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発表会:「言語的コミュニケーションが困難な重度障害児・者の自己決定・自己管理を支える技法」

講演1 「自己決定やコミュニケーションの重要性に気づいてみよう」

講師 中邑 賢龍

○中邑
 時間が少し過ぎましたので、そろそろ厚生労働科学研究成果発表会「言語的コミュニケーションが困難な重度障害児・者の自己決定・自己管理を支える」という テーマの報告会を開催させていただきたいと思います。 私は主催者の香川大学の中邑と申します。よろしくお願いいたします。

○中野
 それから分担研究者の東京大学先端科学技術研究センターの中野と申します。 よろしくお願いいたします。

○中邑
 この会は日本障害者リハビリテーション協会の支援を得て行うものであります。 なお、同時にこのATACカンファレンスの中で共同開催ということで実施しておりますので、 ご了承いただきたいと思います。この研究を我々が始めるに至った経緯というものを、 簡単にお話しさせていただきたいと思います。 近年、自己決定というところがいろいろな福祉や教育の場面で言われるようになりました。 厚生労働省のほうで施設のサービス評価を行ったところ、自己決定というものの意識はある のだけれども、それをどう取り出していいか分からなくて、その部分のサービスが十分行われて いないというアンケート結果がありました。 そこで我々はその辺の実際の技法をきちんと分かりやすく体系立てることによって、 多くの方々に使っていただけるようにしようじゃないか。 そうすることによって、サービス評価というものは向上するのではないかという目的で 始めたわけですね、中野さん。

○中野
 そうですね。いろいろな施設とか学校とかで、非常に優れた実践というのも あるわけですけれども、それを蓄積してまとめて提供できるようなものというのは、 今までなかったように思うんですけどね。

○中邑
 そうなんですね。我々も実際に調べてみると、いろいろな切り口があるというので、 これだけいろいろな技法であるとか、支援上のポイントであるとか、 これをどうまとめていいかというのは随分悩みました。 で、いまだに研究が終わった時点においても、実はまだ悩んでいるところがありまして、 皆さんにいいものをお届けするのはどうしたらいいかと。 実は出版物として皆さんのほうに提供したいと考えているのですが、 まだその辺のところの編集でもめているという、それぐらいの膨大な技法があって、 それをまとめるというのは大変な作業だというふうに考えました。 ここの中で重要なのは、自己決定というものを引き出す、 あるいは自己管理を自分でやってもらうという上に置いて、 その当事者のスキルだけを上げればいいんじゃない。 環境をやはり整えるということも非常に重要であるということが分かってきたわけですね。 どちらかというと、その当事者の能力を引き出すという部分を私のほうが担当しました。

○中野
 そして環境をどういうふうに整えていけばいいか。そちらは中野のほうが担当しました。

○中邑
 きょうはまず皆さんのお手元のプログラムにありますように、この水色のほうですね。こちらにありますように、 最初に私のほうから自己決定やコミュニケーションの重要性に気付いていただくという、 こういう話をさせていただこうと思います。こういうふうな共通認識を持った上で、実際に技法とか、 いわゆる支援のポイント、こういうものを事例を交えながら、こちらの中野ともう一人の共同研究者の 坂井のほうから報告してもらい、そして最後に、誰もが自分の意思で生活できる社会の実現に向けてという、 今後の我々の方向性というものを私と畠山、そして中野のほうからご紹介したいと考えております。

まず、それでは最初「講演1」となっていますが、1時まで私のほうから自己決定やコミュニケーションの 重要性についてお話しさせていただきたいと思います。ここにありますように「AACの基礎」と書いてありますが、 この我々の研究の基礎になった技法というものは、このAACという研究領域の中におきまして、 多く実施されているわけです。少しその前に、前置きの話をさせていただきたいと思うのですが、 AACとは何であろうかというところからお話しをさせていただきたいと思います。

まず、AACの誕生の背景、もう一つ、AACとは一体どういうものであるのか。もう一つは、 自己決定とコミュニケーション、我々の研究の中で取り扱っている、 この二つの違いというものを少しお話ししてみたいと思います。

