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第16回リハビリテーション世界会議「ポスターセッション」

【精神障害者とリハビリテーション】

精神障害者家族会の組織と活動

ACTIVITIES AND ORGANIZATIONS OF FAMILIES OF THE MENTALLY DISABLED IN JAPAN

滝沢武久

家族会誕生

 1950年代の後半に全国で約20ヵ所の精神病院で、家族を患者の治療協力者として組織的な働きかけをして生まれたのが、我が国特有といわれた精神障害者家族会であった。その患者の多くが 「精神分裂病」圏の診断名であったし、精神医療の現場でも1950年代の後半というのは、一方では向精神薬が普及し効果をあげはじめた時期でもあり、その薬物療法の効果とともに家族を退院の受け皿、社会復帰の協力者にしようというその当時の進歩的な考え方でもあった。

 当時1963年日本で3度目の厚生省による精神衛生実態調査があった。この実態調査の結果によって「精神病は治せる。社会復帰をさせうる。事故も事件も適切な精神科医療によって減少する」と関係者がキャンペーンを始めようとしたときであった。本当に皮肉なことに翌年の3月、ライシャワー駐日米大使が公邸内で少年により刺され、重傷を負うという事件が起き、精神病の治療歴があったという少年であった故に、この事件は、アメリカと我が国との間の重大な外交問題に発展しかねない大事件であるとの時の政府の認識から急きょ精神障害対策に取り組むことになったという経過があった。その中身は為政者や治安当局に、いわゆる「野放し」の精神障害者を取り締まれという声であった。

 そうした時期に、必死に家族の声を国の政策に反映させようとして家族会の連合化をおしすすめていた。しかし、我が国では、精神病に対する偏見が余りに強いため、家族は表面に出たがらず、全国団体の役員のなり手が少なかった。一方、厚生省では、上記2つの相反する目的を内に持ったまま精神衛生法の改正が進められ、その予算編成も併行していた。結局、医療施策充実を求める家族の全国組織結成派が大勢の会員を擁し、声を大にして為政者に働きかけることが効果的であることが理解され、どうにか「全国精神障害者家族会」として結集することとなった。翌年、1965年9月4日、新宿の安田生命ホールで500人余の参加者を得て、結成大会がもたれて、いまの全国精神障害者家族会連合会が誕生したのである。

停滞期の家族会運動

 1965年代は世界的にも学生運動の暴発期でまさに疾風怒濤の如く医学界に大学医局講座制解体や精神科病棟の告発の嵐が捲き起こった。そしてその大波の中で全家連は1967年会員の拠金で、財団法人化し、公益助成金を受け、機関誌である「ぜんかれん」誌発行と全国大会の開催という活動を続けていたものの、当初予定した更なる組織拡大や国の社会復帰予算獲得はなかなか成果を挙げることができなかった。むしろ精神病院問題告発や論争などに同調する動きが出て、1975年には京都の全国大会で役員間に亀裂が入るなどのことがあった。この間、有名な朝日新聞ルポルタージュ「ルポ精神病棟」は国民に一大ショックを与え、精神病院とはこれほど悲惨なところか、また医師間の闘争ではいかにも精神医療は難しいと思わせたりして、患者や家族の望みである施策改善とは別にいたずらに日が過ぎて、全国の多くの家族会役員がそのまま十年余、年をとってしまった。ちょうど日本は戦後の荒廃から高度経済成長を遂げ、他の心身障害者福祉や社会保障制度がどんどん整備された時だったのにかかわらず、結果として、精神障害問題の方は国の政策の整備からは関係者のコンセンサスがないからという理由で取り残されるようなことになってしまった。

国際障害者年以後

 1978年になって漸く自力で全国大会再開にこぎつけた全家連は、1981年国際障害者年前年から、欧州の精神障害者の社会復帰フィルムを持って「全国精神衛生キャンペーン活動」を40都道府県にキャラバンし、また、1982年には「精神障害者福祉ニードに関する研究」を、1983年には「精神障害者の社会復帰、福祉形成基盤に関する研究」という、はじめて政策研究を企画、委託実施するなど、新しい動きをし始めた。

 これらと並行して1983年には、国会議員による「精神障害者社会復帰促進議員懇話会」が結成をみるなどの動きもあった。全家連発足当時多くの関係者が期待した政策提起や、国家予算獲得の動きに効果的であると思える団体運動をようやく展開し始めたのである。

