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日本の障害者の歴史

―現代の視点から―

花田春兆

A 近代以前

 1.神話・民間伝説

 日本の障害者は、歴史のはじまりと共に現われます。日本で一番古い書物の「古事記」によれば、日本で最初の男神、女神、聖書にたとえればアダムとイヴに当るイザナミ、イザナギ二神の間に生まれた最初の子が、どうも未熟児のCPだったらしいのです。3歳になっても体がグニャグニャなので、ヒルコと名付けられます。水田などに住んで人や動物の血を吸うヒルです。このヒルコは葦の船に乗せられて海に流されて、歴史の上からは姿を消してしまいます。

 そのヒルコが後の時代になって、民間伝説の中ではエビスと名を変えて、福の神としてリハビリテーションするのです。葦の船が無事に岸に流れついて、そこで魚釣りの神となったという話です。新しい国造りに忙しい当局者から消されたものが、庶民の力によって復活させられたのです。

 その他にも日本神話には、スクナヒコノミコトとかクエビコとか、小人だったり、歩行不能者であることを思わせる神がいます。身体に障害があっても、優れた頭脳の持ち主として登場しているのです。

 民間伝説といえば福子伝説というのが日本各地に存在しています。障害児が生まれるとその家は栄える、という言い伝えです。そうした子供が生まれると、その子が一生困らないように……と、家族全体が心を合せて仕事に励む結果が、その家を栄えさせることになるのでしょう。その家族にとっては非常な努力と苦労の結果に違いないでしょうが、近所から見ると、いかにも障害児が福を招き寄せるようにも見えたのでしょう。見方を変えると、この福子伝説の広がりが、障害児たちを生かすことに役立ったことになるのだと思います。

 福の神といえば時代はぐっと近くなるのですが、七福神信仰というのがあります。7人の福を守る神々ということで、この7人を乗せた宝船の図を飾ったり、新年にはそれぞれの神をまつった神社を7ヵ所参拝して回るという習慣が、江戸時代の庶民の間には盛んだったようです。

 ところがこの7人の神の中でただ1人の女神である弁天を除いた他の6人は、どうも障害者としての傾向が強いようです。さっきあげたエビスをはじめ、精薄とか水腫症とかの症状が見られるのです。こうした見方はなにも私だけのものではなく、江戸の同時代の人がすでに指摘しています。

 ここで注意したいのは、この7人の神のもとの国籍です。純粋に日本といえるのはェビスくらいのもので、他は中国であり、インドであるのです。エビスと並んで代表的なダイコクも日本では大国主神となっていますが、どうもインドのダイコクテンが源であろうとの解釈も可能なのです。説明する紙数がないので飛躍的な論理となりますが、障害者は外国人並みに少し違った人間と見られていたのでしょう。そして外国人を見る機会が多ければ、障害者も特別に意識しないですんだのだと思われます。

 仏教や漢字文化の伝来が示しているように、日本文化の基礎が確立していたその時期は、中国や朝鮮半島との交流も盛んで、外国人を見る機会はあったのです。そして、中国を通じてシルクロードとも結ばれていたのです。

 また、そうした神話や民間伝説を語り継ぐ役を果たしていたのが、老人であり、盲人をはじめとする障害者であったことも、忘れてはならないでしょう。盲人の記憶力のよさもあげられますが、これらの人々は狩とか田畑に出るよりも、家にいてイロリの火を守ったことが考えられます。イロリは人々の集まる場所であり、今でいうならば情報の中心を把握していたことになるので、重要な位置を占めていたことになりましょう。

 2.古代統一国家

 奈良に都を定めた天皇家の古代国家は、当時の中国の唐を手本にして、中央集権の国家を創ろうとします。土地と人民をすべて国の直轄化におこうとしたのです。その時の法律に障害者対策が明示されているのです。税の減免措置がそれです。人数割りで分けた土地から納めさせる米や麦を、障害者がいる場合には、その障害者の障害度によって、納めさせる量を減らしたのです。このような障害者への減免措置が法律に明示してあるのは、この時の他には、現代(太平洋戦争以後)まで無かったことと思われます。それだけ税の取り立てがきびしかった表われでもありましょうが、障害者を1人の立派な公民として扱い、しかも障害度に応じて対応していることは確かなのです。但し減免といってもまるっきりゼロになるわけではなかったので、その分だけ家族や村全体としての負担が増えることになるケースもあるわけで、それに苦しんで土地から逃げ出さねばならなくなる人々もあったようです。もっとも健康な人でも税に追われたり、税を嫌ったりして逃げだす人々はいたようです。

