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特集/豊かな生活をもとめて

ローリングバレーボールはだれにでも楽しめて熱くなるスポーツです

春田文夫

はじめに

 私の脳性マヒ者としての人生も、早いもので56年を超えました。
 現在のところは巷間でいわれるような2次障害の餌食にもならず、かなりの歩行能力の低下傾向はあるにせよ、一般的なCP者としては大変に恵まれた身体状況にあると思っています。
 幼少時は歩行もおぼつかなかったのが、小学校の高学年くらいから相当に改善され、中学・高校と進むにつれて歩行の障害を忘れる程になり、高校時代は柔道部員として毎日練習に励んでいました。大学時代はバイクで通って構内を走り回っていたのでちょっとした有名人になっていました。
 しかし、そうした状況も40代後半までで、最近は徐々に幼少時の状態に戻っているのではないかと感じることがあるくらい、歩行については自信がもてなくなっています。
 私の趣味を列挙すると、釣り(海は船、湖はボート)、マージャン、カラオケ(自分ではプロ級と自負)、野球、テニス、俳句(大先輩の花田春兆先生に対抗して熟慮の末、秋兆の号をもっている)等々、私に関してはQOLの問題はなさそうですが、人に誇れるものが1つもないことは正直情けないとは思っています。
 この原稿依頼を受けた時点では、腰痛の上に足の指の生爪を剥がしてしまっており、何とも説得力のない状態となっていますが、この機会に一人でもローリングバレーボール人口が増えることを願って紹介させていただきます。

ローリングバレーボールの歴史

 1977年に兵庫県立播磨養護学校において、体育教師が盲人バレーボールに工夫を加えて体育授業のスポーツ種目として創案実施したのが始まりです。
 その後、兵庫県内を中心にクラブサークルが誕生したり、県立のリハビリテーションセンター等に訓練科目として導入されたり、あっという間に浸透していき、81年には最初の社会人チーム「玉津エンジェル」が生まれました。
 東京では87年に、現在都の連盟の事務局長を務められている篠原政良氏が兵庫方式を導入して、社会人チーム「チームサンシャイン」を結成し、やっと活動が始まりました。
 ちなみに私の所属している「東京ベアーズ」は、90年に都立光明養護学校卒業の同級生たちがチームを結成したのですが、発端となったのは、前述した「チームサンシャイン」であって、最初はみんな「チームサンシャイン」で一緒にやっていました。本家と分家のような関係を思い浮かべていただければよくおわかりになると思いますが、分家の数も人が増えていて、それぞれが何らかの共通の仲間意識に基づいて成り立っている関係で、どのチームも結束力は極めて固いようです。

ローリングバレーボールの競技方法

ローリングバレーボールのコート仕様

 図のようなコート・ネット・ボールを使用し、1チーム6人で対戦しますが、前衛の3人は座位で競技をし、後衛の3人は立位で競技をします。健常者は2人までは入れますが、後衛に位置して競技します(女性は例外あり)。この障害者と健常者の混合チームが理想的な形であると思いますし、どんなに重度な障害者も高齢者でも参加できるというスポーツは他にないといえます。
 あくまでもボールは転がすことが大切なポイントで、ローリングバレーボールという名称はこの「玉を転がす」というところからきています。
 細かな競技方法については省略させていただきますが、番号順にプレーヤーがサーブをし、15点先取を目指して闘い、3セット中2セットを先取したチームが勝利チームとなります(細かくは先取とマッチの違いや、15点方式だけではなく12点方式もあるし、重度の障害のある人には緩和ルールの適用などもあります)。

ローリングバレーボールの効用

 障害者のスポーツを見た場合、①リハビリテーション(治療)、②レクリエーション(娯楽)、③コンペティション(競技)の3要素があるといわれていますが、ローリングバレーボールはチームプレーのスポーツですから、主には②と③のウエイトが大きくなります。
 私自身、1試合でも多く対戦チームを撃破したいと思って試合に臨んでいますので、個人的には③の要素に重きを置いているといえます。
 前述しましたように、障害者だけではなく、健常者もまた高齢者も一緒にプレーをするスポーツですから、健常者の人たちがいわゆるボランティアとしてお手伝いのみの参加状態にならず、共に平等な参加となるので、まさに「ノーマライゼーション・スポーツ」や「バリアフリー・スポーツ」といえます。

私にとって予想以上に面白いスポーツだった

 私の所属している「東京ベアーズ」は、前述したとおり、私の家内の光明養護学校時代のクラスメイトのみで結成された、まさにクラス会そのもののチームなのです。その関係から、チーム結成以来、私は家内の付き添いボランティアとして同行し、「明石焼き」が食べたいばかりに神戸の全国大会まで遊び気分で付いて行ったりしていましたが、自分も参加してプレーをしようとは最近までまったく考えていませんでした。ただひたすら、コートサイドで持ち前の大声で叱咤激励する自称「応援団長」をしていて、自分がやれもしないのに勝手なことを吠えまくっていたのです。
 昨年のある日、その日も家内のお供で王子スポーツセンターに行ったところ、高齢化や重度化もあってか体調不調な者が増えて、最低必要なメンバーの6人さえ危うい状況になっていることを痛感させられる場面に遭遇しました。
 私は、光明養護学校には中学時代の3年間しか在籍していないのにもかかわらず、花田春兆先生の陰謀から同窓会長を仰せつかることとなり、以来20年以上もその席にあるのですが、そうした立場もあっていわゆる異質のメンバーが加入すると微妙に「東京ベアーズ」のバランスが狂ってしまうことを恐れて遠慮していたのです。しかし、今やそうしたことも言っていられない状態となってしまったので、最初は第5ポジションでの活躍を勝手にイメージアップして入会させてもらいました。
 第5ポジションは、図からもお分かりのように極めて重要な位置で、勝敗を大きく左右するのです。しかし、自分でも本当に意外だったのですが、座位での私はまったく情けない程の動きしかできないことを思い知らされることとなりました。
 今は主に第3ポジションが定位置となっていますが、目立ちたがり屋の私には向いていて、いかに強いボールを相手チームのコートに打ち込むかに生きがいをもってやっています(私のように頭に血がのぼっている者はこの世界、意外と多いのです)。
 先日の関東大会で「東京ベアーズ」は3位に入賞しました。私は光栄にも個人表彰を受けることとなりました。私は既に高齢障害者の一員ですが、生活をより豊かなものにすることを目的にして、家内共々みんなと仲良く続けていきたいと思っています。
 尚、本稿執筆に当たり、都の連盟の事務局長である篠原さんのご助言をいただきました。

(はるたふみお 日本チャリティプレート協会常務理事)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年1月号(第18巻 通巻198号)20頁~23頁