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ヨーク大学
SPRU

18カ国における障害者雇用政策
:レビュー No.7

パトリシア・ソーントン、ネイル・ラント

ヨーク大学社会政策研究所

Patricia Thornton and Neil Lunt
Social Policy Research Unit
University of York

ILO                                  HELIOS


ルクセンブルグ

政策と制度的情況

障害者対策と法制

 ルクセンブルグ大公国憲法は長い歴史を持つが、障害者に関する規定はない。障害者についての個別分野には法律・規則が制定されているが、総合的なものはない。当初、障害者は社会保障制度の中で援助される存在とされた。雇用に関する権利に触れた法が出現したのは、1959年であった(Mangin,1983)。

1973年までは、障害児は義務教育を免除されていた。同年の新法によって、両親や州に障害児の教育訓練が義務づけられた。1984年の選挙を契機に、国際障害者年の影響も受けて、障害児の教育訓練は一層推進された(WHO,1990)。新たに創設された教育訓練制度により、職業訓練センターが作られ、さらには保護雇用機会の創設につながった(Seyfried and Lambert,1989)。1970年代の終わりから80年代の初めにかけて、住宅改造への助成や自宅介護への経済的援助、駐車場整備を容易にすることなどが行われた。SeyfriedやLambert(1989)によれば、大規模施設利用者を地域に返す壮大な動きが、知的障害を伴う人にも大きく影響し、職業面でも社会への統合促進にも、さらには地域に分散する生活志向にも、全体的に寄与したのである。

1980年代後半に打ち出された多くの政策については、特に社会的・医学的・治療的なサービス分野において、調整が必要となった。省庁間の調整を担当する機関が、1985年に開設された。労働省・保健教育省・雇用行政庁・学識経験者の代表から成る機関で、この機関が関連政策の調整・統合の促進・意志疎通の徹底・官僚制の簡素化・障害者の政策決定過程への参加、障害者への社会一般の意識改善を実施した(Lheureux,1991)。

1985年、次いで1987年の状況について触れたWHO(1990)の記述によれば、法的整備より行政施策の実施に重点が置かれ、障害者の状況を改善するには、「適切な基盤整備(インフラストラクチュア)を開始し、民間への総合的助成制度を用意すること」(p.193)とされた。後述するように、雇用に関しては、政府は法令に基づくことにした。

障害者雇用の政策と法制の展開

 歴史的にみると、初めは戦争や労災で障害者になった人たちに関心が向いていた。1945年の勅令によって、これら2種のグループに対する就労斡旋や職業リハビリテーションを担当する機関が開設された。さらに、労働鉱山省所管の職場に障害者が従事できる就職口が用意された。1959年の法律で、その機関の権能は全ての身体障害に拡大された。これは、国連及び国連関係専門機関、特に国際労働機関により1952年に設立された障害者に関する国際プログラムに刺激されたからである。

1959年の法令(1961年、1962年の勅令によって補完)は以下のとおりである。

  • 障害労働者を定義し、身体又は精神の障害により、少なくとも30%まで労働能力を喪失した者とした。
  • 労働省の中に「障害労働者採用・職業再訓練局」(Office for Recruitment and Vocational Re-training of Disabled Workers)(OTH)を設立した。
  • 身体障害者の2%以上の雇用を、国・地方自治体・公営企業に求めた。
  • 同様な義務を、50人以上雇用している民間企業にも課した。
  • 25人~50人を雇用している民間企業にも、特に適職と認められるならば、障害者を優先して採用するよう求めた。

 OTHは、一般水準に比して能力の不足している障害労働者の賃金支給に際して、雇用主への資金援助を実施した。

保護雇用も当時存在し、さまざまな団体が運営していたが、法令に基づくものではなかった。

1980年代に生じた鉄鋼業界の危機は、重産業部門に影響を与え、ルクセンブルグに構造変革をもたらした。新しく求められる職務は高い資格要件を必要とし(Seyfried & Lambert,1989)、必要とされる技能からみると(WHO,1990)、障害労働者の訓練内容が労働市場の現実に合わなくなってしまった(同上)。

1991年11月12日法によって、障害労働者に関する法令が改正された。新法は、職業リハビリテーションと障害労働者の一般雇用・再雇用の促進をねらいとして改正され、調整された法である。

この法は、多くの基本原則を取り入れている。リハビリテーションは、障害の発生から最高の条件で再就職するまでの一連の過程とみなされている。適職に就くためには、身体的・精神的能力を最初に正しく評価することが重要である。障害労働者が職業ガイダンスを受けた後の訓練は、その能力に応じた適職につながることをめざす。次は、障害労働者の雇用の機会を保障することである。これは、法的義務として一定率の障害者を雇用することによって実施される(州がその例を示す)。最後に、障害労働者はその職業能力に応じた給与を受給することになる。

これらを実現するため、現存の常設機関が、労働市場の中で雇用の場を発見し、再就職するまでの援助・助言を担当してきた。障害労働者の就職斡旋を行う機関は、一般労働者の斡旋を行う機関の中に設けられたが、サービスが容易に利用できる必要があった。最大限に効果を上げるには、障害労働者を担当する機関は、一般雇用も担当する機関の一部となって、緊密な連携を維持しなければならない。全職員が特別な訓練を受けなければならない。

法令の変化した内容は以下に要約するが、また後述する。法は次のことをめざす。

  • 障害労働者の就職斡旋と再訓練を担当する業務は雇用行政庁の所管とする。
  • 知的障害や感覚障害を伴う人にも、法の適用を拡大する。
  • 障害労働者の一般雇用への参加・再参加をめざす対策を確立する。
  • 国の法令によって、就職斡旋、職業(再)訓練、(再)適応のための訓練コースといった対策の内容と方法を定める。
  • 公私の企業に対して、障害労働者の割当雇用率の引き上げを図る。
  • 雇用行政庁職員を増員・専門職化して、業務を改善強化する。
  • 民間企業を利するよう法定の公的支援制度を創設する。

(MISEP,39,Autum 1992,pp.16-17)

1991年法の内容を効果的に実施するためには、規則の追加が必要とされた。雇用行政庁内の職員異動は1991年12月に行われ、新法の残りの部分は1992年1月1日に発効した。

政策立案と実施

 ルクセンブルグでは、障害者問題を担当する単独の省はない。多くの省が個々の事項を所管し、財政的には各省の予算から支出される。

省庁間の連携向上の必要から、先に述べたように省庁間調整担当機関が置かれている。さらに、障害者とのコミュニケーション充実も目的の1つであって、官僚機構の簡素化並びに「全国障害者協議会」(National Council for the Disabled)の設立(1985)によって、その達成が図られている。この全国協議会の設立目的には、障害者の特定グループの利害を代表する民間組織であるが、政府資金を受けているさまざまな団体を調整することも含まれていた。障害者の利害を代弁する団体の圧力に答えるものでもあった。

1992年4月14日の勅令の条件に基づき、障害者として労働者の登録を認めない決定や、その登録の取消についての異議申立に対応するために、特別な委員会が設立された。この委員会は、1987年7月7日の勅令によって設立された従前の委員会と同様な方法で運営されている。

前述したように、最近の政策は変化して、指導助言や実際の就職口を斡旋する雇用支援行政の役割を強調している。障害労働者の訓練や就職斡旋を担当する行政は、労働行政の本来業務の一部として開始され、障害者を担当する専門職が配置されている。

社会的パートナーの役割

 雇用主は、国の政策立案や実施に参画しており、特にさまざまな委員会に「ルクセンブルグ産業人連盟」(Federation of Luxembourg Industrialists)の一員として参加している。連盟の作業グループは、障害者の雇用に関心が強い。連盟は1991年法の立法にも貢献し、労働省によって設立された登録拒否や抹消への異議申立に対応する委員会の一員でもある。

障害の定義

 1991年法によれば、障害労働者とは、労災か戦争で障害者となり、身体上、精神上、感覚上の障害を有している者とされている。労働能力は、少なくとも30%まで減少していなけらばならない。

統計

 1995年、ルクセンブルグの人口は41万人であり、雇用されている者は19万8,000人であった。1994年には、失業率は約3%であった(国境を越えて往来する者は含まず)。この率は、短期間でさらに上昇すると思われている。

労働人口に占める障害者を示す数値はほとんどない。1991年には、障害年金(拠出制で資産調査を受ける)を受給している人が1万6,700人いた。この年金は、65歳未満で、長期疾病・虚弱・変形の結果、就労能力を喪失し、就労継続不能で、どのような就労も期待できない人に支給される。(Grammenos,1995)