 この奈良時代は仏教が国の宗教となり国家の権力と結びついたのですが、その中で現在の社会事業と呼べるものが発足しています。大阪の四天王寺などに建てられた悲田院(養老施設)とか、施薬院(医療施設)がそれです。こうした公立の施設は、その後あまり記録されていないようです。国家統一のために犠牲となって多くの地方豪族が滅ぼされた争乱や、無理な土地制度の皺寄せで家を失い、家族の保護を受けられなくなった老人や障害者が多くなっていたとも考えられましょう。

 この奈良時代の天皇家のスターとして、光明皇后の名があげられましょう。当時としては新興貴族であった藤原氏の期待を集めていたのです。この光明皇后が貧しいハンセン氏病患者の看病をした話が伝えられています。ハンセン氏病はこの頃すでに現われていて、それ以後も各時代を通じて社会問題となり続けるのです。障害者で明らかに歴史に現れてきているのは、盲人とハンセン氏病者だ、と言えるでしょう。

 次の平安時代は、京都が都となり、貴族の時代になります。優美で典型的であることが重んじられた貴族の生活では、個性的な(?)障害者は好まれなかったと思われます。形の異ったものは、よい評価を得られなかったでしょう。同じ貴族の家に生まれても障害者は、宮廷のサロンには出にくかったに違いありません。都の西の郊外の嵯峨に昼も帳(絹のカーテン)をおろして住んでいる学者がいたという話が残っています。内部疾患の可能性が強いのですが、ともかく障害を持った人が、学問に打込んでいたとの想像が湧きます。この例のように都を離れた郊外の別荘で暮らすのが、貴族の障害者たちの姿だったかもしれません。

 また、東の郊外には、清流のほとりに琵琶の名手が住んでいた、とあります。この人は悲しみのあまり泣きすぎて目が見えなくなったのだ、と伝えられています。盲人と音楽の結びつきを示す話です。

 また、南の郊外の岩倉には心の病い(精神障害)の姫君が浴びた滝というのがあります。この噂が広まって、滝参りをする者が増えたのですが、すぐに治る人ばかりではありません。長逗留となって近所の農家にあずけられる子供も出来ました。こうしたケースが発展して貴族の精薄児が農家の養子となることがよく行なわれるようになります。貴族としては付添いを付けての滞在費などの面倒が軽くなり、農家としては土地争いなどが起きた時に守って貰える、という双方のメリットがあったのです。あずけられる精薄児や精神障害者にとっても、町の中の生活よりも郊外の田園生活に移ることによって、今でいう開放療法の効果を得られたことにあったのでしょう。

 江戸時代中期の俳人与謝蕪村の俳句に、“岩倉の狂女恋せよほととぎす”というのがあるのも、これと関係あるのでしょうが、岩倉という土地と精神障害者との深い関係は、つい最近まで続いていたのです。驚くことに千年近い歴史なのです。

 3.中世

 ヨーロッパでいう中世に当たるのが日本にあったとして、ここでは鎌倉時代・室町時代を対象とすることにします。武士による政権が鎌倉と京都の室町にあったところからそう呼ばれるのです。仏教が貴族の間から庶民にまで広く広がって行き、人々の考えの中心を支配するまでに浸透して行った時代です。

 この仏教思想の中で障害者に最も影響を与えたのは、因果応報の理念でしょう。悪い原因を作れば、必ず悪い結果がもたらされる、という科学的なとも評価出来る理念なのです。悪いことの種子を播かぬように……、との戒めの意味で使われるならよいのですが現れている事柄から逆に、結果においてどんなにか悪い事をしたに違いない、という評価を与えて、その人を責める結果を招いたのです。それもその人の生まれる前の責任まで問われるのですから、たまったものではありません。しかも、形の異ったものを好まない傾向が強まって、普通でないものは劣悪なものだ、とする障害者観が結びついていくのですから障害者やその家族は実に肩身の狭い思いで生きて行かねばなりませんでした。

 その反面、生きている間によい事をしておけば死後もよい結果が得られる、との信仰から、困っている人への施しをすることは、習慣ともなっていったようです。でも、それが本格的な救済として効果をあげていたかどうかはわかりません。寺院とか僧侶個人がそれぞれに救済事業をしていた記録は残っていますが……。

