社会 自立生活訓練を経て地域生活を築き始めたアメリカの身体障害者たち

社会

自立生活訓練を経て地域生活を築き始めたアメリカの身体障害者たち*

小島蓉子**解説・訳

 □解説

 「自立生活援助」(Independent Living Program)という社会リハビリテーションの一実現形態は、1970年代の初め、医療の段階を終えて大学生活に帰ってきたカリフォルニア大学の四肢マヒの大学生が卒業後、自己の主体性を放棄せず病院や施設の中でなく地域の中で責任ある市民として普通の人と変わりなく生きていくためには、どうしたらよいかと考えた末、自らのニードの確認に出発して、「障害者が地域で生活していける条件」を模索し、それを組織的に実現していった結果、その有効性が立証されてきている新たな障害者地域援助の今日的到達点とみられる援助計画である。

 米国の障害者の実証の中から生まれ、今日英国、オーストラリア、カナダ等に展開しているこの援助様式が、わが国ではこの概念の実現が多くの身体障害者に希求されながらも、いまだ具体性をもったプロジェクトになっていない。

 そこで自立生活援助というものの概念の解明をしておくことにしよう。

 障害者層の重度化、重複化現象が進行しつつある今日、介助者なしでは洗面、衣服の着脱、食事、排泄、移動に至るすべての生活活動もままならないという人々も多数ある。この中のある人々には自立生活訓練と支持的援助があれば、家庭生活や何らかの形態での就労生活も実現可能となる。これらの可能性を求めるということは、自己に目覚めた障害者であるならば、機能障害はあろうとも自立した個人としての生きがいを等しく希求しているからによろう。

 重度者の社会統合を援助する手段として、1960年までのリハビリテーションは、職業的身分の向上に最高の価値を置いたリハビリテーションの職業モデルが主流であった。しかし、それだけでは今日のリハビリテーションニーズを包摂し切れずそこに、身辺自立の水準から出発して、まず障害者に地域の中で生活の場を確保せしめ、その上で進学なり、就労という生活活動を考えるという「生活モデル」のリハビリテーションの登場をみたのである。これは明らかに、「職業モデル」のリハビリテーションへの対抗モデルではなく、その底辺を職業モデルのそれがとり残した重度者を含めて拡大した1970年代の社会リハビリテーション実践の所産であり、新しい形態の重度障害者の社会扶養のあり方とみてよい。

 重度障害者が「自分も自己の人生の主体者である」という自覚に生きようとするとき、社会から隔離され、職員の都合中心に回転する施設の生活には疎外感がつきまとう。肉体の能力の限界に対しての介護を必要としながらも家族との靭帯を放棄することなく、社会の一員として地域生活の中に自らのライフスタイルを作り上げていくことを「社会自立」と考えるならば、それを実現に導く援助こそ社会自立リハビリテーションである。

 こうした概念に立つリハビリテーションの出発点は、医療モデルのいわゆるリハビリテーションセンターのような専門機関的構えをもつ機関ではない。アメリカでは1973年の新しいリハビリテーション法に基づいて補助金が出され始めた地域機関としての「自立生活訓練センター」である。今日全米に90か所運営されているが、いずれも、これらセンターの設立の背後には、身体障害者自らの地域組織化活動がある。障害者自らでカウンセリング、ソーシャルワーク、教育、経理等の専門職者となった人々が職員に採用されて、同志の問題を解決する専門職サービスを展開している。

 この自立生活訓練及び自立生活樹立・維持のための自立生活センターという民間団体による援助を公費負担で受けることのできる障害者は、現行リハビリテーション法の中で、次のように規定されている。

 つまり「この援助を受給する者は、医学的重度のいかんを問わず、社会自立への能力を拡大しようとする者、また家庭や地域社会の中に生活してもしもそれが適当ならば、適職を得て、それを維持していくことを必要とする者」である。

 公費(連邦90%、州10%)負担の民間援助であるからもちろん、無制限にだれにでもというわけにはいかない。

 しかしその評価基準は、生活機能上の重度いかんでないことは明らかである。また目前の就職の可能性いかんよりも、自立の意志が問題とされる。施設入所での被介護的身分に甘んじず、自己の生活の質(生きがい)を高めていこうとする障害者が、すべての自己に属する権利を活用しながら、介助者の手は物理的に借りても、自分の責任において自己管理して生きていこうとする心理的に自立した状態の重度者を支持する援助である。

