特集/アジア・太平洋地域のリハビリテーション ニュージーランド

特集/アジア・太平洋地域のリハビリテーション

ニュージーランド

E. J. S. Munro

 ニュージーランドの人口は約310万、人口増加率は年約1.8%である。人口の約90%がヨーロッパ系、8%が土着のマオリ族、そして残りは主にポリネシア系の太平洋島嶼部族から構成されている。

 面積がさほど大きくない上に、すぐれた交通網を備えているため交通の便は非常によい。コミュニケーションネットワークも完備しており、個人の通信からマスコミの報道活動にまで非常に有効に活用されている。一方、わが国の農産物は質が高く、経済的にその輸出に頼ること大である。

 ヨーロッパ諸国によるニュージーランドの植民地化が進んだのは19世紀のことであるが、その初期には孤児や寡婦、障害者のような要保護者に関する法律にはかなりの混乱がみられた。

 1846年になってはじめて国立病院が設置されたが、治療費は患者負担であった。経済的援助を必要とする人々の扶養義務は法律上親族のもとにあるとされていたが、それも「近親者」という漠然としたことばで表現されていた。最初の国立精神病院は1956年に開設されたが、一般の強い要望と資金援助があったからこそ実現したものである。そのうち2か所の病院については目標が設定され、知能障害をもつ人々や精神病者にとって貴重な施設となった。

 障害者に対するサービスには他と比べて非常に大きなギャップがみられ、それを埋めるために教会や民間団体が活動を続けた。しかし、一般の寄付だけでそのような活動を支えられるほど当時の経済状況は豊かでなく、努力は実らなかったといえる。

 国が要保護者の経済的扶養義務を負うことを正式に認めたのは、1898年に老齢年金制度が開始されてからである。このような動きに加えて、障害者や病人、老人などの扶養義務の所在を問う動きや、オーストラリア大陸に上陸した疫病に対するパニック状態などが契機となって、1900年には国民保健法(Public Health Act)案が可決された。これによって国民保健大臣のもとに体制が整えられ、つぎつぎと新しい法案が生まれるきっかけとなった。

 主に鉱山労働者を対象とした労働者補償保険法(Workers Compensation Act)が制定されたのは1908年のことである。そして、1915年~1918年の戦争の結果生まれたのが軍人恩給法(War Pensions Act)であり、1924年には視力障害者に対する新しいタイプの年金制度が生まれた。また、1936年には傷病者年金(Invalid's Pension)が法律化され、16歳以上の働ける見込みがない者に対して経済援助が与えられるようになった。

 社会保障制度の発達に拍車をかけたのは、1930年代にニュージーランドを襲った経済不況である。不況の影響をまっ先に受けたのは第一次世界大戦で障害者となった負傷兵であった。そのため1930年に傷病兵社会復帰法(Disabled Soldiers Civil Re-establishment Act)が制定され、さらに不況後2つの法律制定によってニュージーランドは福祉国家に生まれかわったのである。

 1938年社会保障法(Social Security Act)は国民の福祉と保護に関する規定を設けたものである。その中には、病気により一時的に収入が得られない者に対する病人手当や、全盲者あるいは病気、事故、先天性障害などによって永久に働けなくなった者に対する鉱山労働者手当などが含まれている。また、上記の手当の対象以外で、一部に身体的あるいは精神的障害をもつ者や、何らかの理由で収入の得られない者のためには緊急手当制度(Emergency Benefits)が設けられた。

 第二次世界大戦後にはさらに障害者に関わるいくつかの法律制定がみられた。1969年には傷痍軍人連盟(Disabeld Servicemens League)が組織がえしてリハビリテーション連盟となり、政府が行う3段階から成るリハビリテーションプログラムの運営主体の一部となった。このプログラムには評価部門が設けられ、障害者の活動の場の拡大、訓練施設の設置、民間団体によるワークショップの開発などが推進された。再就職できない者はこのリハビリテーションプログラムを通して、国の補助を受ける民間団体から必要なサービスを受けられるようになった。

 過去10年間の社会福祉分野における法制の進展には目を見はるものがある。1971年の社会保障委員会(Social Security Commission)設置、1973年の病院および関連サービスに関する王室調査委員会(Royal Commission of Inquiry into Hospital & Related Services)設置、1974年の事故保償法(Accident Compensation Act)の制定、そして1975年の障害者コミュニティ福祉法の制定などである。いずれも、障害者を施設の中ではなく地域社会の中でケアすべきだという考え方が基底にあって生まれたものである。

 1973年、病院および関連サービス王室調査委員会は、障害者に対するコミュニティや専門家の意識の変化に関する報告を行った。同委員会は施設をコミュニティの中に設置する必要性を強調した上で、障害者は施設の中でなく、可能なかぎり自宅で世話を受けられるようにすべきことを勧告した。調査委員会はさらに、それまで施設で行われてきたサービスを引き継いで行う民間団体のために補助を拡大する必要があることにも言及している。また、障害者をかかえる家族に対する援助サービスや自由に受けられる専門カウンセリングサービスの必要性にもふれている。