 こうした活動とともに1984年より、全国組織の拡大強化のために2年間、家族会指導者研修会を全国各地で実施し、続いて3年間は精神衛生思想普及のため「映画と講演会」を全国で30ヵ所(県)実施した。また、1986年には「精神障害者の社会復帰に関する調査」を企画実施し、同年「全国社会資源名簿」を作成し、さらに精神障害者の職業リハビリテーション研究を企画実施し、また、全国の精神医療関係者、家族、そしてボランティア等400人を集めて「社会復帰、社会参加をすすめる全国会議」、アメリカの精神障害回復者を迎え、「精神障害者回復者体験発表会」を札幌、大阪、東京で開催した。こうしたいくつもの調査研究、予算獲得運動、組織強化活動は常に連動するもので、この間の全家連予算の伸びは国の財政が落ちこんだ中で、むしろ急伸する変化をみせたのは、全家連役職員の「精神障害者福祉」をめざす熱気によるものと、国際障害者年の国連決議「障害者の完全参加と平等」というテーマにその対象として精神障害者も仲間に入ったからであった。

精神障害者福祉法を求めて

 いまひとつ記録として貴重なのは、1980年の全国大会直前に、全家連内部でほとんど家族だけで検討した「精神障害者福祉に対する基本的見解」がある。1970年にスローガンとして「精神障害者福祉法制定」を掲げて以来、毎年の全国大会で唱えられてきたが、役所からは「具体的には何か」と詰問される始末であったため、独自に研究会を持って家族の要望を精神障害者の福祉施策の骨子としてとりまとめたものであった。しかし、同時に発表した精神障害者福祉法文案が、既存の「精神薄弱者福祉法」「身体障害者福祉法」の条項と近似していたため、―酷似していて当然なのだが―、当時未だ精神の病による「障害」概念が普及していなかったので、いわゆる精神病を治療不能視、欠陥固定化するものだとの批判を、とりわけ精神医療関係者の一部から浴びたりした経緯があった。しかし結果的にみれば、少なくとも従来抽象論議だった精神障害者の福祉施策や注文についての具体的論議を起こすのに一石を投ずる形となり、また、精神障害者社会復帰促進議員懇話会等が生まれる契機になったことはその効果といえる。

 日本の精神障害者の家族会は何故それほどまでに精神障害者福祉法立法化にこだわるのだろうかというと、家族会員の老い先の不安の声を聞くにつけ、また、他の日本の心身障害者の福祉施策の整備されてゆくさまをみると、精神障害者福祉施策の遅れに対する不安があり、その主張はむしろ必然的であった。例えば、精神薄弱者福社法、身体障害者福祉法、その他老人、母子および寡婦福祉法等は個別に疾病ないしは障害種別に法制化されてきたのがこれまでの日本の厚生行政の仕組みであり、なお、1970年に成立した心身障害者対策基本法にも、精神障害者は明確にその対象としては位置づけられず、実体的に福祉施策の対象から外されてきたのである。そのうえ、1960年代は、日本全体が福祉の時代でもあったことを考えれば、これらに対し、地域社会で生き、働くための精神障害者福祉法が本来は必要なのである。

 そうした中で、我が国の精神医療、とりわけ精神医療機関は、民間病院を中心として増えつづけていった。1965年以前、医療らしい医療が受けられなかったことから、厚生省が医療機関充実への政策誘導したのはよいが、今度は、その医療の質が問題となり、むしろ、閉鎖病棟治療、長期在院化現象が弊害となってきた。それを心配して患者が長期入院し、中高年になるころ、引き取ろうとしても、その家族も両親は老いており、結局将来を案じて福祉制度に最後の望みをつなぐことになったものである。その不安と願いを理解していただきたい。全家連本部はそうした多くの会員の声を取り上げ、有識者を含め一般市民、行政・政治にかかわる人たちへ、精神障害者とその家族がどういう実状にあるかを客観的に明らかにすることにより問題を理解してもらうために、自己の家庭内状況を開陳してでも、実証的かつ科学的な調査を行った。1983年に一部で反対があった国の精神衛生実態調査が、医療機関における医師によるものであったのに対して、これは精神障害者および家族という医療の消費者サイドからのデータを整理したものであった。現代社会では、家族の「気力、体力、財力」は明らかに成人(精神)障害者の扶養、保護を担いえない事実を明らかにしていたといえる。

 この調査からさかのぼること2年前、全家連は「社会福祉施策への提言」また、「社会福祉施設の在り方」などと、次々と実証的研究報告を出した。

最近の家族会運動

 家族会による最近の活動は、精神障害者社会復帰実践活動としての地域作業所づくりおよび運営活動(全国で約350ヵ所中約6割)と、精神衛生法改正運動への取り組みの2つが特徴的であるといわれる。