AACの誕生の背景ですが、障害のある人たちの教育やリハビリテーションにおいて、 従来から日常生活動作、ここに「ADL」と書いてあります。アクティビティー・オブ・デイリー・リビング (Activities of Daily Living)の頭文字を取って「ADL」と呼ぶわけなんですが、 これは衣服の着脱ですね。食事をするとか、顔を洗うとか、こういったような動作を獲得することが リハビリテーションの一番大きな目標とされてきた時期があったわけです。このADLの獲得の重要性は 現在でも失われたわけではありません。今でもこれは非常に重要な考え方だと思うのですが、 実はそれだけで人は満ち足りた生活を送ることはできるだろうかということを、1970年代になってきますと 多くの人が訴えるようになってきたわけです。つまり、自分でご飯を食べられるようになっても、 実はそれが自分の食べたいものでなければ、これは決して幸せじゃないんじゃないだろうかと。 やはり自分の食べたいものを食べられるということが生活の質、ここに書いてあります「QOL」 これはクオリティー・オブ・ライフ(Quality of Life)の略で「QOL」といいますが、 この生活の質の向上というものに結びつくのではないだろうかということがいわれるようになってきたわけです。 この考えに立ってみれば、実は都合のいいことがいろいろ見えてきたわけですね。 自分の食べたいものを食べられれば幸せなんだ。つまり、自分で食べられなくても、 自分が食べさせてほしいということを意思として持って、誰かにコミュニケーションして 伝えることができれば、実は結構楽しい生活が送れるじゃないかということですね。 つまり、この自己決定というものは、障害の重い人たちの精神的な自立という考えのバックグラウンドになるという、 そういう一つの考えに結びついてきたわけです。 自己決定し相手に自分の意思を伝えることで、障害があってもQOLを高めることができると 考えられるようになってきたわけです。つまり、四肢麻痺の人でしゃべれない人であっても、 まばたきでも何でもいいですから、自分の意思を表出して、そして好きなところに連れて行ってもらう。 あるいは好きなものを食べる。こういうことを保障することによって、かなり生活の質は高まるだろうという考え方です。 これは知的障害のある方でも、全く変わりのないことだろうと思います。 これは我々自身の問題でもあるわけですね。このことから、自分の意思を相手に伝えるという、 つまりコミュニケーションニーズというものが高まってきたわけです。

ところが、1970年代、コミュニケーションを引き出す技法というものが十分整理されていなかったんですね。 特に障害の重い人たちの意思をくみ取って、その人たちが伝える手だてを準備するということは容易ではありませんでした。 そこで、言語学や心理学、医学、工学、教育学、社会福祉学、いろいろな分野の人たちが集まりまして、 このコミュニケーション、特に障害の重い人たちとのコミュニケーションについて学際的に研究する領域が立ち上がったわけです。 これがAACと呼ばれる研究領域です。AACの「A」はオーグメンタティブ(Augmentative)、2番目の「A」はオルタナティブ (Alternative)、3番目の「C」はコミュニケーション(Communication)。これを日本語に訳しますと 「拡大・代替コミュニケーション」というふうに訳すのですが、こういったような技法が生まれてきたわけです。

AACとは何かというのをもう少し詳しくお話ししますと、皆さん、この質問についてちょっと 考えていただきたいと思います。あなたが動けなくなって話せなくなったとき、 次の二つのどちらを望みますかという質問です。一つは「話せるようになったら、何をしたいか 聞いてあげるからね。」と優しく言ってもらうことがいいか、もう一つは、「何を言いたいのか 手段にこだわらず読み取ってあげるからね。」と言われるのがいいか、どっちでしょうか。 これは、今すぐ皆さんは意思を伝えたいんですよね。訓練してしゃべられるようになるか 分からないのに、訓練してからあなたの意思をくみ取ってあげると言われたら、 これこそストレスがかかってしまうはずなんです。つまり、今、いかにその人の意思を引き出す かということが実は重要なわけです。AACというのは、まさにこの部分の研究であるということです。 コミュニケーションの訓練ではありません。訓練というものは、もちろん重要ですけれど、 今その人に残された機能によって、最大限にその人の意思をくみ取るという方法です。 ここに書いてありますね。AACとは今ある能力を活用して最大限のコミュニケーションを引き出す 技法の研究であるということです。言語によるコミュニケーションを目標にするものではありません。 我々はついつい言葉というものをコミュニケーションの道具だというふうに考えてしまうのですが、 言語も手段の一つであるということです。また、手段にこだわらないということですね。 我々、しゃべられなくたって、意思を表出するということは十分できるわけです。 例えば、私がしゃべらなくて、顔の表情を変えるだけで、中邑はどういう気持ちであるかということは、 皆さんに伝わると思うんですね。AACの基本は相手に分かりやすく情報を伝えることであるということです。 分かりやすく情報を伝える。まさにコミュニケーションは、実はそういうことなんですよね。 聞こえていて、そしてしゃべることができたらコミュニケーションができるかというと、 そうじゃないわけです。ここで私がフランス語をしゃべり出しますと、多くの皆さんは全く理解できないでいる。 つまり情報の質そのものが実は重要であって、これをどう変えるかということも、このAACの一つの テーマになってくるということです。分かっていただけますか?コミュニケーションの確保だけではなくて、 質の向上を目指していくという、これも一つの重要なテーマになっていくということです。

