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文学にみる障害者像

皆川博子著
『花闇』

岩沢伸子

 芝居小屋は異世界だ。木戸銭払って暗がりに身をおけば、目の前に現実に侵されぬ夢が展開する。役者は異界の精となって舞台に立ち、見る者を日常から引き剥がし虚構の世界に誘う。酔う。裏の楽屋は、ドーランや汗のにおいでむせ返るようだ。役者たちはここで、化粧し着物を替えて晴れの舞台と現実の間を往来する。もうすぐ開場というときに、役者たちは裏方一人ひとりに、「よろしくお願いします」と挨拶にまわる。音のきっかけをはずさないように、見せ場でよい照明が当たるように、首尾よく芝居が進むように。
 幕末から明治にかけて名を馳せた女形澤村田之助。彼の少年期から死までが、影となって付き添った大部屋の役者市川三すじの眼をとおして語られる。
 三すじは、9歳で母親から離され、役者の家で下働きをするようになる。主は後に市川団十郎を襲名する河原崎家の若太夫、長十郎である。名題の役者の子の生活は過酷だ。連日、長唄、踊り、三味線、琴、茶の湯の稽古に通わされる。外に出て他の子どもと遊ぶ暇などない。
 三すじには、名題の子は、日々過酷な稽古に耐え抜いて、並の人間を超えたものに作りかえられていくように思われた。
 三すじは12歳で初めて名のある役をもらい、舞台に立つ。格下の役者の暮らしぶりに絶望的なものを感じていた三すじであるが、舞台に立って身をさらすことの甘美な毒にすっかり捕らえられてもいた。
 このとき、田之助は6歳。長十郎と同様、稽古ごとに明け暮れている。前の年、由次郎の名で兄の源平と一緒の舞台をつとめ、兄を凌ぐ評判をとっていた。由次郎はすでに、舞台に立つだけで観るものを惹きつける天成の力を備えていた。
 三すじが15歳のとき、長十郎は権十郎と改名する。
 翌安政2年、江戸の町を大地震が襲う。芝居町は火の海と化した。三すじは、お救い小屋で幾日か過ごし、仮普請ながら住まいが整った河原崎の家に戻った。ところが、河原崎の家からは暇を出され、澤村家(紀伊国屋)の、11歳の由次郎に仕えることになる。紀伊国屋の家もまだ仮普請であった。
 役者は、舞台がなくては芝居ができない。父親が没している紀伊国屋の生計は、源平改め訥升と由次郎の肩にかかっている。
 すっかり焼けてしまった芝居町も徐々に復興し、早速市村座が幕を開けた。市村座は、河竹新七の新作で大評判をとる。河竹の脚本は、極めて写実的に人の心の動きを書き表わしているのが新鮮である。
 33歳で名題となりめきめきと人気があがっている市川小団次は、八百屋お七を題材とした河竹の台本で、人形振りという手法をつかって話題となる。由次郎は、連日この芝居を弟子らを従えて観に行き、夜帰ってからまねて人形振りの稽古をした。「わたしはいずれこのお役をもらうよ」。自身の美貌と芸に対する自負が満ちていた。
 由次郎は「早く立女形にならなくては」と言う。そして河竹新七に台本を書いてもらいたい、いくら自分が芸に努めても、台本や相手役が悪かったら評価されないと言うのだ。
 幼い頃から由次郎は、年上の役者にライバル意識をむき出しにする。自分の芸と魅力でのしあがろうと思っているようだ。それほど、気性の激しさと役への執念をあらわにしていた。激しい闘争心は役者にとって美徳でさえある。実際由次郎は、身についた芸で大人の役者たちを圧倒した。
 由次郎は15歳で、三代目澤村田之助を襲名する。童子から男に移行するあいだの「陽炎めいた危うい美しさ」が輝きでる年頃だ。今にも、大輪の花が花弁を翻し咲き誇ろうとしている。
 河竹新吉の脚本を得て、田之助は匂いたち咲き誇った。
 田之助髷、田之助衿、田之助紅、何でも田之助がつけば女こどもは喜んだ。襲名の翌年、田之助は森田座の立女形になった。16歳の若さで頂点に上り詰めたのである。
 慶応2年、主だった役者が奉行所から呼び出しを受ける。近来芝居町の者は公儀をはばからぬ所業が多い、と咎(とが)められたのだ。