 こうした障害者が歴史から隠れて行くこの時代、体力が優先した武士の社会だったという時代に、注目されるのは盲目の琵琶法師たちの活躍でしょう。

 鎌倉政権を創った源氏によって滅ぼされたライバルの平氏の、その一族の華やかな盛衰を壮麗な文学作品にまとめたのが「平家物語」です。この物語はそれぞれにまとまった沢山のエピソードを数珠(ロザリオ)のように連ねたものですが、一気に書かれたものというよりも、核になるものはあったでしょうが、その1つ1つのエピソードは語り継がれて行く間に、洗練されて現在残っているような形になったと思われます。もともとこの物語は読まれるよりも、琵琶を伴奏として節をつけて語られることによって、一般庶民にまで親しまれる性質を持っていて、その語り手が盲目の琵琶法師たちなのです。そしてこの物語を現在の形にまとめたのが、これも琵琶法師の1人で名人とたたえられた明石覚一です。室町政権の創始者の足利尊氏の従兄弟とも伝えられるこの盲人は、琵琶法師たちや広く盲人たちの社会的地位の向上を目指して、検校制度(盲人独特のギルド制度とでもしておきましょう)を制定します。この検校制度については後で触れることにします。

 4.戦国時代

 室町政権は内紛と反乱に悩まされることが多く弱い面を持った政権でしたが、その末期には無力化して、各地の大名はそれぞれ自分の勢力の拡張を図って、内戦が各地で続く時代を迎えます。

 天皇家をはじめとする貴族はもちろん、一般庶民も常に生命の危険にさらされて生きにくい世の中でしたから、行動が自由に出来ない障害者たちは、まさに生きにくい世の中だったに違いありません。

 但し、実力本位の時代ですから、障害者でも能力さえあれば、十分に認められ重要視された時代でもあったのです。

 天下を統一して戦国に一応の終止符を打った豊臣秀吉の軍師だった竹中半兵衛は、秀吉に仕えた時、すでに結核に冒された内部障害者でしたし、豊臣の勢いが増大する以前には天下無敵と恐れられた武田の軍師の山本勘助は、片眼の上に片足を引きずっていた身障者でしたし、秀吉に仕えて北陸の大名にまでなった大谷刑部は、ハンセン氏病にかかって盲目になりながらも、最後まで大名として活躍していました。

 このように活躍できた障害者はもちろん例外的な存在で、一般の障害者はよくても“くぐつ”の群れに入って、流浪の一生を送ったのだろうと想像されます。

 琵琶法師たちが1人または数人の盲人だけで行動していたのに対して、くぐつは障害者の集団というよりも障害者も加わった集団と言う方がよいでしょう。多い場合は20人から30人或いはもっと多い人数が一座を組んで、各地を移動していたらしいのです。くぐつというのは操り人形という意味を持っていますが、人形使いだけでなく、曲芸師や奇術師、踊り子、琵琶や笛や太鼓などの演奏家たちを含んだ一座だったようです。クル病・カリエス・盲人などの障害者が、その中で演奏や道化役をしていたことは確かでしょう。こうした集団は平安朝の頃から存在していて、ずっと後世まで続くのです。

 聴力・言語障害者となると、障害者の中でも特に歴史に現れてきません。辛うじて拾うとすれば 「古事記」の中とか、「古事記」が生まれた時代の皇族関係者の中に、それらしき人影が見られる程度でしょう。ただ、この室町時代から戦国時代へかけて盛んに催されるようになった舞台芸能の“狂言”には、視力・肢体などの他の障害者とともに聴力障害者が登場します。

 その代表とするにはどうも不適当なのですが、「三人片輪」というのがあります。

 “仔細あって片輪者を多勢抱えよう”という人の許へ、“唖(おし)・座頭・躄(いざり)”の3人がやって来て雇われたのはよいのですが、主人の留守に酒に酔ってしまい、主人が帰ってみると3人の障害が以前とそれぞれに違っていて、3人ともにせ者だったことがバレてしまう……というお話です。

