歴史 アメリカにおけるリハビリテーションの歴史と哲学

<歴史>

アメリカにおけるリハビリテーションの歴史と哲学

History and Philosophy

C. Esco. Obermann*

小島蓉子**

中島和***

“歴史の限界性”

 歴史家は過去というものが、現在についてわれわれに多くを教えてくれ、また、未来を予測して何かを計画しようとするとき学ぶべき多くの助言は過去から引き出しうるとして過去の意義を大変重大に考えている人々である。われわれのすべてがむろん歴史の専門家である必要はないであろう。だが、あらゆる事柄に関して、過去に起こったことを無視して、今日の道義、風潮、動機に対する合理的な解明をすることはできないのである。そしてもし、過去に経験された出来事、原因、及び結果に基づいての見通しを計画の中に反映しないならば、われわれの計画はほとんど確実性のないものとなると言わねばなるまい。歴史の効用は様々考えられるが、一方ではそれによる危険性も含まれていることを知らねばならない。

 過去についてわれわれが知りえたことは、まさに過去に起こった現実の非常に不正確な抽象なのである。千年前、万年前、はたまた十年前に実在した状況に関するわれわれの知識は選択と解釈によってひどく汚染されもする。人間は力動的に発展する世界のごく一部分の断片しか経験しえないものである。もし、われわれが、他者の記録と文書より情報を得ねばならないとすれば、他者が記録したもの、他者が記録したものに付加した意味、そして他者が記録したものの有効性については、おのずとそこに限界があると思わねばなるまい。アーノルド・J・トインビーの「歴史の研究」を読む場合の最も意味ある判断としては、われわれがどれだけ、アーノルド・J・トインビーの比較的正しい人間像をつかんでいるかということである。トインビー博士の不朽の7巻の名著においてさえ、歴史上に起こったことのすべてを記録することは不可能だったのである。トインビーは調査努力によって発見された範囲の事実のみを報告し、彼が重要だと考えたことのみを記録し、彼自身の個人的な能力と限界と偏見と信念とに基づいて解明されたことがらを解釈したのである。

 われわれがリハビリテーションの歴史を討議する際にも、このことを心に刻みつけておく必要がある。私が「アメリカ・職業リハビリテーションの歴史」を著したときも、史実を反映しているであろうと思われる数千ページのものを探し求めて読破し、歴史的な事実と真相であると考えられた内容を私に語ってくれた多くの個人と対話を重ねた結果、私が伝えようとしたものが、わずか380ページの原稿となったのである。私が掲載し、提示したものは、自らが歴史の中に発見したすべての事実の中のわずかの年代記にすぎない。私は、有意と思われるものを選択し、そしてその意義を解明したのである。歴史を著すにはこの選択をどうしてもせねばならない。だが、どのようなことの発展の歴史についても、その中から結論づけえたものには、多くの限界が潜んでいようことを、十分に認識する必要がある。つまり、結論は、歴史家の情報源の不十分さを反映するものもあろうし、また結論に至る歴史家のリサーチ能力の程度、性格によっても左右されるものだからである。

障害に対する態度の発展

 リハビリテーション事業を、歴史的展望の中で考えることは、きわめて重要なことである。人はだれしも、自分の生命をかけての仕事が生命力溢るるものであり、また、社会の健全なあり方や、その発展に建設的な貢献を成しうるものであることを望むことは当然である。われわれの仕事を特徴づけるのは自らの態度と行動であり、それらは、過去に起こったすべてのことがらによって影響を受けている。過去が今日のあり方に大きく影響しているという認識を深めるにつれ、われわれの機能は質的に高められるにちがいない。

 残念なことだが、障害状況や障害者の生活に関して得られる古代の情報は、一般に不十分で貧弱なものである。われわれ自身の文明やその文明に先立つ古代文明の古い記録のほとんどは教養のある強健な、そして裕福な人々によって彼ら自身のためにのみ書かれたものが多い。古代の競争文化の中にあって障害をもった人々は、重要視されてはいなかった。武将としての成功をおさめることができないならば、その名は記録にとどめられなかったのである。古代、障害によって不利な立場に立たされた者は、ほとんど例外なく貧困となることが運命づけられた。貧困者は、普通、社会に影響力をもつような人々ではなかった。疑いもなく、障害をもつ貧困者は、一般に忘れられた、重要でない存在としての社会的役割をもつものと見なされてきた。そこには、彼らの福祉と、潜在性に対する配慮はほとんど見られなかった。こうした事由から、障害者のためのリハビリテーションは、比較的最近まで発達の契機を持たず歴史上ほとんど学ぶものをもたなかったのである。

 過去の時代は障害者にとって苛酷なものであったにちがいないと考えても間ちがいはない。原始社会においての生存競争は困難であったばかりでなく、疑いもなく拒否水準は高いものであり、迫害がほとんどすべての障害者に一般的だった苦痛と貧困とに加えて、与えられたのである。

 逸脱的な種類のものを拒否することは動物の本能であり、人間のみは、人道的法則にしたがってその本能を部分的に克服することができるのだということが、しばしば言われる。動物というものは仲間に対して、定型的な行動をとるものではない。ある種の動物は、彼らの仲間たる障害をもつものに肯定的な援助を与える場合もある。しかし同類のものによって、障害の動物が悪い取り扱いを受ける多くの場合、(強い鳥が沢山餌をついばむ)“餌とり合戦”にたとえられる事態も起こるのである。動物の間の身分は、しばしば身体的強健さによって決定され保持され、成功は、同種間の闘争に勝つことであるとされる。肉体的な会戦で負ければ負けるほど、障害をもつ個人は“餌とり合戦”の底辺へとおいやられていくのである。こうして、弱いものが、追逐の段階へとおいやられていくのである。しかし、この種の拒否は、非定型の身体類型に対する単純な拒否から現れてきた反感の表現とは異なるものである。

 原始的種族の中に見られる肉体的異常と欠陥に対する態度には同一の類型があるわけではない。アフリカのマサイ族は、奇形児や虚弱児が生まれると、生後すぐに殺害する。オーストラリア原住民のディエリ族(the Dieri)は、未婚の母の子供のみならず、奇形児も殺す習慣をもっている。しかし、西アフリカのダホミアン族(the Dahomeans)や、東キャロリン諸島のポナペ族(the Ponape)は、障害児を大切に取り扱っている。かように原始人の間で本能的に現れる態度はまちまちで、その中から我々自身の文化の中での障害者拒否の起源に対しての関連性のある手がかりをうることはできない。明らかに、われわれの態度は文化に深く根ざしたものである。もし、われわれが、今日の障害者の社会的位置を説明しようとするとするならば、自分自身の文化の過去にさかのぼる歴史の中で発展してきた、信念や態度の起源を見つめなければならないであろう。

 今日西欧の倫理、道徳、そして人間間の規約のほとんどを動かしてきた二つの決定的な力は、ユダヤ・キリスト教の宗教と、封建体制であった。しかしどちらも、最初から障害者の処遇を十分に効果的に行い、そして、建設的で理解ある施策を実施するのに貢献したわけではなかった。現代のキリスト教は、障害者に対して共感のある温い処遇を支持していることは事実である。しかし、教会と封建制がすべての有力な社会機構であった中世期を通して、障害者の状態は、全くの苦境に置かれていた。中世の教会によって助長された施しと同情とは、与える側の美徳を強化させはしたが、それと同程度に、障害者の援助と慰めになることはなかった。今日でさえ、障害者はしばしば、障害者援助を支持する人々の個人的優位性と、何かをなして報われたという気分を増大させる手段として利用されるのである。

