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精神障害者は20世紀をどう生きたか

秋元波留夫

精神病者監護法のもとで

 今から80数年前の1918年、日本の精神医学と精神医療の創始者としてよく知られている当時の東京帝国大学教授呉秀三は、その著書「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」で、「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」という有名な言葉を残している。私はこの言葉ほど、切実に精神障害者の運命を表現した言葉はないと思う。この本は全国にわたって座敷牢の実情をつぶさに調査してその悲惨な状況を克明に記録したドキュメンタリーであるとともに、この非人道的な座敷牢を合法化し、その全国的広がりを許している「精神病者監護法」(1900年制定)と、これを黙認している明治政府を糾弾する告発の書でもあった。
 精神障害者の「此邦ニ生レタルノ不幸」の源泉ともいうべき「精神病者監護法」は当時、野放しになっていた、座敷牢や民間の収容施設を取り締まる目的でつくられた、監禁を合法化する法律である。「監護」という奇妙な言葉は、「精神病者監禁法」を主張する政府案と、「保護法」とすべきだとする、法案の審議に専門家として参画した東京帝国大学法医学教授片山国嘉(呉秀三の渡欧中、精神病学講座を兼任した)の意見の妥協の産物であると言われている。
 この法律をつくるきっかけとなったのが「相馬事件(1884年、明治17年)」である。旧相馬藩主相馬誠胤(1852-1892年)が精神病にかかり、座敷牢に入れられたことに端を発して、旧藩主の忠臣と称する錦織剛清が、当時の旧家老志賀直道(志賀直哉の祖父にあたる人)と精神科医が結託して相馬家を乗っ取ろうとした陰謀だと主張し、藩主に精神病の診断を下した東京癲狂院(都立松沢病院の前身)の院長中井常次郎、当時の東京帝国大学精神病学教室教授榊俶が訴えられるという騒動に発展した。結局錦織の敗訴、誣告罪が課せられるという結果に終わったが、この事件で明らかになった、不法監禁の野放しを取り締まるためにつくられたのが精神病者監護法である。
 この法律は、精神病者を社会にとって危険であり、監禁の対象であると見なし、座敷牢を「私宅監置」と呼び、監置の責任を家族に負わせるために「監護義務者」制度をつくり、また、この法律の施行を内務省と警察の管理下に置き、警察は、監護義務者が監禁の責任を果たしているかどうかを監視するというものであった。わが国の精神障害に関する法律が監禁の合法化で始まったという歴史を忘れるべきではない。
 呉らの私宅監置廃絶の運動は議会を動かし、精神障害者の医療を国の責任で整備するための法律「精神病院法」が1919年に制定された。この法律は国および道府県に精神病院の設置を促進することを求めたものであり、私宅監置廃絶に絶対に不可欠な法律であり、この法律の制定と同時に、呉らの要求してやまなかった精神病者監護は廃止するのが当然であったにもかかわらず、そのまま生き残ることになった。その理由は、1914年に始まった第一次世界大戦に参戦し、帝国主義の道を走り出したわが国政府が軍備拡張に要する莫大な国費を捻出するために、精神病院設置運営の財源を出し惜しみする必要があったからである。その当然の結果として、「精神病院法」とは名ばかりで、精神病院の設置は一向に進まないばかりか、「精神病者監護法」のもとで私宅監置の悲劇はいっそう拡大していった。
 30年にも及んだ精神病院法と精神病者監護法の並立なる奇怪な状況に終止符が打たれ、私宅監置が廃止されたのは、太平洋戦争が終わった5年後の1950年、「精神衛生法」が制定されたときであった。呉が「私宅監置の実況」で私宅監置の廃止を訴えてから32年の歳月が過ぎていた。呉はついにこの日を見ることができなかった。
 今年はわが国の精神障害に関する最初の根拠法令である「精神病者監護法」が制定されて100周年である。「精神病者監護法」のもとでの精神障害者の生きざまをあらためて振り返り、そこから精神障害者がこの国に生まれたことを喜べる未来を迎えるための教訓を学び取ることが大切である。

