特集/聴覚障害者のコミュニケーション トータルコミュニケーションについて

特集/聴覚障害者のコミュニケーション

トータルコミュニケーションについて

田上隆司 *

1 トータルコミュニケーションの意味

 トータルコミュニケーション(Total Communication、以下TCと略記する)という用語はアメリカで提案され、普及したものを、日本でも借用しているもので、口話や手話・指文字など、全ての(total)方法を活かして使うという意味である。

 日本では、ほぼ次のような意味で用いている。

 「TCとは、

  耳の聞こえない人どうしの、あるいは、耳の聞こえない人とのコミュニケーションにおいて、

  相手の人の条件や、その場の状況、話題などに応じて、

  最もよい方法を選択し、組合せて、

  コミュニケーションの効果を高めようとする考え方であり、その方法である。」

 聴覚障害者が用い得る方法には、

 ○残された聴力を活かそうとする聴能

 ○口の動きから話を読みとったり、自分も声を出して話をする口話法

 ○手や指の形で意味を伝える手話や指文字

 ○口話と手指を組合せたキュード・スピーチ

 ○筆談、空書、その他いろいろな方法

 これらの方法を、そのときの条件、状況に応じて使うためには、全部の方法を準備しておくことが必要になる。この意味で「トータル(全部の)」という表現をとっている。

 アメリカでも、TCの意味は人によって差があるようだが、ここでは、1976年に全米聾学校長会が採択した定義を引用しておく。

 「トータルコミュニケーションとは、(聴者と)聴覚障害者との、および聴覚障害者間の効果的なコミュニケーションを確保するために、適切な聴能、手指、口頭によるコミュニケーション・モードを統合する理念である。」

 (なお、聴能、口話、手話、指文字などの諸手段を、アメリカではモード(mode)という用語を多く用いているという。日本では、メディア(media)という用語の方が普及している。)

 TCという用語自体はアメリカからの借用であるが、基本的な考え方や具体的な方法は日本で独自に発想し、実践してきたものである。それが、多くの点で、アメリカのTCと同じ考え方をしていることがわかったので、TCという名前を借用しているのであって、当然のことながら、日本のTCは、アメリカとは違うところもある。以下に述べるところは、日本のTCについてである。

 2 TCの方法と原則

(1) 方 法

 TCで「方法」というとき、次の2つの観点からとらえている。

 メディア(media)

 コード(code)

 メディアのちがいは、前述したように、聴能(補聴器の利用)、口話、手話、指文字、キュードスピーチ、文字利用、その他いろいろな方法を含んでいる。

 コードのちがいは手話で問題になる。たとえば、指文字で、「ボクノナマエハ○○デス」と表示した場合も、発話で同様のことを伝えても、メディアは違っているが、コードは共に日本語コードである。

 読話(読唇)の場合、日本語音の「イキシチニヒリギジ」「ウクスツヌユルグズ」「パバマ」等は、区別がつかない。聴覚上は弁別できても、視覚的には弁別できない同口型異音である。「パパがいる」と「ママがくる」は口型上では弁別できないのであるから、口型で示された日本語は厳密な意味で日本語とは言えない。しかし、基本的には、語い、文法体系共に日本語によっているのであるから、読話は近似的には日本語コードによっているといってよいと思う。

 ところが、次のような手話表現ではどうだろうか。これは、「兄より母の方がたくさん手紙をもらった。」という趣旨の日本語を聴覚障害者が手話で表現した中の一例である。

 語順、附属語を用いないことなど、日本語コードとはちがったコードを用いている。手話表現の中には、図1のように、日本語コードに従うことを前提としないものがあり、これを、「伝統的手話」とよび、一方、日本語コードによって手話表現をするやり方もあり、それを「同時法的手話」とよんでいる。詳細については、後述するが、手話には、日本語コードの手話と、非日本語コードの手話が共存している。

図1

図1(手話表現)

 TCの立場では、これら、いろいろなメディアと2つのコードは、少なくとも現在の日本では存在意味があり、聴覚障害者の情報生活に寄与していると考えている。

 以上の主な方法について分類すると次表のようになる。

表1
     コード
メディア
日本語コード 非日本語コード
音声メディア 聴能
発語
 
口型メディア 読話(近似日本語コード)

キュード・スピーチ
指文字
同時法的手話

読話(近似日本語コード)
手指メディア 伝統的手話

 (2) 原 則

 聴覚に障害がない場合、常にではないが、多くの場合に音声メディアがコミュニケーションの最適メディアである。当然、人類は、音声をメディアとする音声言語を発展させ、今日に到っている。