 キリスト教でも障害は神の罰と等しいものと見立てたこともあり、そのことが事故や病気によって障害をもつようになった個人に悲痛を倍加させもした。敗北者、虚弱者、不利な人々の権利を擁護した教会の記録で顕著なものはない。無防備のユダヤ人を迫害から解放するという公的な宣言が出されたのはキリストの死後2,000年のつい最近のことである。ユダヤ人迫害の恐るべき過去の世紀を通じて、その“あわれみ深い”キリスト教教会は、不利な少数者に何の慰めもさし出してこなかったのである。経済組織が女性、児童、障害労働者を圧迫していた時代にも、教会は、新しく高い道徳を説く強力な声を社会に対して発することをしなかった。しかし、その声は、デッケンズ(Dickens)、ボルテール(Voltaire)、バーンズ(Burns)そして、ゴールドスミス(Goldsmith)のような平信徒から上った。トーマス・ペイン(Thomas Paine)やトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)は、ルネッサンス最後の人道主義の潮流の高まりを、遂に実際行動の中に体現せしめた人々である。以来、人間の尊厳が高揚され、人間の権利意味が今では十分に受け入れられる概念になってきたので、“神は死んだ”と言っても、それがほとんどの人々には反語と理解されている。数百万の不利な立場にある人々を文化的、社会的、経済的に貧困な生活を送るものとみなすような残酷な、あわれみなき神を必要とし、求める人間が今日、存在しうるであろうか。

 障害者は、中世のキリスト教会制度の中でよりも、古代ギリシャや回教のような異教徒の体制の中での方がよほどましな暮しをすることができたと考えられる。ヒポクラテスは障害をもたらす欠陥と、神の不快との間に、何の関連性も見い出さなかったのである。エペソ人のソーラヌスは、精神病者の肉体から悪魔を放遂しようとする何の必要も感じなかった。モハメッド教徒は、中世より以前に、すでに病院と医療の存在理由を見い出している。しかしキリスト教会は何世紀もの間、愛を説いたキリスト本来の教えを無視し、“クルーパン”〔Kriupan(欠陥、這う)〕と“悪いもの”と訳されるサンスクリット語の“ドヴァラス”〔Dhvaras〕との言語とを混乱させてきたのである。

 封建体制は、強さと、闘争の効果とを基盤として栄えた文化である。一人の障害者は、一つの組織内に有力な場を持つことはおそらく許されなかった。屈辱的にも、封建社会における障害者の地位は、しかも最も名誉ある地位は、およそ、宮廷につかえる道化師としてのものでしかなかった。

 一世紀以前にさかのぼらずとも、ごく現代に近い所の文章では、不快なるものの一つの範疇の中に、“犯罪者、こびと、盗賊、そして不具者”が一緒の集団として扱われている。昔の人々の示した態度はそう簡単に死滅するものではない。今日でさえ、障害児をもつことを“恥”として、それをひたかくしにしようとする家族もあり、有能な者のみ受け入れて障害労働者をしめ出す雇用主のあることを考えれば、それは不思議なことではない。また、1920年(米国リハビリテーション法の成立当時)代の最近においてさえ、障害者の更生を援助する勧告に猛烈に反対した証言と策動をした国会議員があったこともおどろくべき事実ではない。彼らは連邦政府が“保健福祉対策”にまき込まれることが“非合法”であるという立場で反対説の説明をなしたのであるが、一方、家畜の保健問題に連邦政府が関与するようになったころ、その立法改正に国会議員が反対したとの記録は、これまでに見当たらないのである。

 鬼神学は、中世紀において流布された民間信仰であった。それによれば病気と障害は、悪魔的属性という意味で説明された。それによればこの世は、神とその天使たちと、片や悪魔(サタン)と彼のひきいる大群とのはげしい対決の中に二分されるとされた。遂に、1488年ローマ法皇イノセント8世は旧約聖書の“汝らは生きるために悪魔から苦しみを受けるべきではない”(エクソデス22章8節)の戒めをとり入れた戒律を発行することにより、窮状に立ち至った教会を救う決断をした。ほとんど300年もの間、障害者及び精神病者は、悪魔にとりつかれたものとして特別な監視と迫害のもとにおかれてきたので、この狂信的な時流に反対し、すべての種類の障害者を不合理に扱うことなく、可能な限りの医学的知識をもって取り扱うべきだと主張することは非常な勇気が必要とされたのである。それをあえて主張し、実行した人に対しては、今日でも、既成の秩序を崩そうとする人々が直面しなければならない圧力と同等の迫害が加えられたのである。1736年になって初めて、英国では魔法に対する禁止法を成立させたのである。

 中世における障害者の存在は今日顕在化するほど一般的ではなかったようである。原始的な医学と衛生状態の程度が非常にひくい時代にあっては生活そのものが、きびしい課題であったから身体虚弱者の間での死亡率は非常に高かったにちがいない。その上、対処技術そのものの限界から、明らかに身体的奇形をもった者はうたがいもなく否定されたにちがいない。脊推彎曲(quasimodo)といわれる一般的な身体の奇形者は少ししか人生を享受できない日陰の存在であり、わずかな同情と扶助しか要求することができなかった。

 地域生活を許されたとしても、これらの障害者は小さくなって人々の嫌悪をたえしのばなければならなかった。18世紀の英国の政令は、“障害によっていまわしい存在とされた者”として障害者を人類の最下位の分類の中に入れている。障害者の身分として布告されたところによると“障害者は義務として働かねばならないし、もしそれを拒否すれば、笞打をし、食物や飲物をとり上げる”ことも罰とされたのである。

 中世や封建社会は産業革命によって遂に崩壊した。しかし、ルネッサンス以来高まり、産業革命もその一部とみる科学的技術発展が障害者の地位向上のために使われたことは近世に入ってもすぐには見られなかった。障害者や貧困者にとって、開放をもたらす人間の価値観の変化は依然としてみられなかった。労役場と児童労働は、同時に社会がみとめる常態であった。身体的な不利に対して配慮を加えた施設は、新しい初期資本主義時代の工場や仕事場の中にはほとんどみられなかった。

障害者に対する初期の援助

 フランス革命は、ヨーロッパ封建社会に対する最大にして最後の激変であった。フランス革命は少なくとも初期の段階では、権威と自己の尊厳と安全についての新たな定義の確立を目標とし、個人の尊厳を格下げするすべての力と要素とを破壊しようとした。しかし、革命も障害者を救出するところまでは及ばなかった。フランスのさわぎにおどろいた英国の指導者たちは、革命や動乱を生むにちがいないような状況を監視するよう動き始めた。たとえ1698年という早い時期に、キリスト教知識普及英国協会は、社会的に不利な状況にある人々や貧困者のための訓練の普及を組織立てたわけであるが、すべての児童の教育をめざして幾つかの学級が設立されたのは、それから1世紀の後“英国海外学校協会”(British and Foreign School Society)が設立されてからのことである。

 しかし、これら学校が設立されたとしても、その動機は、教育を受けていない集団を規制して、以前からの秩序を保護することであった。最初の労働法が通過したのはその例で、その目的は社会的弱者の制御のための法的基盤を設定するということであった。エリザベス一世の救貧法は、不具者に救護施設を提供したが、しかしそれは、公共の場で物乞いをする厄介者を減らすのが目的でしかなかった。1812年に“乞食抑制公共協会”(The Society for the Suppression of Public Beggary)が組織されたが、それは児童虐待防止協会が設立されてよりおよそ75年後のことであった。