15年戦争と精神障害者

 精神病院法が有名無実で、精神障害者が座敷牢に閉じ込められなければならなかったのは国が貧乏で精神病院をつくるお金がなかったからではなく、戦争に備えるための軍備にお金をつぎ込んだためであることはいま述べた通りだが、第一次世界大戦以後の帝国主義の歩みの必然の結果である、満州事変から太平洋戦争へと続く15年戦争は、一般市民にもまして精神障害者に大きな災厄を齎した。
 15年戦争によって蒙った精神障害者の災厄は、空襲による負傷や死亡などの直接の被害だけではない。戦争の長期化とともに食料の不足が深刻となり、1941年4月から食料の配給制が施行されたが、不十分な食料配給のあおりをまともに受けたのが精神病院に入院している人たちであった。この悲惨な事実をはっきりと物語っているのが精神病院の死亡統計である。ここでは当時の代表的な精神病院であった傷痍軍人武蔵療養所(現在の国立精神・神経センター武蔵病院)と東京府立松沢病院(現在の都立松沢病院)の状況を述べることにしよう。
 傷痍軍人武蔵療養所は精神障害軍人を治療する軍事保護院の施設だったため、身体的には丈夫な若い人たちが多かったにもかかわらず、1941年頃から死亡者が増加した。死亡者は1940年には1人であったが、1941年26人、1942年55人、1944年になると100人を超え、敗戦の年、1945年には160人、実に在院患者の4分の1、4人に1人が死亡した。死亡者の増加は戦後も続き、死亡者の数が平年並みとなったのは1950年以後である。食糧不足は戦後も数年続いたからである。
 東京府立松沢病院の状況はさらに深刻である。松沢病院は武蔵療養所と違って、一般市民の治療施設で高齢者も多数含まれていたこともあって、食糧不足の影響はいっそう大きかった。この病院の平時の死亡者は年間20人程度であるが、日中戦争の始まる前年の1936年にはすでに73人に増えており、1938年には121人、1940年には352人という多数の死亡者が出ている。太平洋戦争が激しくなるとその数はいっそう増え、1944年には422人、敗戦の年1945年には480人と激増し、在院者の約半数が死亡している。松沢病院で死亡者の数が普通の水準に戻ったのは1952、3年以後である。このような痛ましい死亡の原因は、松沢病院の記録が明らかにしているように、食料の不足による慢性栄養失調である。松沢病院や武蔵療養所は公的施設であり、闇の物資調達は不可能であり、政府の食料配給計画を忠実に守らなければならなかったのである。この二つの施設だけでなく、おそらく当時の全国の精神病院の患者は同じような状況に置かれていたにちがいない。精神病院に入院している精神障害の人たちの多くは、一般市民のような食料調達の自由をもたず、食料は病院から支給されるものだけに限られた。死亡はその結果であるから、病死というより、事故死であり、正しくは政府の不当な配給計画の実施による他殺というべきである。

精神衛生法から精神保健法・精神保健福祉法へ

 「精神衛生法」という近代国家なみの新しい名前を用いた法律が初めて制定され、精神病者監護法と精神病院法の二重支配の時代が終わったのは、敗戦から5年たった1950年のことである。しかし、精神衛生法は精神病院法(1919年制定)の隔離収容主義をそのまま受け継ぎ、精神病院、とくに私立精神病院を増やす施策を最優先したため、精神病院、精神病床は増加の一途をたどり、1960年代に始まる「脱施設化」(精神障害者の処遇を施設中心から地域中心に移す政策)の世界的動向から逸脱する結果を招いた。
 宇都宮の一私立病院で起きた患者の人権侵害事件(1983年)が契機となり、国の内外からの精神衛生法改正の厳しい要求に押されて、政府は法改正を余儀なくされ、1988年、精神衛生法は精神保健法に改められ、入院患者の権利を保障するための規定が設けられるなどの改正とともに、初めて授産施設、援護寮などの社会復帰に関する制度が設けられた。さらに1995年には、障害者基本法の成立を享けて、それまで皆無であった精神障害者の福祉施策を取り入れ、精神保健法が「精神保健及び精神障害者の福祉に関する法律」(精神保健福祉法)に改められた。
 わが国の精神障害者施策が精神衛生法の施設収容一辺倒から、精神保健法で社会復帰を取り入れ、さらには精神保健福祉法で福祉施策を加えるように変化した要因として、第1に、1960年代に始まる抗精神病薬の開発などによる精神障害の治療の進歩によって、精神病院に入院している人たちの退院と社会復帰の可能性が増大したこと、そして第2に、1980年代から民間の草の根運動によって地域で生活する精神障害者の働く場所(共同作業所など)、住まう場所(グループホーム、アパートなど)が全国に広がり、その活動の中から地域リハビリテーションの現状からみて、あまりにも立ち遅れている精神障害者の社会復帰と福祉に関する法制度の改正、整備を要求する運動が熾烈になったことを挙げることができるだろう。
 このようにして、現行の精神保健福祉法は、医療・精神保健に加えて社会復帰、福祉の施策を取り入れ、一応は時代の要請に応えた形となっている。しかし、その内実をみると、医療では精神病者監護法の監護義務者が保護者制度として温存されているとか、精神障害者の定義に社会復帰、福祉の対象としての障害者の視点が欠落しているなど改正を要する点が少なくないばかりでなく、社会復帰、福祉の施策にいたっては、身体障害者福祉法、知的障害者福祉法に比べてあまりにも落差が大きく、法の下での不平等の見本のようなものである。一例を挙げれば、精神保健福祉法の下での授産施設の職員定数は身体障害者福祉法、知的障害者福祉法による授産施設の職員定数の半分である。
 精神保健福祉法は第1条目的で精神障害者の「社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進のために必要な援助を行う」ことを謳っているが、それは本当に実行されているのだろうか。その答えが否であることを、わが国精神医療の恥辱ともいうべき社会的入院の存在が歴然と証拠だてている。

