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高度情報化社会にむけて

会社設立から現在まで

宮崎豊和

会社設立のいきさつ

 私が会社を設立することになったのは、思わぬことからであった。私が5、6年出張しながらシステム開発にあたった(前号で紹介)愛知のM社から、会社の経営上、社長とH上司との間で撤退するしないで論争になった。M社のシステム開発は軌道に乗り、M社からの信頼をうけ、次から次へと追加のシステム提案が上がり、着手していった頃だった。そのほとんどが、H上司と私のペアで作り上げていったシステムであった。システム開発というものは、社内で開発するときは他の仕事も同時に着手することが多いが、出張になるとそういうこともできなくなる。また、M社は遠方なので出張費等の経費がかさむという理由で、社長はM社からの撤退を余儀なくされていた。
 しかし、H上司は、せっかく軌道に乗りM社からも信頼されているときに、撤退ということはありえないと社長と対立し、結局、H上司はM社のシステム開発を引継ぎ、独立することになった。その際、私は否応なく渦中の人となった。私にとっては、全くの晴天のへきれきのようなものであった。H上司からは一緒に仕事をしようと勧誘され、社長には、H上司についていくなと念を押され、2人の間の水面下での綱引き状態の日々が続いた。私には社長にもH上司にも長年の恩があり、そう簡単にどちらか一方につくことはできなかった。
 とりあえず、H上司には、夜間に自宅からオンラインでプログラム開発を手伝うからということで話がついた。昼間は会社、帰宅してH元上司の手伝いと二重生活が4か月ほど続いた。やはり、そういう生活は長くは続かない。体がもたなくなってきたからだ。たまたま、その1年前、私の父親が会社を定年退職して、有限会社を設立していた。そのこともあり名目上、中立を保つため、社長には、私は私で独立しますということになった。

福祉分野に乗り出すきっかけ

 独立して間もない頃は、元上司の手伝いで忙しかったが、6か月ほどたつと本が読める余裕が出てきた。私はそれを良い意味にとった。手あたり次第に本を読みあさった。ビジネス書から科学ものまで。そこで気づいたことは、ビジネス書に書いてあることは、意外と福祉分野に共通することが多いのではないかということだ。詳細は省くが、福祉専門の方々には、ビジネス書ごときと思われるかもしれないが、一度数十冊お読みいただけば、何かが分かると思う。
 そうして1年後、福祉システム研究会で知り合った養護学校の先生から、府中(東京都)の共同作業所の経理事務のシステムに対する相談依頼があった。その先生は以前から障害者の自助具としてパソコン教室を開き、普及に努めてきたが、経理事務に対してのパソコン利用は専門外であったので、幸いにも私に声がかかった。私は一般企業の財務管理等は、今までやってきてはいたが、福祉分野のシステム開発は初めてであった。とりあえず、1回目のシステムの打ち合わせにはH元上司に同行してもらい、その後6か月余りでシステムを開発していった。内容は、社会福祉法人の財務会計と給与管理であった。当時でも既製のシステムがあったが、より使いやすく、オリジナル性をもたせたシステムにしたいという主旨であった。
 それが、福祉分野のシステム開発に乗り出すきっかけとなり、現在では福祉団体の顧客は、小規模作業所も含め15団体以上ある。最近は、ウィンドウズの普及により財務管理WIN95版を開発し、顧客に使ってもらっている。特にこの分野では、単にシステムだけを納めるだけではなく、会計伝票の仕訳の仕方等を教えることがよくある。そのようなことを親切丁寧に対応し続けてきたお陰で、今のような多数の顧客がついてくださったのだと思う。一言で言えば、今まで、企業間で行ってきたシステムコンサルティング業務を、そのまま、福祉団体に対して応用したものである。また、それができるのは大企業ではなく、小回りの効く、私の会社のような弱小企業の方が取り組みやすいサービスだと確信している。

SEは失敗で、一人前になる

 SE(システムエンジニア)は、より多くの失敗を経験することが大事である。その失敗をいかに乗り超えるかが、一人前のSEに育つ上で重要なことであり、その乗り超える過程こそが仕事上の大きな経験実績につながる。
 しかし、重度障害者の場合、健常者と比べると失敗する機会が少ないと思う。それは何故だろう。障害者というと、日本では保護の対象者として受け入れられがちである。確かに障害者はハード面で保護される必要性があるかもしれないが、果たして、就労上の能力にも保護する必要があるだろうか。
 就労上の経験や失敗は、保護うんぬんで守られていては何にもできない。それは、雇用主側にも当事者にも「目の上のたんこぶ」のようなものだ。雇用主側はそれがある故に、リスクのある仕事を障害者に任せきれない面もあるのではないかと思う。それを単に責めていてはどうにもならない。それよりもまず、障害者自ら保護というバリアをとり払ってこそ、真の就労形態が見えてくると思う。
 すなわち、就労とは、学校教育等から受けてきた保護という受動的な面から、物事をクリエイトし、社会に奉仕するという能動的な面に発想の転換が必要である。また、制度面でいくら保護されても、前回述べたように、大企業でも窓ぎわ族であってはならないと思う。むしろ、私のように長年、制度外で多くの仕事上の経験を積んだことが、財産になっていることが多い。

自分の得意分野を伸ばせ

 最後に、前回から述べてきたとおり、枠にとらわれない生き方をした私は、節目節目で、必ず多様な進路の選択肢が出てきた。それは偶然のものではないと思う。養護学校中学時代から数学だけを勉強し、多くの先生方に反対されながらも普通高校に進学したときから、自分の道は自分で決めるものだと思っている。それを決めるのには、まず、自分の好きなもの、得意なものを伸ばすことだと思う。それを伸ばすことは、少々困難があっても乗り超えられるものであり、そうすれば、必ず道は開けてくるはずである。
 私は理科系の分野が得意で好きであったから、その方面を伸ばした結果、偶然にもパソコンが普及しだしたのも関係し、今の仕事をしているが、竹馬の友であるM氏は、文才に恵まれてライターをしている。これもまた、障害者の障害の程度と職業の適性とは関係ないことを示している。駄目でもともとの精神から、自分の得意分野を伸ばし、それなりに地道に努力していった結果である。

(みやざきとよかず ㈲ミヤエンジニアリング取締役)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年7月号(第17巻 通巻192号)52頁~54頁