 自立生活訓練を必要とする人々は州の職業リハビリテーション事務所、福祉機関、病院等々で発見され、センターに紹介される。

 自立生活訓練への入所が決定されると、重度身体障害者はセンターの運営する自立生活モデル寮への入居が許され、約6か月から1年の間、生涯の自立生活を支える基礎訓練(家庭管理、自炊手段、車の運転や公営配送者の利用法、社会資源の使い方、障害者としてのマナー、移動、健康管理等)を受ける。そして、一般社会に出ていく心身の準備性が高まった時に、住宅や、介助者や、交通の便などの支援が、センターの障害者カウンセラーの援助で提供され、自分が主人公となる独立の地域の自立生活へと移行していくのである。

 この計画にあたっては、在所期間中の訓練はもとより訓練終了後のフォロー・アロング援助(随伴援助)こそが生命である。センターが独自に提供したり、または地域資源をコーディネートする援助資源としては次のようなものがある。

 ①所得保障、②介助サービス、③生活の場としての住宅またはホステル、④交通、移動サービス、⑤地域近隣者の理解と協力等である。しかしこれらの条件を引きつけるか否かは、障害者自身の積極的生き方や人間的魅力にかかっているとさえ言えるほど、今日の障害者にその主体性の重みが問われていると言っても過言ではない。

 自立生活援助計画という援助様式の実例を示す事例として、次にアメリカの教育誌『パレード』の1979年11月18日号に掲載された記事を紹介しよう。これはボストンにおける自立生活センターの訓練より、地域生活設営援助に至る間の処遇実態や、それを受けた一人の女性の体験からの反応も含めて紹介している。

 この記事に現れる主人公は、Maryanne Dimondさんという交通事故後遺症の、明るく積極的に生きようとしている四肢マヒ者であり、これはセンターでの訓練の後、大学に進学しつつ自立生活を送るに至った女性の生活記録である。

 「自立生活概念は、四肢マヒ者に病院や施設入所から脱して、自立した在宅生活を築かせてくれたのです。―」

 「病院の中で6年間が無為に流れていってしまった。でも、今の自立生活の中には失われた時をとりもどすのに十分な時間が与えられている。―」

Maryanne Dimond

 □訳

 メァリアン・ディモンド(Maryanne Dimond)、24歳、彼女は今、ボストンの自分で借りたアパートで暮らしています。彼女は、現在、大学で学び、満足した生活をおくることに希望を抱きつつ過ごしています。今のメァリアンの生活を見ていると、それが四肢マヒの女性の生活であるとはとても考えられないほど、希望に満ちています。しかし、彼女は1972年、交通事故によって頸椎損傷を受け四肢マヒになってしまった女性なのです。

 事故発生当時、メァリアンは17歳で、背の高い美しい少女でした。だが遭遇した一瞬の事故によって四肢の機能を完全に失ってしまったのです。事故の発生後の彼女が選ぶことのできる道は二つに一つしかなかったのです。

 家族や親戚の人に保護されて自宅ぐらしをするか、又は多くの重度障害者がそうであるように、州立の療護ホームで生涯、生活を他者介護の中で過ごすか、この二つに一つの道しかなかったのです。

 事故が起こって後の数年の間、メァリアンは、ここの病院からあそこの病院へとたらい回しにされていったのです。そして、最後にたどり着いたのは慢性病患者病院という病院でありました。

 そこで彼女は、「当時の入院患者はほとんどが治る見込みのないガン患者で、その人々と一緒に自分も入院させられていました」と語っています。「その病院というのは、とても悲しい、希望のないところでした」、「私は何かここは自分が生活する場所でないことを感じました。私は何が自分にでき、何を自分がやりたいのか自分でわかっていたからです。でも私がその慢性病患者病院に入院させられている状態でいる限り、自分がなしたいこと、自分がやれると思うことをすることは困難でした。しばらくして、私は自分でアパート探しを始めたのです。けれども、どんなに努力してもその結果は失敗でした。なぜならば、私のような四肢マヒ者が入れるようなアパートはどこにもなかったのですから。その上、私のような四肢マヒ者がまったく介護人なしで一人暮しをすることは生命が維持できないことを意味します。しかし、その時にはまだ介護人を探す援助もなかったのです。だから、私は一人でアパート暮しをすることを諦めなければならなかったのです」と失意の過去を語っています。