多くの人たちは、とにかくコミュニケーションがとれればいいという、このレベルで満足しておられますが、 実は本当にそれでいいのか。例えば、私の今回のセミナーの中での話を聞かれた方、 このネタはご存知だと思うのですが、もう一度繰り返してみたいと思います。 皆さんに質問をします。今、寒いですか。寒い方は手を挙げてください。パラパラと挙がっていますね。 寒い方というと、数名しか手が挙がっていないわけです。じゃあ、聞き方を変えてみます。 寒い方は1番、ちょっと寒い方は2番。どっちでもない方は3番、ちょっと暑い方は4番、暑い方は5番です。 これで聞いてみたいと思います。1番、寒いという方。2番、ちょっと寒いという方。30、40人近く挙がりましたね。 3番、ちょうどいいという方。4番、ちょっと暑いという方。5番、暑いという方。 こうやって聞いてみますと、寒いですかと聞いたら、ほとんどの方は手を挙げないんです。 ところが、こういうふうに数字の中で聞いていくと、実はちょっと寒い人が40人近くいるんだなということが 私に分かるということです。つまり、聞き方一つで寒いですかと聞かれて、ここで寒いというのもわがままだなとか、 これぐらいだったら我慢できるかということで、意思の表出ができない人たちもおられるわけです。 この辺のところの工夫ですよね。聞き方によってちょっと工夫するだけで、実は質の高いコミュニケーションが実現できる。 こういったような問題も我々は考えていく必要があるというふうに思っています。 いま言いましたように、相手の意思を正しく読むには技術が必要だということです。 いま私が申し上げた1から5に位置付けてみましょうというのも、技術というほどではないのですが、 これは一つのテクニックですよね。こういうテクニックを皆さんが持つことによってコミュニケーションが非常に 豊かなものになる。

