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特集/聴覚障害者のコミュニケーション

我が国における聴覚障害者の言語教育の歴史

小畑修一

はじめに

 聴覚障害者に対する教育は、最も古くから文化の栄えたヨーロッパにおいて、15世紀末に起きた文芸復興、それに続いた人文主義思想によってその可能性が叫ばれるようになり、16、17世紀に、スペイン、オランダ、イギリス等の先進諸国で家庭内での個人的な形態の教育が試みられた後、1760年のフランスのド・レペによるパリ聾学校の創設で本格化し、普及して行ったものである。

 我が国の場合、∃ーロッパにおける学校教育の開始より110余年を経た1878年(明治11)に京都の盲[唖]院、1880年(明治13)に東京の訓盲院の誕生で始まるもので、歴史的にはかなり遅れて出発するのであるが、現在の教育水準は先進の欧米諸国に決して劣るものではない。

 そこで、最近110余年間に急速に進歩を遂げて来た我が国の聴覚障害者の教育の歴史について、およそ20年前後を単位として6つの期間に区切り、各時代の代表的な人物の業績を基礎として、主として言語教育の発展の様子を点描することにしたい。

 1 明治前半期──学校教育の開始と創始者の工夫の時期

 最初の教育機関である京都の盲[唖]院(後に、京都府立盲[唖]院、京都市立盲[唖]院)における古河太四郎の工夫、東京の楽養会訓盲院(後に、訓盲[唖]院、東京盲[唖]学校)における伊沢修二、小西信八の努力を中心に述べる。

 (1) 古河太四郎の言語教育

 「京都府盲聾教育百年史」によると、京都における聴覚障害者の教育は、1873年(明治6)頃上京第19区長熊谷伝兵衛が区内の3人の聾児の教育を待賢校に提起し、同校の古河太四郎が担当することによって開始され、1878年(明治11)日本最初盲[唖]院の開学で本格化することになる。

 待賢校における教育も盲[唖]院の教育も古河を中心に展開されたので、当時の言語教育の概略を彼の著作「[いん][唖]生教授手順概略」によって紹介する。

●指導の態度に関して

 「[唖]人ヲ教フルノ要点ハ恕ノ一字ニアリ」

 「教師タルモノ宜シク……満腔惻隠ノ心ヲ発シ以テ教示セズンバアルベカラズ」

●指導法に関して

 「手勢法ハ平常[唖]ノ互談スル所ニ注目シ其意ヲ酌ミ其義ヲ量リ以テ解義ヲ施行スベシ」

 「教授中互ニ考成ノ速答ヲ競ハシメ……賞罰ヲ厳ニスルトキハ自ラ奮起感受ノ両力ヲ挑撥シ以テ活用ノ真境ニ至ル……」

 「示諭手勢法ニ於テハ必搏ク取り譬ヘン事ヲ欲スト苟モ授法膠柱ノ偏僻アルトキハ会晤ノ機要ヲ[謬]マルニ至ルモノナリ」

 「教授中示諭手勢ノ尤モ難キモノアリ……高貴ヲ尊敬シ父母ニ孝順スル等コレナリ此ノ如キハ実ニ説クベク示シ難シ故ニ意況ヲ容儀ニ移シ厳威粛然以テ其儀ヲ酌マシム……」

●指導内容に関して

 「発音発語」「書取」「談話応接法」「綴字作文法」「作文設題」「地理」「算術」

 指導の態度に関しての2項目は共に中国の古典四書五経に示された思想によるもので、前者の「恕」は“心を広くして許すこと”、即ち、障害の受容を意味し、後者の「惻隠の心」は“隠しておくことの出来ない自然な感情(欲得のない心からの同情)”、即ち、障害者に対する心からの愛情を意味するものと考えられる。

