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平成19年度パソコンボランティア指導者養成事業

セミナー
障害者IT支援とパソコンボランティアの展望
報告書

資料1
障がいがある人へのより良い支援に向けて

畠山 卓朗
早稲田大学人間科学学術院

1.はじめに

障がいがある人に対する支援において何が大切かと問われると,筆者は真っ先に「気付き」というキーワードをあげます.確かに,知識や技術も大切です.知識があって始めて気付くことも多いと言えます.技術を深めていけばいくほど新しい「気付き」に出会うことも多くなります.しかし,最初にあげた「気付き」とは,「障がいがある人」 vs.「障がいがない人(本当にそんな人がいるのだろうか)」,「困っている人」vs.「困っていない人」,あるいは「支援される人」vs.「支援する人」のような紋切り型の捉え方における「気付き」ではなく,同じ生身の人間としてたまたま障がいがある人に接していくことを通してはじめて見えてくる「気付き」があるように思うのです.

そのように見ていくと,障がいがある人側に問題があるというよりもむしろ,支援していく側に数多くの問題が内在していることに気付きはじめるのです.

以下では,サポートにおける筆者自身の気付きを紹介し,今後のより良い支援のかたちを考察してみます.

2.問題はどこにある?

読者は,50音表の文字盤(コミュニケーション・ボード)を発話が困難な方との間で使われた経験があるでしょうか.

障がいのある話し手と支援する側である読み手がいるとします.つぎのような会話の場面にしばしば出会います.

  • 読み手:「好きな果物を教えてください」
  • 話し手:文字盤の“な”を指さす
  • 読み手:「ひょっとして,夏みかん?」
  • 話し手: ゆっくりと頷く
  • 読み手:「じゃ,嫌いな果物は?」
  • 話し手:文字盤の“か”を指さす
  • 読み手:「あっ,わかった.それは柿でしょう」
  • 話し手:「...」
  • ...会話は続いていきます.

一見,コミュニケーションがうまく成立しているように見えますが,聞き手がコミュニケーションの主導権を一方的に握っており,会話が双方向性であるとは言い難い状況になっています.まるでクイズをしているような会話がここにはあります.

例えば,話し手に「昔は好きだったけど,最近は嫌いになった」という思いがあったとしても,永遠に伝えられることはありません.筆者はここで起きている事態を「先読み問題」と名付けています.読み手が「先読み」するという心理は,決して悪意があるわけではなくむしろ善意の気持ちからなのです.「文字盤を指さすのはとてもたいへんそうだから少しでも楽に会話させてあげよう」という一見するとやさしい気持ちなのです.しかし.「先読み」は時として会話における混乱のもとになります.また,文字盤を利用しているある青年からは「先読みは唯一の自己表現の場を奪う」という切実な問題提起を投げかけられたことがあります.解決すべき課題は,支援される側の中にあるだけではなく,支援する側にもあることに気付く必要があると思うのです.

3.コミュニケーションをどう捉える?

たとえ重度の障がいがあったとしても,適切な支援機器さえあれば,自由にコミュニケーションがとれるようになる...果たしてそのとおりでしょうか.

障がいのある人々のコミュニケーション支援にかかわっていく中で,そんな疑問をふと抱いたことがあります.

なぜなら,日常生活のほとんど全てを介助者の手に委ねている人々の多くにおいて,コミュニケーションに対する意欲が低くなりがちなのを幾度となく目にしてきたからなのです.せっかく出会えたコミュニケーション支援機器がどうして活用されないのかとても不思議に感じたことがあります.

ここで,私たちの普段の生活において「誰かに何かを伝えたいという気持ち」はどこから生まれてくるのであるのかを考えてみたいと思います.例えばつぎのような場面を思い浮かべることが出来ます.朝,職場の同僚に出会った時,「昨日の夜,テレビでやっていた番組 見た? とても面白かったね」「帰りに立ち寄った本屋で素敵な本に出会った」「たまたま電源を入れたラジオで好きなミュージシャンの曲が流れていた」など,そんな日常の風景があります.私たちは,生活の一コマ一コマで様々なことを感じとり,考え,そしてそれを誰かに「伝えたい」という気持ちが生じます.つまり,生活の流れに密接にかかわることができているからこそ,コミュニケーションに対する動機づけが導き出されているように思うのです.

重度の障がいがある人も,生活の中に置かれていることには間違いないのですが,自分で生活の流れを組み立てたりすることが困難な状態にあることが多いと言えます.そのような状況をなんとか脱して,受動的ではなく能動的に自らの生活にかかわっていく,楽しむ環境が生まれていけば,自ずとコミュニケーションに対する意欲付けが導き出されるように思うのです.

筆者は,コミュニケーション手段に対する相談を持ちかけられた場合,相談内容に対する具体的な回答を提示するとともに,その周辺のことにも話しを拡げながら質問をすることがあります.例えば,「テレビの電源やチャンネルの選択はご本人が自分で出来ていますか?」「必要な時に人が呼べますか?」「一日の中でひとりになれる時間はありますか?」「かかってきた電話を受け取ることができますか? 好きなところに電話をかけることができますか?」など,生活の様子を尋ねます.相談者とのやりとりの中から,その人自身で「デキルこと」を探し求めます.そして,その人のなりの生活が少しずつ見えてくると,様々なことに意欲が生まれてきます.筆者はコミュニケーション支援を単に人と人との間のテーマとしてのみ捉えず,人と生活環境,社会・自然・動物をも含めた関係における相互作用として捉えています(図参照).この捉え方は,障がいをとくに持たない人が日常的に置かれている世界となんら変わりがありません.障がいのある人のコミュニケーション支援を考える時,単に人と人との間のコミュニケーションと捉えることは,対象となる人の世界を狭く捉えてしまい,全体を見失うことにもなりかねません.生活支援の一環として,コミュニケーション支援を捉えることが重要と考えます.

4.おわりに

サポート対象である利用者と共に「時間と場の共有」を行い,その中で感じ取った「気付き」に注目したいと思います.そして,「見かけのニーズ」からスタートし,利用者とともに「真のニーズ」を育むという姿勢を大切にしたいと考えます.

インタフェース橋渡しの絵
図 広義のコミュニケーション(概念図)
人と人のみならず,人と生活,人と社会・自然・動物までをも含めた相互作用
(イラスト:粟野あゆみ)

著者e-mail: hatakeyama@waseda.jp
著者HP http://homepage2.nifty.com/htakuro/index.html