特集/自立生活 社会参加に願いをこめて

特集/自立生活

社会参加に願いをこめて

小山内美智子

1.私の社会参加

 国際障害者年の幕が開いた。世界各国ではどのような行動をとるのだろうか。それぞれに国情がちがう。経済状態、平和であるかどうかによっても障害者の願いは大きな差があるであろう。開発途上国の中には、たったひときれのパンが欲しいと手をのばしている人もいる。そのような国では身体にはっきり障害がみえた方が、生きのびれると聞いた。なぜならあわれみの心をまとって堂々と物ごいができるのだ。

 ところが一方では国がいくらゆたかになった所で障害者が減らない文明病が増えている。さみしさ、悲しみ、裏切り、失望とこころの障害者が増えている。この世の中で一生障害を感じないで生きられる人なんて誰ひとりいないであろう。

 私は生まれた時からの脳性小児マヒ。ひと目見ただけでどこかが変だとわかってしまうくらいに体がいつも動いている。1~2歳の赤ちゃんにでさえ、時には泣きわめかれてしまうほど。大人がしかめっつらで振り返えられるよりも、まだ何も知らない純粋な子供に泣かれることは本当につらいことであった。

 私の社会参加は母におぶられ、病院に通うことから始まった。母の背中に顔をうずめ、「かあさん、なぜみんな、私を見るの。そんなに私、おかしいの」と聞くと、母は少し困った顔をしたが、「美智子を見る人は、新聞もテレビも見ないから脳性マヒという病気がわからないんだよ。今にきっとわかる時が来るよ」と悲しいこころを隠し、私に語っていたことを憶えている。その母の言葉が間違っていなかったように、最近は障害者にマスコミ側から飛び込んで来る。街を歩いていても子供達は母親の手を引っぱって「ママ、アレ欽ちゃんのテレビで見たね」と車椅子を指さし叫んだ。その光景は喜ばしいことであるが、障害者はテレビの中だけに存在し、まるでタレントのようなイメージを子供達に植えつけているのではないかと不安になる。車椅子を見たら「あっ! ママ、となりのお兄ちゃんと同じだね」という会話が本物ではないかと思う。

2.痛い視線から逃れるために

 私は12年間、施設と養護学校で過ごした。両手が使えない私は、手で字が書けないことと、食事、着がえ、排泄ができないからとのことで(手がかかりすぎるので)、いつも特殊(ちえおくれ)の学級に入れられた。障害者だからといって障害のない人達の社会から分けられ、また手が動かないからといって特別学級に入れられた。なぜ障害が重くなると2回も3回もふるいにかけられるのか、その痛みを強く感じて生きてきた。

 私が9歳の頃、母は福祉村(コロニー)をつくる運動に走った。「美智子が大人になった時、みんな一緒に暮すんだよ。楽しい所ができるよ」と子供だった私に言い聞かせていた。私は早く大人になって、障害の重い人も軽い人も平等に暮らせる所に早くゆきたいと思っていた。また福祉村を遊園地のように頭の中に描いていた。

 しかし計画された青写真の福祉村は子供の頃いた施設とあまりかわりがないことを知った。障害の程度によって今までバラバラに建てられていたものを療護、更生、授産と3つの施設を廊下をつないで作るにすぎなかった。それを知った時、施設の中で、手の使える、ちえのおくれていない子供たちが「特別学級の子とは遊ぶな」とか、親たちは「うちの子は普通学級ですからね」と親たちまでがいがみあっていた。

 「普通学級です!」といった子供であっても障害のない子供をもつ親たちは「普通学級でございます!」というであろう。社会が作った貧しい考え、差別である。

 私はもう「ちえおくれ」というレッテルをはられるのはいやであった。トイレに行けないからといって療護施設という箱に入れられ、病人あつかいされることは絶対に避けたかった。障害者(特に重い脳性マヒ)の子供をもつ親たちは福祉村に入れることに大きな期待があった。涙ぐみ、手を合わせ、お役人に叫んでいた。「私たちが死んだあとこの子たちはどうなるのでしょう。1日も早く福祉村を作って下さい」とひたすらお願いしていた。私はその姿になぜかわからないが無性に腹が立った。その理由は数か月後「東京青い芝」の会報を読みわかった。会報には「親がかりの福祉は捨てなければならない。自分で判断し、行動し、決定しなければいけない」と書いてあった。その時から福祉村は親が住むのではない。私たちが住むのだから自分の言葉で話さなければいけないとさとった。