 16世紀、17世紀という早い時期のいくつかの非関連的な出来事の中に、障害児を援助するための試みを見い出すことができる。スペインのジュアン・ボネー(Juan Bonet)、スイスのヨハン・アモン(Johann Ammon)、イギリスのジョン・ブールワー(John Bulwer)、フランスのチャールズ・ミッシェル(Charls Michel)、スコットランドのジョージ・デルガルノー(George Delgarno)、彼らはいずれも、ろう児に意志伝達を教えることに成功した人々である。

 シリアやパレスチナにおいては、すでに4世紀、及び5世紀の昔、盲人のための特別病院が設立されたが、少数の盲人が正規の教育訓練を受け始めたのは1784年、パリに国立施設が、バレンタイン・ハウ(Valentin Hau)によって設立されて以後のことである。折から、ルイ・ブレイル(Louis Braille)が読み方を研究、開発したのは1829年であった。

 ジョン・ネピナク(John Nepinak)は、1832年ババリアに肢体不自由児のための最初の学校を設立した。ジーン・イタール(Jean Itard)やエドワード・セガン(Edward Seguin)は、フランスで精神薄弱児のための教育・訓練の最後のいくつかの原則の発展のために尽力した。セガンは後に、新しいマサチューセッツ精神薄弱児青少年学校の校長としてアメリカ(1948)に移住するようになった。

 ヨーロッパでの障害者訓練の試みのほとんどすべては職業訓練にかかわっていた。そして、訓練施設は、これらの人々を非障害者との一般的接触から引き離してしまった。19世紀半ばに設立されたろう児のための統合学校であるエヂンバラのドナルドソン病院(Donaldson Hospital)を除き、障害児は一般に特別学校の中で教育されていた。障害はまれな事象として見なされ、障害者は“異常”であると見なされた。彼らに与えられる機会は、一般に慈善としてみなされた。そこでは障害者が当時の社会の中での統合を許す合理的理由としての正常さをみとめることもなく、受容の態度も見られなかった。

 しかしながら中世紀の自助への慈善(selfserving charity)をのりこえたひとつの進歩は、これら訓練活動の中にみとめることができる。初期教育の開拓者たちは、障害者に自力で立ち上がらせるための訓練こそ、援助の一類型だと強調する。マイモニディス(Maimonides,1135-1204)が著した古代ユダヤ法の解説書によれば、訓練は慈善の最高位のものとされた。こうした意味の訓練が今日のリハビリテーション援助の基礎を作りあげる試みの最初のものとなったのである。

 中世を経過して以後の改革は、“人間の権利”を設立することに懸命になりながら、その中にしばしば”障害者の権利”を含めることを忘れてしまっているのを知らされる。フランス革命の直前、バレンタイン・ハウ(Valentin Hau)は、フランス博愛協会(The French Societe Philanthropique)の援助により、自立施設を設立し、1789年までに彼は点字式の読み書きを50人の生徒にほどこした。それにより生徒たちはかなりの程度、自活状態にすらなったのである。しかしながら、革命によって社会から否定されたと同時に貴族が生み出したことによりこうした障害者の援護組織もまた破壊されねばならない運命となったのである。革命により1801年に閉鎖されるとその学校は、新しい国立組織によって取って代わられた。ハウは、免職され、盲人の生徒は古いクインヅ・ヴィングツ(Quinze-Vingts)という、十字軍から除隊した盲兵士の収容所に移された。その後、フランスの政治状況が変化し、施設は、1814年に再び設立されたとは幸いなことであった。

 初期の英国において、ロンドンの一商人が盲人のための病院として、有名なエルシング・スピットル(Elsing Spittle)を設立した。それは1829年のことであった。しかし英国改革の闘争が遂行されている中で、この盲人の収容所は閉鎖されてしまった。たとえ、人間一般の尊厳と権利とは古い制度に抵抗する一つ一つの波動をへて次第に獲得されるようになったにせよ、これらの抗争の指導者ですら、彼らがその解放のために心を痛めた一般の人々の中に残念ながら、障害者をとり込むことは、できなかったのである。

初期アメリカ

 アメリカの開拓時代においての障害者は、ヨーロッパにおける障害者以上のよい生活ができたとは言いがたい。もっとも新しい世界(the New World=アメリカ大陸)はヨーロッパにおいてしいたげられた人々や貧困者のために新しい希望と新しい機会を与えたわけであるが、生活はあまりにもきびしく、経済的安定の幅があまりにも狭かったため、障害者のための新しい社会秩序を最初から生み出すことはできなかった。植民地における厳格で、融通の利かない宗教的指導者たちは、ヨーロッパの圧制者以上に無理解で同情のない人々であったにちがいない。貧窮階層のほとんどは、障害者と、冷厳に神の摂理に対する敬虔さを欠いた者だと、清教徒から解釈される人々によって占められ、障害者は経済的貧困者と混同されて宗教的な志向をもつコロニーの中では最も危険な存在の一部と見なされていたのである。

 初期アメリカにおいては、医療サービスはほとんどみられなかった。新しい社会で人々が経済的または就労上の要件をみたすことができず窮状に至った時、人々が求めてたどりつくことのできる養育院も救済施設も存在しなかったのである。ほとんどすべての住民が貧困である地域にあっては、物乞いはけっして割の良い仕事ではなかった。貧窮者は、普通、町の人々から“目をつけられておい出され”、もし戻って来たとすると、彼らは公衆の面前で笞打たれたのである。“救貧院”(poor houses)は維持するのに金がかかりすぎたため、貧困者や障害者は普通は町立の留置所(jail)の中に収容された。またある地域社会では、働かせれば、主人が利得を引き出しうると思われる程度の奴隷は競売法で売り渡された。障害が重すぎて、入札者に魅力のない人々は普通、留置所かまたは労役場に据え置かれたのである。

 経済的に貧しい社会は、障害者が生きていけるような社会ではなかった。競争社会にあっては、逃れ切ることのできる重荷をあえて負ってハンディキャップをもつ立場を選ぼうとする人はいない。現在障害者にもたらされているようなリハビリテーションの意義を認める風潮は、主に、我々のゆたかさが可能にする“気前のよさ”(generosity)の中から発展したとみてよい。

 温和なクエーカー教徒は、1752年コロニーにおける最初の一般病院をフィラデルフィアの近くに設立した。彼らは“……地域に対しての有用にして貢献のある成員を援助し、更生させることは公共サービスの一事業であり、病める貧困者を救助することは人道上の行為のみならず、宗教上の義務でもある。”と信じていた。ボストンは1662年に最初の救貧院を設立したわけであるが、それから一世紀を経ないと、軽犯罪者、窃盗者、不幸にして貧困におち入った人々の施設から別にきりはなして、病人、精神病者、及び、身体障害者を援護する施設を成立させることはできなかったのである。

 1812年に初めてろう児のための学校設立の試みが実行に移された。陸軍大佐ウィリアム・ボーリング(William Bolling)はバルチモアに学校を経営するため、有名な英国の家系、ブレイドウッド家のジョン・ブレイドウッド(John Braidwood)に渡米をすすめた。しかし、ブレイドウッドは彼のスポンサーである大佐とうまくいかなくなったので、その学校は閉鎖されるに至った。成功したろう児のための学校は、1817年、ハートフォードに、トーマス・ホプキンズ・ガローデット(Thomas Hopkins Galloudet)によって設立された。身体障害児のための初めての学校が、職業技能をもつ児童を訓練する目的で1893年にボストンに設立された。