 めったにみられない豪華な顔ぶれの人気役者たちが、勢揃いして素顔で町を歩いてゆく。役者衆は、奉行所の砂利の上の筵(むしろ)に坐らされた。申し渡しは奢侈と増長を戒めるものであった。役者は並の人間以下であることを、役者にも世間にも、忘れさせまいというのだ。なぜそうも卑しめられねばならぬのか。
 権十郎は「役者が尊敬されるようになるには、芝居を高尚なものにしなければならぬ」と言う。「化け物芝居や血みどろ芝居、卑猥な色事の狂言ばかりが盛りだが」。それは、田之助の得意とする役柄にことごとくあてはまる。高雅な姫の役でも猥雑な色気がのぞく。楚々とした容姿であるが舞台に立つと淋しくはかなく淫蕩な女が現れる。それが田之助の魅力なのだ。権十郎の言葉に田之助は盃を投げ付けた。「道明寺もろくに踊れないやつが、高尚高尚と寝言を言うない。」
 庶民にとって、役者は歌舞くもの、艶やかで日常を忘れさせてくれる憧れの存在でもある。役者の姿に並の人間を超えたものを見ていたい。役者には豪奢に輝いていてほしいのだ。
 病はとつぜんに田之助を襲った。初めは小さな痛みだった。奉行所の砂利の上に坐らせられたせいだと言った。しかし、やがて痛みが癒えずに寝込んでしまう。
 田之助は「5月の興行には出ますよ」と、自宅にやってきた河竹新七に言った。医者は痛風だと言った、「初日が開くまでにはなおります」。二人は5月にうつ狂言の話に盛り上がる。数日後、新七の弟子が台本の写しを届けにやってきたとき、田之助は激しい痛みにのたうち回っていた。右の足首から先が赤紫色に腫れ上がっている。医者も、手のつけようがない様子だ。
 「稽古には出る」。この役は河竹新七が自分のために書いてくれた役だ。「明日には、足首叩っ切っても出らあ」。
 しかし、痛みは続いた。やがて足首から先は腐臭を放ちはじめ、痛みは足首から臑(すね)のほうへ移っていった。
 「かったいじゃござんせんでしょうね」「いやですよ。うつるっていうじゃありませんか」。今で言うハンセン病なのか。田之助の身体は、内側から腐乱しつつあるというのか。女房のおさちは着物をまとめて逃げていってしまう。
 やがて、西洋医学を学んだという医師に受診して、田之助の病は明らかになる。壊疽。脱疽とも言う。肉や骨が腐って壊死する病。壊死した部分を切ってしまうしか治療の方法がない。
 「切っちまったら舞台に立てない」田之助はごねる。「生きたかったら切れ」医師もゆずらない。医師の処方した薬によって、田之助の痛みは一時的に薄れ、やがて眠りにおちた。
 薬はあくまで痛み止めであり、薬がきれればまた痛みにのたうち回る。何度もこれをくり返し、ついに田之助は決断する。懇意にしている大道具師長谷川の息子忠吉を呼んだ。「切らないでおけば命取りだと医者に言われたが、舞台に立てねえからだになって長生きしたところで味気ねえとほったらかしていたんだ。しかし、脚一本なくたって、田之助ァ、舞台を仕おおせてみせらあ。そのためには、お前の助けがいるんだ」「俺に脚を作ってくれ」本物みたいに自在に動く脚を。お前だったらできる。己ら、明日にでもぶった切ってくるからな。
 つてを頼って横浜で開業しているヘボン医師の執刀を受けることにし、田之助一行は出発する。みじめったらしいことを嫌う田之助は「田之助が足を切ります、成功したら、再びみごとに舞台をつとめてごらんにいれます」と、広めを兼ねて道中する。それが死へ向かう道行きだとしても、華やかな役者でありたい。
 病の進行は思っていたより早く、切断されたのは膝下ではなく膝の上からであった。
 術後2日目、初めて自分の傷口を見た田之助はがく然とする。「膝がない!」手術に踏み切ったものの、細工の上手な忠吉だとて、膝の屈伸の自由な継ぎ脚は作れないだろう。芝居は形を重んじる。見た目は本物とかわりない継ぎ足をつけても、座ろうとしたとき曲がらない脚を投げ出すのはぶざまだ。田之助は取り返しのつかないことをしたと、脚を凝視した。
 ヘボンは、母国アメリカから、精巧な継ぎ足を取り寄せることができると言った。高価なものだが、田之助は即座に頼み込んだ。継ぎ足で舞台をつとめた役者はいないよ、きっと大評判をとってみせる。