もう一つ、道具というものを使う。隣の展示ホールのほうでたくさんの機器が展示してあって、 皆さんはご覧になっていただいたと思うのですが、こうすれば本当にしゃべられない人も音声で 話せるんだなという装置がたくさんあったと思います。こういう道具や技術を使わない コミュニケーションには限界があるという、このことを理解していただいて、この「AAC」のニーズを 引き出していくという、こういう手順が必要なんだろうというふうに考えるわけです。 技術を利用することで、どういうことが起こるかというと、コミュニケーションを明確にできますね。 コミュニケーションをスピーディーにできます。これは間違いなく早くなります。 コミュニケーションを能動的にできる。自分に障害のある当事者の方々自身がそういう手段を持てば、 相手に聞いてもらわなくても自分で言えるようになります。 そして、このことによってコミュニケーションに楽しさが増します。 また、コミュニケーションにプライバシーを与えることができるということです。 施設の現場でこういう話をよく聞くんですね。「ヤスシさん、ヤスシさん、出ましたか。便が出た。 じゃあ、便を替えましょうね。」こうやって大きな声で介護担当の方が言われるわけです。 ヤスシさんは恥ずかしいわけですね。便が出たということを周りの人に知られてしまう。 ですけど、そういうふうな形でのコミュニケーションを取っておられる方というのは、 実はたくさんおられるわけです。そのときに視線コミュニケーションボードという装置があるんですけど、 目でコミュニケーションをする装置をもって、「どうですか」と言えば、別に音声によらないコミュニケーションは できますから、スムーズに他の人に知られずに、つまりプライバシーを守りつつ会話ができるということだって 実際にあり得るわけです。このような小さな積み重ねによって、ストレスが下がってきます。 間違いなくストレスは低減すると思うんですよ。我々、ちょっとしたことで不満に感じることってあるじゃないですか。 例えば、朝のコーヒー一つにしてもそうですね。コーヒーを飲みたいなといったときに、 本当はちゃんとコーヒー豆をひいて入れた香り高いコーヒーを飲みたいのに、 私がインスタントコーヒーをポンと出す。コーヒーには違いないからといって飲むけど、 実は「ちょっとなんか中邑先生たらっ」と思うような不満が残るわけですね。 こういうふうにちょっとしたことでストレスがかかってしまうことがある。 これを避けることができる。もう一つは、コミュニケーション意欲が増すことができる。 円滑にコミュニケーションができるようになれば、もっとコミュニケーションをしてみようというような 意欲が当事者の方にも、周りの方にも増してくるわけです。コミュニケーションをどうやってとっていいか 分からない人のところには、実は人は寄っていかない、寄って行きにくい。 そのことが悪循環を生んでいくんですよね。周りの人が来ないから、 その人はますますコミュニケーションの練習ができなくなっていく、こういう結果に結びついていきます。 また、そのコミュニケーションを円滑にすることによって、パニックが減少していくだろうということです。 このパニック行動をもっている人たちの多くは、自分の意思の表出としてパニック行動を起こしている場合があります。 このパニックという行為、これは実はコミュニケーション行動ですね。ところが、 このコミュニケーション行動というのは周りの人には理解しがたい、周りの人に迷惑のかかるコミュニケーション行動で あるわけです。実はこういうものを別のコミュニケーション手段に置き換えることによって、 パニックが減少していくということがいわれているわけです。この辺、またあとで触れたいと思います。

3番目ですが、自己決定とコミュニケーションって、どう違うんだろうか。 これって同じようなレベルで考えてしまうと、ちょっと混乱というのが生まれてしまいます。 これは子供を例にとってここに書いているのですが、実は二つのケースがあるということです。 このケースを見れば、コミュニケーションと自己決定というのは全く違うプロセスだということが 分かっていただけると思います。自己決定ができてコミュニケーションができない子供がいる。 これは決めたことを直接行動に訴える。他人の食べ物を勝手に食べたり、人を押しのけて通ったりするという人ですね。 よくおられると思いませんか。自閉症の方や知的障害の方にこういう方っておいでになります。 人の物を勝手にとって食べるわけですね。バクッと食べちゃう。「何で食べるんだよ」とみんなが怒るわけですけど、 それはなぜかといったら、そこにある食べ物がほしいという、つまり、自分の意思をそこで表出しているわけです。 我々でしたら、食べ物を食べるときに勝手に人の物に手を伸ばして取ったりしませんよね。 これを食べていいですかと聞くわけです。つまり、コミュニケーションができるわけです。 あるいは指をさしてみるとか、身振り手振りで訴える。そうすると、相手はそんなにびっくりすることなく、 こちらの意をくみ取って渡してくれるわけです。ところが、どちらもできなければ直接取るしかないということですね。 こういう人たちは自己決定ができて、コミュニケーションができていないということなんです。

逆にコミュニケーションができて、自己決定ができない人もいます。例えば、自分で決められない人たちですね。 何でもいい、決めてくださいという人たちです。これは肢体不自由の子供さんで、ずっと生まれつき施設で育っている人たちなんかに、 こういう人たちというのは多いと言ってはいけないのですが、そういう方がおられる気がします。 私の知っている方にも何人かそういう方がおられます。ちゃんとしゃべられるわけです。 「先生、おはよう」、「おれ、おなかすいた」、「じゃあ、何を食べたい?」と言ったら、「んー、何でもいい」、 「分からない」とか、「どっちでもいい」とか、こういうふうな返事が出てくるということですね。 つまり、自分が何をしたいとか、何をしていいという、こういうことができない人たちがいるわけです。 この二つ、自己決定とコミュニケーションというのは違いがある。いずれにしても、このどちらのタイプの人たちも 日常生活においては、やはりストレスがかかるということです。上の人たち(コミュニケーションできるが、自己決定ができない人) や周りの人とのいさかいが生じるわけですよね。下の人たち(自己決定はできるが、コミュニケーションできない人) は自分の意思を十分表出できないわけです。こういったような、いわゆる問題が生じてくるということです。