 いま、全国で地域作業所づくり運動が活発に台頭しているが、従来の入院中心の治療に落胆を感じてきた家族たちが自らの力で心病む精神障害者のために再発、再入院の防止、社会復帰、社会参加の踊り場(拠点)として、この活動に全力をそそいでいるともいえる。地域作業所は、精神病院という看板の下でなく鍵も鉄格子もなく、心病む他の同僚と打ち解けて交流できるうえに、僅少ではあっても自らの作業工賃が還元されるという当然すぎるくらい当然の事柄が、社会生活慣習の体験の少ない精神障害回復者に、ささやかながら貴重な自信を取り戻させてくれる効果を発揮し、時に、自立的生活や一般企業等へ就職へのステップ台の役割を果しているのである。

 欧米のワークショップや日本での精神薄弱、身体障害福祉の世界での、授産事業と同等の機能を果たすようになってきている。すでに東京、神奈川、福井などを先頭に、全国で過半数の自治体が、また、1987年度からは国も漸く精神薄弱者通所援護事業並みに、精神障害者の小規模作業所に国庫補助金をつけるなど、施策化の努力をしだした。多分日本型ワークショップとして実際的な社会参加、地域社会との交流の場となって発展していくだろう。また、当初“万一何か事故が起きたら”という精神医療界についてまわる懸念も幸いにしてほとんど杞憂に終っている。もちろん、念のための火災保険や交通事故の損保に加入し、慎重な配慮をしている。

 さてもう1つ、法改正と全家連運動について記さなければならない。

 1965年法改正時に、最大の活躍をしたのが一部の精神科医たち(当時は日本精神神経学会も日本精神病院協会も基調がほぼ一致)と結成途上にあった全家連であったが、今回の改正案成立には一部新聞報道にもあったように、海外特にICJ、DPZの調査団らの人権擁護に関する厳しい指摘と国会に熱心に働きかけた全家連の運動の力が大きかったと評価された。日本精神神経学会は改正内容が不十分だとし、日本精神病院協会は一部手続き等の内容が厳しすぎ、現実的でないとの意見があった。逆に、法律関係者の一部からは、法的手続きをもっと厳しくせよとの意見があった。ここ20年間余り、先述したとおり我が国が高度経済成長を遂げていた間に、精神障害に対する医療福祉システムを整備するという行政改善が行われなかった。精神医療界は事の性質上、しばしば多様な価値観の入り込む要素が多く、その上、科学や技術、人道主義以前の精神病院スキャンダルやマスコミによる精神障害者事件の報道などが入り乱れてきたことに一区切りをつけたように当事者運動も評価されたら喜ばしいものである。

家族会活動の今後

 やはり最小単位の家族会である地域(市町村や保健所単位)や各病院ごとの家族会、都道府県連合会の活動をみてみると、これらの家族会では第一義的には病気についての知識修得や対応方法の学習であり、また、精神障害に関わる苦労や悩みについての家族どうしの共感であり励まし合いが中心となっている。近年では退院者、回復者の参加を得て、一緒の例会を開いているところも増えてきたが、この本人参加の意味は、ともすれば家族の思い入れや主観、感情で本人と接触しがちであったのにくらべ、理性的、客観的な態度が醸成され、一層相互学習的になってきている。

 その上、地域家族会などでは家族会員による協調の結果として、地域作業所づくりが活発になってきて、いずれも家族の零細な立ち上がり資金で行われているから、外見的にもいわゆる施設らしくない。老齢化した家族会役員がこれらの作業所へどのように関わるかという問題があるが、体力は若い指導員と比較すべくもないので、むしろ運営に関し、財政や事務、渉外部門を担うのが適当だろうが、これも家族会の重要な役割である。

 次いで、家族、病院等が現行の法制度内で障害となっているような事柄に取り組む団体としての働きかけ、陳情、請願、要望活動などを家族会が取り組んでいるのも重要な課題で、実際に活動の大きい柱となっている。都道府県連合会、全国連合会などはとりわけそのことが重要である。今般の法改正運動、またここ数年国家予算編成に対する働きかけ、またその他障害者の就業や雇用、資格取得に対する欠格条項の撤廃、精神障害者問題の啓発、普及などが、都道府県レベルや全国レベルでの重要な活動として活発に行われてきた。そして成果をあげてきたと評価されるようになってきた。国も自治体も精神障害者処遇について家族会ぬきでは語れなくなってきているといってくれる人がいる。

 今後は回復者自らの運動(患者クラブ、患者会、回復者クラブ、友の会等)が大きい流れとなっていくと思うが、それまでの橋渡しとしても、家族会が本人の権利や主張をかつぎ続けるのが使命であろう。最近の作業所活動、回復者クラブ活動の台頭はその日が近いことを思わせてくれる。

(財)全国精神障害者家族会連合会事務局長


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1989年2月(第58・59合併号)79頁~82頁