1992年には、2,414人(人口の0.62%)が、第三者によるケアや介護の費用を賄う障害手当を給付されていた。この2/3は16歳~64歳で、この稼働年齢にある者の1/3以上は、労働市場への参加が見込まれたが、長期失業の傾向にあった(EC,1995)。

登録された障害労働者

 稼働能力を最少30%まで減少すると、障害者と認定される。障害労働者と認定されると、別に登録される。1995年末には、1991年法の発効以来1,330人が障害者と認定された。表L.1は、「障害認定専門委員会」(Commission d'orientatin et de reclassement professionel)(COT)による、1987年以来のその状況を示している。

就労・未就労の障害労働者

 1985年以来、長期失業人口の中に含まれていて労働市場に参加しにくい人が増えてきた。能力不足や年齢によって不利益をこうむる人たちであり、1993年には登録された失業者の70%を占めた(EC,1995)。

1988年のECへのルクセンブルグ報告書(EC,1988)によれば、割当雇用制の下で雇用された人は3,000人であった。

表L.1 COTによる障害労働者の認定
申請件数 認定件数 非該当件数
1987 153 99 11
1988 151 97 3
1989 150 67 3
1990 154 70 10
1991 160 76 8
1992 426 275 48
1993 496 301 53
1994 769 514 61
1995 584 218 123

 出典:STH通信

雇用支援サービス

 OTHは、労働省所管の下で、1959年来、障害者の評価や就職斡旋についての全ての事項を担当する重要な機関であった。産業界と民間団体の両者の代表から成る委員会が運営していた。1991年法によって、OTHは雇用行政庁に編入され、従前に担当していた業務は雇用行政庁の「障害労働部」(Service for Disabled Workers)(STH)として、専門職が処理することになった。

現在のSTHの業務は、障害労働者のリハビリテーションの中の3点に重点を置いている。つまり、(1)初期のガイダンス、(2)通常の訓練過程、(3)特定の技能訓練である。こうした活動は主にリハビリテーション・訓練センターで実施されている。

評価とガイダンス

 労働者が障害者として認定されるかどうかを決定する作業は、1991年法(第3条第1項)によって、新委員会(COT)に委譲された。COTによって障害者と認定された数は、先に触れた統計によって明らかである。障害者のニーズを考慮して、COTは雇用行政庁に適切な訓練等を報告する。1995年には、COTは、登録障害労働者に関して、132件の勧告を行った。

訓練

雇用行政庁は、全部か一部かはともかく、訓練・リハビリテーション・再訓練の経費を負担している。その経費は、身体的なリハビリテーション、就労への諸準備、さらには、これら以外も含めた手当が主なものである。障害年金や災害年金全額・最低保障賃金を受給していない訓練生には、雇用行政庁は割増手当として、失業給付の全額相当額を毎月支給する(1992年4月14日勅令)。

1995年には、COT、STHの勧告に基づいて、45人に訓練が実施され、33人に割増手当が毎月支給された。さらに、STHは12人の障害労働者のリハビリテーション施設入所に係る経費を負担した。STHによる訓練の援助を受けた障害労働者の数は、1989年の最高186から1995年の45まで落ちた。これは、関連の保険制度が経費を負担できるようにした1988年9月の勅令の成果である。

WHO報告(1990)の中で、政府は、障害労働者への伝統的訓練と実際の労働市場の求める要件とが適合していないこと(特に80年代半ば)を認めている。このことは、1990年代半ばに、STHに申請した障害労働者の2/3が初等教育を終了しただけであったという事実によっても裏付けられる(STH通信)。一方、SeyfriedとLambert(1989)は、農業分野における新しい訓練は大変成功していること、これは市場ニーズと労働要件の詳細な検討に基づくものとみている。

職業斡旋

 1995年には、STHは58人の障害求職者を民間企業に就職させた。そのための財政援助は後述する。

一般雇用:法的義務と権利

割当雇用制度

 雇用主の法的義務は、割当雇用のみである。割当雇用の対象となる障害労働者は、当局によって障害者と認定され登録されている者でなければならない。障害労働者が当局によって適切とされた訓練課程や就職口を拒否した場合には、割当雇用制度に基づき就職する権利を失う。割当雇用制度で就職しても、雇用契約に基づくものであり、他の労働者と同じ権利義務を有する。

1959年法
1959年法によって、州、地方自治体、鉄道会社その他の公営企業は、障害労働者のために最低2%のポストを用意するよう求められている。このポストは、全てのレベルに及ぶものとされている。民間企業では、50人以上を常時雇用しているところは、利用可能な全てのレベルで2%の障害者の雇用が求められている。25人~50人までの企業は、障害労働者に最適と思われるポストには、優先権を与えなければならない。公営企業・民間企業とも、そこでの産業災害による被害者は、その企業内の職場復帰に優先権を有している。

SeyfriedとLambert(1989)による報告では、割当雇用率が満たされない場合に課せられる罰金はわずかである。1988年のEC報告あるいはLheureuxの報告(1991)によれば、罰金の最高は1万LFRである。公営企業は雇用状況の公表を求められている。Vogel-Polskyは、1984年の報告で、任意の方法やケースバイケースの試行などによって、割当雇用によらなくてもその雇用率に達していると述べている(p.32)。SeyfriedとLambertは、実際には待機者がいると示唆している。

1991年法
1991年法第5条によって、公私双方の企業に新たな割当雇用制度が導入され、1992年1月から適用された。変更点は次のとおりである。

  • 政府公務員や公営企業には、5%の雇用率が適用される。
  • 25人以上を雇用する民間企業は、少なくとも1人の常勤障害労働者を採用しなければならない。
  • 50人以上をかかえる民間企業は、2%の雇用率を達成しなければならない。
  • 300人以上の民間企業は、4%の雇用率を維持しなければならない。
  • 民間企業の雇用義務は、雇用庁が適切な資格を有する障害者の需要を把握しているかどうかにかかっている。
  • 旧法の適用を受けていた者は、新しい雇用率に算入してよい。
  • 第6条第1項によって、雇用主は、新法発効後6カ月経過時点で、雇用した障害労働者数を当局に報告し、未充足のポストがあれば、直ちに告知する義務を負う。
  • 新法では、割当雇用率以上雇用した民間企業には、「報償」を提供する。それは、雇用主の社会保険料負担の免除である(第5条第2項)。
  • 罰金は第10条に規定されている。雇用率に達しなければ、不足1人分の最低賃金の50%相当額を、達成できるまでの期間、財務省に毎月納付しなければならない。

障害労働者の採用は、本来不定期であるし、経済事情にも影響を受けるが、新しい法はかなり効果をあげている(STH通信)。公共部門の障害労働者についての1995年の調査によれば(3省共同で実施)、国政府関連では3.83%(135人)、地方自治体では1.07%(67人)であった。回答率は、それぞれ75%、70%であり、また障害者と自認しない労働者もいたことが判明している。民間企業の障害者雇用に関するSTHの調査では、1996年末の正規雇用は504人であったことが判明した。この数字は、STHの援助なしで就職した人は含んでいない。

雇用率未達成への罰金は適用されていない。雇用主と職業斡旋サービスとの協同を強制することは歓迎されている。(STH通信,1996)

一般雇用:財政的奨励

雇用主への奨励策

賃金補助
旧制度では、障害労働者がOTHを経て就職できると、雇用主は生産性減少に応じた賃金補助を受給できた。これは、3年間の限定で、初年度は法定最低賃金の50%、2年度40%、3年度30%であった。

1991年法(1992年4月の補助勅令を含む)では、賃金補助の仕組みを変えた。賃金補助額は障害の程度に対応することになった。補助額は、雇用主の社会保険料負担額を含めて、40%から60%の間に変動した。具体的には、雇用行政庁による、障害程度の変化や作業場改善状況の定期的な点検により決定される。

1992年の勅令は、一般雇用、再雇用を奨励するための財政援助に触れている。つまり、新しい職務の初期段階に起こる生産性減少を補償するための毎月の定着手当(最高24カ月)である。

表L.2は、1995年中の就職又は再就職した障害者への財政援助の状況を示している。

表L.2 1995年における就職・再就職件数
- 新規就職 再就職
就職斡旋のみ 2 0
就職斡旋と社会保障給付 9 8
就職斡旋と給料40% 30 16
就職斡旋と給料50% 16 5
就職斡旋と給料60% 1 0
58 29

出典:STH通信

雇用率以上採用への報酬
賃金補助に加えて、雇用率以上に採用している雇用主は、現在、社会保険料納入の免除という「報酬」を請求できる。

職場の改善
旧制度では、雇用主は、障害労働者のコードに応じて、職場を改善すれば、その補償を受けることができた。Lheureux(1991)は、1988年にOTHはこのために8万3,000LFRを支出したと報じた。