 指導法については、「手勢法」「示諭手勢法」に関する項目と「競争」「賞罰」に関する項目に大別されるが、「手勢」は“事物を象徴し連合していく精神過程と身体運動を統合した姿勢”、即ち手話表現を意味し、「示諭手勢」は“抽象語の手話表現”を意味するものと考えられる。京都府立聾学校に現存する「五十音手勢図」(明治11年)、「五十音字形手勢」(明治12年)、「手算法略図」(明治11年)、「画掌法図」(明治12年)を見る時、その指導法は、今日における指文字(五十音手勢、五十音字形手勢)、数詞の手指記号(手算法)、空書(画掌法)を含む手話表現を使用するものである。そして表現困難な語句(示諭手勢の困難な語句)は態度や雰囲気で悟らせようとしたことがうかがえる。なお「競争」「賞罰」の教育的効果は一般の教育にも通ずるものとして肯定出来るものである。

 指導内容に関しては、「発音発語」は「発音起源図」(明治11)を作成して五十音の発音要領とそれらを組み合わせた単語の音綴例、「書取」は仮名、漢字、手勢を互換しつつ問答法による単語の意味把握、「談話応接法」は筆談要領と読解力の養成、「綴字作文法」と「作文課題」は動作や事物の文章化を課したものと言われている。

 この中、特に「発音発語」は“口唇の開合”という語句で親しまれたもので、口形を示すと同時に、両手(右を上、左を下にして)で口の構えをし、指先を揃えて上下の歯列、右手の親指を舌というようになぞらえて、これらの位置や運動によって母音と子音の発音法を示したものである。

 したがって、古河の言語教育は、発音(音声言語)、読解、筆談・作文(書記言語)等を音声や筆談に手話・指文字(身振り言語)をまじえた指導で、口話と手話の連合法であった。

 (2) 伊沢修二の視話法と小西信八の音話主義

 楽善会訓盲院は、1871年(明治4)に工学頭山尾庸三が自分のイギリス留学中の体験を基にして盲[唖]学校創立の建白書を太政官に提出したことに端を発し、1880年(明治13)に授業を開始した教育機関で文部省直轄の訓盲[唖]院、東京盲[唖]学校へと発展していくものである。

 「東京教育大学附属聾学校の教育─その百年の歴史」によれば、1880年にミラノの第2回国際会議で口話法が採択されたこともあって、当初は、発音発語や聴音器による残聴利用が試みられたという。しかし、期待された効果が出ず、文字中心の教育に転回し、やがて京都盲[唖]院と同様の手話をまじえた読方、作文、筆談、習字の指導が主流となり、発音や口談は生徒の質によって授けられた。そこで、言語教育としての新風は、その後1889年頃伊沢修二が伝えたアメリカのグラハム・ベルの視話法(ビジブルスピーチ)とそれを実践普及した小西信八の音話主義と思われる。

 ベルの視話法は視覚を基礎とした発音指導法で、聴覚障害の愛妻の為に試作したものといわれる。

 「[唖]人が我々と同じく発声機関を用いて言語を操る方法で教育されると、これと同時に、ほかの人がどんなことをいうかということもよく悟るようになる。それはどんな方法かと言うと、ほかの人が言語を発する時に、その人の唇、[頬]、咽喉などを見ていて、その開合張縮の具合によってどんな言葉を発するかが判るのである」

 これは、1898年(明治31)に来日した際の口話法の紹介であるので、視話法そのものの説明としては不適切かも知れないが、欧米式の言語教育、特に読唇・読話が導入され始めたことは特筆されよう。

 伊沢は、[唖]少年に1週間で五十音を、2週間後には簡単な話し言葉を言い得る迄に到らしめたといわれる。小西信八は、[唖]生2名を伴なって毎日曜日に伊沢を訪問し、11回でほぼ五十音を発音させることを学ばせたといわれる。そして、更に日常の授業の前後に五十音を発声させたり、全入学生に発音検査を実施し、本人には「発音日記」として、学校には「発音調」として保管して成果を研究会等で発表して音話主義を唱えたという。

 この伊沢と小西の業績は、聴覚障害者が談話出来るように努めたことに止まらず、コミュニケーション手段としての音声言語の習得に成果を求めた点にあるが、一般に普及するには到らなかった。

 2 明治後半期──私立教育機関の[族]生と教育方法の開発

 明治後半期は、聴覚障害者に対する慈善的な私塾としての教育機関が全国的に数多く設立された時期であり、言語教育も、古治、伊沢、小西の努力を継承して、より日本語の特質に適した指導体系が模索された時期であった。特に傑出した者としては、点字の開発で著名な石川倉次の発音口話法であろう。

