はじまりはアンコールワット国際ハーフマラソン

特定非営利活動法人ハート・オブ・ゴールド 事務局次長 井上恭子

2022年10月15日、(公財)日本障害者リハビリテーション協会主催の『「リハ協カフェシンポジウム」第2弾』でお話をする機会をいただきました。当日「なぜこの国なの?」「なぜ障害分野なの?」の問いに、ハート・オブ・ゴールドの設立経緯と活軸を軸に、私が関わる仕事について紹介した内容をここにまとめました。

1970年代の内戦により多くを失い、復興途中であった1990年代のカンボジアで、平和発信のためにマラソン大会を行う、という計画が持ち上がりました。カンボジアにとっては、1963年にプノンペンで開催されたアジア大会から33年ぶりの国際スポーツ大会となります。しかし、大会開催を宣言したものの、あらゆるものが不足していたため、多くの日本人が資金援助をし、準備や運営にも直接携わりました。

当時、カンボジア国内には1,000万個の地雷が残り、その被害者は40,000人といわれていました。「対人地雷で手足を失った犠牲者、子ども達に愛の義足を」が大会テーマとなり、1996年12月22日、14の国と地域から654人が参加して、第1回アンコールワット国際ハーフマラソン大会(AWHM)が実現しました。

参加費はカンボジア人1ドル、外国人10ドルで2,517ドルが集まりました。参考までに、当時のカンボジアの公務員の平均月収は20ドルでした。これに日本人からの寄付も加え、1,940,000円が義足支援に充てられ、チャリティ大会とする、という目標も達成できました。

オリンピックで二つ目のメダルを手にしたマラソンランナー有森裕子が、同大会に招待され参加したことがきっかけとなり、大会の意義、スポーツが人々に与える影響とその力を認識し、大会を継続していくため、関係者とともに1998年10月10日にハート・オブ・ゴールドを設立しました。

出産を機に前職を離れ子育て中であった私も、岡山の事務局で活動を手伝っていました。2004年に、それまで関係団体や企業などで分担していたAWHMに関わる業務、またハート・オブ・ゴールドの管理部門の全てを事務局が一括して行うこととなり、私も子どもの幼稚園入園にあわせ、国際協力という分野で本格的に働き始めました。

関係団体への後援依頼、スポンサーとの連絡、資金調達、予算・会計の管理、日本人の大会エントリー受付、ポスターや公式ガイドブックのデザイン作成と内容確認、プレイベント・前夜祭・大会のプロトコル確認、日本からの専門家派遣とスタディツアーの調整・実施など、業務は多岐にわたり、毎日が学びの連続でした。前職はシステム開発でしたので、コンピュータは得意で、工程作成や進捗管理はシステムとも通じるものがあり、業務を進める上でとても役に立ちました。大学の大先輩でもある事務局長のもと、現地スタッフと協力しながら業務を進めるなかで、カンボジアとのやりとりは想定外のことが頻繁に起こり、忙しいけれども、一つひとつを面白いと感じて仕事に没頭し、以来20年が過ぎ、現在に至ります。

第1回AWHMでは残念なことに、カンボジア人の障害者ランナーを見つけることができませんでした。なるべく人目に触れないように、触れさせないようにしているのか、それが当時の障害者の置かれた状況であったと想像します。カンボジア側実行委員会に障害者の参加を積極的に進めるように求めました。

再三の働きかけにより、年を追うごとに障害者の参加が増え、2001年には「Amputee(切断・欠損)」として障害者枠が設けられ、2002年には車いす21kmと義足10kmが新設されました。正式種目として表彰されるようになったことは、参加者にとってモチベーションのアップにつながりました。

また、障害者の参加が増えたことから、それをまとめる「障害者陸上連盟(CDAF)」の組織化支援をハート・オブ・ゴールドの現地事務所長が行っていました。拠点となる場所の整備が必要となり、AWHM業務とは別に、私が初めてスポンサーを獲得してCDAFの事務所改修工事を行いました。

CDAFが障害者の大会エントリーを取りまとめ、参加手続きなどをサポートするようになり、更に地方からの大会参加者も確実に増えていきました。障害者同士が誘い合い、仲間をつくり、励まし合うようになったことが、大きな成果です。地雷被害により絶望したが、スポーツと出会ったことで再び生きる力が湧いてきたと、皆一様に話してくれます。

ハート・オブ・ゴールドは、日本の大会への参加機会の提供にも積極的に取り組みました。毎年4月に茨城県土浦市で開催される「かすみがうらマラソン」は、ハート・オブ・ゴールドを通じてアンコールワット国際ハーフマラソンと姉妹協定を結んでいます。12月のアンコールワット国際ハーフマラソンで上位の成績をおさめた障害者ランナーを有森賞とし、翌年4月のかすみがうらマラソンに招待をしています。開会式ではカンボジアの代表として、誇り高く選手宣誓を行います。

これまでの招待ランナーは地雷被害者がほとんどで、そのうちの一人は、受傷後は家族とも距離を置くようになり、また周りの人達が自分や家族を不憫に思っていることが、とてもつらかったと話してくれました。海外のNGOで義足を作ってもらったことから生活が変わり、走って1位になったことから、アスリートとしての一歩を踏み出しました。AWHMには毎年参加し、メンバーとして若い人達の面倒をよくみています。将来は、コーチとして次世代の育成にも意欲を示しています。ハート・オブ・ゴールドが設立当初から目指していた、困難な状況にある人々がスポーツを通して人生にチャレンジするための「希望と勇気」を持ち、更にそれを受け継いでくれていることが、事業に携わる者としては大きな喜びです。

AWHMは、第17回大会終了後に行われた実行委員会の会議で、次の18回大会で運営をカンボジア側に移譲することが決まりました。人材も育ち、カンボジア国内のスポンサーも増え、参加者も10倍となり、カンボジアでは18才は大人とされていて、良い節目でした。2013年には、予定どおり大会の全運営をハート・オブ・ゴールドからカンボジアオリンピック委員会に移譲し、現地化を達成することができました。有森代表は大会の名誉会長として、現在も毎年12月には参加しています。

ハート・オブ・ゴールドは、障害者支援事業を継続しています。AWHMへの障害者ランナー参加のサポート、かすみがうらマラソンをはじめとした日本の大会への選手招聘、日本の大学の先生や現役パラアスリート、コーチの方々といった専門家の派遣及び指導会や日本でのパラキャンプの実施、カンボジアパラリンピック委員会と協力してカンボジア初のパラ陸上競技会の実施など、新たな活動も行っています。また、AWHMからはチャリティの対象として、障害者ランナーのAWHM参加と、ハート・オブ・ゴールドの障害者事業に継続支援を受けており、支えてきた大会が、次の活動を支えてくれる仕組みは、持続可能な活動の実現と言えます。

そしてAWHMからスタートした車いすの選手が、TOKYO2020パラリンピック大会ではカンボジア代表としてただ一人参加し、決勝進出を果たしました。2023年にはカンボジアでSEA Games(東南アジア大会)とあわせて、障害者の国際大会としてはカンボジア初となるASEAN Para Games(アセアンパラ大会)が開催されます。ますます障害者アスリートへの期待が集まっています。前述の選手のようなヒーロー的存在は、子ども達や一歩を踏み出せない人達の憧れとなります。ハート・オブ・ゴールドは、彼らとともに、一人でも多くの障害を持った人が、スポーツを通して社会と関わり、希望や夢を持って生きていく、その一助となりたいと願っています。

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