 19世紀を通じアメリカでは、特殊学校や病院、障害者のためのワークショップが次第に発達してきた。最初の立法措置として、1793年、ケンタッキー州に貧民精神薄弱者法(Pauper Idiot Act)が通過し、この法により精神薄弱者や貧窮者には、在宅のままで州の扶助費が交付されるようになった。だが、アメリカにおける初期の施設はほとんど民間の財源によるものであった。トーマス・ギャローデットは、ハートフォードろう児学校を開校するために連邦議会から補助金を受けたが、これは公私分離を建前とする当時の米国では異例のことであった。保護・教育・福祉のための連邦資金は、当時は交付されるとすれば普通、州からのものであった。幾十もの精神病者のための州立病院を設立する運動を推進させたドロシア・ディックス(Dorothea Dix)は民間主導事業のために連邦補助を引き出す多大の努力をした女性であった。1854年ついに議会を通過した法案ですら、州の住民の健康と福祉問題に連邦が介入することは州の権利をおかし、憲法違反となるという根拠によって、フランクリン・ピアス大統領の署名拒否を受けている。大統領は、ろうあ者のための施設を援助するために、コネティカット(1819)とケンタッキー(1826)に土地補助金をすでに連邦議会が交付したという事実を黙認する決定をしたのである。だが一方、戦争傷病者に対する様々の補助は、1808年という早期の時代から連邦行政のもとでおしすすめられてきた。しかしながらピアス大統領の見解は、職業教育のために州に補助金を交付せしめたスミス・ヒューグス法(Smith・Hughes Act)が成立する1917年までは、リハビリテーションへの連邦介入には消極的であり、例外的に有名なモリル法(Morrill Act)をみとめて1862年、州の教育を援助するために100,000,000エーカーの連邦の所有地を州に供与したのである。

 19世紀の半ばまでにリハビリテーション、殊に精神薄弱青少年及び児童に関する非常にすぐれた政策立案の思想が現れた。ニューヨーク州ユティカの州立精神病者収容所の所長アマリック・ブリガム博士(Dr. Amarich Brigham)は、1845年に精神薄弱者に関して次のように書いている。“我々は、精神薄弱者の状況改善と安定のためになすべき多くのことがあるという意見をもっている。つまり、彼らを地域の重荷や支出でまかなう存在と考えるのではなく、有用な市民として雇用し、自活できるように、そして、社会の喜びの中に参加するまでに彼らの状況を改善しなければならないのである”と。

 ハーヴェイ・B・ウィルバー博士(Dr. Harvey B. Wilber)は、ニューヨーク精神薄弱青少年実験学校長として、1951年に次のような報告を著している。“我々のすべての努力の基盤は、一つの原則の上に立脚している。それは、知能、感受性、そして意志という人間の属性は精神薄弱者において完全に欠けているというのではなく、ただ、休止状態で未発展であるということである。”

 これら初期の先駆者の見解は必ずしも一般に受け入れられたわけではなかった。ドロシア・ディック女史が社会を啓蒙する一方、数十の病院が精神病者のために設立されていった。しかし、1866年までに7州のみが、1,000人の精神薄弱児のために特別な援助を行ったに過ぎなかった。

 これらの先駆者が残した唯一のあやまちは、彼の個人的ニードにしたがって、精神薄弱者を区分し、彼らを援助することに失敗したということである。多くの問題がもち上がってきたということは、次の三つの理由による。つまり、①精神薄弱に様々の程度があることが認識されなかったこと、②児童が成人と一緒に収容されたこと、そして、③男女それぞれに異なった必要が独自に認められることなく一括してとり扱われたこと、である。

 今世紀の初めにおける精神薄弱による社会問題の一般的な解決策は、優生措置を通して種族を優生学的に向上させるという方向にあった。ジュークス家とカリカック家(Jukes & Kallikaks)に関するデータの解釈は無批判のまま受け入れられた。社会・教育要素は強調されることなく、特別訓練やリハビリテーション技術の応用にはほとんど希望がもたれていなかったのである。

 肢体不自由児問題においては、早期治療を強調するという良識が現れた。エリクソンとハービグハースト(Erikson and Havighust)による最近の研究は、大切な時期に合致した人間発達を保障することがいかに重要なことであるかを示している。殊に児童期においてはある大切な時期に応じた一定の社会的・心理的成長の課題があり、これは、発達上に顕著なことであるとしている。もしもある特定の成長年齢を越えて発達支持を行い続けることができるなら、多くの欠陥は修正しうるであろうと説いたのである。

慈善とリハビリテーション

 巨大な政府と福祉国家概念の受容期に至ると、保健、教育、福祉計画の多くのものに対して、連邦政府財源が交付されるのをみることができる。今では驚異的な数の政府機関や団体が、調査と実践の目的で連邦の補助を受けて運営されている。1965年12月には、”個人・地域改善のための連邦計画の総覧”が経済機会局(the office of economic opportunity)によって作成され、連邦計画の一覧とその要綱の記載だけでも400ページ以上もの紙面が割かれている。その中には、およそ250もの連邦─州共同計画が含まれている。

 かつて、住民の保健、教育、福祉のためにほとんど孤軍奮闘して歴史を創ってきた民間団体の存在は、近年とかく安易に見すごされ、軽視されるようになってきてもいる。地域社会や州でさえ、その財政的負担をますます連邦政府にゆだねるようになってきた。そこには、民間団体は果たして、税金によって支えられる公的機関と立ちうちして存続しうるかという疑問がもち上がっている。民間団体の将来はどうなるか分からないとしても、方向を定め、目標を明確化し、そして、哲学をうち出した民間機関の歴史的貢献は、たしかに広い領域にわたっている。

 これら民間機関は、国民人口の最もめぐまれず、弱い立場にある人々、そして、無視された人々を擁護してきたものの典型である。ある場合、民間団体は効果的に機能することができず、ある場合は財政的に困難である時はそれらの経営は不振におちいった。民間機関は時に地域の権力体制の前に頭を下げ、受益者の関心よりも寄付者の興味中心に動き過ぎたこともあった。資産家や資本家から金を引き出すために、民間機関は、その寄付者の立派な徳をたたえ、クライエントにはつつしみ深く、恩義を感じる。あわれな嘆願者として振る舞わせることもあった。しかし、それでもユナイテッド・ファンドやコミュニティー・チェスト(共同募金)のような共同募金計画が始められる以前の慈善には、権威があったし、寄付者と受益者との間に健康な関係の意識をひき起こすことができたのである。だが、今日では、資金調達の欲望は“いかさまのトリック”(gimmicks)やニューヨークのマディソン通り(宣伝広告の中心地)の“調子”にあやつられることも否定しがたい。権力を持ち、高給を支払われた福祉推進者は最高の(そして最悪の)販売心理を利用し、民衆から、最大限の関心を得ようとしているのである。

 機関同士の過当競争は、また寄付者をうんざりさせている。しばしば機関は、自力で立ち上がるよう対象者を援助するという最高位の慈善のあり方とはおよそかけはなれたいかがわしい目的や計画をもつこともある。またある機関は成功して、大きくなりすぎ、寄付者とクライエントとの間の相互関係を失ってしまう場合もある。つまり、機関が行きついた点で、自転(self perpetuation)しているだけになったのである。

 かような発展は、今に始まったことではない。この典型は、321年、遺産や遺贈物を協会の慈善計画に移譲した皇帝コンスタンチン一世以来の中世教会にみることができた。コンスタンチン一世以来、世紀を通じて教会は、非常に豊かにそして有力になってきた。法皇や司祭は、権力行使者の中に芽生えてくる堕落から全行政権力を守り通すことができなかったのである。改革運動は、過大にふくらむ権力の悪用を修正しようとする試みだったのである。