 受傷後6年して、メァリアンには、「自立生活」についての考えを見い出す時がやってきました。四肢マヒ者の「自立生活」というのは非常に新しい概念であって、これは障害者が施設の外で自分の責任において生活することを援助し、被保護状態の障害者生活を解放するという意味で新しく発達してきた援助概念なのです。重度障害者に、自立する力を与えて社会生活を可能にせしめるという概念は、現在においてはアメリカ23の州の90の自立生活センターの中に導入されており、これらのセンターは、今や国の支援をえて全国的な運動として展開されようとしているものなのです。

 この自立生活センターというのは、伝統的な病院やリハビリテーション計画の中に障害者を委託して療護してもらうかわりに、障害者の住む家庭に、ある種の補完的な援助を提供するということを内容として運営されるものです。それへのサービスは、例えば(1)訪問介助者を雇用しうる手当の支給、(2)介助者派出機関への紹介、(3)マイクロバス会社と契約して車イス交通の便を与えること、(4)建物障害を除去するための建築学的な助言、そして最後に、(5)障害者が自分で料理をし、家政をとりしきり、ある場合は結婚生活に備えるという訓練を与えること、そのような援助から成り立っています。障害者に最小限の援助を与えることによって、障害者は地域の中に帰って行くことができますし、自分でアパートを借りて、そして、障害者たちは、人間個人としての自由を獲得したということを自覚するようになるのです。

 保護された家族の生活か、または恒久的な入院生活かその二つの道しかわからなかったメァリアンにとっての第三の道は、メァリアンがボストン自立生活センターの新しいプログラムについて知ったというその時から開けたわけです。ボストン自立生活センターというのはカリフォルニアの自立生活プログラムから派生してきて、1974年にボストンでも開所した自立生活援助センターであります。

 このような自立への社会資源のあることを友人から教えられたメァリアンはボストン自立生活センターの「通過プログラム」に申し込み書を送りました。その結果、彼女のセンターでの自立訓練プログラムへの参加が認められ、いよいよ郡立の病院から6世帯が住むことができる非常に新しく、きれいなアパートへと移されました。

 センターの同敷地内には6つの集合住宅が建っていますが、いずれもこれらはボストン自立生活センターの経営になるものです。そして、メァリアンは他の十数人の障害者の中に加わって、自立生活のための病院の外での生活の強化訓練に携わり始めたのです。

 メァリアンのアパートもそのまわりにある他のアパートも同じ敷地内にありますが、それぞれ、入居者の特性を考えた各種の特別な建物上の工夫が加えられています。それらは、低い位置で使うことのできる電気スイッチや自動ドア、低い位置での電話ボックス、台所、移動に便利なトイレやバスルームなどであります。彼女はまたその訓練において、ボストン自立生活センターが提供できる多くの中から自分の将来の生活にとって必要な次の訓練種目を選びました。それらは、健康の自己管理、家や仕事を探す手続き、料理、自分の意志を有効に伝達する方法など、セミナー方式で教育されるコースを選択したのです。入居以来、毎日、身辺の介護にあたる介助者が一日4時間、彼女のもとに派遣されます。

 この自立生活センターの生活を続けていくためには、アパートの維持はもちろんのこと、この町に住むためのすべての事柄は、メァリアンがすべて自分で判断し処理していかなければなりません。彼女のルームメイトであるディブ、彼女もまた車イスの利用者なので、その市民としての責任は二人とも同じであるから話し合い教え合って生活しました。

 「地域の中で生活をしていこうとする障害者は、外出するとたくさんの障害物があるのに圧倒されるものです」とボストン自立生活センターの所長であるロバート・B・ウィリアムス氏(Robert B.Williams)は説明します。

 「障害をもった男女の人たちは、普通の健康な人たちならばなにも意識せずして、普通にやっていること、例えば、電話をかけることとか、銀行に行くなどというようなことをいちいち彼らのやり方で、自分でする最も有効な手段を学ばなければならないのです」