実はこの人たちを支援するためにノンテク技法、ローテク技法、ハイテク技法というものがAACの領域では研究されています。 ノンテク技法は身振りとか、手振りとか、残存発声、こういったようなものを利用するという、 いわゆるテクノロジーを利用しないということでノンテクといわれます。 2番目はローテク技法。これはハイテクに反する言葉として、いわゆる単純なテクノロジーを使った技法ということで用いられます。 写真とか、シンボルカードとか、ブック、こういったものを使ってコミュニケーションをするという技法です。 3番目がハイテク技法ですね。これは電子エイドを使うという方法です。VOCAと書いてあります。 これは隣の展示ホールにたくさん展示してあったと思うのですが、ボイス・アウトプット・コミュニケーション・エイド (Voice Output Communication Aid)の略ですね。音声出力コミュニケーションエイドと訳します。 こういう装置であるとか、パソコン上で動くコミュニケーションソフト、こういうものをハイテク技法と呼ぶわけです。 この技法については、ここでは詳しく述べません。これらの技法については、我々のマニュアルの中で解説してあります。 3番目、この文化とAACというのは非常に密接な関係があるといわれているんですね。 特に日本の中におきまして、自己決定を引き出すということがうまくいかなかったのはなぜかというと、 これは日本独特の文化があるのだろうと思います。私はここで日本の文化を否定しようと言っているわけではないです。 この日本の文化とAACという考え方の共存を図っていく必要があるわけです。そのことについてちょっと述べてみたいと思います。

日本では障害を保護的なものとして考えるというのがやはりあると思います。障害があれば、 やはりかわいそうであるとか、障害があるとできない。だから、周りの人たちが手を差し伸べないといけないという 姿勢があります。例えば、ある人が「のどがヵ・・」と言われると、のどが渇いたんだねと言ってしまう。「のどがカ」、 そのあと何と言おうかというのは、我々が勝手に推測してしまうわけです。「のどがカラカラする」、ガラガラするということを 言いたかったのかもしれません。のどが渇いたということではないのかもしれません。 だけど、そういうふうに先読みして、コミュニケーションをとってしまうと、一生懸命主張しようとしている人たちが、 聞いてくれるまで待っていようという受け身的な姿勢をつくり上げていくということにつながっていきますね。 我々はどちらかというと、自己決定しているように思うのですが、アメリカの人たちと自己決定の度合いが随分違うように思います。

これはおもしろい話なのですが、うちの学生とアメリカへ行ったときのことなんですけれども、レストランに入りました。 レストランに入って学生がサラダを注文しましたら、ウエイトレスさんがコショウをどうするかと言うわけです。 学生が「イエス、プリーズ」と言いましたら、ウエイトレスさんがコショウをカリカリとペッパーミルでひいてくれるわけです。 黒い胡椒がどんどん学生のサラダの上に落ちていく。どんどん真っ黒になっていくんですよ。それを学生はじっと見ているわけです。 このときの学生の気持ちはどういう気持ちかというと、「いつになったら、やめてくれるんだろうか」という気持ちですね。 ウエイトレスさんは「このお客さんはコショウがお好きなんだわ」という、分かっていただけますか。 これぐらいの違いがあるわけです。日本の文化の中において、こういう事態というのは起こり得ないんですね。 相手のことを思いやって、サービス提供者はサービスをするということが、この文化の中では良しとされているわけです。 ですから、適当に振って、「お客様、これぐらいで」と言ったら、「ああ、どうも」と、お客さんもそのまま素直に答えるというのが 日本流の礼儀なわけです。パラパラとやって少ないなという人はあまりいないですね。この辺でと止めてくれたら、 黙ってそのまま終わってしまうというのがこの国なんですよね。これがいわゆる文化の違いであるということです。