 1981年の国際障害者年という年は、ニュージーランドの人々の障害者に対する意識に大きな影響を与えた年であった。多くの障害者が積極的に活動するのを目の前にして、一般の人々は自分たちのコミュニティの中に予想外の数の障害者がおり、その障害者たちが関心ある社会活動に参加することを望んでいることに初めて気がついたのである。国際障害者年に特に制定された法律はないものの、法務省は保護者に関する立法を強調した「ヘルパー計画」という草案を作成した。

 一方、社会福祉省は1981年にリハビリテーション調査委員会(Rehabilitation Review Committee)を設け、リハビリテーションサービスの行政面の分裂化を防ぐことをはかった。同委員会の報告書は1982年中ばに発表され、政府機関および民間機関によって検討が加えられている。

 ニュージーランドは、諸外国と比べて、国民のためのサービスがきわめて進んだ国だといえるが、サービスの内容や国民の意識、障害者の社会参加や施設等を拡充する必要性は依然としてある。

 障害者やその家族、専門家やサービス提供者などが関心をもっているのは、あらゆる側面で調整しあい協力しあいながら統合的なリハビリテーションを進めることである。昨年、IYDP国内委員会や主な障害児団体、政府のリハビリテーション委員会などが声明を発表したが、いずれも障害者リハビリテーションに影響を与える諸問題を扱うにあたって技術の向上をはかり、協力的なアプローチのし方を開発する必要があることを強調している。

 調整活動の必要を検討する調査研究は進み、多数の勧告がなされた。今までもそうであったが、問題は出された案をどのように実施していくかということにある。ここ数か月の間に障害者自身が運動を始め、すべての人々が関心をもつ問題について各種団体からひとつのまとまった発言をするフォーラムを作り出そうと動き出した。一方、政府のリハビリテーション委員会は障害者のために調整サービスを行うリハビリテーション政策調整審議会(Rehabilitation Policy Coordination Council)の設置を勧告した。

 より質の高いサービスが求められるようになったと同時に、わが国の資源が減少しつつあるということもあって、ニーズに合ったアプローチのし方を緊急に開発しなければならない。また、その際、リハビリテーションというものが障害者とその家族、あるいは民間と政府のサービス提供者、専門家団体とコミュニティというような人々の協力活動であり、それぞれが同等の責任を負うという考え方を忘れてはならないのである。

 前述のとおり、ニュージーランドは非常にすぐれたコミュニケーションネットワークを備えた国である。テレビの普及率は全家庭の99%に達し、都市、地方をとわず即座にコミュニケーションが可能である。電話サービスシステムも整っており、国内だけでなく世界中どこへでも通信が可能である。ラジオ放送ネットワークは全国を網羅しており、また識字率が高いため本や新聞、雑誌などもいつでも手軽に入手できる。

 過去においても、リハビリテーション関係団体の多くはマスメディアを可能なかぎり活用してきたが、他の分野と同じく、それを継続した形で行うのは難しく、いずれも断片的な形のまま終わっている。

 1981年国際障害者年は全国インフォメーションサービスがめざましい発展をとげた年である。あらゆる形態のマスメディアを活用し、開発が進みつつある新技術をつぎつぎととり入れる新しいシステムである。これによってリハビリテーション関係者は必要とするあらゆる種類の情報を入手することができるようになるであろう。関係者の協力によってこのシステムの開発が進めば、1980年代にはコミュニケーションに関連した問題は大幅に軽減されるであろう。

 ニュージーランドには数多くの法令があり、そのうちの多くが障害者にとって有益なものである。しかし、中には起草されてからかなりの年月がたつものがあるため、修正を加えて例外をとり除き、障害者を不注意にも差別することがないようにする必要があることが指摘されている。矛盾が修正され、それに起因する諸問題が解決されるのも時間の問題であるといえよう。

 障害者問題ととり組むものにとって、障害の発生予防というのはその仕事の主要部分を占めるといってよい。また、それはコミュニティ全体の問題ととらえられるべきである。過去には、伝染病により起こる精神的・身体的障害が多かったが、現在では遺伝性のものや近年の生活様式の変化に直接かかわる環境的要因によるものが多い。広報キャンペーンが盛んに行われているにもかかわらず、交通事故や麻薬、アルコール中毒は増える一方である。ここでも調整活動が果たす役割は大きく、早急に何らかの解決策を見い出すことが求められている。

 われわれがこれからとり組まなければならない最大の問題は、長い時間をかけて形づくられてきた一般の人びとの障害者に対する意識の問題である。つまり、障害者のための福祉を単なる慈善行為とみなすこと、あるいは障害者がもっている能力に目を向けず、その障害ばかりに焦点をあてることである。われわれは、障害者がもつ能力や技術を十分に生かせるように、あらゆる方法を使って人びとの意識を変えるよう努力しなければならないであろう。そのためには、どのような面で差別が存在するのかを知り、その解決策を見出さなければならない。つまり、障害者を同等以下に見るような社会の受けとめ方を変えるような道を探さなければならないということである。このような努力を通してこそ、ニュージーランドの障害者一人ひとりに対して自信と自己尊厳に裏づけられた将来を約束することができるのではないだろうか。

(高島和子訳)

国際リハビリテーション協会ニュージーランド国内事務局長



(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1983年11月(第44号)38頁~41頁

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