 このボストン自立生活センターは筋ジストロフィーや脊椎損傷や頸椎損傷など、重度の障害者の生活を向上させるために約3年前に設立されました。ボストン自立生活センターは、今では150人の四肢マヒ者を援助し、この計画の有効な風評を伝え聞いた人たちが次々応募してくるので、長いサービス待ちのリストができるようになりました。

 今日、アメリカには3,500万人の身体障害者がいます。そして、その中には49万人のベトナムから帰ってきた退役障害者も含まれています。

 「この米国における身体障害者は、あたかも見えない少数民族のようであります」とは、カリフォルニア・バークレーに始まったカリフォルニア自立生活センターのスポークスウーマンをつとめたリン・キッダー(Lynn Kidder)女史のことばであります。

 1970年代の初めに自立生活の考え方が生まれたのはカリフォルニア大学のバークレーキャンパスでありました。1970年の初めのころは、(ベトナムから復員してきて大学に帰った傷い軍人を含め)多くの障害学生が、大学構内のクリニックに住まわせられ、そして、障害学生たちは自分自身の自立性(autonomy)を保つためにどのようなことが必要なのかということを討議し始めました。そのころから自立生活構想が現れ始めたのです。

 1972年にそうした学生の発想に始まって、カリフォルニア自立生活の計画が組織され始めました。これはその他のことと同じように、自分たちの必要、例えば車イスの入れる住宅、それから戸口から戸口へのマイクロバスサービスをもつこと、そして障害者や老人が施設の外で生きのびていくためのカウンセリングを提供するというようなことをリストアップしたのが始まりです。その後、カリフォルニア自立生活計画が具体化されると、そのような必要を感じる人が集まってきました。それはベイ・エァリア(Bay Area=訳者注・サンフランシスコ湾の周辺都市)のみならず、アメリカ全土から集まってきました。1972年に始まって7年後、現在ではカリフォルニア自立生活センターは町の中に140人の職員をかかえる組織になり、年間6,000人以上の障害者にカウンセリングを実施して自立生活開設へのサービスを展開しています。

 この計画は、施設にいる障害者を解放したばかりでなく、カリフォルニアに出発してこのセンターは、アメリカ全土に約90のセンターを派生せしめたのです。まさにこれは障害者にとっての新しいタイプの援助というものを開拓した開拓者でありました。多くのセンターは利用者を待たせない独自の電動車イスの修理所を持っています。以前、四肢マヒ者は車イスがこわれれば民間の会社に持っていき、何週間も何か月も待たされてやっと修理ができた状態でした。カリフォルニア・バークレーにおける自立生活センターは、アメリカで一番大きな車イス修理工場を北カリフォルニアにかまえています。そこの機械設備は、昼間はだれでも持って来るとすぐ直すという修理工場ですが、それに加えての夜間サービスとして、道路の上で故障した車イスの緊急サービスをも行っています。

 自立生活計画がリハビリテーションの世界にもたらしたその他の改革の一つに、ピアカウンセリング(同士カウンセリング)の発達ということがあります。これは、障害をもったカウンセラーが同士の障害者を援助するということです。この障害者同士のカウンセリングというものは専門ワーカーに対し「あなた(健常者の)が言うのは簡単だが…」という障害者の反発を少なくすることに役立ったという意味があります。つまり、健康なカウンセラーが何かを助言しますと、障害者が「あなたは健康だから、あなたが言えば簡単だが自分には難しくてできないのだ」といって、カウンセラーに対して不満をぶっつけ、良い助言でも拒否してしまうというお互い同士の壁を打破するのに役立ったこと-まさに障害者のカウンセラーがその相手の立場をわきまえてする助言ですから、そういう意味では共感のあるカウンセリングというものが発達するようになったわけです。それで、障害を持つカウンセラー(アメリカでは障害の有無を問わず専門教育を受けていれば有資格カウンセラーとして働きうる)が、障害者に対してカウンセリングをする時、障害者自身のカウンセラーはクライエントにとっての役割理想(role model)の機能を果たします。