 石川倉次は、小西信八と同じ時期に長く東京盲[唖]学校(後に東京聾[唖]学校)に貢献した逸材である。彼の教育の着眼点の鋭さは、次の「尋常科ニ関スル[唖]生ノ希望」の記述より明らかである。

 「第一ニ通意術ヲ授ケ玉ヘ、次ニ自活ノ方ヲ教ヘ玉ヘ」

 第一「常人ノ談話文章ヲ誤リナク知ルノ方ヲ教ヘ玉ヘ」

 第二「我等ノ思想ヲ誤リナク常人ニ通ズルノ方ヲ我等ニ教ヘ玉ヘ」

 第三「最モ少時間ヲ以テ最モ覚易クシテ教ヘ玉ヘ、一ヲ知レバ十ヲバ我等自身ニテモ推シ知ラレ得ル様ニ導カレヨ」

 第四「我等自身ニテ知り得ル事物ヲバ教へ玉フナ」

 第五「我等自身ニテ知ラルル様其方便ヲ授ケ玉ヘ」

 これは、石川の「日用単語」という基礎語彙集の第1頁に認められていたもので、聴覚障害者教育に関わる教師の心構えに貴重な示唆を与えるものである。

 彼の発音口話法は、ベルの視話法と異なった独自の体系で、「国語入門」としてまとめられた。その序文と授業者の注意事項は次の通りである。

 「国語を授ケルニワ先ヅ発音シ易イコトバカラハジメルノガ自然ノ順序デアル、ヨツテコノ本ニワ、先ヅワガ国語ノ元トナルベキ諸音声ノ発音図解ヲアゲ、次デコノ音声ヲ代表スル所ノ仮名四十八文字ヨリ成ル名詞並ビニイロハ、五十音、濁音、清音、長音、促音、拗音等ヲ挙ゲテ其ノ読方綴方等ヲ授ケルニ都合ヨキ様ニ編シタノデアル。発音図ハ先ヅ発音シ易イモノカラ順立テタノデアルガコレニ拘泥スルニハ及バヌ。教授ノ得、生徒ノ能ニ従ツテ適宜ニ順序ヲ変エルコトハ少シモ差支エナイコトデアル。」

 「発音ヲ授ケルニハ先ヅ母韻ヲ言ワセテ見ルガヨイ(ア)音ヲ出サセヨートシテ(ア)ヲ発シウレバヨク出来タソノ音ヲ代表スルモノワ(ア)デアルカラヨク覚エテ居ルガヨイトハゲマシ、モシ、言ヒ違エテ(カ)又ハ(ヤ)(ヒヤ)ナドト発シタナラバ決シテコレヲ違テ居ルトテ打消サズ、ヨク出来タ今オマエノ発音シタノワ(カ)デアル(ヤ)デアル(ヒヤ)デアルカラヨク覚エテ居ルガヨイト言ウヨーニシテスグニソノ音ト仮名トヲヨク結ビ付ケテ覚エサセルガヨイ。先ヅ何トデモ出タ音ニ適応シタ仮名ニ結ビ付ケテオキ、直スベキ音ニハ符ヲ付ケテオイテ或ワ鏡デ唇舌ノ運用ヲ見セ或ハ図解デ示シナド次第ニ正シイ音ニ直シ与エテ遂ニワ日常ノ口話が自在ニ出来ルヨーニモセルガヨイ。」

 以上のような発音指導法は、特に発音の個別指導の要諦として昭和期にまで影響を及ぼしている。

 3 大正期──盲聾分離、公立移管、口話教育への転回

 盲聾分離の要望は、既に1899年(明治32)海外視察から帰国した小西信八によって、また、1906年(明治39)には、小西のほか、古河太四郎(大阪盲[唖]院長)、鳥居嘉三郎(京都市立盲[唖]院長)の連名で文部大臣に陳情されていたものであるが、1923年(大正12)の盲学校及び聾[唖]学校令の制定により確定することになる。この勅令は、道府県に学校設置を義務づけていたこともあって、従来の私立の教育機関はこぞって公立移管されていくことになった。聴覚障害者の教育が公教育へ向かって一歩前進した時期であった。

