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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年2月号

1000字提言

今後の日本の障害福祉はどうなる?

荒井隆一

日本の障害福祉は長い間、本人がどのような生活がしたいか?ということや、こんなことが困っているというような「本人の思い」がしっかりと反映されないような制度、いわゆる「措置制度」であった。当時、私の記憶に今でも強烈に残っている言葉がある。

とある身体障害者療護施設に行った時のこと。そこで生活している人たちの言葉からは必ずといっていいほど「お世話になっているから…」と言うような言葉が聞かれた。何かしてほしいことがあっても、我慢をし「お世話になっているのだから…」。食事の時間が決まっていることや好きな時にお風呂にも入れないことも「お世話になっているのだから…」。外出などをして遅く帰ってくると、職員におみやげを買ってきて「遅く帰ってくると、職員の人の機嫌が悪くなる。自分一人ではベッドに寝られないし、お世話になっているのだから…」

当時、ものすごい違和感と、何とも言えない、切ない気持ちになったことは今でも忘れない。

また、他の施設で「この施設を出て暮らすことを考えてはどうか?」と言うような話をしていた時に「ここでの暮らしでいい。ここで死んでいくのだと考えている」と言うことをおっしゃられた。それでも話をしていくと「だって仕方がないじゃないか。家族は俺の面倒が見られないんだし、自分一人では何もできない。だれか俺の面倒を見てくれるのか?ここにいれば職員がやってくれる。だからここにいるしかないんだ。お前に何が分かる?」と怒られたこともある。いろいろな方と話をしていて「施設で暮らしたい」と言った方の本音は全員、違ったところにあった。言ってみれば「あきらめ」である。

障害をもってしまったことによるあきらめ、自分でできていたことがだれかの手を借りなければできなくなったもどかしさ、家族に迷惑をかけられないという思いや、人によっては見捨てられたという切なさ、さまざまな思いを感じた。

このような思いは、自分で自分の考えをうまく表現することが苦手な知的障害や重症心身障害をもたれた方や、治療の必要は無いのに長期入院を余儀なくされているような精神障害をもたれた方、すべての方々がもたれているのだと感じてきた。

措置の時代が終わり、本人主体という観点から「支援費制度」が始まり「自立支援法」に変わった。そして、現在また新たな制度の議論が始まっている。

基本は、本人がどのような暮らしを望んで、そのためには、どのような支援が必要か?に社会が、どこまで寄り添えるかであると思う。今回こそは、本当にそうなる社会になることを願って…。

(あらいりゅういち 社会福祉法人ロザリオの聖母会グループホーム支援センター)