1991年法でもこれは継続した。作業補助具や訓練用具の提供にも補助金は対応している。しかし、数字的には少なく、1992年には15人分、1995年では2人分であった。こうした対応への予算は、1994年では163万4,000LFR、1995年では50万LFRであった。1992年では45万4,000LFR、1993年では94万LFRであった。

障害者への誘導策

離職特別金
障害労働者は、6日間の離職特別金を受給できる(州政府負担)。年間の請求件数は、1988年で34件、1993年では175件であった。1994年は142件、1995年は104件であった。1995年ではこの予算は、84万8,200LFRで、1992年の157万4,000LFRと比較すること。

自営
自営業に従事する者は、障害者認定に必要な要件を充たしていれば任意社会保険料を免除されるし、特に重度の場合には、1992年11月25日勅令により、強制保険料の全部又は一部も免除される。免除期間は1年間だが、更新は可能である。

保護雇用

目的と対象群

保護雇用は一般雇用になじまない障害者のためのものである。通常の作業環境の中での援助付き就労か、保護的環境の下での就労である。保護環境下のものにはシェルタード・ワークショップと作業援助センターの2種がある。通常の職場での就労では、他の労働者から疎外されないようにすることが特に重要と考えられている。

シェルタード・ワークショップか作業援助センターのどちらを利用するかの選別に法的根拠はない。Samoyによれば(1992)、シェルタード・ワークショップは主として中程度向けで、作業援助センターは重度向けである。

シェルタード・ワークショップは、より大きなリハビリテーション・職業訓練センターの一部であり、したがって、障害者の適切な就職を促進している(Samoy,1992)。シェルタード・ワークショップは、できる限り一般企業同様の組織機構をとり入れている。下請作業も自主生産も行っている。この工場で生産された製品の市場出荷には、さまざまな協力がある。作業援助センターでは、作業体験、療法、訓練、医学的社会的な支援が提供されている。

規定と資金

 ルクセンブルグの保護雇用制度は、公共部門以外で開始され、運営されている。1991年以前は、法的には認められず、しかし、州は毎年の財政援助を実施していた(SeyfriedとLambert(1989)は、これを「紳士協定」と名づけている)。

障害労働者に関する1991年法の第D条では、労働省に一部のシェルタード・ワークショップへの資金提供と運営費支出を認めている。これは、労働省の認可を得た「協同組合」等が設立した工場に適用された。同法は、認可が与えられる条件を規定している。補助金は、障害労働者に給料を支払っている生産的・市場的な工場、障害労働者のニーズに応じて環境改善を行っている工場、一般雇用への移行に熱心な工場へ支出されている。

1995年には、STHは3つのシェルタード・ワークショップの障害労働者に256件の補助金を支出している。加えて、STHは他の団体運営の工場の56人の障害労働者の人件費と離職特別金を負担した。

1995年の(暫定)予算額は、3,950万4,000LFRで、障害労働者施策のための予算総額1億1,593万7,000LFRのかなりの部分を占める。

労働条件

 シェルタード・ワークショップのかなりの者は、契約によって就労し、最低賃金の支給を受けるが、他は、体験のために一時的に籍を置き、就労する者である。作業援助センターでは、多くの者は、保障された最低限の収入を得る。

作業内容

 Lheureux(1991)は、農業・園芸・養鶏・養兎・印刷・シルク印刷・簿記・陶芸・建具家具製造・包装・組立・その他の下請作業などの作業内容があることを報告している。

被用者

 保護雇用従事者の数とか特色を示す公式の統計はない。1988年のEC報告書では、シェルタード・ワークショップでは100人を雇用しているとある。SeyfriedとLambert(1989)は、障害者の保護就労が約250件あり、「大部分は知的障害者である。身体障害者は少なく、精神障害者はほんのわずかである」と報告している(P,L4)。彼らの調査には、大きな3つの団体が協力してくれた由である。それらの運営する工場・作業援助センターでは、296人が利用している(かなりの者は訓練生で、長期被用者は少ない)。1/4は25歳未満で、半数近く(45%)が25~35歳であった。50~60歳は6%にすぎず、85%が知的障害で、残りの15%が身体障害であった。 

一般雇用への移行

 SeyfriedとLambert(1989)は、一般労働市場でも見い出され、かつ需要さえある活動について、主として知的障害者を訓練する保護雇用ベースの特別の取組み(initiatives)について議論している。園芸や動物飼育・養鶏は市場活動と関連が深く、一般雇用に結びつきやすい。著者は「ヨーロッパ社会基金」(European Social Fund)の活動について言及しているが、これは、知的障害者の親の会により運営されているもので、一般雇用をめざし、またフォローアップも実施しているところである。彼らは、このEC援助下で2番目に大きいセンターの就職率について触れており、見込みのありそうな雇用主に直接接触するという新しい動きや就職後のフォローアップも十分に実施していることに注目している。

保護的職務

 SeyfriedとLambert(1989)は、ルクセンブルグのいくつかの町にある巨大な鉄鋼会社が主導する「ヨーロッパ石炭鉄鋼連盟」(European Coal and Steel Union)の支援を受けて行っている対応策に触れている。このプロジェクトは、主として身体障害者の鉄鋼産業への受け入れをめざす大規模な計画である。各企業の中の職務を洗い出し、いわば「保護的職務」としてリストアップし、認定障害者をそこに配置する。適応しない場合には、作業場は再設計され、別の職場定着策が試行された。著者は、この計画によって、鉄鋼産業での障害者の正規雇用が創出され、失業率が高くてもその職務を保持し、生産性を維持することが可能となったと述べている。

要約

 ルクセンブルグでは、障害者に関する法令は総合的ではなく、事項別である。最近の政策では調整を重視している。調整が必要なのは、保健・教育・雇用行政の間、次いで専門職の間、民間で政府補助を受けている障害者の特定グループの利害を代表する団体の間ということになろう。

障害者の雇用に関する法令が最初に出現したのは1959年であり、1991年11月12日の新法制定まで基本的には変更なしで適用された。1991年法は、知的障害や感覚障害にまで対象を拡げた。法の下では、障害労働者とは、労災や戦争で障害を負った人たちのことであり、身体・精神・感覚上の機能障害を持っていて、作業能力が少なくとも30%減少した人たちのことである。法の適用を受けるには、当局によって障害者と認定され、さらに登録される必要がある。障害者が当局によって提供されるポストや訓練を拒否すると、割当雇用制度による雇用を請求する権利は消滅する。

リハビリテーションは、一連の連続過程と受け止められている。はじめに、専門職チームによる評価と職業ガイダンスがある。次いで、適切な訓練や就職斡旋が続く。雇用は、公私企業への割当雇用制度で確保されている。最終的には、生産性の減少に対する補償がある。

1991年法は、雇用支援行政に新しい仕組みを導入した。障害労働者の採用や職業訓練に関する専門機能は、本来の雇用行政に統合されたが、障害労働者へのサービスを専門的に提供するさまざまなレベルの職員が配置された。1992年の勅令では、職業リハビリテーション、職業訓練、職業斡旋の方法と内容が確立された。訓練は旧態依然で、変化する労働市場ニーズに対応できなくなっている。

1991年法は、障害者の割当雇用の内容も変更した。国政府、地方自治体、公営企業が充足すべき雇用率は、2%から5%になった。民間企業では、当初50人以上を雇用する場合、2%が適用されたが、企業の規模に応じて率が変動することになり、まず25人以上の企業に適用されることになった。25人以上を雇用する雇用主は最低1人の常勤障害者を雇用しなければならない。50人以上は2%とされていたが、300人以上は4%となった。民間企業の義務は、適切な資格を持つ障害者の需要を雇用庁が把握しているかどうかにかかっている。民間企業経営者への強制的な罰金は、各月の未充足の労働者への最低賃金の50%相当とされていた。しかし、実際には、罰金は適用されていない。

登録障害者を雇用する雇用主への財政的援助も、1991年法で変更された。割当雇用制度の下での、生産性の低い労働者への賃金補助はそのまま残っている。職場改善への費用負担も同様である。毎月の定着手当は新しい制度になった。

訓練課程中の障害者は、職業復帰手当の対象となり、これには復帰への準備や復帰時の経費が含まれている。障害労働者は離職特別金を州から6日分受給できる。障害者と認定され、自営業に従事する者は、社会保険料を減免される。