 現代風に言うと、雇用促進の実践者を悪用したような話ですが、にせ者が現れるくらいですから、本物がいて抱えられていた事実があったと見ても間違いはないでしょう。

 特に狂言には、座頭物として分類の1部門なすくらいに、盲人は多く登場して来ます。

 座頭の2人連れが河を渡ろうとして通りかかったいたずら者に利用されてしまったり、女房を盗まれたあげく猿にひっ掻かれたりなど、どれも芳しい話ではありません。しかし、障害者を特になぶり者にしたのではなく大名とか僧侶とか当時の権力者たちをなぶっているのですから、その点では“平等”なわけですし、そうした狂言があることは、座頭仲間だけでの旅行(巡業)がされていたり、座頭も立派に結婚をしていたということを証拠立てているのです。

 なお戦国の内戦に当って、攻撃する側の軍隊の道案内の役に聾唖者が好んで使われたという話が伝わっています。他人と喋らないから秘密が保たれる点を買われたらしいのですが、どうも気分のよい話ではありません。

 5.江戸時代(近世)

 豊臣から政権を奪った徳川家は、政権の所在地に江戸を選び、以後260年にも達する長期安定政権を築きあげます。

 この間に徳川一族から15人の将軍が立つのですが、その中で九代目の家重と十三代目の家定の2人には、明らかにCPの症状が見られるのです。特に家定の方は、ハリス(アメリカの初代駐日公使)の「ニッポン日記」にその様子が詳細に記入されています。そうした強い言語障害まである身障者が将軍でいられたのも、親子代々間じ職を継ぐという世襲制度と、変革を許すまいとする強固な官僚制度の支えがあったからでしょう。それも最高の権力者である徳川本家だからこそ出来たことで、他の大名をはじめとする家では出来なかったでしょう。徳川政権ではそうした状態を見つければ、それを理由にしてその家をつぶすことを、常にねらっていたからです。

 そうした身障者の将軍を2人も出しながら徳川政権は、身障者保護の政策を打出していません。例外としては盲人保護政策があり、これは手厚くて、かなり徹底したものでした。検校制度の公認と奨励がそれです。検校制度はとても一口に言えないぐらい複雑なものですが、大まかにいうとすれば盲人たちを検校・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)・市(いち)の4段階に分け、1番上の検校ともなると社会的に大名の位の待遇を受けたと言います。外出は立派な駕龍(かご)に乗り、大名と同じ人数のお供が付きました。位が1段階上るごとに相当な金額を納めなければならないのですが、そのかわり適当に配当金もあって、相互扶助のシステムになっていました。

 こうした身分制度(しかも金で買っていける)への批判はあるでしょうが、この制度によって保護され、またそれなりの権威を保てたことがプライドにも影響したのでしょう。この江戸時代には優れた盲人たちが輩出します。

 あんま・ハリ・灸(きゅう)など医学的な面で盲人の職業をひらいた杉山検校、琴の名人として琵琶に代わる音楽を普及して、その演奏と指導を盲人の職業として確立していった八橋(やつはし)検校、歴史学者として当時の第一人者ともなった塙保己一(はなわほきいち)などは特に有名です。

 もちろん、優れた名を残すような盲人よりも、そうでない人の方が多いのは当然でしょう。それら多くの盲人のために、位を買うお金をつくらせるという理由をつけて、徳川政権は盲人に金貸し業をさせました。公認の金貸しですから威張ったものでした。公認を笠にして強引な取立てもやったようです。金持ちの商人などは、金の無い盲人に陰で金を回しで金貸しをさせていたらしいのです。あくどくやりすぎて嫌われることもあったようですが、嫌われるだけの力は持っていたと言えましょう。

 この時代になると、武士ばかりでなく、江戸や大阪の商人たちをはじめとして庶民にも学問をする環境が育ってきます。そうした町人の子供相手の個人企業の小さな学校が、寺小屋と呼ばれるものです。ことに注目されるのはその寺小屋で学んでいた子供たちの中に、意外にも障害児が割合いとしては多くいた、という記録が残っていることです。学問するようになったとしても、まだまだ文盲が大部分の世の中ですから、簡単でも読み書きソロバンが出来れば、たとえ体は人並みに動かない体でも生きていくには困らない(経済的に)だろうし、軽蔑されることもないだろうから……と親は思ったに違いありません。

 また、この時代に庶民の間で盛んになった俳句には、足の悪い人や盲人などの障害者たちも多く親しみ、名を残している人々もいます。文学の世界では日本ではあまり類が無い怪奇小説の作者で有名な上田秋成(うえだあきなり)は、幼い時わずらった天然痘(てんねんとう)がもとで両手の指に一生涯治らない障害を負っていました。

