特集/視・聴覚障害者と情報アクセス 要約筆記派遣の現状

特集/視・聴覚障害者と情報アクセス

要約筆記派遣の現状

下出隆史

1.はじめに

 要約筆記が組織的に行なわれるようになって既に15年が過ぎたと言って良い。公的な派遣が始まってから10年になろうとしている。そこで、要約筆記の派遣についてその経過と現状、そして問題点を整理してみたい。但し、全国的な派遣状況の調査がなされていないので、数量的な把握や分析ではないことを予めお断わりしておきたい。

2.要約筆記派遣の歴史(公的派遣の開始まで)

 要約筆記は、手話を使わない聴覚障害者(多くは中途失聴者・難聴者)に対する情報保障の手段として始まり、広がった。しかし、最初から要約筆記者がいたのではなく、多くの地域では手話などを通じて聴覚障害者の聞こえの保障の問題に関心を持った人によって開拓されたと言える。従って、手話を使わない聴覚障害者への聞こえの保障を視野に入れた地域では、早い段階(昭和40年代後半)から手話通訳者が中心となって要約筆記に取り組んでいた。こうした地域では、手話通訳者の派遣制度が始まると、これを使って要約筆記者の派遣を実質的に始めていたところもあった。

 また公的な派遣制度では対応していなくても、手話サークルが中心となって、手話通訳に付随する形で、聞こえの保障の実現のために、実質的に要約筆記の派遣に応じ始めた地域もあった。

 昭和54年には、全国で最初の要約筆記サークル(要約筆記を主目的とするサークル)が生まれ、以後西日本を中心にサークルの結成が続いた。こうした要約筆記サークルの誕生は、昭和53年に第1回の研究集会を開いた全難聴の歩みと重なっている。

 昭和54年以降徐々にサークルが生まれ、これらのサークルのメンバーを中心に全国要約筆記関係者懇談会が始まり、全国で要約筆記に取り組んでいる人達や要約筆記を必要としている聴覚障害者との交流が始まった。

 各地の要約筆記サークルは、地域の中途失聴者・難聴者の要請を中心に要約筆記の派遣に応じ始めた。地域によっては要約筆記者が少ないため、特定の個人に負担がかかるといった事態も生じた。他方、要約筆記の取り組みが進んだ地域では、三人派遣、10分交代、補助者の配置などの派遣の形態が整ってきた。

 こうした状況に大きなインパクトを与えた動きが2つある。一つは、昭和56年国の障害者社会参加促進事業に要約筆記奉仕員の養成が加えられたこと。もう一つは、昭和58年に、全国要約筆記問題研究会が発足し全国的な組織ができたことである。前者を受けて、各地で要約筆記者の要請が始まるとともに、全国レベルでの情報の交流が始まり、さらにそれが各地での要約筆記の普及を後押しするという関係が成り立った。

 国の社会参加促進事業に要約筆記者の養成が加えられたのに引き続き、昭和60年には、要約筆記奉仕員の派遣が同事業に加えられた。要約筆記奉仕員の養成を済ませていた地域では、これを契機に、公的な制度としての要約筆記者の派遣が始まった。

3.要約筆記と手話の違いと派遣の形態

 要約筆記は、聴覚障害者の社会参加促進という観点から手話通訳の制度を追いかけるようにして、養成・派遣という道筋を辿ったが、現実には、派遣の形態はかなり相違している。その理由として、2つあげることができる。一つは、手話通訳は、手話が使えるろうあ者だけの会合では原則として必要ないけれども、要約筆記は、中途失聴者・難聴者だけの会合でこそ必要になるということ。もう一つの理由は、要約筆記者の養成がなかなか進まなかったことである。

 このため、公的な派遣が始まったときには、要約筆記は手話と異なり、中途失聴者・難聴者の会合に限って認められたケースが多かった。個人的な派遣を認めなかったのは、要約筆記者が十分に養成されていなかったのと、個人的な場面では、相手に筆談してもらえばよいという考え方があったものと思われる。

 個人的な要求に対する派遣は原則として認めないとしながらも、命に関わる場面(病院など)と、人権に拘わる場面(警察など)の派遣は認められたところは少なくなかった。ただし、要約筆記者が公的に配置されていたわけではないから、こうした緊急性の高い要請に実際問題としてどれだけ対応できたかは疑問である。