 我々の文化の中には、相互援助のニードが存在する。しかし、普通、“慈善”が意味するところのことがらは、ニードが意味するものとはちがうのである。人間は“援助する”生き物であるとき、最高でありうる。そして、生存は相互提供の上に成り立つのである。しかし、対象者が援助されている時でも、その人はけっして二流の社会人として作られてはいないということを知ることは大切なことである。そしてまた、付与者の例も、自己満足を求める(その故に傷つけられやすい)紳士気取りの俗物として作られたものではないと自覚することも重要なことである。より強く、より自分を尊び、そして、自発的福祉という意味での“慈善”を経験した上で、充足を感じる人々であるべきである。自発的福祉とは、愛、尊厳、そして行動を伴う援助の関係を含めるべきである。このことは、近代の“組織化された”自発的福祉の中に最も欠落している点である。

 今日我々が認識しているようなリハビリテーション計画は、慈善とは一般に別の分類に入るものである。慈善とは、受給者がその要求を権利としてさし出せないものを与えることである。しかし今日の時点は、文化の中で、生命維持と、文化水準の充足がすべての人々の権利であるという時点に希望的かも知れないが達してきている。人は慈善としてではなく基本的な教育を受けることを要求している。医師はもはやその費用が支払えない(65歳以上の)個人に医療を施して、それを慈善とするなどと考えなくてよいようになってきた。すべての自己は、メディケア(Medicare=アメリカの65歳以上の高齢者に対する医療保障制度)を通して、医師の支払いが準備されるのである。肢体不自由児は、彼の両親の支払不能の故に、もはや、手術をうけられないという必要もなくなった。その子には、手術を受ける権利が保障されているのである。

 “新しい社会”の基本的な主体は、個人は、貢献ある自己の尊厳を保つ市民となるよう、慈善ではなく権利として成長するための備えを社会が用意するべき時に来ている。ただし、新たな社会秩序を編成していく時には、必ず、危険も又生ずるものである。個人のイニシアティブはどうなってしまったのだろうか? 自己の危機から自らをまもるという価値感はどこにいったのだろう? 責任ある自助的なそして厳しい独立精神にもえる市民たることは、どうなってしまったのだろう。我々は全国民を無責任な窮民層たらしめようとしているのだろうか? 全国民に対する自由な国民教育を考え出した時、これらのことが疑問として持ち上がってきたこともあった。ほとんどすべての社会福祉計画には、同じような疑問がなげかけられるのである。我々は、援助を必要とする人々を窮民化させるという恐怖を排除し、人々が必要とするものを提供するよう、我々を導いた価値、道徳、そして哲学に基づいて、これらの疑問に答えてきたのであった。リハビリテーション援助に関して言えば、我々は、(個人のためばかりでなく社会のために必要不可欠、最小限度の)各個人の充足にはなくてはならぬ必要不可欠最小限のものとして長い間考えてきたリハビリテーション援助を国家援助の一連のものの中にすえ、それを、障害をもつ国民に対して、拡大してきたのにすぎないのである。

リハビリテーション・プログラム

労働者災害補償

 リハビリテーション的性格をもつ連邦行政計画のいくつかを取り上げ、その歴史と現状を検討してみたい。

 ニードの充足のために、あるいはサービスの欠陥の補充のために、特別の制度が必要となることは、ままあることである。こうした制度は立法措置によって作られることが多い。労働者災害補償制度もこのようにしてできたものである。

 紀元前2000年のハムラビ法典には、もしある人が他人を傷つけた場合は、治療費を負担しなければならないという規定があった。聖書の出エジプト記ではやや拡大され、傷害によって障害者となった場合の傷害及び時間の損失の補償も含まれるようになった。

 仕事中に受傷した労働者の治療の援助を雇用主に期待する傾向は、何世紀も以前からあった。アメリカの植民地で採用された旧イギリス慣習法(old English common law)にもみられる。しかしながら、初期の立法家は雇用主の権利を重視し、被災労働者の権利には重大な制限を加えた。産業化の初期の時代の雇用主は、いわば、封建時代の荘園領主のような存在だった。封建制度には、サービスの交換があった。つまり、農奴は領主のために働き、戦うと、領主は農奴に保護を与えるのだ。これは無法な盗賊や略奪団が横行していた当時のニードに即していたのであった。個人がひとりひとりでは自分を守れなかった。警察力も公の警察隊も、個人を守ってはくれなかった。それゆえ、領主は分散していた人々を領内に移住させ、労働力、戦力としたのであった。しかし、領主の負っていたのは、農奴を保護する義務だけであった。教育、保健サービス、事故保険、その他もろもろのサービスを行う義務はなかった。初期の産業における雇用主の負った義務は、労働者の賃金、労働の場、及び労働に必要な道具や材料を与えることだけであった。労働者がけがをしたら、不運ですまされた。旧慣習法では、雇用主が傷つけた場合のみ、被雇用者は補償を得ることができた。

 受傷した労働者は傷害に関連した損害に対して雇用主を告訴できた。しかし、慣用法には、雇用主が弁護に用い得る規定が3項あった。a)被雇用者に不注意があった場合、被雇用者は請求できない。b)同僚の被雇用者による傷害の場合、受傷した労働者は請求できない。c)労働者が就労した時点において危険な条件が存在していた場合は、労働者は危険及び受傷の可能性を承知していたものとみなされ、請求できない。これらの各項を弁護に利用して、雇用主は通常、受傷した被雇用者の告訴に勝つことができた。被雇用者は、補償もなく、障害があるので働くこともできず、すぐに貧困に陥り要救護の状態になった。コミュニティは、受傷した被雇用者とその家族の扶養という新しい負担を負うことになるのだった。

 立法当局は、慣用法を改正し、雇用主が3条項弁護に用いることを禁じざるを得なくなった。しかし、それで問題が完全に解決したわけではなかった。典型的被災労働者は財産がほとんど無く、従って法廷の費用の負担ができず、しかも法廷では弁護側にある雇用者の雇った腕ききの弁護士に対抗しなければならなかった。訴訟の結果も不確かで、得られる額も得られたとしても不確かなものだった。さらに問題となるのは、同僚の証言を必要とすることであった。同僚の被雇用者が証言をすれば、雇用主の不満を買う可能性が大いにあり、事件を法廷に持ちこむよう動いただけでも、失職しかねなかった。

 時がたつにつれ、雇用主に職務上受傷した被雇用者に対する補償の支払いを命ずる際に、法廷訴訟の必要をなくした方が、コミュニティ及び被災者、さらには雇用主にとっても有利であることが明らかになった。もし訴訟のために事業の経費が上がれば、その分は生産される商品もしくはサービスのコストを上げることによって、消費者大衆に転稼することができる。

 1978年に議会を通過したアメリカ最初の労働者災害補償法は、商船にのみ適用されるものだった。強制保険は、重要な海洋の仕事に人々を引きつけるために計画されたもので、職務上受傷した船員に対し医療と補償が支払われた。しかし、各州で他の産業に適用される類似の法律が制定されるまでには100年以上もかかったのだった。モンタナ州とメリーランド州では、それぞれ1909年と1910年に、鉱山及びその他の産業に適用される補償法が議会で可決された。最初の法律は法廷で違憲とされたが、1911年には合憲的な形態の法ができ、10の州において、幅広い産業をカバーする法が議会を通過した。

 現在では、すべての州に労働者災害補償法があるが、必ずしも全産業に適用されていない。たとえば、農業は除外されている。また州によっては、労働者がごく少数である企業は除外されている。法が適用される産業においては、災害件数が大幅に減少した。雇用主が事故防止のための予防措置をとった方が賢明だと判断したからである。

