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1000字提言

差別ではない区別の必要性

山崎泰広

 私の米国の友人の息子さんは知的障害者であるがマイクロソフト社で働いている。彼はワシントンで始まった知的障害者の能力開発プログラムの2期生だという。このプログラムでは知的障害者が普通校の特殊学級で学ぶが「何か伸ばせる才能はあるはず」と才能の発掘を中心とした教育が行われる。絵画、工作、音楽などはもちろん、中には映画『レインマン』のような特殊な記憶能力が発掘され、数学やコンピュータに飛び抜けた才能を発揮する者もいる。才能のある分野が見つかると、その学科に対しては普通学級で一般の学生と共に学ぶことができる。知的に障害があっても自分と同じように、または自分以上に「できる」生徒をだれも差別したり、いじめたりする者はいない。
 一方、身体障害者の場合は、障害のある部分を道具やテクノロジーでカバーすれば「全く健常者と変わらない」と考えられている。どんなに重度な身障者でも普通校から拒否されることはない。また、中途障害の身障者の場合、大学へ戻って知識や技術を身に付けて再就職する者も多い。身体に障害を負ったのだから肉体労働から頭脳労働へということである。「失ったもの」や「機能の低下したもの」で自分と健常者を比べたら、その差は歴然としている。しかし「残されたもの」で比較してみれば、障害者が勝ることもある。身障者の場合、だれにでも平等に残されているのが頭脳なのだ。
 このように米国等の障害者先進国に目を向けると、身体障害者と知的障害者を区別してそれぞれに合った施策を行っている。ところが日本ではこれは差別だと言われてきた。しかし前述の例からも分かるように、これからは区別して対応することこそが必要だと考える。そして各障害者の中でもさらに細分化した個別の対応が望まれるが、日本人はそれが苦手で、何でも「ひとまとめ」にしてやってきた。しかし欧米のレベルに追いつくにはそれでは無理である。先進国の中ではスポーツに関して、身障者も知的障害者も健常者も一緒に行っている国もある。しかしそれは別々に行ってきた活動が「統合しても良いレベルになった」と判断されたからである。日本がその結果だけを見てまねをしては大変な間違いを犯すことになるだろう。
 日本では障害者という言葉ですべて済ませてしまう傾向があるが、それでは身障者を意味するのか、知的障害者なのか、精神障害者なのか分からない。障害者全体を意味する時以外は、各々に対して正しい呼称を使うことが個別対応して、より良い社会をつくっていく第一歩ではないだろうか。

(やまざきやすひろ アクセスインターナショナル代表取締役)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年1月号(第18巻 通巻198号)44頁