 長い施設生活の中からほんとうの言葉が仲間達から生まれた。「トイレの時間を決めないで欲しい」「自分で食べる食事はたまには作ってみたい」「泣きたい時に泣ける部屋が欲しい」「障害によって分類収容しないでほしい」と親からでてこなかった誠実な叫びであった。

 そのような訴えをかかげ北海道庁との話し合いを続け、3年間の月日がたち、福祉村は全国で初めて施設の中に個室ができた。「今だに全国に類をみない」と元民生部次長の村長が自慢している。あれほど「あぶない」と言っていたのに……。

 しかし私はなぜ障害者ばかりが何百人もかたまって生きなければいけないのか疑問が広がるばかりであった。

 どんなに障害が重くても適切な介助があれば、普通の男、女として生きられるのではないかと思い、言葉だけの訴えには限界があると思い、2度にわたって合宿を行った。足で包丁を握り、野菜を切った。施設ですべての身辺動作の介助をうけていた人が寝ころんで歯をみがいたり、髪をとかした。生きるよろこびを見つけたのである。合宿は4日間、1か月間とそれぞれあっという間に終わってしまった。最後に残った言葉は「この暮らしを永久のものにしたい」ということであった。

3.スウェーデンで学んだこと

 障害者が普通の男、女として生きるためには何が必要なのか、79年の夏、1か月間スウェーデンで学んできた。日本にいる時、日大の野村歓先生にフォーカスアパートのことを聞き、私の心はおどった。フォーカスアパートとは普通の公営住宅50世帯あるとしたら、10世帯くらい障害者住宅がばらばらに組込まれている。1階にはヘルパー室があり、何か用事があったときはボタンを押すとすぐに来てくれるというシステムであった。

 障害者が地域で暮らせるには、数多くのヘルパー体制が必要なことがわかった。日本では施設の職員と週に1,2度派遣されるヘルパーだけである。結局、私のように着がえ、食事、排泄等のできないものは、親が面倒をみきれなくなったときには施設にしか生きる道はない。

 スウェーデンでは24時間ケア、週に2,3度、1日4時間洗濯、買い物、掃除などをするケアと障害者住宅の近くに区民センターのようなものがあり、電話をかけるときてくれるケア、親と一緒に住んでいる障害者には朝2時間、夕方2時間と身辺の介助が一番忙しい時に来るケア、障害者が子供を生んだ時に利用するライフママ制度、学校や職場でも介助するケアとあらゆる介助をうけられるようになっていた。福祉の革命はケア制度を充実させることであるとスウェーデンの誰もが語っていた。

 私たちは今フォーカスアパートのようなものをめざし、ケア付住宅を札幌市に建てようと活動している。しかし一遍にはケア制度がととのわなかったので、フォーカスアパートが15年前設立されていたが、私がスウェーデンに行った時はもうすでに「フォーカス」という特別な名前をつけなくてもあちこちの地域で障害者が住めるケア体制ができあがっていた。

 今私たちは「ケア付住宅を」と訴えているが、本当に大切なものはケアの種類を増やして行くことだと思う。

4.ケア付住宅を実現させるための研究生活

 スウェーデンでなに気なく行った公園のベンチで車椅子の男性と障害を持たない体格のいい美しい女性が肩をよせあい、映画でみるようなラブシーンを演じていた。それをみた時、ああこの姿こそ当たり前なんだと思い、福祉村運動にピリオドをうつ決心がついた。

 6か月間、家にとじこもってスウェーデンでふきこんだテープをおこして日記を書きながら、これからどうして生きようかと悩んだ。姉は「もう家から離れて1人で生きてゆくほかないよ」と言った。身の回りのことはほとんど母に介助を受けていた私がどうして1人で生きようかと考えただけでも恐ろしくなった。しかしいくら言葉で格好のいいことを言ったところで、社会や行政は動くまい。まずできるところまでやってみて何がたりないのかはっきりみえてくると思い、崖から飛び降りる決心で自立のための研究生活に入った。