21世紀に向けて

 現在、全国の精神病院には34万近くの在院者がいるが、その少なくとも4分の1、8万人以上の人たちが引き取り手がないとか、退院しても生活のめどがつかないなどの病状以外の理由で病院暮らしを余儀なくされている「社会的入院」と呼ばれている人たちである。入院の必要のない入院という不条理なことが、今わが国ではまかり通っているのである。その主な理由が、退院できる人たちを受け入れる地域の態勢が整っていないことにあることはあまりにも明らかである。民間の努力で法内、法外の共同作業所やグループホームが全国に1500か所近くつくられているが、それではとても足りないのである。
 総理府が1996年に発表した「障害者プラン。ノーマライゼーション7か年戦略」も、社会的入院の問題を取り上げ、その原因が地域の社会復帰資源の不足にあることを認めて、社会復帰施設の拡充、強化を約束し、極めて低いものであるけれども、数値目標まで掲げているが、7か年の半ばが過ぎた現在まで、まったく実現されておらず、精神保健福祉法による社会復帰施設の設置が進まないので、無認可小規模作業所が精神障害者の地域リハビリテーションの担い手の役割を果たしているのが実情であり、社会的入院の解消とは程遠いありさまである。
 21世紀に向けて今必要なことは、国が「障害者プラン。ノーマライゼーション7か年戦略」の約束を実行し、精神保健福祉法の目的である精神障害者の「社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進」を謳い文句ではなく、現実のものとすることである。そのためには、精神障害者の地域リハビリテーションの実態を担い、社会的入院の解消と精神障害者の福祉に貢献している1000余を数える全国の無認可小規模共同作業所、あるいは無認可小規模グループホームが、これまでのように助成金の不足から運営に苦しむことがないような施策を講ずることが必要である。
 先般、社会福祉基礎構造改革の一環として社会福祉事業法が「社会福祉法」と改められ、これまで極めて困難であった社会福祉法人取得の条件が緩和され、無認可施設が法定施設となる道が広げられたことは、障害者福祉制度の一歩前進として評価されるが、重大な問題は、法定授産施設などの助成制度が従来の措置制度から利用者の支援制度に変わることであり、支援費の決め方がまだ検討中ということである。
 すでに国および地方自治体では、財政再建を旗印として社会福祉の予算の切り下げが強行されている。もしも措置制度から利用者の支援制度への転換が財政緊縮の意図のもとでの方便であるとすれば、社会福祉の切り捨て以外のなにものでもない。障害者プランの「数値目標」にしろ、精神保健福祉法の「社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進」にしろ、それが実効を伴わないのは、それに必要な予算が伴わないからである。どんなに立派な政策でも、必要な予算がなければ絵に描いた餅にすぎない。
 現代の精神障害者は、今世紀初めの「私宅監置」の時代とはまた別の意味で、「此邦ニ生レタルノ不幸」を背負っていると言わなければならない。
 精神障害者にとって、20世紀は「此病ヲ受ケタルノ不幸」と「此邦ニ生レタルノ不幸」の二重の不幸を背負って生きた時代であったが、21世紀をすべての障害者が「この国に生まれたことをしあわせに思う」時代にすることこそが、これからの障害と福祉に携わる人たちに課せられた使命であろう。

(あきもとはるお 財団法人日本精神衛生会会長、共同作業所全国連絡会顧問)