 言語教育においては、1920年(大正9)にA.K.ライシャワーによって日本聾話学校が設立され、米国の口話法教育の経験者クレマー女史が同校の指導に当り、純粋の口話教育が開始された。また、高名な西川吉之助が口話研究所を1919年(大正8)に開設、更に、名古屋校では橋村徳一が、鋭意口話教育を推進する等、口話法への転回が決定づけられた時期である。

 (1) A.K.ライシャワー

 A.K.ライシャワーは、伝道の為に来日していたが、娘が幼くして聴覚障害者となったので、帰国してアメリカのクラーク校に学ばせて口話教育を受けさせた。それを契機にして同じ不幸に悩む日本の聴覚障害児の為に開設したのが日本聾話学校であるので、その教育方針はクラーク聾学校式口話教育であった。

 クラーク聾学校は、マサチューセッツ州ノーサンプトンに1867年に設立されたが、第2代校長のキャロライン・イエールは、単語や命令文で最初から読話し動作をさせていく語文法による指導を提唱すると共に音韻図表を作成して口話教育を推進した。また、1920年頃以来同校のフリッツ・ハイダーによる読話に関する心理学的研究から、話し言葉のリズムと読話・発語の関係より律唱科の重要性が指摘される等、アメリカで最も進んだ言語教育を実施していたものである。

 (2) 西川吉之助の努力

 西川は、娘浜子の聴覚障害を克服する為、ボルタレビュー等の海外文献を参照しつつ、私財を投じて口話法の研究と普及に尽力した。彼は、「二兎を追う者」と題して、その如く述べている。

 「或る人の依頼で手話法で教育された子供と娘を6、7時間程度遊ばせた所、娘の言語の使用が驚く程の速度で減少している事実を知り、手話と口話の混用は、果して教育目的を達す手段として適当であるかを疑った。」

 (3) 橋村徳一の口話教育

 橋村徳一が校長として勤務した名古屋市立聾学校における口話法への転換の経過は、大正1、2年(1912、13)を手話期、大正3年(1914)から7、8年(1918、19)を混合期、大正9年(1920)から昭和3年(1928)を口話期とされている。そして、橋村は、自ら提唱した純口話法を次のように述べている。

 「純口話法とは、聾教育上、手真似又は文字と話語とを、最初から使用するところの文字的口話法または手真似的口話法に対する名称で、普通児の教育法とほぼ同様の方法、即ち、言語一点張り、または、言語中心主義によって教育する方式を言うのである。」

 したがって、彼の言語教育の理念は、ドイツのモリッツ・ヒルやアメリカのキャロライン・イエールに共通する口話法であったものと考えられる。

 (4) 樋口長市の決断

 樋口長市は、東京聾[唖]学校長に着任した1925年から純口話法による方針を決断した。従来、口話は読方、または、国語科の一部の授業として、学科の教授中に、特別に、または附帯的に授けられるに過ぎなかったのが、ここに初めて教授法上の一主義として、すべての学科の教授を口話によって行うこととしたのである。彼の述懐は次の通りである。

 「口話によって教育された生徒は、たとえその発音発語がほかの人に判るほど進歩しなくても、本人自身はそれぞれの音を発するのに必要な発音器の位置、運動に伴なう位置等を運動感覚で識別しているので、これを文章に表わす時には、その発音発語するのと同様の文章となるようである。結論が出たわけではないが、筆談も口話から進んだ方が、かえって早道のことがありはしないかと考えた。」

 4 昭和期(1)──第2次大戦前の口話教育

 聴覚障害者の言語教育としての口話法は、充分な検討の結果というよりも、大きな方向性として採択された点からも、それがよい効果を示すにはなお相当の研究や実践等、曲折を必要とした。