 6世帯入れる民間アパートで1階の3世帯を改造し、3人で研究生活をしている。メンバーの土井正三さん(43歳)は脳性小児マヒで家の中ではいざって移動していた。池田源市さん(45歳)は筋ジストロフィーで車椅子に乗り生活している。私はほとんどのことは足を使っている。こんな風に3人はひと目見ただけでも生活行動は違う。

 介助者は女性が多く、年齢は14歳から65歳までで隣近所の主婦、バスに乗り1時間以上もかかって来て下さる人、学生さん(中学、高校、大学生)、会社員、タクシーの運転手さんと様々な人が来ている。最初は完全なボランティアであったが2か月前から3人の他人介護手当がでるようになり、そのお金をプールにして週1~2度来て下さる人には1時間500 円とし、月に2~4度定期的に来る人は交通費、夕食代も出せるようになった。1日平均3人、週に30人以上このアパートを出入りする。毎日の着がえ、洗面、排泄など人が変わればやり方も違う。気のすむまで顔を洗ってくれる人。中途半端でやめてしまう人。最初は遠慮もあり、言えなかったが、今は少しずつ、「もっと強くもう1度」とはっきり注文が言えるようになった。初めて障害者に会った中学生にトイレの介助を頼んだ時、「私、できない!」とベソをかきそうになった。私は少しあわてたが、「大丈夫、簡単よ」と1つ1つのやり方を教えた。しおわったあと、ホッとしたとみえ、女の子は「なんだ簡単なんだね」とニコニコした。そして「変なこと聞くようだけれど男のボランティアにもトイレの介助をしてもらいますか」と聞かれた時はいくら強きの私でも返事に困った。

 どんなに心のふれあいがあろうとも、ボランティアに一生私たちの介助をするという保障は何もない。隣近所の奥さんが朝来て、私の着がえ、洗面、トイレ、掃除をして帰る。1か月たった30,900円の援助ではすずめの涙である。

 毎日、私たちの介助を何時間うけるのかデータをとった。しかし介助時間を数字にすることはとてもむずかしい。体の調子のいい時にひとりでトイレにゆけても、つかれているときは、ズボンをあげるのに1時間もかかったことがある。土井さんは、ニンジン1本、皮をむき、切るだけでも、2,30分はかかる。できることをやらなければ障害者の甘えになるが、彼は障害のない人の何倍ものエネルギーを使ってにんじんを切っているのだろう。疲れ、消耗するエネルギーを計る機械はない。

 私は歯をみがき、顔を洗ってもらうが、食器は足を使い洗える。外出したり、タイプを打ってとても疲れた日にはボランティアの人に洗ってもらう。障害のない人が洗った方が早いし、きれいだ。たいして疲れていない時にまで洗って欲しくなる。介助には限りがない。介助のデータ付けは自分との戦いのような気もする。

 今度やらなければいけないことは、私よりもっと重度な人、夜中、寝がえりをうたせてもらわなければいけない人、日常の身辺動作のほとんどの介助をうけなくてもいい障害者の人たちがせめて10人位公営住宅に住み、24時間ケア体制(いつも何かあった時すぐ来てくれる)と隣近所の主婦がきまりきった家事的な介助(買い物、掃除、洗濯)の2種類の介助体制を作り研究したい。

 こうなるともう私たちの力では無理である。行政が机の上だけの研究ではなく、実際に私たちと一緒に体を使い、研究にとり組んで欲しい。

 私たちは病人ではない。自分のことは自分の責任なのだという強い意識を社会全体が育ててゆかなければいけないと思う。

 研究生活の記録は今年1月に『心の足を大地につけて』という一冊の本にまとめた。ケア付住宅の資料になることを願っている。


本の申し込み先

札幌市豊平区美園11条5丁目 みちハウス内
札幌いちご会 振替 小樽17059

定価1,300 円(〒250 円)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1981年3月(第36号)25頁~28頁

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