保護雇用は、1991年法によって法的に認められた。シェルタード・ワークショップは、企業と同様に、自主生産や下請作業を行っている。作業援助センターは、作業体験や療法、医学的・社会的な支援を提供する。両者とも、より大きなリハビリテーション・職業訓練センターの一部であり、これは民間サイドで運営されている。雇用庁は、採算のとれる生産的な工場には資金や運営費を補助しており、一般雇用への移行をすすめるための補助金も交付している。保護雇用被用者対象に312件の補助金が交付された。被用者の大半が知的障害者である。

1995年には、ルクセンブルグの全人口は41万人であり、雇用されているのは、このうち19万8,000人である。失業率は約3%である。

オランダ 1)

政策とその制度的情況

障害者対策と法制

 1983年に制定された成文憲法では、宗教・信条・政治的所信・人種・性別その他いかなる根拠によってでも、差別を禁止している。障害者を差別から守る特別な立法はない。障害者に関する総合法もない。1980年代初期には、政策案が議会に提出され承認を得て成立しても、法令文書に記載されるまでには至らなかったと報じられている(WHO,1990:ヨーロッパ評議会(Council of Europe,1990)。むしろ、政策は個別の法律や政策文書を通して、個別事項ごとに推進されてきたのである(Krug,1995)。

障害者対策の全般的目標は、あらゆる状況の下、あるいはあらゆる生活の場面で、障害者が年齢や社会的文化的環境の違いはあっても、その可能性を最大限に発揮して、できる限り積極的な役割を果たすことを保障することである。家族・学校・労働場面そして社会一般は、こうした目標の実現をめざした活動に等しく参加することが期待されている。しかしながら、障害者自身の選択の自由の保障や自己決定の尊重が優先されていることはいうまでもない(Krug,1995)。

オランダは、障害を持つ市民に対して、伝統的に保護的な福祉ベースのサービスを提供し、しかも、それらに多額の財政支出を行ってきたのであるが、1人ひとりの責任を重視する見方や考え方が次第に支配的になってきている。共同責任(連帯の原則)による政策への国民の支持は、減少してきているといわれている。

法令は長い間、障害の種別ごとに制定されてきた。自発的に作られた団体の大多数は、障害者の特定のグループの興味、関心を代弁している。住まいとケアに関しては、伝統的に施設中心である。身体障害を持つ若者達が、適切な住居とケアが同時に確保できる方法で、地域での自立生活を始める例が増えてきている一方で、1995年のデータでみると、知的障害(learning difficulty)者101,000人のうち45,000人は、80~600床という大規模な施設(集落タイプ)で暮らしている。こうした施設を閉鎖しようという動きはなく、最近10年間をみると新設されたものもある。他方、ホステルタイプの住まいで生活する人たちも増えてきており、550カ所の小さな家で、約14,000人が生活しているということである。

教育対策
オランダは長い間、2つの並立する教育体系を維持してきた。障害児学校と普通学校である。前者は、障害の種別に対応している。政府は、生徒を普通学校に移行するよう奨励して、障害児学校(特に全寮制)を縮減すべく努力している。

教育省は、普通学校が障害児を受け入れるよう誘導しているが、当初は教員の反対に直面した(Sailor,1991)。TimmermansとSchoemakers-Salkinoja(1996)は、その誘導策はあまり効果があがらなかったと述べている。割増教員の配置や生徒指導、各種援助策に財政支出が行われているが、場当たり的なので、長期施設利用が必要とされる児童には適切ではないとみられている。学校における専門的対応、さらには施設設備面の改善への支出は、不充分と思われている。最近では、教育者から、障害者1人ひとりに支出される予算は指定された学校の施設設備改善にまわした方がよいという主張がされている(Timmermans and Schoemakers-Salkinoja,1996)。

全盲あるいは弱視の生徒への全寮制学校は、必要最小限にまで減少しているが、聾あるいは難聴の生徒の全寮制学校の在籍数は依然として多い。知的障害(learning disability)を持つ生徒の通う中等学校の多くは、職業訓練を中心に置いている。身体障害児の就学率は健常児より少ない。1945年以降、中等学校退学率は、健常児の10%に対して、同年齢の身体障害児は30%に達している(Timmermans and Shoemakers-Salkinoja,1996)。

労働市場対策

 15~64歳の人口は、他の多くのEC諸国に比べて早いテンポで増大している。しかし、15~64歳の労働市場への参加率は、男女とも低い。パートタイム就労がかなり多いことと、大多数が比較的若い年齢のうちに離職してしまうことによる。

政府は、個人主義の重視、規則依存からの脱却、経済活動をする者としての個人の責任重視等を通して、高度に制度化されたシステムから市場重視の仕組みに変え、雇用問題の解決と公的支出の削減を図ろうとしている(MISEP,1995)。

一般雇用の拡大促進を図る中央政府の政策は、次の3つの方向に沿って行われている:(1)特に非熟練労働分野での労働コストの縮減、(2)労働市場の流動化の促進、(3)労働時間や就労形態の多様化。長期失業者への特別な雇用の創出は、主として介護分野で行われており、社会保障分野での労働需要拡大策がとられている。政府はまた、失業者の多様な態様に応じたさまざまな雇用を生み出そうとしている(Krug,1995)。

公共の職業紹介サービスの役割に関しては、職業紹介や仲介は公的雇用に対してのみに限定するようにして、労働市場関連団体・機関間の調整に力をそそぐ、また、公共サービスを民間団体へ委託することなどを通じて多元的な方法を採っていくという方向にある(MISEP ,1995)。

州の役割と自由市場の役割については、オランダ国内において盛んに議論されている。議論と法改正の提案は、労働条件の合意形成(解雇に関する規則、労働時間、公的雇用サービスの役割、所得保障)に向けて的がしぼられてきている(Knegt(ed),1995)。

障害者雇用政策の発展

 障害者雇用政策の多くは、長い間、身体障害者を対象としてきた。慢性の精神疾患者は、障害者雇用政策が確立した時まで(OECD,1992)、長い間対象とされなかった。彼らの就労への権利が正当に評価されたのは比較的新しい(Seyfried and Lambert,1989)。知的障害(learning difficulty)を持つ人の一般雇用はきわめてまれであった。

障害労働者の職業紹介に関する規定は、1947年の「障害者雇用法」 (Employment of the Disabled Act)に始まり、その内容は(1)地域雇用事務所で「健常者以下」(less able-bodied)の証明書の交付を受ける自発的な登録、(2)25人以上を雇用する公私の機関は、新たに職員採用の際には「健常者以下」の者を2%まで雇用しなければならないという雇用割当、(3)雇用主は、障害者に対する職場改善あるいは作業用機器の改良をしなければならないという義務である。法律上の障害者の定義は「虚弱、疾病又は精神・身体上の理由により、生計費を確保する能力が実質的に制限されている者」である。

雇用率を達成する割当義務はほとんど効果が上がらなかった。定義があいまいであったし、登録が普及しなかったからである(Krug,1990)。そして、シェルタード・ワークショップへの財政支出が、中央政府の主要な障害者雇用奨励策となっていた(ibid)。

中央政府の保護雇用への関わりは、当時既存の自治体立シェルタード・ワーックショップへの財政支出計画が発足した1950年代に始まった(Krug,1955)。これは急速に発展し、1969年には「保護雇用法」(Sheltered Employment Act)が成立した。その目標は、障害者個々の能力に適合した雇用代替え策で、かつ、個々の就労能力を可能な限り維持・回復・改善し、その上できれば一般雇用にも移行させることを志向したものによって社会保障を実現することであった。中央政府の無制限の財政支出によって、この方策は成長し、1984年には、350の工場に82,000人の被用者がおり、近代的工場も開設された。

1984年に、政府は増大する支出に耐えきれないことから、激しい政治的論争を経て、中央政府、地方自治体、保護工場との間の財政的・行政的な関係の抜本的なリストラに着手した。実験試行的なリストラは1989年に始まったが、新しい法の発効は1998年1月とされている。1995年末には、ヨーロッパの言い方での常用同等労働者(equivalent employees)が85,000人となっており、労働人口にかなり高い比率を占め、全労働者の1.5%に相当するといわれている。

1960年代と70年代に社会保障制度は改革・拡大され、障害者になった労働者(疾病や事故によって就労不能に陥るおそれに対する保険制度であるWAO法の受給者)だけでなく、障害者になった自営業者や生来の障害者(AAWによる)に対しても、適切な所得を保障することになった。

1980年代半ば以後は、社会問題として広く認識されるようになった障害給付(disability benefit)受給者増の問題も、障害者雇用政策の目的に含めるようになった。以後、障害給付制度の改革と障害者の雇用促進策は密接に関連している。WAOが1967年に導入された時には、給付者数は10万人以下であろうと見込まれたが、1968年には、これが163,500人に達し、1985年には610,000人にまで増加した。