4.中途失聴者・難聴者の要望

 当初、会合での要約筆記が認められたことで、中途失聴者・難聴者の福祉に大きな弾みとなった。福祉大会や耳の日の集いなどに要約筆記がつき、要約筆記の派遣が要約筆記活動、ひいては中途失聴者・難聴者問題の啓発になるという関係ができた。もとより、要約筆記者の養成は容易ではなく、多くの地域では未だ要約筆記者の絶対数は大幅に不足している。都道府県という単位で見ると、県庁所在地ではある程度の養成がなされていても、都道府県全域をカバーできる態勢ができている地域は少ない、難聴協会は、都道府県・政令指定都市単位で存在するが、意識的に都道府県下の広い地域で要約筆記者の養成を行なってきたいくつかの地域を除くと、要約筆記者の存在は県庁所在地に偏っているのが現状である。こうした地域では、中途失聴者・難聴者の要望は、地元に密着した要約筆記者の養成、派遣体制の確立、少なくとも地元での会合に要約筆記を付けることができる体制の確立にあると言える。

 他方、政令指定都市など、要約筆記者の養成がすすみ、100名を超す要約筆記者を登録し、派遣の体制を作り上げている地域も存在する。こうした地域では、要約筆記の派遣により自分たちの会合に常時要約筆記が付くようになると、中途失聴者・難聴者は自らの置かれた状況を改善しようと様々な活動を始めた。そうした活動のなかには、個人的な事柄、例えば聴覚障害者の健康などに関するものが含まれていた。聞こえ難いために、これまで満足にガン検診を受けることができなかったと言った声が取り上げられるようになったのである。

 中途失聴者・難聴者の活動の場が広がるにつれて、要約筆記者を個人的にどこでもいつでも確保できることの意味が問われた。要約筆記者の個人派遣の必要性が問われ、個人派遣の要請が高まった。

5.個人派遣の広がりと課題

 こうした個人派遣に対する要求の高まりを受けて、先ずサークルがいわば私的に個人派遣の要求に応え始めた。

 しかし、公的なサポートのない状態での個人派遣は、派遣費用を誰が負担するかという問題を生む。例えば講演会などに参加する難聴者が個人派遣を希望する場合、個人派遣とはいえ、筆記者が1人では対応できないことがある。要約筆記者の疲労を考えて複数名を派遣しようとすると、まず費用の問題がある。要約筆記者の費用を依頼者が負担する場合、高額となってしまうからである。費用をサークルが負担する場合、サークルの負担が過重になる。要約筆記者自身が負担する場合、ボランティアとしての活動をどう捉えるかによるが、公的派遣との差が大きすぎ、納得し難いだろう。いずれにせよ、制度として保障されない限り、個人派遣の普及に限界があることが明らかになってきた。

 そこで、次に公的な派遣制度を個人派遣全般にまで及ぼすことを求める運動が始まった。一部の地域では、現在はこの段階にあると言って良い。公的な派遣制度の派遣対象に個人的な要請に対する派遣を正式に加えた地域は未だ少ない。手話通訳者の派遣と要約筆記者の派遣を外部に対して一本化している地域では、運用上、両者の派遣に差を設けず、要約筆記も手話通訳者の派遣同様、個人派遣を認めている地域は存在するが、これも極めて少ないのが現状である。

 個人派遣を広範に認めて行くためには、もう一つの課題として、要約筆記者への教育という問題がある、通訳者として当然と言える守秘義務や通訳を受ける側との関係などを、要約筆記者として十分整理し切れているかということである。加えて、要約筆記の場合、筆記したものが残るため、筆記した書類(シート)の取り扱いとか、通訳者の責任追及の可能性など、検討すべき課題は多い。

 もとより、障害者の福祉に関わる対応は、障害者の側に強いニーズがあればいずれ解決されていくであろう。問題は、それまでの過渡期をいかに乗り越えるかにあると考えることもできる。

 障害者が必要とするとき、必要なサポートを実現するという意味で、中途失聴者・難聴者にとって、要約筆記者の個人派遣の公的な実現は極めて切実な問題である。派遣を受ける障害者、派遣に携わる要約筆記者、派遣業務を司る実施主体、この三者における個人派遣の課題を十分に検討し、現状の要約筆記者の派遣をより広範な要求に応えることができるものにして行くことが、現時点での大きな課題と考える。

要約筆記問題研究会事務局長


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1994年12月(第82号)26頁~28頁

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