特集/職業リハビリテーション 職業リハビリテーション―米英の比較

特集/職業リハビリテーション

職業リハビリテーション―米英の比較

Vocational Rehabilitation: A USA/UK Cross-Cultural Perspective

Mary Croxen, Ph.D.

Vic Finkelstein, M.A.

服部兼敏*

要約

 著者らは、合衆国と英国の職業リハビリテーションに違いよりむしろ多くの共通点を見いだした。違いにばかり目を奪われると、二つの国の制度にある重要な機構上の共通点を見過ごしてしまう。障害者における失業率が高いことと、職業リハビリテーションの技法の優劣とのかかわりは始めから問題にならない。それらは、リハビリテーション・サービスは社会秩序の安定の為に、また障害者にみかけられる酷い生活状態の基本的原因に対する不満をそらす為に提供されていることを示唆している。専門家は、職業リハビリテーションに対するそれらの批判を受けて、専門家の役割を再度検討するよう迫られている。

 職業リハビリテーションの通文化的比較には、言うまでもなく二つの問題がある。第一は、通文化的研究を実施する方法に関するものである。実用に耐えうる比較分析を行なうには、当然のことながら演繹的モデル、通常は一方の国を基本にして構築され、その後に他方に適用されるモデルを用いる。モデルは一方の国の職業リハビリテーションという領域で一般的に知られた内容や手段で構成されており、それを用いてもう一方の全体像を読み取る。これは、全く無駄な努力というわけではない。実際、Stubbinsは、かれの行なった通国家的分析において、その有効性の一部を十分に示してくれた。しかしながら、リハビリテーションの流れを構成している個別的内容から目を離して、それを部分として包摂するような社会システムについてもっと広くとらえるべき時代に来ている。第二には、職業リハビリテーションの国ごとの実践を評価するということが、本来の意図とは逆により広く、より深い論点からの考察を歪めてしまうことであろう。特に、今日、専門家は判定、訓練、プレイスメント、その他の技法にばかり目を向けないで、かれらがしているのは何なのかを完全に理解することに目を向けるべきであるし、誰が利益を受けているかに疑問を持つべきである。

 労働という部分が拡大してゆくにつれ、大西洋の向こう側でも、こちら側でも、人生は仕事から疎遠になっていった。それゆえ、相互の関わりを欠き、自己目的化したプロセスと化した職業リハビリテーションに執着することは、障害者にとって真に大切なことがらを看過してしまうし、社会秩序側が、この状態を暗黙に支持していることを不鮮明にしてしまう。必要なのは、二つの文化にわたって、障害者の一生涯にわたるニーズと機会を捉えるようなアプローチである。仕事はこれら人生における選択のひとつ以外の何ものでもない。仕事にのみ目をやることは取りも直さず、過密な住宅地域で長期にわたり様々な暮らしを営んでいる障害者個人への配慮よりも、行政運営上の都合を代弁することになる。システム全体を考えることが不可欠である。我々が我々のリハビリテーションシステムを合衆国のものと重ねてみると、彼らにも断片化という同じ流れがあるということが認められる。障害者個人は、過去から今に至る人生の経過と未来とを合わせ持つ全人格としてではなく部分品として、その時、その場に応じて区分けされ、「給付(“serviced”)」される。

職業リハビリテーション:その活動の性質

 合衆国においても、英国においても、障害者が仕事を始める、ないし仕事に戻るための準備をするための技法は確立されている。これらの活動には長い歴史があり、また有益で価値あることと考えられている。多くのリハビリテーションの専門家は、実践が基礎としている前提を再検討することなく、この枠組の中で、信頼によりかかり体面を保ちながら仕事を続けている。このことは、両国において言える。合衆国においてはおそらく口を挿む余地のない程、個人の尊重に重きを置きつつ、我々の実務の重点や視点は異なりはするものの、なすべき課題は労働力として参加するか、再参加するかに関してであるとする同じ仮定によって、これら通常の業務は導かれている。

 政治的機構の中で、あるいは社会のイデオロギーの中で、長期にわたって働くことの問題点のひとつは、これらの機構自体が思考を形成するようになるということである。すなわち、思考によって政策が形造られるのでなく、政策が思考を規定するようになると言うことである。これは、問題への取り組み方法、求められる解決、満足ゆくものと判断される結果というものが、我々自身がその内部で仕事をしている社会システムによって巧妙に決められてしまうことを意味している。