「障害労働者雇用法」(Handicapped Workers Employment Act)(1986)(WAGW)には、3つの重点がある。

  • 雇用主・雇用主団体・労働者団体には、公私を問わず、障害給付受給者の雇用促進義務があること。目標は、自発的に、やむを得ない場合には強制的に、3年以内の3~5%の雇用率達成である。
  • 治工具の採用や作業改善、さらには職場環境、住居、通勤などのニーズの充足によって、就労上の困難を減少させるべく努力すること。
  • 障害防止策の確立や諸制度間の連携を通して、諸対策の調整を拡充すること。

 1986年の法改正で、奨励策としては好ましくないとされていた登録制度を廃止した(Daunt,1991)。そして、障害給付受給者や傷害年金(invalidity pension)受給者の全てに雇用施策の利用資格を拡大した。さらに、就労を可能とするための特別給付金を受給する、あるいはその必要のある障害労働者も有資格とした。

法改正と並んで、障害給付請求を縮減する方策を模索する努力も払われた。1980年代には、給付水準を低下させることでWAOの受給者増大を阻止しようとしたが、失敗した。1989年までに給付の受給者数(WAOとAAWの合計)は、846,000人に達した。この増大の理由には次のものがあげられる。(1)心理的要因に基づく障害認定の増(1991年では有資格者の1/3がそのように認定されている)を含む疾病概念の拡大、(2)従前から雇用されていた障害者の技術と、産業界からの期待との間のギャップの拡大、(3)職務での競争の激化、(4)資格認定の寛容さ、(5)給付の相対的高水準。政府は、1991年に、給付対象から脱出するように奨励する法改正などを発表した。

1990年代には、寛大な社会保障給付に頼りがちな人たちに対し、個人の責任と選択の自由とを強調する新しい政策が打ち出された。障害給付は、給付決定が難しくなり、水準も引き下げられた。解説者たちは、連帯・共同モデル(solidarity-collective model)から選択的市場モデルへの社会保障制度の転換が図られにつれ、それをより選択的、市場志向にさせる動きが出てきたと記述している。共同原則の下では収入の損失は補填されるため、障害予防や就労参加への刺激は生まれなかったのである(Klosse,1995)。市場経済原則の導入は、個人が収入増や競争をめざすように刺激する意図のものである(改革とその効果については、Aarts et al.,1996aを参照)。

1990年代には、この報告書で後述するように、法の変更がかなり行われた。

  • 「給付請求者削減法」(Reduction of the Number of Benefit Claimants Act)(1992,TAV)は、疾病による職場離脱を予防するように、また、軽度の障害者が就労継続するか職場復帰を確保するように、雇用主・被用者を刺激することをねらいとしている。
  • 「障害給付請求制限法」(Act to Restrict Claims on Disablement Benefit)(1993,TBA)は、WAOによる給付資格審査を一層厳しくするものである。
  • 「疾病休業削減法」(Reduction of Sickness Absence Act)(1994)は、雇用主に対し、労働者が疾病や能力低下で休業した場合、最初の一週間は少なくとも賃金の70%を支給すること、職場復帰を奨励するカウンセリングを実施すること、さらに、民間の産業衛生サービス業者と契約してサービスを受けさせることを求めるものである。
  • 「オランダ労働条件法」(Dutch Labour Conditions Act)は、1994年に改正され、全雇用主が、疾病による休業を防止するよう労働条件施策を遵守しなければならないことを規定したものである。
  • 「疾病給付法」(Sickness Benefit Act)は1996年3月に廃止され、雇用主に、最大12カ月の休業補償の支給を求めることになった。

 これ以外の法令についても、1996年末の時点で検討中である。

要するに、1996年末時点の政策は、3つの要素から成っている。

  • 障害者の雇用の促進とその維持、また障害の発生を防止する法的義務。
  • 雇用主に焦点を当てた財政的誘導策。
  • 障害給付への個人の依存やアクセスを削減する方策。

政策の決定と実施

 中央政府レベルの障害者対策に関する調整は、「障害者対策の調整担当大臣」の主導の下での、保健・住宅・教育・労働・所得を所管する大臣の共通の責任である。関係省庁から成る合同作業グループは1968年に設立されたが、これを補佐するものとして、「障害者対策部局間運営委員会」(Interdepartmental Steering Committee on Policy for Disabled People)がある。さらに、オランダ下院には、「障害者対策特別委員会」(Special Committee on Policy for the Disabled)がある(WHO,1990)。

関係省庁合同作業グループは、身体障害者及び精神障害者(mentally handicapped people)の全国的団体との協議をする。

社会・雇用省は、労働市場対策と所得保障を包含した「労働と所得保障」システムを所管している。

1991年に、雇用サービス庁(the Employment Service (ES))は、社会・雇用省の総局(Directorate General)から、大臣の監督を受ける自治公共団体(autonomous public body)に転換された。これ以後、全国経営者団体・全国労働組合連合会・中央政府が、中央雇用委員会と28の地方雇用委員会を通じて、政策立案に等しく責任を分担することになった。これらの委員会は、重要な政策決定や行政判断に究極(ultimate)の権能を有している。このモデルには政治的な異議が出され、再検討されることになっている。1995年には、中央委員会から3省が撤退し、団体に属さない専門家と交代することになったが(MISEP,1995)、1996年までは実現していない。

雇用サービス庁は、職業指導と職業訓練、就職仲介と職業紹介、失業中の就職希望者への援助、解雇や辞職の通告の扱いに業務を集中している。免許を取得して職業紹介や一時的雇用の斡旋を行う民間機関も増大の傾向にある。

1998年からは、軽度の障害労働者の一般(再)雇用推進の法的責任は、「産業保険委員会」(Industrial Insurance Boards (IIB))から雇用サービス庁へ移譲されることになっている。

社会・雇用省が設定し、助成している職務創出計画の執行責任は地方自治体に与えられている。この中には、シェルタード・ワークショップや援助付き雇用計画も含まれている。

産業保険委員会(IIB)
雇用サービス庁は、社会保障給付を行う行政組織から機構的に分離している。失業保険システムと障害労働者の保険システムは、「産業保険委員会」(Industrial Insurance Boards (IIB))が1997年3月まで所管してきた(失業保険システムに充当する税は「地方自治体の社会サービス部」(Municipal Departments of Social Services)の所管である)。最近の法令では、保険・給付を担当する部局は、給付の支給だけでなく、失業者の再雇用に向けての援助も行うよう求められている(MISEP,1995)。

委員会はさまざまな産業分野ごとに設立され、経営者団体や労働組合の代表によって運営されている。これらは、国レベルの社会保険制度を実施すると共に、社会的パートナー(social partner)によって設立された、疾病の際の追加給付が賃金の70%を上回るようにするといった補足的な保険システムも担当している。前職場への復帰、保護工場への紹介、さらには新規就職などを通じて行う「部分」(partially)障害者の(再)就労は、80年代半ばから、法に基づくIIBの責任とされた。1987年3月からは、AdOsとして知られる行政機関が、これらの業務をIIBから引き継いだ。雇用行政庁は、最近になって、一般雇用への紹介業務を保険委員会から請け負って開始したが、これは、1998年には法に基づいて所管替えとなる予定である。

「社会保険制度新行政組織法」(New Act on the Administrative Organisations of Social Insurance Schemes(NOSV))によって、「総合国家保険基金」(General National Insurance Funds)の業務を担当する行政組織が設立された。その主な目的は、種々の産業保険委員会間の調整であった。法的に保護された各種保険団体の独占を打破することは、障害給付の発生を削減するための動きの1つである。 

障害の定義

 障害及び障害者についての単一の定義はない。障害給付、保護雇用、WAGWに関する法は、それぞれの定義によっている。

「障害」給付を受給している労働者の法的呼称は、「就労不適」(unfit for work)であって、「障害」ではない。社会保障法では、稼働収入を得る能力が減少したとき、人は法的に就労不適とされる。障害発生以前に得ていた収入額は、受障後の稼働収入と比較される。Willemsら(1995)は、この過程を次のように説明している。疾病や虚弱(社会保障法では明確に定義されていない)による就労不適という補償を請求する者は、医学的・職能的評価を受けなければならない。IIBに所属する有資格の健康保険専門職が医学的検査を実施し、時に臨床専門職によるテストで補足して、医学的診断と身体的・精神的な制限や残存能力についての評価を行う。就労障害の程度は、技術的な手続きに従って決定される。把握された制約条件は、コンピュータシステム(TicaによるFunctie identificatie systeem,FIS)によって7,000以上の職種に必要な要件や資質と対比される。3つ以上の職種に適合すると就労能力ありとみなされる。3つの職種の全てについて10以上の実際の職位があれば、その職位に空席があるかどうかは関係ない。稼働能力の損失が明白に大きい場合には正式に障害者と認定される。障害の程度は、受障前の最終に従事した職から得ていた収入と、その障害でも可能な3つの職位のうちの2番目に高い収入とを比較して決定される。