 聴覚に障害がある場合、どの方法が最適かというと、聴覚障害の状態、受けてきた教育の内容、聴覚障害が生じた時期等、いわば、聴覚障害者の個人差或いはコミュニケーション場面や話題といったことのちがいによって、「最適方法」がちがってくる。常にこの方法が最良だというような突出した方法がないことが特徴である。

 そうすると、相手や場面、話題といった状況に応じて「最適方法の選択」ということが重要になる。TCにおいては、聴覚障害者にはこの方法こそ、最善であるというように、特定の方法を固定することなく、相手などの条件で最適方法を選択してゆこうということが第一の基本原則である。

 第二の原則は「メディアの相互補完」である。人間のコミュニケーションにとって、メディアに要求されることは何であろうか。これはなかなかむずかしい問題であるが、少なくとも、最も基本的な条件として、次の3つをあげ得ると考えている。

 ○発信するときに、できるだけ少ない労力・時間ですむこと。

 ○受信するときに、できるだけわかりよいこと。つまり心理的労力が少なくてすむこと。

 上記の2項目は「経済性の原則」といえるものである。

 ○感情の表現が十分に可能なこと。

 さらに、聴覚障害者の社会的適応を考慮して、次の項目をつけ加えてみた。

 ○日本語コードそのため、特に日本語音の正確な表現

 この4項目を評価基準にして、主なメディアを評価してみると、次表のようである。

表2
 

口話
(読話・発語)

手話 指文字、
キュード・スピーチ
発信の経済性 × ×
受信の経済性 × ×
感情の表現 × ×
日本語音の表現 × ×

 それぞれに、長所、短所があり、しかも、その長所、短所の生ずるところが異なっている。そこから、メディアを同時的に用い得るなら、それぞれの長所が短所を補いあうという「相互補完」が期待されるわけである。

 たとえば、ある複雑な内容を伝達する場面を考えてみる。これを口話だけで正確に伝達することは容易ではない。そこに文章中の重要な語を手話で表現するなら、全体の意味がほぼわかり、手がかりができるので、読話もしやすくなる。では、手話だけで表現すればよいかというと、それでは、発信労力がかかり過ぎてしまう。助詞や助動詞など、或いはわかりやすい形容句などは、口話だけで表現しても通じ得るはずである。

 又、内容が複雑で、多様な語彙が必要になると、手話だけでは応じきれない。これを口話で分化させることができるし、読話の方も、手話で意味の大枠が与えられるから、わかりやすくなる。この単語のレベルでの、手話と口話の相互補完の例を次図に示す。

図2

図2(手話と口語の相互補完の例)

 (手話は意味の範囲を示す枠記号で、口型は意味を分化させる分化記号といっている。)

 以上のように、文レベルでも、語のレベルでもメディアを組合せ、相互補完をすることが、TCの第2の原則である。

 3 聾教育史上のTC

 日本では、聾学校の教育は明治初年から開始され、国際的に見れば、18世紀の中頃から開始されている。聾学校の教育が開始される以前は聴覚障害者は放置されていたといってもよく、コミュニケーションの手段としては、口話や手話・指文字はなく、身振りによっていたと考え得る。聾学校教育が開始されると、口話、手話共にとりあげられてきて、選択の論争も起きるが、初めの頃は、どちらかといえば、教育者達の関心は、「教育の可能性」とか「社会的自立」に重点を向いていて、口話でも手話でも利用できるものは利用する方向にあったのではないかと思う。

 概括的に言えば、聾学校以前の社会が、聴覚障害者の障害の面に注目し、特殊性を過大視して、可能性を軽視していたことに対し、聾学校の教育は、非聴覚障害者との共通性を重視し、教育の可能性や社会的自立の可能性を強調したのである。

 聾学校教育が内在させていた「聴覚障害者と非聴覚障害者との共通性重視」の傾向は、必然的に手話・指文字否定、口話選択の方向に動いてゆく。手話・指文字は非聴覚障害者にないメディアだからである。

 日本でも、国際的にも、口話法だけに限定する「純口話法」の時代になり、それが続く。

 しかし、共通性のみの強調は、前時代のアンチテーゼとしては意味のあることであるが、時がたつにつれ、それだけでは、「聴覚障害者としての人生の否定」につながってゆくことに気付く。聴覚障害者が聴覚障害者として生活するということは当然のことであり、その中で必要なら、手話を使用することも否定されるべきではないということになる。共通性を肯定しながらも特殊性も尊重してゆくべきだということになる。このような発想のものに提唱されたのがTCである。TCは「社会には、多様な人が共存しており、聴覚障害者もその中で、聴覚障害という属性をもった一つの個性として生きていけばよい。」という考え方をしている。

