発達障害者の生きやすさのための「境界線」と「接点」

「新ノーマライゼーション」2023年3月号

山野清香(やまのさやか)

社会の変化の中での「発達障害」

「発達障害」が社会に認知されるようになったのは、2000年代に入ってからです。90年代に児童期を過ごした私が「他の人のようにうまくできない」と訴えても、その苦しさを受け止めてくれる人はあまりいませんでした。一方で大人になった今、仕事上の行き違いが起きた際に「発達障害」を一面的なレッテルとして貼られることもあり、戸惑いも覚えています。私自身は変わらないはずなのに、社会の受け取り方、見方がこの10数年の間に急速に変わりました。障害概念や人の多様性の理解が変化しつつある現代社会の中で、私個人と社会との間に起こった摩擦(コンフリクト)(障害)とその中で考えたことをまとめることで、発達障害の特性を持つ人も共に生きやすい社会づくりを考えるほんの少しの手がかりになれば幸いです。

私の特性と困りごと

さて、私は「会話での返答のタイミング」「協調運動」が苦手、つまり、頭の中で感覚や運動を含む情報がつながりにくいのです。ここで周囲の理解が得られにくいのが「頑張ればなんとかなることもある」「体調によって変動がある」ことです。できてしまうことがあるがゆえに、「やる気がない」ように見えてしまいやすいのです。

特性による二次的な問題―あいまいな自他境界線―

私は聞いた内容が消えてしまうような感覚になりがちで、自分の考えは会話が終わった後に沸き起こることがあります。子どものうちは、周囲に合わせていれば、「良い子」と見過ごされがちです。しかし、今の私は自分の意見を伝える経験が不足し、自信が持てないことで、自分と他人との「境界線」がわからなくなります。「自分と他人は別の感情や価値観を持っている」ことがあいまいになり、他人の感情を自分のことのように捉えてしまったり、「自分の気持ちがわかるはず」と他人に過剰な期待を抱いてしまうことがあるのです。自分の思いを伝えられないことが常態化すると、生活や心身の安定にゆがみが生じます。会話のタイミングの取りづらさから本音を出しづらく、自分が疲弊するまで役割を負った結果、生活のバランスが取りづらくなり、自分が調整できなかったことが問題であるのに、「利用されたのではないか」と被害的に捉えてしまう失敗もしてしまいました。

表出コミュニケーションを育てること、そして社会との「接点」づくり

自他の境界線を引き、自分の思いや考えを相手に伝える経験を幼少期から積むことは安定した社会生活には必要不可欠です。また、「思考力」「判断力」「表現力」等の「他者との協働力」を社会が求めるようになったと感じます。発達障害者は思考力が乏しいとは限らず、面白く新しい発想を持っていても、それを活かす「接点」をつくることに苦手さをもっている場合が多くあります。一方で単純作業が合うかといえば、私のように不器用さやマルチタスクの苦手さを持ち合わせている場合は、人よりも時間がかかり、苦労します。

「接点」を持ちにくい発達障害者が自分を表現するタイミングや方法の歩み寄りを試行錯誤できる機会が多くあると、社会の多様性が広がるのではないでしょうか。その一つの提案が「コミュニケーションの文字化」です。文字化がすべての発達障害者に合うわけではありませんが、私の場合、考える「間」ができ、安心感を持ちやすくなります。また、当事者会のように、安心して自己表現できる場で、自分の思いをアウトプットする経験を積むことで、多様な考えに触れ、自信にもつながり、社会へ理解を求める発信もしやすくなります。結果、自他の「境界線」を引いて、自分も他人も大切にできることに繋がるのではないかと考えています。

また、「発達障害とは何か」を模索し、多様な人々がつながる「接点」をつくる工夫と歩み寄りをしていくことで、発達障害の理解促進だけでなく、多様な人々が力を発揮し、協力し合える社会になるのではないでしょうか。

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