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厚生労働科学研究・障害保健福祉総合研究成果発表会

みて、きいて、はなしあおう、元気の出る話

地域移行・本人支援・地域生活支援 東京国際フォーラム

分科会3「本人活動の支援のあり方」

花崎  ロール・コックさん、どうもありがとうございました。先ほどアンデシュさんが出された「コーチ」という言葉について、さらに具体的な内容が示されたように思います。

花崎  それでは、今度は2人の日本のスピーカーにお願いしたいと思います。

今のお話の中にも出てきましたが、支援というがっちりした構造の中に自分たちを閉じこめてしまってきたのではないかという反省が私の中にとても強くあるのですが、それをどうやって壊そうとしてきたのかということについて、たぶん日本の2人の方が話してくださると思います。

最初に光増さんお願いします。

光増  こんにちは。私は、本人活動の支援というよりも、札幌で行われている「人権セミナー」というものが、最初は支援者から始まり、それが今本人に代わってどんどん発展しているということをお話しします。

1991年から1993年まで知的障害者の権利擁護に関する調査研究を北海道でしました。そのとき入所施設の権利侵害の実態が非常に問題になりました。この実態を社会に訴えようということで、関係者が集まって最初の「知的障害者人権セミナー」を開催しました。まずその発展過程を説明します。最初1回目は関係者中心のセミナーでした。2回目はシンポジウムで当事者2名が参加しました。そのときに札幌市の障害福祉課長も参加して、当事者の人たちから療育手帳をもう少し使いやすく小さくしてほしいという要望が出されて、翌年から小さくなった経過がありました。

次の年の企画をするときに、当事者のことを関係者だけが企画して運営するのはおかしいのではないかということで、本人の分科会、あるいは本人のシンポジウムは、本人が企画する「ふれあい実行委員会」をつくって、本人が運営するようにしていこうと少し中身を変えました。次の年は、「ふれあい実行委員会」が企画を立てて全体の実行委員会に投げかけるという形にしました。

翌年からは、本人が分科会やシンポジウムの企画だけだったのが、今度は逆転して本人たちがセミナー全体の実行委員になりました。当初は、自分たちの非常にプライベートなことを話す分科会で一般参加者は聞けなかったんですが、分科会によっては一般の方にも公開するようになりました。今までは、分科会は本人中心で、一般の人は講演などの別プログラムでしたが、やがて午前中は、すべてのプログラムに一般参加者が参加できるように変えていくようになりました。

今までは会則も何もなしでやっていましたが、決まりをつくろうと本人の声が上がって、会則をつくるようになりました。

北海道や札幌市の行政の関係者にも、助言者として参加してもらうようになりました。翌年からは、実行委員会で行ったセミナーの報告集をみずから編集して発行するようになりました。また支援費制度が始まるということで、支援費制度の分科会だとか、そういう取り組みも始まりました。

今までは、知的障害という障害名を掲げたセミナーでした。しかし、権利侵害や人権に関する問題は決して知的障害だけではなく、身体障害や精神障害のことも含んでいるので、あえて知的障害という言葉は使わないで、もっと幅広く障害の垣根を取っ払う論議をしようということでセミナー自体の名前も「人権セミナー」という名称に変更になりました。ちょうど10年を過ぎてどんどん進んでいって、今年2月に行った討論会では、私たちが地域で暮らすためにはという形で、3障害の代表の人がシンポジストとして参加しております。

1年に1回行われるセミナーですが、毎年10月ごろから実行委員会が開始されます。約2カ月ぐらいかけて開催要綱を完成させ、1月に入って資料づくりをします。2月に行われるセミナーの前日は、交流会をして、北海道各地から来るメンバーと一緒に交流を深めます。そして開催当日を迎えます。大会が終わった後、じっくりとゆっくりしたペースで報告集の編集をして、秋口に報告集を完成するというパターンがここ数年続いております。

セミナーの様子を簡単にご紹介しますと、まず事前に当日の資料を実行委員のメンバーが作ります. 前日には居酒屋などで交流会を開きます。夜の交流会でつながりができます。仲間もできます。このことをすごく重要視しております。