 ほとんどの州法に述べられている目的は、被災労働者を実際上可能な限り早く職場に戻すことである。しかし、このリハビリテーションの目的に包含される行動が一貫してとられているところはほとんどない。被災労働者のリハビリテーションの障害となるものは、次のような諸要素である。a)労働者災害補償には通常、リハビリテーション・サービスの資金の規定がない。b)労働者は補償裁定額が減ることを恐れて、労働に戻る準備をしたがらない。c)法律があっても、請求の細部を決めるために法廷に訴訟が持ち込まれることがある。訴訟が長く引き延ばされている間、労働者はリハビリテーションを拒否する。d)多額の裁定が労働者に誤った富裕感を持たせるため身体的条件も再雇用の可能性も低下しているのに、リハビリテーションを拒否させるのである。

 概して労働団体は、労働者災害補償法のすべての労働者への拡大を強く主張している。また連邦法のすべての州への適用も強調している(合衆国商工会議所と全米マニファクチュア協会は連邦法に強硬に反対している)。様々な啓蒙手段を用いて労働団体は、労働者災害補償法の欠陥を広く人々に知らせ、同法を改正し被災労働者の十分な医療とリハビリテーションの推進に大きな効果をあげるよう努めている。

リハビリテーション・プログラム:復員軍人のリハビリテーション

 アメリカにおけるもう一つの特別リハビリテーション・プログラムは、復員軍人を対象としたものである。我が国の文化において、軍人は名誉ある職業である。戦争から帰還した人は、国からもコミュニティからも特権を与えられてきた。障害者となった人は最高の医療を施され、第一次世界大戦からは、リハビリテーションも行われた。

 中世において、一般に障害者がよく扱われなかった時代にも、負傷兵には特別の保護と治療が修道院や収容所で行われた。聖戦を戦った人に神の怒りがあろうはずがない!このことが歴史上、一般障害者に対する過酷な態度を和らげることの一助になったにちがいない。そして、戦士の間に発生した障害は神の恩寵の不足を意味するものでなかったのだから、その他一般の人々の障害も神の恩寵にあずかりえないと解釈されることはなくなって来たにちがいない。

 最初の保護収容所は1260年にパリにつくられた盲となった十字軍帰還兵のものであった。1588年、イギリス議会は、女王のために働いて負傷した兵士に医療と補償を与える一般法を可決した。これは、軍隊に人を引きつけるためにとられた実際的手段としてであった。

 我が国初の軍人援護法は1776年8月に議会を通過した。これは年金法で、独立戦争で負傷し、生計を立てられなくなった人に適用された。19世紀初めには、独立戦争復員兵に対する同情が高まり、議会はますます寛大な支給を決めた。見直しが重ねられ、経済的福祉は何回も考慮され、1832年には2年間兵役についたすべての独立戦争の退役兵に年金が支給されることになった。請求者は障害を証明する必要がなくなった。

 市民の一グループに対し、連邦が経済的福祉の責任を認めたということは、1832年においては革新的考え方であった。今日のいわゆる「社会保障」が、我が国に出現するのはその後100年以上たって後のことである。しかし、1832年の立法を支持するにあたっての論拠は、1936年の連邦政府を一般国民の経済的幸福を保障する任務にかかわらせる社会保障立法の推進にも、苦心の上利用されている。社会保障法の改正により、現在では事実上65歳以上のすべての人が対象となるよう拡大され、また障害のために経済的不利な状況にあるすべての成人もカバーされるようになった。最近ではメディケア(Medicare)によって、連邦政府は老人に健康上の災難に対する保障をしている。社会保障法の改正と職業リハビリテーション法(Vocational Rehabilitation Act)の改正により、広範囲の障害について、それがいかなる年齢で起こったものであってもその障害に起因するハンディキャップに対し、連邦の援助が期待できるようになった。

 これらの保健福祉型のプログラムの大多数は、最初復員軍人のためのものだった。独立戦争の復員軍人は、強大な政治力を持っていたわけではないが、他の政治的要素は傷病兵援護を「センチメンタルな主張」として取りあげた。「子供」とか「母親」と同じように「復員軍人」も啓発する価値のある感情的資質だと政治家が判断したのである。そして、復員軍人に対する医療及び経済保障によって社会に一般的に幾多の利益が生じることを目のあたりにみた選挙民が、全市民に対する保障のもたらす多大の関連利益を理解したため、提案が容易に受け入れられるようになったのであった。まず復員軍人が、感情を盛り上げていく先兵として槍の先端の役を果たした。復員軍人に対する医療、施設収容、職業リハビリテーション及び経済保障がまず行われ、その後、連邦レベルにおいて、こうした救済を必要とするすべての人に対する立法化が可能となった。

 しかし、復員軍人の救済が全く情緒的にのみ行われたと推定すべきではない。復員軍人は南北戦争後、自分たちの権利を要求する現実的で有力な政治力となった。長年にわたって共和国の偉大な陸軍とその政治的手段であった共和党が、国内政治を支配し、第一次世界大戦後にはアメリカ在郷軍人会と海外戦争復員軍人会が組織された。これら強力な団体の院外活動の結果、復員軍人に対するリハビリテーション-保健-教育-福祉の一連の広範な恩典を獲得した。そして一般的には、復員軍人にとって良いものは、復員軍人でない人にとっても良いものであるはずだという結論に達したのである。復員軍人に与えられた初期の特権や恩典はリハビリテーション的なものだったが、今日我々の考えるリハビリテーションとは違っていた。医学的回復をすすめるサービスのほかに、特別保護「ホーム」、年金、無償払い下げ地が含まれた。しかし適性評価、カウンセリング、職業訓練、雇用における選択的職業紹介は、第一次世界大戦前には無かったし、利用できるほど十分に発達してはいなかった。

 第一次世界大戦に入る直前の1917年に、二つの重要な連邦法が議会を通過し、後の復員軍人及び民間人のリハビリテーションに深い影響を及ぼした。時代の経済及び技術の変化を認めた議会は、スミス・ヒューズ法(Smith-Hughes Act)を可決した。この法は、職業訓練事業を始める州に対して連邦補助金を出すもので、特に都市に大量に流れ込んでくる農村青年が対象であった。都市で発展しつつある経済産業コミュニティにうまく適応するには、技術が必要だった。もうひとつ連邦法は1916年の国防法の兵役についた人に教育の機会を与えることを定めた条項である。この教育は民間の生活に戻った時の経済的効果をねらったものである。この二つの法は、特別訓練が職業適応を容易にすることが認められた結果である。この認識から職業リハビリテーションの概念への道が容易に開かれた。第一次世界大戦が終局に近づいた時、復員軍人障害者に職業リハビリテーションを行うべきか否かという議論はほとんど無かった。大議論となった唯一の問題は、新しい事業の行政はどこが担当するかということだった。結局、スミス・ヒューズ法の運用の指揮にあたっていた委員会、すなわち連邦職業教育委員会が担当することに決まった。

 この決定は二つの重大な結果をもたらした。a)プログラムは医療指向よりも教育指向的な性格となったこと、及びb)復員軍人向けプログラムを容易に非軍人障害者への適用へと移行せしめたことである。何となれば連邦委員会はこれまでも、民間人(非復員軍人)の職業教育事業の行政を担当していたからであった。議会は復員軍人対象の職業リハビリテーションを定めた法律を可決して間もなく、州の教育省が行う民間人職業リハビリテーション・プログラムを対象とした補助金の州への支給を定めた公法(PL)236(1920)を可決した。

