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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2018年3月号

生き方・わたし流

1人でも多くの盲児たちを盲学校へ

バトバヤル・エンフマンダハ

皆様はじめまして。バトバヤル・エンフマンダハと申します。30代の女性です。現在、モンゴル盲人協会の附属専門学校でマッサージを教えています。

私は6歳の時にブランコから落ち、頭部を打って網膜剥離になり、13歳で全盲になりました。

私が高校生の時でした。日本であん摩・マッサージ・指圧・鍼灸を勉強し、日本の理療の免許を取得したモンゴル人のガンゾリグ先生が盲学校に来られて、私たちにあん摩・マッサージ・指圧を教えてくれました。その時、私はこの先生のようになりたいと思い、日本語を勉強しようと決心しました。そして盲学校を卒業後、モンゴル文化教育大学の日本教育学科に入学しました。

入学したモンゴル文化教育大学は、視覚障害者を受け入れるのが初めてだったので、点字の教材をはじめ、視覚障害者が勉強できる環境が何もありませんでした。そのため、授業は丸暗記で試験などは口頭で受けました。漢字の先生から「漢字というものは形を見て目で覚えるものです。だから私の授業に出ないでください」と言われ、授業に出られなくなり、泣いたこともありました。

大学2年生の時に、日本の国際視覚障害者援護協会の奨学制度の試験に合格し、2009年10月3日に来日しました。日本の文化や生活、日本語の勉強などを6か月間習い、翌年4月に筑波大学附属視覚特別支援学校の鍼灸手技療法科に入ることができました。そこで学んだ3年間は、医療関係のとても難しい内容の授業で、時々あきらめて母国に帰りたいと思い、こっそり泣いたこともありました。食事も、モンゴルには海がないため、魚介類は全然食べられませんでした。

2013年に国家試験を受け、あん摩・マッサージ・指圧師、鍼灸師の免許を取得した時は、何よりうれしく、モンゴルにいる家族とともに泣いてしまいました。今になって思うと、とても懐(なつ)かしいことばかりです。

その後、福岡県立福岡高等視覚特別支援学校の研修科で1年間鍼灸をもっと深く勉強し、さらに、毎日新聞社点字毎日のオンキヨー世界点字作文コンクールに応募し入賞しました。作文のテーマは、点字が生きがいにつながったという内容でした。私の幼い時のことや盲学校のこと、点字が視覚障害者の人生を支えてくれる大切なものであることなどを書きました。

私はいただいた賞金を使って、モンゴルの盲児を支援する活動をすることにしました。私の幼い時、親が障害児を隠したり、家に置き去りにして出て行ったり、金銭の問題で盲学校に行かせることができないという厳しい理由のために、盲学校を辞めざるを得なかった友だちが少なくありませんでした。私たちは見えなくなりたくてなったわけではありません。親も障害児を生みたくて生んだわけではありません。何とかして頑張って、学校に行かなければいけません。

2014年3月に母国に帰り、盲児を支援するOyunlag(知恵)センターを立ち上げました。活動では、盲学校に行っていない盲児のいる家を訪問して、盲学校に行かせる支援をしています。初めて家を訪ねた盲児は地方に住んでおり、親に置いていかれた盲児でした。

活動を始めて4年が経ちます。現在支援している盲児は、5人になりました。そのうち3人には親がいません。こういった現実にぶつかりながら、活動をなんとか続けて、たくさんの盲児に夢を持ってもらいたいと頑張っています。今後も毎年少しずつ支援する盲児を多くしていきたいと考えています。

モンゴルには現在17,000人ほどの視覚障害者がいて、盲児は3,000人いるというデータがあります。その中で盲学校に通えているのは100人だけです。ほかの2,900人の盲児がどこで何をしているのか不明です。全員が学校に行き、自信を持った社会人になれたらそれよりうれしいことはありません。


プロフィール

バトバヤル・エンフマンダハ

1988年生まれ。2009年に来日。2010年4月から筑波大学附属視覚特別支援学校鍼灸手技療法科にて学び、2013年にあん摩・マッサージ・指圧師・鍼灸師の免許を取得。第11回オンキヨー世界点字作文コンクールに応募した作品が入賞し、その賞金を使ってモンゴルの盲児を支援する活動を始めることを決意。2013年にモンゴルに戻り、Oyunlagセンターを立ち上げて活動を行なっている。