このことが、実はものを選ぶということから来ているということに気付いている方というのは、あまりおいでにならないと思います。 日本というのは選択肢が非常に狭いという。これは次に書いてあります。集団指向性というか、集団で一緒のことをするということで安心するという 国民性にも影響されているのだろうと思うわけです。例えば、学校給食の中で牛乳が出る。なぜ、みんな同じ牛乳を生徒全員が飲まなきゃいけないのだろうか。 戦後、すぐ昭和30年代まで、私の子供のころですけど、あのころはやはり栄養が偏るということで脱脂粉乳というのを飲まされていましたけど、 この時代の脱脂粉乳というのは意味があったと思うんですけど、これだけ栄養が豊富になった現在、牛乳を日本中の小学生や中学生が飲んでいるという、 この現実というのはちょっと恐ろしいもののように感じることが無きにしもあらずなんですね。みんなが同じものを飲むというのが当たり前のように感じている。 その中で実は選ぶという行為が、日本の中では抜け落ちているように思うんですね。アメリカの教育の中では、おやつは何にするか、コーラがいいか、オレンジジュースがいいか、 おやつはチップスがいいか、チョコレートがいいかということを選んでいくわけですね。必ず何をしたいかということを求めていくということが生活の中に組み込まれているわけです。 例えば1日3回、おやつと飲み物と洋服を選んだとしましょう。1年に1,000回ですよ。すごいですよね。10年で1万回。20年、つまり大人になるまでに2万回、あれがいい、 これがいいと決定して育っているアメリカの人たち。それに対して、「はい、牛乳飲んで」「これを着て」と育っている日本の人たち。二十歳になって、君はどっちへ行くんだといったら、 アメリカの人たちが右と言ったら、右に行けそうな気がしますよね。ところが、日本の人たちはかわいそうで、二十歳になったとたん、それまでは全部お仕着せだったものが、 今度はお前が決めろと言われるわけです。そろそろ大人なんだから決めていいだろうと。これはあまりにも無謀だと思うわけです。 こういうふうな集団を重視するということが、実はこの受け身的な姿勢をうむということにもつながっていますし、この意思表出はわがままという、 こういう見方にもつながっているということです。こういうことで日本の中では、自己決定やコミュニケーションというものは、 あまり重視されてこなかったわけです。ところが、我々が本当に我々らしく生きていく上において、自己決定やコミュニケーションは文化を越えて重要だろうと私は考えます。 皆さん、どうでしょうか。自己決定する、しないということは別にしまして、自己決定する力は持っていますよね。力は持っていますし、能力は持っていますし、 それだけではなくて自己決定をするチャンスは与えられますよね。このことが重要なんだろうと思います。これは文化を越えて能力は持つべきであり、 そして文化を越えて、その機会は提供されるべきであるというふうに私は思っております。

障害観が大きく変化しつつあります。誰もがもつものとしての障害。つまり、障害というものは WHOが、この間ICIDHという国際障害分類を見直して、生活機能分類、ICFというものを新しく つくりましたが、この中では障害というものは、簡単に言いますと活動の制限や参加の制限という とらえ方がなされているわけです。このことは人間誰しも起こり得るということです。 例えば、この会場が停電したら、真っ暗闇で皆さんはノートなんか取れなくなるわけですね。 私もマイクは使えないから、大声で話さなきゃいけなくなる。うしろのほうの人は聞こえないという。 こういうふうに活動上の制限というものが環境条件によっても変わる。加齢と共に機能低下して、 老眼になったり、耳が遠くなったり、足腰が弱くなったり、物覚えが悪くなったり、 すべての障害を我々はもち得るということです。あるいは、病気やけがによってももち得る。 つまり、このことは障害のある人たちだけのものではなくて、我々一人一人の生活の質を一生保障し続ける 上において重要である。こういう認識が必要であるということです。その中で、先ほども言いましたように、 自己決定が重視されてきている。もう一つはハイテクというものが幸いに、こういうふうな我々の自己決定を 支える上において、あるいはコミュニケーションを支える上において大きな力を発揮するようになってきているという、 こういう時代的な流れがあるということをご理解いただいて、実際に我々の研究成果というものをこれから お聞きいただきたいと思います。私の話はこれだけで終了させていただきたいと思います。