 連邦政府は今日ではこうした自立生活プログラムに対して、自立生活局(Office of Independent Living)を通じて新しい援助資源を与えるようになりました。この自立生活局は1977年以来、住宅・都市開発省によって新設されたものであります。

 将来、ますます多くの身体障害者が自立生活を選ぶということは明らかなことであります。しかし、どれだけ自立生活を営むことが困難なくでき、そして障害者が社会の中に適応していけるかどうかということは、あげて、市や町が現在ある建物上の物理的障害物を取り去ったり、また、教育や就労の機会を解放するということにすべてかかってきているのです。

 カリフォルニア州には20か所の自立生活センターがありますが、これらは障害者のための機関として連邦と州からの補助金を受けています。今後はこのモデルが全国的に普及することが望まれます。バークレーにある自立生活センターは、その他の市の都市型の自立生活センターのモデルになりました。今日では、電動車イスの多くがきわめて自由に歩道を乗り回しています。この人々に対し、外国からの旅行者が一番それに配慮を加えない人々だといわれています。環境、それは建物、交通そして民衆の態度を意味します。少なくとも、この自立生活の考え方が発生したカリフォルニアはその他の国の約20年先を行っているとさえいわれます。

 カリフォルニア・バークレーの自立生活センターの実験に関して、リン・キッダー女史はカリフォルニア・バークレーの自立生活センターは世界最初の一つの試みであったに過ぎなかったとし、「我々の目標は、全国に障害者の自立生活の概念が普及することが最終目的であります。重度身体障害者を地域社会の中で機能し、貢献する人にならしめるということが、いかに人間的にも、財政的にも意味があるかということを政府関係者に分かってもらい、この計画を拡大させていくことに運動の最終ゴールを置いております」と述べています。自立生活は、障害者の人生を積極的に変容させる努力ですが、このメァリアン・ディモンドの場合は今までの生活から本人が立ち上がって、現在ではマサチューセッツ大学の心理学部の学生として再出発をしたということであります。

 メァリアンはこう語っています。「私にとっての一番難しい適応課題は自分自身に確信を得るということです」、「なぜならば、私には客観的な障害がありますから、私はだれかに依存せねば生きてはいけないのです。生活するためにはその依存から逃れることはできないのです。病院において、私はすべてのことが看護婦さんによってなされるということに慣らされてきてしまったのです。ですけど今はそれを他人に自分の責任において依頼しなければならないのです。ですから、他者依存といっても、自分の責任から逃れる依存ということと、自分の責任において他者に協力してもらうという依存との二つのことの間には、はっきりとした境界線をみいださなければならないということが分かり、真の自立は前者から後者に目ざめることであると思うのです」

 メァリアンが依存の生活から自立生活への過渡的プログラムに入ってから7か月の後、彼女は、このボストン自立生活センターのチームの専門家によって評価をうけました。評価の結果、だれもがもうメァリアンはボストン自立生活センターの住宅をはなれて、自分でアパート生活ができるのだということに同意しました。そしてセンターの職員はメァリアンに自分のアパートを探すのを援助したのです。「もし私がここのセンターに来なかったならば、たぶん私は今でもずっと病院の患者だったかもしれませんねえ」と彼女は言っています。「もしそうでなかったならば、たぶん家にいて人の世話になって、それこそ不幸な思いをしていたでしょう。時々私は感じるんですよ。私は私が病院の中に匿われていた6年間というものは、本当に無為な生活だったということを。でも、今はこれから立ち上がってその無為に過ごした依存の生活、それを何とかして埋めあわせるのに十分の時間があるという希望に燃えているのです」

 自立生活援助計画についての問い合わせ先

(1) 自立生活にかかわる補助金については、州の職業リハビリテーション事務所を通じて、連邦政府、保健福祉教育省の下記の窓口に連絡して下さい。

Special Assistant for Independent Living,Rehabilitation Services Administration,Washington D.C.20201.

(2) 自立生活の場としての住宅については、住宅・都市開発省の下記の窓口に連絡すること。

Office of Independent Living,Department of Housing and Urban Development,Washington D.C.20410.

*Jonas Weiselという一人の雑誌記者である女性がまとめた「The Disabled Learn to Stand up to Life」を解説・翻訳したものである。
**日本女子大学教授


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1980年3月(第33号)8頁~13頁

menu