 思うに、TCは、社会における多様な人間の共存、つまり、価値観の多様化を前提としているが、それは、今到来しつつある「情報社会」の基本的動向に一致している。今、去りつつある工業社会の基本的動向が、人間の均質化を前提としたことと口話教育が共通性を強調したこと、それに対し、情報社会が多様性を特徴とすることとTCが多様性を前提とすることは無関係ではないと考えている。

 TCは、来るべき情報社会を意識して提案したものではないが、情報社会へ向って流れてゆく大きな時代的傾向の中で、聴覚障害教育という分野に生じた一つの支流と見ることができると思う。

 (TCは、純口話法の否定という形で提案されてきた。しかし、口話法には、口話法が果した時代的役割というものがあり、それを否定するものではない。TCは、口話法の成果の上に立って提案されたものである。)

 (時代的動向について、詳細に述べる余裕がないので、要約した表を次に掲げておく。参考にしていただければ幸いである。)

表3
文明史 農業社会 工業社会 情報社会
時代(日本) ~江戸時代 明治~現在 今後~
中心技術 栽培技術 動力技術 情報処理技術
中心の風潮 階級固定化 均一化 多様化
障害者観 共通性軽視、特殊性重視 共通性重視、特殊性軽視 共通性の上に特殊性尊重
浄穢的、貴賎的 優劣的 一つの個性
ろう教育 放置 学校設立から口話法へ トータルコミュニケーション

4 他の障害児教育とTC

 人類社会では、音声言語が、最も発達した、そして共通のメディアである。しかし、音声言語の理解・使用に障害を持つ人たちについてなら、その人たちが理解・使用可能な「方法(メディアとコード)」を採用し、それを周りの者が学習するなどして、できるだけ音声言語との置換可能性を向上させてゆくというのがTCの考え方である。

 この考え方は、聴覚障害に限定すべきものでなく、他の障害児教育の中でも適用できると考えている。たとえば、5歳位の「発達性運動性失語」の子どもを考えてみる。ブローカ中枢に損傷があり、音声言語を話す可能性は極めて薄いが、聴覚に異常はないから音声言語の理解は可能である。この子に発語訓練だけ続けたら、理解語に見合う表出手段をもてないから、情緒の発達や概念形成など、2次障害を生ずるだろうと思う。音声言語にこだわらず、手話・指文字を指導し、それを基礎にして、文字を習得させてゆくべきであり、当然、両親もそれを習得するように援助すべきであって、音声言語だけがコミュニケーションのあり得る方法だという考え方から抜け出してもらうことが必要である。

 音声言語の理解・使用に障害のある子どもたち、つまり、精神薄弱児、自閉的傾向の強い子ども、先程のような言語聴覚児、脳性マヒなどの肢体不自由児などの教育では、TCという用語を用いる場合もあり、そうでない場合もあるが、同じような考え方が見られる。

 TCという用語は、聴覚障害教育の中で生まれ、聴覚障害関係が中心になって使っている用語であるが、要は、障害者観の問題であり、そこから生じてくる言語観の問題であるから聴覚障害に限定する必要はないわけである。

 5 TCの障害者観

 第3節で述べた「聴覚障害者は聴覚障害者として生きていけばよい。」という発想は、1981年の国際障害者年では盛んに話題になった「ノーマライゼーション」の考え方とよく似ていることに気付かれると思う。ノーマライゼーションとは、「多様な人びとが共存する社会こそノーマルな社会だ」ということで、障害者は障害者として社会の中で生活し、役割を果すという、多様性を前提とする考え方である。TCの立場では、TCもノーマライゼーションも、同じ障害者観を根として生じた同根異株だと考えている。従って、いわゆる統合教育にしても、聴覚障害者が一般の小中高校・大学等に適応してゆくだけを目ざす一方通行的エリート・インテグレーションの考え方に反対している。当然、TCでは相互接近(聴覚障害者は口話を学び、いわゆる健聴者は手話・指文字を学ぶ。)による「交流」を推進しようとしている。

 以上は、聴覚障害者と非聴覚障害者との人間関係、あるいは社会適応の面を例にして、TCが根底に持つ障害者観がどういう形であらわれてくるかを述べてみた。だが、障害者観の問題は、障害児教育の根幹にかかわっている問題であるから、いろいろな所に影響する。たとえば、聴覚障害者としての自己受容、社会的役割を意識させるための「福祉教育」、あるいは、手話・指文字に対する言語観を深めるための「養護・訓練」のあり方、「生徒指導」「道徳」その他いろいろな面に影響してくるはずで、それらとTCは連動しているのである。以上のことを次のように図に示した。

図3

図3(TCの障害者観)