給付受給者は、全く収入がないかほんのわずかしか賃金をもらえない場合は「全体障害者」(totally disabled)、ある程度の稼働収入がもらえる場合は「部分障害者」(partially disabled)と呼ばれる。7つの程度分類があり、15%以下、15~25%など、最高は80~100%とされている。

統計

 オランダでは、一般国民の中で身体障害者を識別する登録その他の制度はない。「社会・文化企画局」(Social and Cultual Planning Bureau)(SCP)は、1980年代及び1990年代初期の人口調査から身体障害者数を推計している。人口調査の数値からみると、オランダ人口の1/3が多少とも障害を持っている。11%以上つまり150万人以上の者が、自らは重度又は最重度とみなす1つ以上の障害を負っている。

知的障害者についての統計はない。SCPの研究では、知的障害者施設を現に利用しているか、利用が見込まれる者がその該当とされ、約10万人と積算されている。約60%が20~55歳である。表N.1は、年齢別、知的障害程度別の表である。

表N.1 年齢別程度別知的障害の状況(1992)
年齢 程度
重度 軽度
0~19歳 14,000 17,900 31,900
20~34歳 17,500 18,700 36,200
35~54歳 14,500 10,000 24,500
55歳~ 5,000 2,600 7,600
51,000 49,200 100,200

(出典:SCP)

知的障害者の就労人口は、34,000人以下と推計されている。1993年には、約28,100人が保護雇用に従事し、その待機者が3,400人であった。約200カ所のデイセンターが、9,000人の知的障害者をかかえている(Ward,1992)。デイセンターでは、適正な作業を用意しようというのが全体的な動きである(Warel,1992)。このように、16~65歳の知的障害者のほんのわずかしか一般雇用に従事していない。保護雇用から一般雇用に移行した人は20年間減り続け、1994年にはほとんどゼロになった。

雇用されている障害者

18~55歳までの健常者は75%が雇用されているのに、中程度の障害者は40%、重度者では1/3しか、収入を伴う職に従事していないと推定されている(Timmermans and Shoemakers-Salkinoja,1996)。1981年以来、地域の雇用事務所では、求職登録者の特別分類に障害者を記録するようには求められていない。

政府は、障害労働者の登録を1998年からきちんと行うよう雇用主に求めることにした。そして、その数に応じて減税をすることにした。これは、今のところ、罰則なしの自発的なものとされている。しかし、定義によって問題が生じている。

表N.2は、障害給付を受給しているため障害者と認定された者と、保護雇用に従事している者を年別に示したものである。社会保障制度の下で障害者と認定された者の約20%が就労している。このうち15%が有給の職に就いており、5%が保護雇用センターで働いている(Klosse,1995)。

表N.2 一般又は保護雇用従事の障害者数(年別)
(社会保障制度による)障害者 保護就労
1989 844,300 79,000
1990 880,800 82,200
1991 902,600 84,100
1992 912,000 84,900
1993 921,000 85,700
1994 894,300 86,600
1995 860,000 87,000

 調査によれば、労働参加が低率であることに関連する障害には2種がある。つまり、介護関連の障害と耐久力関連の障害である。これら2つのグループは、決まった労働時間や労働のテンポに対応できず、そのため現存の作業体制には適合できないのである。

聴覚障害者、視覚障害者が従事している職種タイプに関しての若干の情報がある。オランダで実施された2つの調査によれば、「聴覚障害者の60%以上が、大工や石工といった力仕事に従事している」そして「今後3世代にわたって変化の見通しがない」という。しかし、現在は他の多くの仕事が聴覚障害者にも開かれてきている(Pattipeilulu,1993,P.27)。電話交換手は、80年代半ばまで視覚障害者の花形職業であった(ヨーロッパ視覚障害者連盟)(Europe Blind Union)(1986)。しかし今は、技術の普及によって雇用機会は減少した。

雇用支援サービス

 オランダでは、障害者を再就職に向けて準備させることには力が入れられないできた。1991年の、障害者の労働市場対策と金銭給付に要した公費支出はGDPの0.01%以下であった。ほとんど請求がなかったために総額がこんなに少なかったのである(Aarts et al,1996)。労働市場からはずれた場合には、所得保護と障害給付の活用が強調されるために、リハビリテーションサービスの供給は最小限に留まった(ibid)。

長年労働市場から排除されていた人は、就労に必要な資格を有していない。技能の再訓練を行うこと、就労体験や訓練を通じて可能性を直接的に観察する機会を作ることが、障害労働者に対する雇用主の拒否的態度を打破するために必要だと主張されてきた(den Uijl et al,1996)。

オランダでは、職業評価と職業指導は、給付制度の一部分として統合されている。必然的に、職業上の障害、障害給付のレベル、雇用機会がどの程度かの評価は同一機関が行う。これを行う機関としてのGMD(Gemeenschappelijk Medische Dienst)は、1994年3月からGAK(Gemeenschappelijk Administratie Kantoor)に統合された。

いずれのチームも職業リハビリテーション専門職、国民健康保険臨床医、法に基づく評価員から成り立っている。職業リハビリテーション専門職は、地域の雇用主のところでの就労機会を調査し、訓練その他の専門職への照会、再雇用へのプログラム作成、求職活動援助、適応上の問題解決を行う。GAKは、職業上の障害を評価すると同時に、障害者の就労機会を妨害する要因の軽減、求職活動中の障害者の援助を行う。

訓練

 職業訓練は、古くから障害の種別に分化されてきた。身体障害者のための職業訓練は2つのセンターで行っている。就職率は、1989年の報告では著しく良好であった(1センター当たり80%の者が1年以内に就職した)。しかし、その成功は、入所段階での厳しい選考によるところが大きいと言われている(Seyfried and Lambert,1989)。1995年でも、就職率は高いままである。リハビリテーションセンターの1つが、視覚障害者に訓練を提供している。

一般の訓練に統合する方法も導入されている。例えば、オランダでは従弟制度による訓練システムへの障害者の参加を2倍にする目標を立て、若い障害者の特別なニーズや適性に応じた柔軟な単位制の訓練も実施している(OECD,1992)。現在では、Centra Vakopleiding(CV)の訓練施設の5%が、産業保険委員会から援助を受けている障害労働者を受け入れている(MISEP,1995)。CVは、雇用行政庁の昔からの施設で、失業者の再訓練を実施している。それは、フルタイム又はパートタイムの昼間のコースで、4~18カ月に及び、製造業のいくつかの職種と事務系の職種に関連するものである。

訓練は、基本的に、障害者自身並びに諸給付・就職斡旋を行う機関の責任である。調査によれば、重度の障害者ほど成人向け教育を受けにくいことがわかっているが、これは身体上の問題よりも、サービス提供者の説明不足、指導力不足、さらには教材や指導方法に適切さを欠いているためである。訓練に要する費用にも若干の問題がある。1993年には、GMDは10,000人分の訓練費用を予算化したが、実際は100,000人分必要であったと1995年の障害者報告(Report on Disabled People)は述べている。雇用主は、障害者になる危険性を持つ被用者の訓練にはほとんど投資せず、求職者の訓練は全く行ってはいない(Timmermans and Shoemakers-Salkinoja,1996)。

就職

 1983年には、若年で軽度の障害者に労力をそそいだにもかかわらず、再雇用プログラムの終了後に56%が未就職のままであった。1992年には、GMDの再雇用プログラムは102,600人を対象としたが、その年末には、半数近くが就職できなかった。就職は、Krug(1995)によれば、次のとおりであった。

  • 26,900人が前職場へ復帰した。
  • 14,300人は新規就職した。
  • 9,200人は自営となり、
  • 1,800人が保護雇用に入った。

援助付き雇用

 知的障害を持つ求職者に対する就職と定着指導について、新しい試みが数多く実施されてきた。Krug(1996)は、精神障害(mental disability)を持つ人を雇用に結びつけるいくつかの民間の試みがなされていて、それは、一緒に行動するジョブコーチが付き添って、職務について訓練し、問題解決を援助していると報告している(1996)。Krugは、これの誘因になったのは、シェルタード・ワークショップの待機者の増大と入所方針であると指摘している(1996)。新しい方法による雇用推進プロジェクトは、GMDとGAKの努力とも相まって、就業率の増に結びつき、かなり成功していると報告されるようになった(Timmermans and Shoemakers-Salkinoja,1995)。