当日の受付は分科会ごとに色の違う名札を用意して、当事者の方が受付を行います。

例えば数年前の分科会では、福祉サービスについて、恋愛・結婚について、いじめられた体験について、趣味とスポーツについて、私たちの人権について、ガイドヘルパーについて、支援のあり方について、支援費制度について……、だれでも参加できる趣味とスポーツというレベルの話し合いから、少し深く突っ込んだ問題、あるいは権利侵害にかかわる分科会等を企画しています。

各分科会では討議や質疑応答が活発に行われます。話し合いだけでは疲れてしまうので、当日の昼休みはアトラクションをします。音楽のアトラクション、昔遊びのアトラクション、こうしたことは地域のボランティアがかかわります。昼休みはちょっとリフレッシュします。

およそ400~500名の参加者となり、それぞれ午前中行った分科会の報告を司会者が行います。

討論会では司会もすべて北海道のいろいろな各地の本人たちが集まって行っています。

そして最後にはみんなで「ご苦労さん」と言って終わります。

では、支援者の意識がどう変わってきたかということを後半整理してお話をします。当事者のグループの支援をしている人は、支援のあり方を絶えず考えていますが、関係者、例えば行政の人とか、親の会の人とか学校の教職員は、今までどちらかというと知的障害の支援に関しては、十分理解できていなかった側面がありました。しかしこういうセミナーを十数年行う中で、関係者の意識も変わってきました。実行委員会に本人にかわることで、本人たちの実態を知ることができるようになってきました。現在は、当事者から支援を求められたときのみの支援に変わってきています。

このセミナーではリピーターが増えてきています。市民も本人も、このセミナーを楽しむということでリピーターが増えてきています。当事者の発言で多くを学ぶ経験をすることができます。当事者が段階的に力をつけてくる様子もわかってきます。

行政関係者も、当事者がこれだけ話せるという状況を把握して、北海道や札幌市のいろいろな会議に知的障害の代表のだれを委員にしようだとか、行政のいろいろな施策へのかかわりもできてきています。

知的障害だけではなく、DPI北海道ブロック会議の委員として代表が参加するだとか、DPI世界大会のときに、初日の司会の1人を知的障害の代表の方がするだとか、ほかの障害者団体も、この「人権セミナー」を評価して当事者が多く参加するようになってきています。

では、参加する当事者はどうだったのでしょう。毎年参加するリピーターが多くなってきています。道内の本人の会のメンバーの参加が増えます。それはなぜかというと、夏は育成会の全道大会で本人大会というのをやっています。秋は、「このゆびとまれ」という本人活動の交流会のようなことをしています。冬は雪祭りが終わった後、「人権セミナー」をやって、当事者の会の連携ができてきています。合わせていろいろなグループの方たちが北海道当事者活動連絡協議会、「北風の会」を組織して、代表がいることで、行政も何かあったときは当事者団体の代表に意見を聞くようにと変わってきています。

この「人権セミナー」は、セミナーを開催するだけではなく、積極的に海外の人との交流も行ってきました。北欧知的障害者会議に参加したり、インクルージョン・インターナショナルの会議に参加したり、あるいはNHK厚生文化事業団の研修でスウェーデンやアメリカに行ったりするようになりました。そのような経験を通して、視野を広める取り組みを行ってきました。スウェーデンのオーケ・ヨハンソンさん、オーストラリアのロバート・マーチンさん、ピープル・ファースト運動を行っているティア・ネリスさんたちとの国際交流も行われるようになりました。

当事者が中心になる運営が進んでくると、支援者による実務的な支援は非常に少なくなってきます。質の高い支援が逆に当事者から要求されるようになります。ここ数年、支援費や自立支援法も含めて制度改革が進む中、ともに学習していく姿勢が非常に重要になってきています。ですから、さらなる情報提供が、逆に支援者にも要求されています。

そういう意味では、このセミナーを通して当事者が力をつけてきた、そして参加者の意識も変わってきた。多くの支援者の意識も変わってきた。行政も当事者への理解が増してきた。そして、北海道全体の本人の会の広がりにも貢献しています。

これが札幌の「「人権セミナー」」の事例報告です。細かい論議はまた午後にしたいと思います。以上です。(拍手)