感情が、彼らの全人格と人間としてのまた創造する芸術家としての全機能に伝達される。
 芸術センターを開発し、構築するのに、ただ一つの道しかないのではない。地域の必要性・基金の集まり具合・障害の状態・人種の構成・専門知識・理事会の経験と理念・監督官たち、職員たちそれぞれが個性的であっていい。あるセンターではそれが数分野に及ぶ。またすべての人は多次元で成長することができ、自分の楽しみを見つけることができ、高度の芸術作品を作り出すことができるという創造性の信念の焦点は、われわれ一般大衆だ。


主題・副題:障害者文化芸術振興に関する実証的研究事業報告書 平成6年度