 庶民の芸術としては、欧米にも有名な浮世絵があります。[葛]飾北斎(かつしかほくさい)といえば特に優れた画家ですが、この人のスケッチの中に「いざり車」を見かけました。いざりが乗る車で、平たい木の箱に小さな木の車輪を付けて、手で地面を掻いかり棒で押したりして進むのです。描かれている身なりの貧しさからして、盛り場や寺社の境内などに行って物乞いをして生きていた乞食(こじき)ではないか、と思われます。

 将軍でもなく、検校などにもなれない庶民の障害者の姿がそこにあるような気がしました。

 そうした物乞いをして生きなければならないような障害者でも生きて行ける一つの要素としては、町というか、もう少し狭い隣近所の親睦に役立っていた隣保(りんぽ)組織の働きがあったと考えられます。武家屋敷とか大きな商店を除いては江戸の庶民の住居は、長屋というスペースの狭い1階建ての集合住宅でしたから、人々は顔を会わせないではいられなかったのです。それに徳川政権はキリスト教の抑圧を徹底するために、相互に監視させるねらいもあって相互の連帯を強化させる政策をとっていました。オーバーに表現すると、すべての責任は長屋全体で負わなければならない、という具合いでした。その真のねらいがどうであれ隣近所の相互扶助のシステムが障害者にプラスしていたことは確かでしょう。

B 近代以後

 1.明治・大正

 徳川の封建政権を倒して、天皇制のもとに江戸を東京と名を変えて都とした新政府は、欧米先進国を目ざして近代化に取り組みます。

 その明治時代以後のことは、語る人も多いと思うので少し簡単にしたいのです。

 近代化の基盤として教育に力が注がれます。学齢期を定めて全国民に教育を受けることを義務づけた学制が公布されたのは1873年でしたが、間もなく盲学校・聾学校が開設されます。学制が布かれても学校へ行かない人もまだまだ沢山いた頃ですから、盲人やろうあ者のために特に学校を作るというのは、非常に注目されることでしょう。肢体障害児のための小学校が出来たのはそれよりずっと遅れて50年後の昭和期に入ってからなのですが、これは学校に来れさえすれば、読み書きは特別に工夫しなくても普通に教えればいいからということなのでしょう。惜しいことに受賞はしませんでしたが、日本で最初にノーベル賞の候補者になった医学博士の野口英世も、明治の新しい時代の勢いと、小学校教育の成果の現れと見ることが出来ましょう。赤ん坊の時にいろりに落ちて火傷して手の指が棒のように固まってしまったのを、同年輩の子供たちにからかわれた口惜しさが、彼の負けん気を刺激して、学問に精を出させる起爆剤となったのです。彼のこの話は小学校の教科書にも載るほどに有名となり、その不屈の精神と見事な業績は障害児への励ましとなり、一般の児童にも大きな影響を与えるものとなっていました。

 改革といえば政治面ばかりでなく、文学にも新しい動きが現われています。その中で、言葉の遊びになろうとしていた俳句を、近代的な詩としてよみがえらせる基礎を築いた人が正岡子規です。彼は俳句だけでなく短歌や文章にも新しい生命を与える成果をあげていますが、驚くことに彼はその仕事の大部分を、肺結核からカリエスとなって歩行不能ばかりか、寝床に釘付けになった状態でなしとげているのです。この影響でというわけでもないでしょうが、日本独特の短詩と内部障害者を含めての障害者との関係は、より一層深まっていきます。

 もちろん改革にともなう犠牲もあったでしょう。禄を失った武士が困ったように、検校制度が廃止されて困った盲人たちも多かったでしょう。でも、あんまとか三味線を演奏することなどで収入を得られる盲人はまだよい方でした。それの出来ない障害者はどうだったでしょうか。

 乞食はいつの代にもあったでしょうが、見世物に出て生活していく方法がなされるようになったのは、江戸時代の中頃からでしょうか。見世物とは珍しいものを一般の人に見せて、見物料をとる興行です。珍しいものの中に、小人や奇形などの障害者が入れられていたのです。そうした人が何か芸を見せればもっと効果的でした。手の無い人が足で太鼓をたたくとか、口で字を書くとか、……です。若い頃は見世物に出ていて辛い思いをした、と語っている障害者に、私も会ったことがあります。もちろん見世物として一生を終った人も多かった筈です。