 (1) 川本宇之介の活躍

 川本宇之介は、1922年(大正11)に文部省より盲学校及び聾[唖]学校制定の為に海外に派遣された際、欧米の口話教育の理論と実際を学び、帰国後、樋口、西川、橋村等と共に口話法普及に乗り出した。1925年(大正14)日本聾口話普及会(後の聾教育振興会)の結成に参加し、機関誌「口話式聾教育」の発行や教員講習会の開催に尽した。彼の言語教育は、特に語話に重点をおく口話法で、文字の早期導入に強く反対し、教科書「国語初歩」の編集にもその点を主張した。

 (2) 高橋潔、藤井東洋男の適性教育

 口話法が言語習得の過程における読話の役割を重視して手話を排除することとしたのに対し、大阪市立聾学校では、大曽根源助が1929年(昭和4)アメリカ視察を契機に大曽根式指文字を考案した。また、1930年(昭和5)ヨーロッパへ派遣された藤井東洋男は、適性教育を主張し、校長の高橋潔と共に、児童生徒の残存聴力の程度、口話法に対する適性、失官時の年齢等によって、口話グループ、口話・手話・指文字グループ、手話・指文字グループとに分けて指導を行った。

 (3) 石黒晶の発音指導法

 元福井聾学校長石黒晶は、教科書「国語初歩」や聾教育振興会の機関誌「聾口話教育」の編集に関係して口話法の研究と教育に活躍したが、特に1929年(昭和4)に発表した発音基本練習表(パバマ表)と1954年(昭和29)発表の口形文字は有名である。前者は音韻の組織図であり、発音指導体系でもある。後者は、発音と読話の指導のための記号である。何れも勝れた研究成果として名高い。

 5 昭和期(2)──戦後の義務制の実施から40年にかけての教育方法の発展期

 戦後の20年間は、この教育が大きな発展を見せる時期である。義務制の確立、聾難聴の分離、聴能教育、早期教育、インテグレーション等、教育の変化は著しい。言語教育に関しては、従前の口話法から聴能教育に基づく口話法へと脱皮していく時期である。

(1) 鳥居英夫の読話論

 鳥居英夫は、東京教育大学附属聾学校幼稚部主事の体験を生かして読話の研究を進め、読話に関して次のような見解を示し、談話に対する理解を深めた。即ち、読話を容易にするには、単に、明るさ、眼の高さ、距離等の物理的条件だけでなく、話し方が極めて重要となることを提唱し、健聴者間の会話とは異なった配慮の必要性を説いた。

 彼の表現によれば“要領よく的を射た短文”(省略、附加、言い換えによって両唇音をふくむ語句で構成された短文で、しかも語調的でなく書き言葉的な表現)の重要性を説いた。これは、読話が視覚に依存するコミュニケーション法であるので、聴覚に依存する通常の会話とは異なった配慮が必要である点を具体化したものとして貴重である。

(2) 岩城謙の言語素材論

 岩城謙は、1959年(昭和34)東京教育大学国府台分校聴能研究室紀要に“言語素材論”を投稿し、従来の口話法が読話と発語に力点を置いた言語教育であったことが、言語そのものの指導を弱体化させていることを主張し、次のように、言語を育てる為の指導の確立の必要性を説いた。

 「従来、言語指導は話し言葉の音声的な面を強調しすぎて、言語的な面を軽視する傾向が強かった。かつて要素法が言語そのものの発達を阻害した如く、現在の口話法も発話読話に力を注ぐあまり、言語そのものの指導が等閑視されてはいないか。低学年では発語読話に悪い影響があるとして書かれた言葉は用いられていないし、小学校の課程に入っても書かれた言葉に接するのは殆んど教科書を通してだけである。……言語指導を企図する場合には、先ず普通児が4歳迄に習得する言葉(言語素材)を把握して、それをろう児の言語発達にふさわしいような順序に配列した言語素材の体系がなければならない。……」

 (3) 萩原浅五郎の新しい聾教育

 萩原浅五郎は、川本宇之介の後を受けて1949年(昭和24)から1968年(昭和43)迄東京教育大学附属聾学校長の任にあって、戦後のこの教育の発展に大きく寄与した一人であるが、その言語教育は、1957年(昭和32)に著わされた「新しい盲教育──オージオロジイ──」に示されている如く、聴覚に関する学際的な研究領域としての聴能学にその基礎を求め、聴能の活用によって言語教育の活路を開こうとするものであった。そして、次のように述べている。