 第一次世界大戦後の復員軍人職業リハビリテーション活動は、大成功だったと考えられた。多数の復員軍人障害者が職業技術を身につけたり、あるいは取り戻したりしたこともさることながら、医学的回復の治療のための復員軍人病院制度が全体として確立されたのであった。13万人を超える復員軍人障害者が職業リハビリテーション・サービスを受けた費用は、6億4千5百万ドル以下であった。この初期の経験から基本的問題が二つ明らかになった。a)さらに良い障害者カウンセリングが必要であること、及びb)強力な運営組織が必要なことである。第1の問題は、技術的訓練のある人材が不足していたことと訓練機関が無かったことのために解決されなかった。第2の問題は復員軍人局(Veterans Bureau)─後の復員軍人行政庁(Veterans Administration)の設立により解決された。

 第二次世界大戦以前においても、議会は公法(PL)16を可決しており、この戦争の復員軍人障害者のリハビリテーションには、ほとんど無制限に財源があてられた。付帯法(PL346)は、障害者にはならなかったが、長期にわたった兵役後、職業適応が難しくなった復員軍人に教育と訓練の機会を与えた。この徴兵教育法の下で、8百万人の復員軍人が特別訓練を受けた。そして約60万人の第二次世界大戦の復員軍人障害者が、リハビリテーション法により、リハビリテーションを受けた。後にもほとんど同じ内容の法ができ、朝鮮戦争の復員兵及び冷戦時代に兵役についた人々に対しても、訓練とリハビリテーションの恩典が与えられた。そしてこの時もまた、復員軍人のためということで法律ができ、その結果、職業リハビリテーション法を民間人に拡大適用するための改正が容易に行われたのである。同法の発達過程において重要な点は、障害を持った復員軍人への援助は効果があり、望ましいものであることが明らかになってはじめて「民間人」に対するサービスが可能となった点である。

行政と財政

職業リハビリテーション

 職業リハビリテーション・プログラムのあるべき姿の概略が、法律的にも哲学的にも漠然たるものながら形成され始めてきたのは、今世紀初頭からである。ますます複雑に工業化が進む環境の中で、傷害もしくは疾病のため障害者となった多数の人々の健康と有用性の回復というニードは、たとえいかによく組織されていようとも、民間の博愛で応じられるものではないことが明らかになってきた。豊かになってくると、援助を必要とする人々に対する援助の公的責任を受け入れる勇気が出てくる。

 危険性の高い労働条件の中で、多数の労働者を事故で障害者にしてしまった工業社会は、労働者の有用性を回復させる義務を負うべきであるという確信が育っていった。そして、リハビリテーションは決して慈善の過程であってはならず、また障害が個人を施しを受けねばならない二流の市民にしてしまってはならない、という主張が大きくなった。教育への権利や法律の保護を受ける権利と全く同等の権利にまではなっていなかったが、リハビリテーションも1900年にはすでに、法律によって提供されるものという考えが生まれていた。1900年までに、かつて1526年にスペインのジュアン・ルイス・ビベス(Juan Luis Vives)が考えていたことを理解し、賛成する市民も増えてきた。ジュアン・ルイスは、要救護性や貧困の原因を研究し、その状態を矯正する方策を考えるべきであると、当時としては何百年も先を行く洞察をもって発言していた。20世紀になって我々はようやくジュアン・ルイス水準に追いついたのである。

 リハビリテーション・サービスの財政に関する大きな問題のひとつは、長いこと財政を州政府と連邦政府とどちらが負担すべきかということだった。「州の権利」と「州の義務」は我が国の歴史始まって以来ずっと盛んに論じられた政治問題である。教育、保健及び福祉は伝統的に州の責任と考えられており、こうした分野で連邦政府が大きな役割を果たすようになったのは、ほんの最近のことである。ホーレス・マン(Horace Mann)は1828年にすでに、障害者に対して敬意を持ち、「州の被保護者」であるべきだと主張した。ドロシア・ディックス(Dorothea Dix)は1850年までに障害者は「国家の被保護者」であるべきだと主張していた。1900年までにホーレス・マンの意見がある程度受け入れられていたが、しかし約20年のうちに連邦のリハビリテーションへの参加が行われようとしていた。

 労働者災害補償法は、多くの州で1900年からの10年間に可決された。この法律は、雇用主に対し、労働中に傷害を受けた労働者の補償と回復に対する経済的責任をとらせようとするものだった。最初の法案は憲法違反であるとの法廷の判断を受けた。それは通常の法手続き、もしくは裁判手続きを経ずに、職権で執行されることになっていたためであった。これは憲法に認められた雇用主の権利を否定するものであるというのが法廷の判決であった。1911年にアリス・ソレンバーガー(Alice Solenberger)は「1000人の家なき人々」という本を著わし、障害とリハビリテーションに対する人々の考え方に重要な影響を与えた。調査対象となった1000人のほとんどは、コミュニティに全く貢献しないとみなされていた「下層社会の盛り場にたむろする浮浪者」であった。彼らには社会的経済的原因があったのである。1000人の中の254人は障害者で、明らかに障害のために救護に依存する非生産的生活を強いられていた。これはリハビリテーションによって社会的にも経済的にもよい結果が期待されるはずの社会問題であった。しかしリハビリテーション・サービスを供給する資源が無かったから、自立できる障害者は救済に依存のまま残されたのだ。

 アリス・ソレンバーガーのデータは、障害者の広がりについてしっかりした統計的情報を含んでおり、また障害の経済的コストも明らかにしたため、大きな衝撃を与えることとなった。労働者災害補償法の支持者は(組織労働者の代表が中心だった)、産業において障害者となった労働者に特別援助を与える立法促進のためにこのレポートを利用した。実際には、労働災害がリハビリテーションを必要とする障害者全体の10%を超えたことは現在までなかった。しかし、労働災害は、復員軍人と同じく、いつも「目立つ」存在であった。そして、復員軍人が過去100年間組織をもち自分たちの要求を出し、押し進めてきたと同じように、労働災害による受傷者も労働組合を持って要求していった。

 1911年から1926年までの間矢次早やに、ほとんどの州が、法廷の審査にも耐えうる労働者災害補償法を可決した。もっとも、残念ながらこの補償法は、最初に期待されていた職業リハビリテーション活動を生むことはなかった。大多数の州における労働者災害補償行政は、主として補償手当と医療であった。障害者が職業を取り戻すのに必要なサービスを得るためには、新しい立法もしくは新しい理解が必要なことがはっきりしてきた。

 1920年までに、8州で職業リハビリテーション法が成立した。しかしながら、プログラムは大変限定されたものであり、潜在対象者のうちのほんの少数の人しか利用できそうになかった。その上、これら少数の州がこの仕事のパイオニアとなったものの、他の州が後に続き広く発展するということがなかった。そこで明らかになったのは連邦政府の支出金と支援の必要性であった。実行力と発言力のある人々が、職業教育と同じような方法で、この新しい仕事に対し各州を刺激するよう連合議会に働きかけた。スミス・ヒューズ法は、新しい型の社会的・教育的サービスを促進する州と連邦の協力のあり方を示した。復員軍人リハビリテーション・プログラムは、議会に対し、職業リハビリテーションは望ましい保健-教育-福祉概念であるという確信を与えた。

職業リハビリテーションの州─連邦プログラム

 1920年に議会を通過した公法236の定めた額は、年間100万ドルという控え目なものであったが、職業リハビリテーションを始める州は人口に応じて50対50のベースで補助金を得た。そして職業リハビリテーションは、医療あるいは労働あるいは福祉あるいは労働者災害補償活動というよりも教育活動化していった。それは、行政の型が、スミス・ヒューズ・プログラムに類似していたためである。