初めは、これらの試みはヨーロッパ委員会(European Commission)をはじめとするいろいろな資源から助成されていた。暫定の措置として、被用者は生産性に応じて賃金を受け取り、不足分は法定最低賃金の全額相当分までの障害給付で補足するということにされた。ジョブコーチに係る経費の助成は、社会保障制度に位置づけられた。新しい保護雇用法が成立した際には、地方政府は援助付き雇用に助成できるようになる。このようにして作り出される職は、政府助成金の目的に照らして、保護雇用の職に相当するものとして扱われる。援助付き雇用はこうして全障害者に解放されることになろう(Krug,1996)。

スタート(START)

スタート(START)とは、1977年に労働市場に関与するために雇用サービス庁によって設立された臨時の非営利基金である。スタートは就職困難な失業中の求職者の新規就職に努力した。障害労働者も対象となった。最近では、スタートは(企業への)派遣・採用・選考さらには職業訓練の一部なども担当するように専門化してきた。1994年には、スタートは129,000人の就職を斡旋した。その3%が障害者である。就職斡旋は長期契約につながることが多く、1987年には、スタートの仲介を経て長期契約に結びついた者は33%に達し(MISEP,1995)、1995年もまた同様であった。

一般雇用:法的義務と権利

 法的義務は以下の5項目にわたっている。(1)できる限り障害者の雇用を試みること。(2)戦力となっている障害者の数を増やすこと。(3)障害被用者のニーズに応じて、作業内容や作業環境を改善すること。(4)障害者になっても雇用継続すること。(5)障害の発生を予防すること。

雇用の促進

 1986年のWAGW法第2条は、雇用主・雇用主の団体・労働組合に対し、相互に協力して障害者の雇用をできる限り促進するよう、総合的な義務を課している。特に、新しい職業が創出されるときには、障害者にも適した職務を作り出すような配慮が求められた。次のような多くの自発的な方法があるはずだと当局は示唆している。雇用主が共同で訓練部門を設立すること、作業条件を改善すること、障害者に適した職務を明らかにし留保すること、代替えの職務を創出すること、就職斡旋が認可されている各種機関・団体のサービスを活用すること。

雇用主は、賃金助成規定の活用や、職務内容・作業方法・作業用具の改善に要する経費補償の利用もすすめられている。(以下を参照)。

割当雇用制度

 割当雇用制度は「障害者雇用法」(Employment of the Disabled Act)(1947)で導入された。同法に基づき、地域雇用事務所への「健常者以下」という自発的な登録制が定められ、25人以上雇用している公私の事務所が職員を新規採用する際には「健常者以下」の者の2%の割当雇用が課せられた。2%の雇用義務が効果的であったかどうかは定かではない。法は、地域雇用事務所に「健常者以下」と判定する基準を示さなかったし、登録制度の活用は広がらなかった(Krug,1955)。

1947年法は、1986年にWAGW法として生まれ変わった。新法の基本原則では、企業の障害者雇用率は3~7%の間であるべきだとされた。同法は、雇用主・雇用主団体・労働組合に対して、特に障害給付を受給している者の雇用・再雇用に努力して、この目標に達するよう義務を課した。この目標は、最初の3年間(1986~1989)で、自発的に達成すべきとされた。Dauntは、雇用主が要請に応えるための公正な機会を持てる方法として、WAGW法は「時間を創造的に活用する」点で「全く革新的」であったと指摘している(Daunt,1991,p.64)。

最初の3年間で目標が達成されなかった場合には、各企業の実態に応じて、3~7%の間でもっと柔軟な雇用率を設定することが計画されていた。WAGW法第3条の3では、社会保険審議会が、政府機構のある部門、あるいは部門内の一部が、障害者の機会均等の実現をほとんど図っていないという意見に基づき、政府機関もその措置をとるべきであると助言しない限りは、政府機関は割当雇用措置をとらなくてもよい。この制度は、ある部門が直面している制約を認め、機会均等に向けての努力量を認知しようとするものであった。第4条では、所管大臣は、期限内に雇用率に達することができなかった企業に対し、新たな目標到達期限を設定する権限を有していた。雇用を課することに対しては、いかなるものであっても、雇用主の団体から激しい反対があったと報告されている(Krug,1990)。

割当雇用率が達成されなかった場合には、「総合障害基金」(General Disablity Fund)に納付金(contribution)を納めることとされた。納付金は、障害給付やGMDが運営する特別の施設に提供される。納付金額は、1年間空席であった1人のポストにつき10,000ギルダーであった(法定最低賃金の15/38)。割当雇用が実施されている業界の雇用主には、雇用率以上に雇用した場合、1人につき1年間同額の補助金が交付される。政府は、1998年からは、減税の形で雇用率達成を図ろうとしている。

即効性があったのは、雇用主に対し、障害者として雇用された者、雇用に伴い受領した助成金、さらには未達成の際の納付金について記録をつけ、その記録を入手できるようにすることを求めたことである(第10条)。これに違反すると、最大3カ月の刑か「第3カテゴリー」による罰金が課せられた。虚偽があった場合には、最大4年の刑を受けるか「第4カテゴリー」の罰金を払うかであった(第17条)。

1989年に公にされた報告書の中で、オランダの現状が評価・分析されている。1989年の初めには、113,600人の障害者がWAGW法の規定に従って雇用されていた。これは15日以上就労契約をしている労働者の2.2%に当たる(Lheureux,1991)。このうちの15%は従前から雇用されていたものである。1989年の初めにIVA TILBURGによって実施された、全セクターにわたる4,000企業についての調査によれば、民間セクターの全ポストの2.88%、官公庁の2.55%のポストが、自分で障害者と認めている、あるいは他人からそのように判断されている人々によって占められていることが判明した。障害の程度が10~80%の人だけとしたら、先の数値は1.8%と1.5%に減少するだろうとされている(Seyfried,1992,p.63)。Krug(1995)は、新法施行後5年間について評価したところ、1986~1992年の間は達成率は伸びたが、それ以後は2%に留まっていると報告している。Den Uijilら(1996)は、さまざまな産業分野に比べれば、政府自体の雇用率が最も低いと指摘している。

障害給付の受給者を縮減しようとした最初の目的から見ると、この法は成功したとは思えない。WAGW法によって雇用された113,600人中の75%は障害給付を受給していたし、職を得たことで給付を返上した者はわずか2%にすぎなかった。

全ての分野(官公庁を含む)での、政府の公式目標5%に対し、1989年の場合2.2%というギャップから、政府は全ての分野での割当雇用は現実的な政策ではないと判断した(1990年7月~1992年6月までのILOへの報告)。割当雇用に対する雇用主の反対を考慮すると、それを実施した場合、大規模な法律違反が生じるのを政府が危惧したことと推察される(Klosse,1995)。しかし、全ての分野の雇用主への奨励策は必要であったため、雇用主は、WAGW法に基づいて、雇用した障害者数の記録を保存しなければならないという手続きは変えないことになった。

障害労働者の受け入れ

1947年の「障害者雇用法」では、雇用主に、作業環境や作業用具の障害者向けの改善を義務づけた。WAGW法第2条は、雇用主・雇用主団体・労働者団体に、障害者を受け入れるための職場環境改善について、さらに幅広い義務を課した。第6条は、雇用主に対し、「作業内容、作業分担、職務の分割、生産・作業方法、作業用具等の障害者向けの改善等、さらには障害従業員のニーズに合った会社の体制作りといった法的義務を課した。工場監督官は、義務履行を怠っている雇用主に対して強制することができる。対立が生じた場合、雇用主は大臣にアピールしなければならない。

障害労働者の受け入れの一層の促進を図るため、1986年法では、雇用主がより受け入れやすいものに変更されている。1989年に公にされた全国調査によれば、WAGW法に基づいて雇用された113,600人の障害者のうち、6%は雇用主側の働きかけによって障害者と認定された者であり、4%は職場環境の改善の恩恵によるものであった。Lheureux(1991)は、障害者のニーズに合わせて職場環境を改善しない雇用主に対して、所管機関組織が制裁措置をとるようなことはほとんどなかったと述べている。ある研究では、就職に成功した障害労働者の約60%は、雇用主が作業要件改善をしたために再び就労可能になったのだとしている(Nijboer et al.,1993)。