 田之助が継ぎ足で舞台に立てると知ると、我がちに出演依頼がきた。芝居町の3座かけもちで田之助は舞台をつとめると約束した。
 時代は明治へと動いていた。江戸城は官軍に引き渡され、徳川幕府は滅びた。江戸の町は物騒で、芝居見物どころではない。客足の出が悪く、このままでは芝居町はさびれてしまう。その矢先、横浜からヘボンの使いが来る。義足が届いたのだ。ヘボンの調達した義足とは、田之助が夢想したように生身のからだと同じように自由自在に動くものではなかった。
 田之助は、ずいぶん気落ちしたが、すぐに舞台の交渉を始める。そして「大晏寺堤」の立役、春藤をやりたいと言う。
 「春藤なら、足萎えにうってつけじゃないか」。仇討ちのため旅に出た春藤は、痛風をわずらって大晏寺堤の乞食小屋で寝込んでいる、観客の同情をひくことは間違いない。配役は決まったが、衣装のことで権十郎と田之助は対立する。田之助は、白塗りで妖艶なつくりにしたい。権十郎は、落ちぶれた春藤は無精ひげがのび、ぼろの着物を着ているはずだとだめを出す。
 「客は田之助の春藤を観に来るんだよ。無精ひげで赤ッ面の田之助が舞台に出てみな。桟敷代をお返し申さなくてはならないよ」。
 「いつまでも、昔のままのきれいごとでは通らない」権十郎は言いはる。 「髭づらで出ろと言いなさるなら、わたしは下りるよ」。間に入った権十郎の養父権之助が、「うす汚れた田之太夫では、客が承知しない。その着付けでいきましょう」と田之助の言い分を通させた。
 果たして、田之助の春藤は、大当たりに当たった。仇討ちの志を持ちながら病に衰えた若い武士の性根を、田之助は美しく華やかに哀れ深くあらわしたのだ。田之助は、以前にも増して輝きはじめた。
 明治2年、田之助は人形振りで「日高川」を演じ好評を得た。続いて河竹新七が田之助が座ったままでも十分演じられる本を書き下ろした。田之助は、身体の不自由さを感じさせない早変わりをもこなして観客を感嘆させた。
 ところが、残ったもう一方の足にも痛みが襲う。田之助は長谷川を呼んだ。
 「忠さん、今度は難題だ。田之助は両脚失くすことになった。それでも舞台をつとめられるよう、何とか苦しんでおくれ」。
 田之助が左脚も切る、そして両脚なくても舞台をつとめるという噂は、たちまちひろがった。三すじは、楽屋梯子で河原崎の声を聞く。「困ったものです」「ああいうのが舞台に立つから、芝居がいつまでも因果ものの見せ物と同様に見られる」。
 田之助が舞台で見せているのは、無惨に切られた身体なのか、観客の心を打つ芸なのか。
 田之助は再びヘボンの執刀により左脚を膝下から切断した。
 紀伊国屋! のかけ声に混じって、長谷川! という声が聞こえる。両脚確かに失った田之助が、立ち、歩み、座り、自在に動いているのは、長谷川の仕掛けに依るところが大きい。田之助の美貌とせりふの声のよさはますます冴えて、見るものは田之助が脚を失っていることを忘れさせられる。しかし、病はついに、田之助の両手も奪ってしまう。
 田之助の引退興行は、河竹新七の書き下ろしであった。両手を切っても田之助はやる気十分だった。しかし、田之助をたてるためにつきあわされる役者や裏方は、うんざりしていた。
 田之助は、京橋に澤村座を立ち上げる。これは3年ともたなかった。たちまち暮らしに詰まった。大阪の中の芝居が田之助を買いに来た。籠を連ねて大阪へ行き、見事に舞台をつとめた。
 これでもか、これでもかと、田之助は舞台に執着した。舞台に立つからには、花の立女形である。激しい芸への情熱だけが、田之助を生かしている。
 足でもなく、手でもなく、張り詰めた心の糸が切れたとき、役者田之助はくずれ消えてしまった。
 江戸は東京となり、新しくできた新富座の開場式では立役の名題たちが燕尾服で立ち並んだ。客席を見れば、太政大臣はじめ高級官僚が占めている。
 田之助は、座敷牢で34年の生涯を閉じた。
 私は、ある歌を思い出した。
 「わたしを殺せば見えるでしょう、万華鏡。かわりに頂戴いたします、時間と木戸銭」

(いわさわのぶこ 会社員)

【出典】
『花闇』皆川博子、集英社文庫、2002年
「雪戦艦」十羇形一、1986年