 2.大正・昭和初期

 大正デモクラシーと呼ばれる短い時期を過ごすと、日本は急速に軍国化を進める軍の勢力に引きずられて行きます。富国強兵、つまりともかく国を経済的に富ませ強い軍隊を持つことが、先進国に追いつく一番の近道だとする政策は明治以来とられて来ていましたが、それが極端になってしまうのです。すべてに優先して軍備が進められて、その結果が泥沼の戦争へと突入して行きます。そうした中では障害者は、生産性を高めるという点からも十分ではないという見方をされていましたし、ましてや兵隊になることは出来ませんから、国のためには役に立たないのだという考えが次第に広まって行きました。多くの障害者にとって生きにくい世の中になって行くのです。

 もちろん、そうした世の中の進み方に巻き込まれずに障害者の生き方を考えている人はいました。周りの人々にも、障害者自身の中にも、です。障害児も同じ児童なのだから教育を受けなければ可愛想ではないか、と肢体不自由児のための学校を作る運動が起こり、そんな子供に大事な国のお金を使うより、それだけのお金を他の普通の子供に使った方が効果的ではないか、という反対意見を押し切って、開校にこぎつけたのもその頃でした。

 障害者として問題となり、また目立った実績をあげていたのが、盲人とハンセン氏病者であったのは、この頃も同じでした。

 盲人の宮城道雄と岩橋武夫、ハンセン氏病の北條民雄は有名です。

 2人の盲人が死んだのは戦争が日本の敗戦によって終わってからのことですが、主な活躍期から見てここであげておきます。

 宮城道雄は琴の演奏家として、また作曲家としてあまりにも知られています。現在私たちが耳にする琴の曲は多くが彼の曲だと言ってもよいでしょう。伝統的な琴に新しい時代の生命を吹き込んだのです。

 岩橋武夫は自分ではキリスト教の神学者として多くの書物を著わす一方で、あんまだけに安住してしまって学問をかえりみない大部分の盲人たちにもどかしさを感じて、そんなことをしていたら人間が揉めなくなるぞと警告を発して、成人盲人たちのためにライトハウスという施設を設けて、点学による学問の普及に努めたのです。また、奇蹟の人であるヘレンケラーを前後3回にわたって日本に招き、障害者に希望を与えるとともに、一般の人々の障害者に対する考えを変えさせるのに役立ったのですが、その第1回目の折りは、日本と中国の戦争が決定的に本格化してしまった年、1937年でした。

 ハンセン氏病の北條民雄は、伝染予防のために療養所に収容されて、それまで生きて来た社会から完全に隔離されてしまう苦悩と悲しみを書いた小説が、高い評価を受けて社会的なセンセーションを捲き起こしたのです。また、ハンセン氏病の短歌作家としては、明石海人(あかしかいじん)などが注目されました。

 戦争は中国大陸から太平洋・東南アジアヘと拡大してしまいます。軍事色はさらに戦時色へと強められて銃をとれるかとれないかが、人間の価値をきめる基準となった世の中だったのです。障害者がどう見られ、どう扱われていたかはほぼご想像願えると思いますが、ご想像していただくよりも遙かにひどいものだったと思います。障害者なんか役に立たないから早く死んでしまえ、と行きずりの軍人から乱暴されて障害を一層ひどくさせられた人も、嘘ではなく現実にいたのです。

 中には若い男が戦場にかりだされて労働力が極端に不足したために、私のような障害者でも働くことが出来た、と言うような人もいることはいましたが、それもアメリカ空軍による本土爆撃が始まると、とてもそれどころではなくなるのでした。爆弾に追われ、戦闘機の機銃掃射に追われ焼夷弾の猛火に追われるようになると、頼れるのは自分の手足より他には何も無いことになってしまいます。そうした極限状態になると、人間も動物的能力だけが問題になる存在になってしまうのです。動物的能力だけの存在になる時、障害者がいかに無力な存在になるかは、特に言うまでもないでしょう。

 空襲の激化によって、小学生は学校ごと都会から田舎へと避難させられていました。肢体不自由児の養護学校も同じでした。そしてそれについては、避難していた土地の軍の将校から、いざとなったらこれを飲ませるようにと大きな器に入った青酸カリが、校長に渡されていたという話が残っています。

 戦争が終わった時、ああ、これが生きのびる事が出来た、と思った人は多いでしょうが、障害者もそうした思いは同じだったのです。

国際障害者年日本推進協議会副代表


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1987年3月(第54号)2頁~8頁