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厚生労働科学研究・障害保健福祉総合研究成果発表会

みて、きいて、はなしあおう、元気の出る話

地域移行・本人支援・地域生活支援 東京国際フォーラム

分科会3「本人活動の支援のあり方」

次の質問は、アンデシュさんとロール・コックさんお二人に向けての質問ですが、アンデシュさんにお答えいただきたいと思います。「コーチの手法について」です。例えば、「彼はこんなやつだ」「またかよ」などの思い込みを、「違うかもしれないな」と思いとどまるためのよい方法はありますか。それから、自分自身が不安定なときに、どう対応したらいいんでしょう。

アンデシュ  私は、はっきりこうだという答えを持ち合わせているわけではありませんが、今私が考えられる範囲で一応答えてみたいと思います。ただ、答えというのは自分で見つけるものですので、私としてはアイデアを提供することだけです。前にも言いましたが、人と対話をするときに、私たちは名前をつけたがります。「こういう人だ」という。こういう名前やレッテルを張ることによって、自分たちはこうしなければいけないのではないか、自分たちの役割はこうではないかというような、過小評価につながるような固定化された役割意識ができてしまいます。

そうした状況の中で、例えば「この人は精神的な障害を負っている」とか、そういう形でそこに名前をつけて、それに基づいて行動して、そしてそういう状況に対して自分がそれをコントロールしようというか、自分のものにしてしまおうとします。そういう考えに基づいて、そこで何とか解決しようとするわけですが、そのときの自分は、当事者本人ではありません。自分自身が一番楽というか、快適に感じる形で解決してしまおうとします。そうしますと、現実を拒否したり、否定してしまいます。そうすると、現実が歪められたり偽物になってしまいます。そこでよく起こされる過ちというのは、私たちが特別な人たちと呼んでいる、そういう人たちに対して特別な対応をしなければいけないと考えて非常に苦労します。

しかし、グループホームや職場などの自由時間の中にはごく当たり前の気楽さがあるはずです。私たち専門家はそうした当たり前のことを忘れがちです。私が仕事をする時、職場で満足感を高めるにはどうするか、そこで何が必要かというような状況で仕事をするようにしています。何が必要とされてぃるか、どういうことを人々が求めているかを考えながらそうしますとそこで働いている本人たちはその仕事における意思決定に自分も参加したい、そして自分は尊敬されたい、自分の信頼性を高めたい、自分の仕事と環境の接点が欲しいということを考えていくようになります。そういうことを職場に対して求めていくわけです。それは普通に職場に人が何を求めるのかということと全く同じです。当事者も、例えばデイセンターでの作業や自分がやろうとする仕事に対して同じようなことを求めます。それが満たされればそれが満足というところにつながっていきます。

そういうことが普通のことなわけです。ノーマルなことを求められているのに、それをノーマルとはみんなが考えないで、特別な人のための特別なニーズというふうにとらえてしまうということです。それは私たちがある人たちを特別な人たちと呼ぶことに関連しています。例えば先ほどのシャワーの例ですと、私がだれかがシャワーを浴びるのを助ける。自分自身の経験として、自分がシャワーを浴びるととても気持ちがいいなという経験を持っています。しかしもしかすると、相手は、施設でずっとシャワーを浴びてきて、そこではコーチングとかヘルプということではなくて、「扱われる」とか、「こういう対応をさせられている」とか、そういう経験をしているかもしれません。こういう状況において私たちがするべきことは、私自身のシャワーは楽しいという経験を踏まえた上で自分に何ができるかを提供していく。自分でそういう状況をつくれると信じてやっていく、それがコーチングということだと思います。

花崎  ありがとうございました。時間が少々になってしまいました。あと二つぐらいで終わってしまうかと思いますが、手短に答えてください。「仲間」ということを言いましたが、当事者とコーチの給料に違いはあるのですか。

ロール  私は、この質問についてはわかりません。先ほど言ったように、私は連盟から予算をもらってその予算の中で動いているので、その中でコーチがどうか、当事者がどうかということで、どのくらいの給料の差があるか私は知りません。