 職業リハビリテーションの実践が容認されるような風潮の中では、論理的帰結ないし出口として仕事を伴わない活動を思いつくなど考えもおよばないことであろう。もしも職業リハビリテーションの専門家たちが、この枠組(かれらの社会の仕組みから身に纒ってしまった仮定や態度)の外に一歩でも踏み出るならば、我々両国におけるこのゴールが時代錯誤的であることは明確となる。もしもこれが事実ならば、このような専門的活動とは何であろうか。今日の労働危機の中で、アメリカ人とイギリス人が答を出さねばならない疑問とは、我々の歴史は異なっても、この同じ時代に実践されている職業リハビリテーションは、国の役に立っているであろうかということである。職を求める障害者を、仕事に関連した場面においてその人を上辺だけどうにかしてやり、一般大衆のとがめだてからは救ってやることで、望みの無い雇用状況から注意をそらす。もしこれが真実ならば、まさに障害者の真の利益は適当にあしらわれている。

 仕事を見つけるという仮設は、根拠が薄弱であるということを受け入れる時期に来ている。このことを変えることによってのみ、専門家はより効果的に障害者にサービスを行なえるようになるであろう。職業リハビリテーションの実務は、それが断片的なものだけに、労働市場における障害者の真の問題を覆い隠してしまうこともあろう。とどのつまり、それらは専門家に職を提供することになる。社会学における病の前駆症状についてのMartin Nicolausの冷ややかな言葉は、職業リハビリテーションに働く者にとって時をえた苦言である。

 「すべては、あなたがどこから見、どこに立つかできまる。もしあなたが社会の最底辺にいる者たちの眼を通じて、あなたの被験者集団の眼を通じて社会を見るならば、そして、もしもあなたがいつもそう努めていると装っているのと同じ程の冷徹さをその眼に与えることができるならば、そのとき、あなたはあなたが専念している社会科学について違った概念を得るであろう。社会学は今や社会的真実や事実の探求では無いし、いまだかつてそのようなことも無かった。すなわち、社会学者の眼はずっと下々を向いていたし、手のひらは御上に向けてかざしていた。眼を下にむけるとは、下層階級のつまり被験者集団の作用、つまり為政者の支配権の円滑な行使にとって問題をもたらすような作用を研究すること。」

 社会の拡大してゆく仕方からして、障害者のために仕事を捜すこと、そして彼らが労働市場に参入してゆけるような支度をすることは、「社会問題」として受け継がれてきた。仕事をしない障害者は、全ての工業国の体制側から経済的失費であると見られている。それゆえ、職業リハビリテーションは、障害者を種々の仕事にかえしてやるための可能な全ての手立てが確かに払われるようにすることで、社会秩序を保持するように務める。我々は職業リハビリテーションのこの機構を受け継いでいる。それは我々の立法の歴史に深く根をはっている。今後とも労働集約的産業の縮小が西側工業国の潮流であるならば、また資本が地域的な雇用への影響に関わり無く利益を求めて自由に移動し続けるならば、大規模で永続的な失業というものが生活の一部として腰を据えるであろう。職業リハビリテーションによって誰が利益を得るのか、それは職を創造するという見せかけから、障害者にとっての本当の利益を産み出すのは何かについて問うてみる時期である。障害者の権利は、乏しい職を前に健常者よりも優先されるべきことを主張することで満たされはしない。そうすればむしろ、事実上全ての失業者が同じような悲運に苦しむ。

 我々が英国において行なっていることを見、これを合衆国のリハビリテーションと比較する場合、比較や対比上興味深い点より、むしろ制度全体が問題にされねばならないのは明らかである。職業リハビリテーションは、我々が通常かかえている多くの問題、すなわち、専門家、実践、そして視点が個々バラバラであるという問題を如実に示している。この全てが、障害者の生命の質を高めるという我々の真の努力目標の焦点をボカしてしまう。「国家的なリハビリテーション政策についてのいかに思慮深い分析も、その独自の政策をもたらした個々の国の社会の歴史や政治経済を鋭敏に反映する。」我々、二つの国の全般的社会政策の流れを考察することで、この問題を少しばかり揶揄してみよう。