 6 TCと同時法

 TCの第二原則は、メディアの相互補完であった。特に、口話・聴能と手話は、メディアの特性が非常に異なるだけに、相互補完の効果が大きい。

 又、手話は、聴覚障害者に愛着をもたれているが、伝達の正確さや効率に問題が多い。口話は、その点、優れているとはいえ、感情の表現とか、わかりにくさに問題があり、あまり好まれない傾向がある。このどちらか一方に偏って用いられることは、聴覚障害者の言語生活にとって、非常に大きな損失である。

 聴覚障害者の言語生活の充実を考えるなら、手話と口話を併用し、相互補完をさせるのが第一の課題となる。

 ところが、従来、日本で使用されてきた「伝統的手話」は、既に述べたように、純日本語コードで、口話との併用はしにくい所があり、少なくとも併用を前提にしてつくられていない。従って、伝統的手話そのままの形では口話と相互補完させようとしてもその効果は小さい。それだけではなく、日本語の習熟を大前提とする聾学校では手話を役立たせにくいということも起きてくる。

 以上のように

 ○口話と相互補完させる伝達の豊かさ

 ○日本語の習熟

の面から、日本語コードの手話(「日本語としての手話」、「日本語対応の手話」といった表現がされている。)が必要になる。こういう発想で、栃木県立聾学校と栃木県ろうあ協会の共同作業により新しい手話が構想され、提唱されたものが、同時法的手話である。

 提案は、昭和43年で、同年栃木本校から、同時法的手話語彙集として「手指法手びき」が発行されている。

 アメリカでホルコム(Holcomb, R.K.)氏によって、「Total Communication」が提案されたのは、1968年(昭和43年)で、偶然同年であった。

 現在、我が国のTCは、この同時法の提案から出発し、TCという名称を借用して今日に到っている。そのため、TC即同時法という理解も少なくない。しかし、同時法的手話を用いることは、TCの中の一つの方法である。TCは、相手、話題等に応じて、「最適方法の選択」が第一原則である。人によっては、伝統的手話が有効なこともあるのだから、その存在意義を否定するものではない。

 次に、同時法的手話の表現例を、前記の「手指法手びき」より引用する。この例でもわかるように、同時法的手話では、どんな語(たとえば、助詞の「を」とか受身の助動詞「れる」等)も手指法(手話と指文字)で表現できることが必要である。

 しかし、日本語の習得段階では、語を視覚で確認させるために、すべての語を手指法で表現するという方法が必要であるが、習熟するにつれて、その必要はなくなり、口型に依存できる語(たとえば、助詞など)は、手指法で表現しなくてもよく、口話と相互補完させた方が効果的であり、常に図4のような形で用いるのではないことは前述したとおりである。

図4

図4(文化クラブの活動計画は承認されました)

○文化クラブの活動計画は承認されました。

 

7 聴覚障害者のコミュニケーションの動向とTC

 前節で述べたように、わが国には、伝統的手話しかなかったが、昭和43年頃より、同時法的手話が紹介されだした。ほとんどの聴覚障害者は、初めて見るわけで、かなり違和感を持ったであろうと思う。

 しかし、今、多くの聴覚障害者の手話表現を見ると、次のことを指摘できる。

 ○口話と併用する人が多い。

 ○語順は日本語の語順になっていることが多い。

 ○語形は、従来の伝統的手話の語形を用いているが、語の意味は、日本語の語の意味と同じであることが多い。

 簡単に言えば、口話と併用し、手話の日本語化が進んでいるのである。

 このように、伝統的手話の語形を用いているが、文構成上は、日本語化した手話を「中間型手話」といっている。伝統的手話と同時法的手話の中間型という意味である。

 中間型手話が、現在のように拡大したのは、昭和45年に発足した「手話奉仕員養成事業」の結果であろうと思う。この制度によって、いわゆる健聴の手話習得者が急増し、聴覚障害者との接触が増大すると、その中で、口話法の効果が確認され、活用されたことや、健聴者側の手話に口話併用の日本語対応型が多いことなどが作用したのだと思う。今後、この傾向が減少することは考えられない。

 一方、聾学校では純口話法は改革され、手話の導入が進んでいる。そして聾学校での手話使用は、口話併用、日本語コードの手話、つまり日本語コードのTCが主にならざるを得ないだろうと思う。そういう型で学習してきた卒業生が社会的に活動するにつれ、ますます、手話の日本語化を促進し、日本語コード型TCを増大させてゆくものと考える。

 もちろん、この変化は、他の言語における変化と同様に、ゆっくりした変化であり、「伝統的手話」との共存にも十分配慮すべきことは言うまでもないが、大筋としては、日本語コード型TCの方向に進んでゆくだろうと思う。そして、それを促進することが、聴覚障害者の言語生活を豊かで、効率的なものにし、健聴者との共存を充実させるだろうと思っている。

引用文献 略

作新学院女子短期大学講師


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1985年11月(第50号)9頁~15頁

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