アンデシュ  私から言いますと、障害者というか当事者たちは年金の手当をもらっています。ですから彼らが給料をもらっているということではないわけです。この年金手当ということからもっとサラリーという形で当事者たちがお金を受け取れるようにということで運動はしていますが、それは非常に難しい状況です。この質問にあった「仲間」ということと、給料は違うのではないかと思います。お金ということではなくて一緒にやっていくんだという気持ちを表すために「仲間」という言葉を使いした。例えばいろいろな仕事の中で、教員でも工場で働く労働者でも、オフィスで仕事をする人たちでも、給料は違っています。給料はそれぞれの立場や役割、どういう仕事をしているかによって違います。しかし給料が違っても、お互いに「仲間」という呼び方をしています。それは一緒に仕事をする一員としての「仲間」だということでご理解ください。

花崎  ありがとうございました。今度、日本のお二人の方にお願いします。これは「花崎も答えろ」と書いてありますが、時間がありません。「花崎と光増さん、本田さんは、日本では本人活動が周りの人を変えたと言っていた」、確かに言っていました。「自分もそう思います。でも自分の周りを見た範囲では、例えば親の会などはそんなに変わっていないと感じています。」親の会とありますが、親の会も含めて「まわりをどうかえていったらよいのか」について、では光増さん。

光増  日本の本人活動が活発化したのは十数年前からですが、本人活動が活発になることによって変わったものもあり変わってないものもあります。変わってない一つの理由は依然としてとして入所施設が圧倒的に多く、入所施設からの地域移行が遅れているからだと思います。もう一つの理由は親が支援の輪に入ってくるために当事者の人たちを管理し、枠にはめてしまうということです。親が関与する事にいろいろな問題があるのではないかと思います。だから、「支援」とか、「コーチ」という言葉を聞いてすごく思いましたが、支援の質の問題とか、思想性の問題があります。そういう意味でいくと、まだまだ自立支援法の問題にしても、施設のあり方にしても、親の会の活動にしても、本人活動の支援というスローガンは掲げているけれども、実際は乖離しているというか違っているのではないかと思います。個人的にもその辺が今の日本の現状かと思います。

本田  親の会にははっきり言って期待はしています。圧力団体として、国内でそれなりの圧力を持って本人を支援していく立場にあると思いますから。しかし、なかなかそれがうまくいかない。というのは、光増さんの言ったように、やはり支援の質をどこでどのように高めて行くか、ただ会があればいいというわけではありません。それぞれの会がどういう支えの中で動いているかということがとても大切なことではないでしょうか。どうすればいいかというよりは、その地域を変えていく活動をきちんとやっていくのが、一番遠いようで一番近いかもしれないと思っています。そういう意味では、福島では本人たちの仲間の輪を、「トトロ」だけではなくて県内を同じ意識で支えていくシステムをつくれないかと思って今動いているわけです。そうした中で、親の会と一緒にリンクしていく可能性はたくさんあると思います。ただ単に本人の意見が大切だとかと言って支援者が表立って動くのではなくて、草の根的にやっていくのが一番近道であるかと思っています。

花崎  ありがとうございました。まだまだ紹介できないご質問がたくさんありましたが、次のセッションの時間が迫っておりますので、この分科会をこの辺で閉じたいと思います。

私たちは、今日、「自分はあまり偏見を持っていないんだ」と思ってきた自分が、もう一度根本的なところから掘り起こされたように思います。「こういう人たちなんだから、こういう支援がいいんだろう」と一生懸命探っていたそのこと自身を壊してゆかなければならないということを強く感じました。そして、「現実を見なさい」とおっしゃっているその現実を、私たちはやはり見ていない。やはり色眼鏡で見てしまっているのだなとつくづく思いました。

それでは、今日頑張ってくださったこの4人の講師の方と、それから大変わかりやすい通訳をしてくださった山口さんに、皆さんどうぞ拍手をお願いします。(拍手)どうもありがとうございました。