社会の歴史的流れ

 国家比較的に見ると、政策立案の方式は国全体として異なるのみならず、政策領域ごとにも違っている。Heidenheimer,Helco,and Adamsは社会政策の違いについて、三つの解釈、すなわち、構造的相違イデオロギー、そして社会条件がなりたつと考えている。社会政策の違いを産み出す構造についての議論は、アメリカの政策システムがヨーロッパ以上に寸断されていることを強調している。ヨーロッパの場合、社会的プログラムの拡張への要求に対して為政者たちは、比較的対応が取り易いかもしれない。中央集権化している社会の政治エリートたちは、分権的な社会のエリートたちより、必要な税負担への抵抗を克服するための切り札をより多く持っていると考えられている。社会政策に対するイデオロギー的な説明に話を戻したとき、Kingは「アメリカにおいては、他のいずれの国よりも、国は限られた役割しか果たさない、なぜなら、アメリカ人は、他のどの国民よりも国が限られた役割しか果たさないことを望んでいるからである。」それゆえ、焦点は勢い、国よりも個人にたいしてあてられる。最後に、社会的条件について言えば、明らかにアメリカ社会は英国よりも遙かに広い大地の上に広がっている、そしてさらに、伝え聞くところによれば、個々人がその物理的環境を変えることに対して多大の金が給付される。Piersonが言う地域流動性要因こそが、アメリカの政策をより地域固定的なヨーロッパ社会の政策から区別する重要な因子であると主張されている。彼の観点に立てば、「合衆国には、権力の分散という仕組みがずっと生きていると言うことが我々の偉大なアメリカの政策立案過程が、ヨーロッパのいかなる機構とも極めて異なっていることの」理由であった。ヨーロッパにおいて、中央と地方の力が対立することは稀である。しかしこのようなことは、対立と分権化が日常のことであるアメリカの社会政策に対比したならば、むしろ例外に属することである。合衆国においては、直接的な統制よりも経済的誘因の活用の方が社会政策によりかなっていると考えられている。「アメリカの政治思想において通常最大の関心事は、国による個人に対する脅威である。ヨーロッパにおいては、この個人主義的な見解と、社会的権利および個人の進歩に対する社会の側からの保護という概念に基づく理念とが鍔競り合いを演じている。」

 もしHeidenheimerの説明が信ずるにたるものならば、アメリカの政策の寸断は、英国のものとは異なった原因に起因する。後者の場合、国による決定と監督があるが、地方レベルにおける弾力的運用、解釈、そして自治の余地が残されている。他方、合衆国においては個人は、様々な機関や団体によって、国から保護されているし、これら機関や団体のあるものは、特にこの保護という目的のためにある。

 Heidenheimerは合衆国の政策において、法規化は苦痛に満ちたコンセンサスの確立を通じてのみ行なわれ、しかもさらには、相互の調整を積み上げてゆくような方式は、どちらかと言えば変更を遅らせることを提起している。「政策化のためのコンセンサスをはかってゆくのにたいへんな手間がかかる。このような仕組みではどうしても固定化する傾向が出てしまい、変化の余地を示すことはほとんどない。」アメリカの政策を、その一方が先を越すと他方が抜き返すというヨーロツパの方式にあてはめようとすると、両者は漸進的改革と性急な行政による問題解決という両極にあり、二つの折衷は困難であることを見る。我々の見方からすれば、あちらこちらと突き回すことを助長することにおいて、いずれもさして結果が違うわけではない。どちらの政策方式も、リハビリテーションといった問題を詳らかにするのに、扱い易いというわけではない。政策の気紛れ、矛盾、そして混乱を体験するのは、障害者個人である。

 例えば、サービス給付の体系に関していえば、混同や混乱を絵に描いたような場所は、英国の外にない。英国におけるサービス給付システムは、「そのうちのあるものは過去の社会秩序に結びついた種々の原則を基とした対策を詰め込んだガラクタ袋である。」サービス給付体系は、障害者の生活に複雑で、バラバラな、そして不合理な仕方で影響を及ぼすかなり中央集権化した政府においてさえ、バラバラな社会政策の例以外の何ものでもない。もしも、我々が英国において政策がどのように実践に付されるかを見るならば、障害者に対するサービスは、散漫で、バラバラに区切られていて、調整が欠如していることを見よう。下の図表は、ロンドンにおいて身体障害を持つ人々が受けられるサービスと誰がそれらのサービスを提供するかを示す。如何に複雑かをこれ以上言う必要はない。

 図1 身体障害者が市中で受けられるサービスとサービス提供者

図1 身体障害者が市中で受けられるサービスとサービス提供者

 両国において特徴的なのは、障害者の機会の均等のための活動がバラバラなことである。政策についての比較分析は、当然のようにおこる極めて難しい諸選択の間のバランスをはかるための基本的に「正しい」方法を処方することは無いだろう。比較論的な理解のできる観察者は、誤解することが比較的少ないであろう。「反動があったり、根をおろす一方で」、恒久的課題は福祉国家の「ための」ないし「たいする」ということでは無い。それは誰に対する、どのような手段による、そして、なぜそうしなくてはならないかという社会政策である。 