 「我が国におけるろう教育は、相当の立ち遅れを認めない訳にはいかない。ろうに関する教育利学の成果の貧困は、必然的にろう教育を体系化することを許さない。」

 「最近、聴能学がこうした要請から、生理学、耳鼻学、精神病学、音響学、電気学、心理学、教育学、音声学、言語学、社会学等との総力を結集して、……を解決しようとしている事実は着目すべき事実である。」

 6 昭和期(3)──昭和40年以降の障害の多様化と教育方法の分化の時期

 障害の多様化と教育方法の分化については、昭和40年代に、難聴教育の聾学材よりの分離として、また、早期教育や聴能教育の成果として一般の学材に学ぶ聴覚障害者の増加として、更に、重複障害者の聾学校就学として一層深刻になって来た課題である。そして、言語指導法としても、手指の活用が口話法を補う点から検討され、試用されるに到った。こうした動向の一部について、次に紹介する。

 (1) 宮本英一、田上隆司の同時法

 同時法は、栃木県立聾学校において、校長の宮本英一と、田上隆司をはじめとする同校教員によって、1971年(昭和46)の全日本聾教育研究大会で発表された口話と手法の併用法としての言語指導法である。この方法は、その名の示す通り、口話と手話の同時発進を原則としており、その意味で、手話そのものも従来の手話とは趣を異にする日本語の文法による手話である。そして、聴能の活用や読話といった方法と相互補完の機能を手話が果すものと解釈されている。同校の出版物によると次のように認められている。

 「読話という通信路では、“口の形とその変化”を記号にして、音声語の持っている情報を伝達するわけだが、次の2点で情報が脱落する。

 ア 声の大小・高低などによってもたらされる情報は口の形では表わしにくいことが多い。

 イ 日本語音韻は101種あるのに、口の形では16種程度しか区別出来ない。」

 (2) 松下貞雄、馬場喜美子のキュード法

 京都府立聾学校においては、1961年(昭和36)より幼稚部は小学部より独立し、翌年より年齢別教育歴別3年保育を開始し、2歳児についても集団別教育相談を開始した。このことを契機として、同校の幼稚部教諭の松下貞男、馬場喜美子等で開発した教育プラン“言語入門期のプログラム”の一部がキュード法である。キュード法は、音韻の明確な発音が成立していない時期に、各音韻を識別して表出する意識を明確に持たせ、また、読唇による受容を容易にするために用いられる補助的な身振り動作(キュー)を活用した指導法である。これは、従来の純粋口話法が発語と読話の技術にとどまって、限界があったのに対する改善として研究されたものである。なお、この方法は、千葉校等へ波及して行くことになる。

 (3) 金山千代子の母と子の教室

 財団法人小林理学研究所の補聴研究室では、1966年(昭和41)から金山千代子が主任として「母と子の教室」を設け難聴乳幼児について検査と相談に応ずるほか、乳児とその母親の指導を行い成果をおさめている。対象は、当初零歳から小学校就学までの一貫教育をしていたが、近年、3歳未満児とし、1期間(3か月~4か月)15回、補聴器使用の訓練を実施するが、幼児の発達には家庭教育が影響するので、母親に補聴訓練の方法や難聴乳幼児の扱い方などを指導している。

 この方法は、クリニック方式と呼ばれ、聾学校や難聴学級ではなく、一般の幼稚園の教育と並行して行われるところに特色がある。そして、早期教育と聴能教育を徹底させて、健聴児との統合教育の可能性を拡大したものとして貴重である。

おわりに

 110余年にわたる我が国の聴覚障害者の言語教育の歴史を、6つの期間に分けて、代表的な人物の業績を中心に一通りの点描を試みたが、歴史としての一貫性を保つことの困難さを痛感している。次の参考文献を通じて、読者に一層正確な理解をしていただけると幸甚である。

 なお、今後、ニューメディアの時代に即応した教育方法の一層の改善を期待する次第である。

参考文献 略

筑波大学学校教育部教授


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1985年11月(第50号)2頁~8頁