 しかし、この新しい活動も期待されたほど各州を動かさず、また、提案者の考えたほどの広がりも得なかった。すべての州が新しい仕事に着手するのは、1935年になってからのことである。だが、この場合の事業も身体障害者の単なる再訓練と職業斡旋にとどまった。

 1943年に議会が、元の法律の新しく拡大された改正(PL113.1943)を可決してはじめて、州は精神障害者に対するサービスを実施するよう求められ、また、身体機能回復のための医療的外科的サービスも州の事業に含まれることとなった。

 州が徐々に連邦資金への依存をやめるべきであると考える指導者は、新しい動きの中にも多かった。しかしながら時の流れは逆であった。1930年代のニュー・ディールに始まった連邦政府の保健、教育、福祉活動への介入は、1954年に職業リハビリテーション法改正案が成立して新しい段階に達した。これは、特に社会問題への取り組みに熱心であったわけではないアイゼンハワー(Eisenhower)政権の時のことである。しかも、この1954年の改正(PL565)は州への援助を大きく増しただけでなく、リハビリテーションのあらゆる側面におけるさまざまな研究で実験も始めることになった。リハビリテーション・カウンセリングの分野に進む大学院生の訓練手当、リハビリテーション・センターへの新しい補助などいろいろ行われた。このように共和党政権が、民主党的ニュー・ディール型政策に連邦援助を拡大し得たということは、職業リハビリテーションの非党派的、非政治的本質を明確にしたのである。

 1954年には、州に与えられる連邦資金は3000万ドルになった。20年前の連邦の関与が100万ドルであったことに比べ、大きな増加である。そして連邦負担はますます増大していった。職業リハビリテーションへの連邦のかかわりあいはもはや決定的なものとなった。1965年に議会が州連邦共同事業に割り当てた額は3億ドルになり、1968年には4億ドルに達した。現在では、この事業に対する連邦政府の支出は75セントであるに対し、州が出すべき額はたった25セントである。

 1965年の改正に基づいて、さらに何百万ドルも割り当てられるようになった。たとえば、リハビリテーションのサービスの改良プロジェクト(1965年に500万ドル、1968年に900万ドル)、研究、実験、訓練及び訓練生(1966年に8000万ドル、1968年に1億1700万ドル)、リハビリテーション・センター及びワーク・ショップの新規建設と人件費(1966年に150万ドル、1968年に900万ドル)などがある。そのほかにも、ワーク・ショップの改善と技術援助、リハビリテーションに関する保健教育福祉省長官の諮問機関としての政策・運営協議会の設立、その他リハビリテーションにおけるニードを調べ現行の実施体制の改善を図る活動などにもさらに何百万ドルもの割当がある。職業リハビリテーションの州連邦共同事業の主たる部分は、州の職業リハビリテーション部門が実施にあたっている。職業リハビリテーション部門は教育局に属していることが多く、少数の行政官と多くのリハビリテーション・カウンセラーをかかえている。この部門の運営費として割り当てられる連邦補助金の額に応じて州は費用を負担している。

 州の職業リハビリテーション部門は通常州都の指示を受け、州内各地に点在する地方事務所や地域事務所が実務を行っている。カウンセラーはこうした地域事務所に属して地域内の仕事を担当するのである。従ってリハビリテーションのクライエントは、居住地域において発見され、訓練あるいは再訓練を受け、カウンセリングや職業斡旋を受けられるのである。カウンセラーはクライエントの自宅や訓練所に出向いていくのである。

リハビリテーション・カウンセリングの専門職化

 リハビリテーション・カウンセラーの職務や役割は(全州共通に)厳然と定められているものではない。各州ごと、それぞれの場面において、それぞれのクライエントに対して、いろいろなやり方で働いているのである。すべてのクライエントが医療、外科、歯科のサービスや特別補装具、特別精神科カウンセリング、あるいは特別技術訓練を必要とするわけではないが、必要とする人は多い。カウンセラーの任務は、個々のクライエントが機能の有効性を回復するために必要なものを得ているかどうか見定めることである。カウンセラーはさらにクライエント及びその家族のかかえる特殊な問題の相談にあたり、また、そのクライエントに設定されたリハビリテーション目標へのモティベーションを高く維持するよう努める。

 リハビリテーション・カウンセラーの仕事のやり方は様々であり、その場面も様々であるために、リハビリテーション・カウンセラーとは何か、何をするのかという定義は統一されておらず、明確ではない。カウンセラーの組織がつくられ、その中で、このような定義を明確化しようという努力がなされている。また、カウンセラーの団体は、リハビリテーション・カウンセラー職の専門職化、カウンセラーに適用すべき倫理要綱、カウンセラーに必要な訓練、雇用条件についても関心を払っている。

 リハビリテーション・カウンセリング職とその任務が、ここ数年間に急激に大きく変わるであろうことは、あまり疑う余地のないことである。新しい技術、プログラム、考え方が発達すれば、クライエントのニードに応じた完全な包括的サービスを個々のクライエントに保障するためには新しい手順や方法を創り出さねばならない。メディケアのような新制度が医療の方法に確かな影響を与えたように、リハビリテーションが単なる特権から権利に変わることによってリハビリテーション・カウンセリングも変わるであろう。リハビリテーション・カウンセラーはこれらの権利に対応することを学ばねばならないはずである。効果をあげるために必要な資源をすべて社会がリハビリテーション・カウンセリングに提供することになると、失敗はますます許されなくなる。教育と同様に、リハビリテーション・ワーカーも、ニードをもちサービスを必要としているクライエントに背を向ける特権はなくなる。そればかりでなく、ニードをもちながらサービスを受けようとしない人々に動機を与え、リハビリテーションを行う責任も持たされるであろう。

 過去50年間にリハビリテーションは非常に進歩したが、この数年のうちにそれを上回る進歩があるはずである。研究や実験により明らかになったニードや可能性は、新しい実施方法でプログラムを生むはずである。障害者の適性向上を援助する支持サービスに対する公の参加は今やほとんど決定的なものとなっていることは明らかである。財政面では、良いとわかっていることをほとんど全部することが可能となるであろう。障害者が二流の市民として生きる必要のない時がついに来たのである。このことはこの運動の前途に参加しようとする人々を支援しようという強い衝動を持つ者にとって励ましである。資源は利用できる。技術と洞察と訓練には開発が進んでいる。ただひとつ残る課題は、実施の根本となプロジェクトに配置できる有能な人材を多く得ることである。

監訳者注:本論文は1965年現在までの米国リハビリテーションの歴史のスケッチであり、その後の15年に、筆者の予知した問題は解決の方向性を見い出し、更に米国には労働モデルのリハビリテーションの中から生活モデルのそれが生み出されて今日に至っている。〕

参考文献 略

*Dr. Esco Obermann はアメリカ・リハビリテーション研究者の中でも数少ない、傑出した歴史家であり、哲学者である。
 本論文は同博士が「米国リハビリテーション発達史」の大著のハイライトを、ウイスコンシン大学大学院の集中講義でなされ、その講義録が同大学、地域リハビリテーション研究所の出版による Machion Leitures on Vocational Rehabilitation History and Philosophy Rehabilitation on Counselor Education Program, The University of Wisconsin' Madison 1967 の中に掲載されたものを、著者及び、同大学の許可をえて翻訳したものである。
**日本女子大学教授
***日本女子大学・大学院生


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1979年7・11月(第31・32号)2頁~10頁・16頁~23頁

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