仕事の世界

 ニューヨーク証券取引所は、国内成長(国民総生産からもとめる)と失業率と物価指数を結合したものの比率を算出し、それに100をかけて得られる「経済動向指標」ないしE.P.I.と呼ばれる国の富を測定する簡単かつ効果的な公式を作った。1960年から1973年までの間、それが製造業における職を失い始めるまで日本のE.P.I.は146でトップであり、これに西ドイツの124、フランスの85、イタリアの67、スウェーデンの55、合衆国の50、そしてイギリスの43が続いていた。生産がオイルショックの打撃を受けた1974年から1980年までについて同じ公式をあてはめると、日本は38、西ドイツは29、合衆国は15、そしてイギリスはたったの2.2であった。「富を作り出した年」ともみなせる生産が盛んな時期と、景気の落ち込んだ「富を裂く年」ともとれる福祉サービスが始まった時期との違いは呆然とするほどである。たとえば、もしも第一時期のイギリスの指標値を第二時期の日本の指標値に対比すれば、オイルショックの前のイギリスは今日の日本よりもはるかに経済に活力があると分かろう。

 マンパワー・サービス委員会は1985年までにイギリスにおいてはさらに120万の製造業の職が失われるはずであると警告している。Druckerは最近、合衆国の工業は将来、合衆国の農業が辿ったと似通った道を歩むであろうことを示唆している。すなわち、彼は第二次世界大戦いらい農業従事者は、全労働力の30パーセントからちょうど5パーセントにまで落ちたが、農業生産は3倍になったことを指摘している。しかし、これは、未だ予測だにつかない高度技術の影響を考えに入れていない。ますます安くなる技術と高価な労働力がぶつかったとき何が起こり、何が障害を持つ労働者に起こるか誰も知らない。

職業リハビリテーションは今いずこ

 それは、障害のある求職者に知識や技能を授けることに焦点を定めるか、就労可能性のある者を売り込むことに目標を置くか、さては労働市場に参入するに役立つ機材を開発するか、いずれにしろこのような特定の職責が、労働市場の実態やリハビリテーション職員の社会的役割についての厳しい認識と正しくかかわっていない限り、職業リハビリテーションは失敗するに決まっている。我々が、障害者をその一部として包含する政治的、社会的、そして経済的関係を含む全システムを直視することが不可欠である。このことは、大西洋のいずれの側でもなされていない。断片的な他のリハビリテーションの分野と同様に、職業リハビリテーションにおいても、我々は全体の極く一部を「給付(serviced)」している。リハビリテーション従事者は労働の世界で何が起こっているかを否定することに秘かに手を貸し、わけのわからない時代遅れの業務によってどんな事が起こることになるのか分かってもいない。英国において、我々は、それが我々自身の仕事を脅かしたとき初めて失業率に気づいた。

 アメリカとイギリスの専門家たちは、障害者たちの仕事の範囲がだんだん狭まってゆくなかで、彼ら相応の持分が取れるように保証してやるというわずかな目的をその責務とすべきだろうか。それとも、大西洋の両側にいる我々は、学校から、大学、そして社会人生活へと一生涯にわたった身体障害者や社会的障害者に可能な選択を見直してみるという大きな挑戦を試みるのであろうか。他人が決めた、きちんとした技術的境界を越えて、我々の地平を確立する用意が我々には出来ているであろうか。

 挑戦は何時の時代にもあった、しかしどの世代もその時と状況に会うように挑戦とは何かを再度明確にしなければならない。さもなければ、McKnightが指摘しているように、専門家は問題解決の手助けになるより、むしろ、障害にまつわる問題の一部となってしまうのではないだろうか。

参考文献 略

(Rehabilitation Literature, Nov.-Dec., 1984)

著者経歴

 Croxen博士はイギリスのMilton KevnesにあるThe Open Universityの社会心理学の講師である。Vic Finkelstein と共同で多くのリハビリテーション専門家の受講があったOpen Universityの通信講座「コミュニティにおける障害者」の指導や障害学研究グループの設立に貢献した。1982年には、ヨーロッパ経済共同体の専門指導官として、共同体加入10ケ国における障害者の雇用状況についての仕事をしている。彼女はE.E.C.の報告書:“Disability and Employment: An overview”の著者である。

 Finkelstein氏はOpen Universityの卒後研修講座部門の講師である。彼は南アフリカのWitwatersrand大学より心理学修士を得ており、英国保健庁で上席心理学専門官として務めるかたわら、幾つかの障害者団体で活発な活動を続けている。また、最近結成されたイギリス障害者団体協議会の議長であり、DPIのイギリス代表である。世界リハビリテーション基金の論集:Attitudes and Disabled Peopleの著者である。

*国立身体障害者リハビリテーションセンター


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1985年7月(第49号)20頁~26頁

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