継続雇用を奨励する規定

 「作業環境法」(Working Environment Act)(1989)は、雇用主に、できるだけ最高の作業状況を用意して、被用者が最適な仕事を継続できるような方法を確保するよう求めている。しかしながら、多くの企業では、良好な作業環境を整備する意欲が欠乏していると報告されてきた(OECD,1992)。そこで、オランダ政府は、雇用主が専門家に作業環境の改善策を委託する場合の、また、労働者の障害発生防止や早期リハビリテーションのためにプロジェクトや体系的改善策を開始する場合の、補助金制度を導入した(同上)。

能力喪失給付(incapacity benefit)を受給している全労働者の約1/3がまだ働き続け得ると思っていること、また、その身体状況に応じた作業改善を雇用主に期待していることが調査結果で判明した(Nijboer et al.,1993)。

障害労働者については、雇用行政庁の承認を得てはじめて解雇することができる。法では、労働者の障害発生から最初の2年間は、雇用契約は破棄してはならないと明記している。地域の監督官は、雇用主と障害労働者の相互の利害を比較検討しなければならない。雇用主は、配置転換ができない場合は、それを証明しなければならない。必要があれば、地域の監督官は専門家の助言を求めることができる(Krug,1995)。雇用主は、2年後には解雇の承認を得られるのが通例である(Aarts et al.,1996)。

障害が解雇の理由になるかどうかが不明の際には、そのことを調査・判断する労働裁判所に提訴しなければならない。Klosse(1995)は、その決定はいつも容易ではないこと、多くの場合には障害そのものが明らかにならないことを指摘している。

雇用主は、被用者に新しい職務を提示し、試行期間を経た後に新規契約をするという方法によって法の網をくぐることができる。それは、このようにすれば、承認を得ないままに2カ月後に解雇できるからである。この抜け道が普及することを避けるために、労働裁判所は、新しい試用期間を置くことができるのは、被用者に技能がないか経験もない職務を提示する場合に限られると定めた(Klosse,1995)。

被用者が障害者になり、ある職務を通常の形で継続することが不可能になったときは、雇用主は代替えの職務を提供しなければならない。雇用主がこれを怠ると、被用者が得られるはずの賃金と同額の罰金を払わなければならない。しかしながら、IIBからそのような裁定を受けることはあまりない(Klosse,1995)。(雇用主はIIBの顧客でもあるという事実から、IIBはますます民営化している市場で顧客を失うことを恐れているのかもしれない。)障害者になった労働者を被用者として再配置する義務は、委任決定(Delegation Decision)(BBA)によって、能力欠損が15%以下の障害労働者は必ず他の適当な職務を与えられなければならなくなった今では、特に雇用主にとっては難問となっている。

1994年1月以降、雇用主は、病気になった労働者の観察と管理に責任を持ち、回復に必要なあらゆる手段を講ずることが求められている。

障害の予防

 政府は、最近、雇用主が障害の発生予防に意欲的になるような対策を導入している。

「マルス」(Malus)計画は、1995年に廃止されたが、障害防止策の1つであった。これは「ボーナス」(Bonus)計画の一環として導入されたものである。「マルス」(Malus)とは、被用者が障害給付の受給者となったとき、又は被用者の稼働収入が減った(より重度になったなどのため)ために給付を増額しなければならなくなったときに、「総合障害基金」(General Disablement Fund)に雇用主が納める納付金のことである。ここでの論理は、被用者が障害者になることを防止することによって罰金を払わずに済むよう、雇用主はあらゆる努力を払わなければならなくなるということである。しかも、障害者を再雇用すれば、雇用主はマルスを納めなくともよい。会社事情によって再雇用できないとき、あるいは「全体障害者」になったために雇用できないときは、マルスは納付継続となる。雇用主は、マルスは不公正だと強く反対した。罰金は労働者がどれほど作業不適となっても課せられたし、労働者の私的生活に起因した理由で罰金を納めなければならないのは不満であった。企業外の職に労働者を配置せざるを得ない雇用主もまた同様である。

現在は、雇用主は被用者が疾病にかかった場合の危険負担をするようになっている。彼らは疾病給付の費用並びに疾病離職の初年度内(1996年から延長された。それまでは小企業2週間、それ以外は6週間)の相談、検査の実施費用に責任をとるものとされている。法定の疾病給付の付加給付に当てるための保険を、公的保険機構から引き出すことが不可能になったため、雇用主は民間保険でカバーする道を選ぶことになろう。この場合、雇用主の過去の安全実績と防止策に応じて追加負担がある。さらに改善の一環として、障害保険への市場経済原則の適用拡大がある。いわゆる「ペンバ」(Pemba)計画(1998年1月1日からの導入が期待されている)の下に財政負担の構造が変わり、これは雇用主が防止策・再雇用策を採用しやすくするための財政的誘導策となるであろう。新しい改善策の下では、雇用主は障害保険基金に拠出金を払うが、その額は、「全体」又は「部分」障害者と認定された被用者の数によって段階的となる。雇用主は、民間保険会社を通して5年間の負担をするか、障害給付自体を支払うことにするか、選択できるようになるであろう。

こうした変革の予期せざる結果として、採用前に医学診断をするという、雇用主による採用に際しての「危険の回避」(risk selection)が出現した(Willems,1995)。最近の調査結果によれば、企業は採用や休養指示の決定を、健康状態や予想される欠勤状態に基づいて行っていることが明らかとなった(Andriessen et al.,1995)。

1994年1月以降、雇用主は、雇用中の労働者の安全・健康・生活安全をおびやかす危険を察知するよう、また危険を減少・回避する方策を行うよう求められている。疾病欠勤を防止する労働条件の対策は、作業上の危険を全部書き出し、それぞれについて、作業の健康・安全サービス(雇用主は活用しなければならない)の評価結果に基づかなければならない。

一般雇用:財政的施策

 財政的誘導策は、WAGW法(1986)以前からあった賃金法適用除外規定を除いては、オランダでは比較的新しい改善策である。以前からの能力不足の労働者の雇用促進策には、一定期間、「最低賃金法」(Minimum Wage Act)の適用を除外することができるとされていたのである。しかし、ほとんどの雇用主は、団体協約(賃金が最低賃金を上回っていることが多かった)にしばられていたため、この策は適用していなかったのである。

現在は、障害労働者の一般雇用や就労継続をねらった財政的方策がいくつも出現している。これらの方策では、雇用主も障害労働者も対象としている。

賃金法適用除外

 WAGW法では、障害被用者は、健常被用者と同じ職務・同じ作業時間ならば同じ賃金を受給するということを明記している。しかし、障害被用者の生産力が大幅に低下している場合には、雇用主は低額の賃金を支給してもよいとIIBから承認される。1995年には、承認件数は540件であった(1993年には540件、1994年には480件)。適用除外は何年も継続するため、適用除外で就労している労働者の総数は多い。例えば、1993年では850件であった(De Vos,1996)。

疾病給付の補足義務の免除

 労働に部分的不適合と認定された人が復職して、その後に疾病にかかった場合の疾病給付は、疾病前の給料全額に増額される。つまり、雇用主は、以前は70%であった疾病給付を補足しなくてよいことになる。ただし、このことは市場経済分野の雇用主で、かつ、新たに従業員を雇い入れた雇用主に限られている。1994年には230件、1995年には420件となっている(De Vos,1996)。

賃金費用助成金

 作業に不適とされた人を雇用する市場経済分野の雇用主は、TAVの賃金費用助成金を申請できる。これは、給料の最大限20%までであり、4年間を越えることはできない。助成金はIIBが所管している。

表N.3 賃金費用助成金の該当者と所要額
該当者 所要額計
1994 3,135 21,767,000
1995 2,661 23,304,000

出典:De Vos,1996

指導監督経費助成金

 賃金費用助成金に加えて、TAVでは指導監督助成金を導入している。市場経済分野の雇用主に対して最大限4,000ギルダーがIIBから支給されるものである。これは、(不適と認定された)労働者を雇用するに当たって、特別の時間や努力が必要であることが明らかである場合に交付されるのである。

表N.4 指導監督経費助成金の該当者と所要額
該当者 所要額(ギルダー)
1994 2,179 7,060,000
1995 1,753 5,570,000

出典:De Vos,1996

職場改善助成金

 AAW法(第57条a)は、雇用主が、被用者のニーズに応じてWAGW法第2条で求められる職場改善を行う場合、それに要した費用を補償するための財政的支援を定めている。必要とされる改善の承認はIIBが行う。1994年と1995年には、それぞれ730件、660件の助成金が承認された(De Vos,1996)。

改良・改善に反対する雇用主はほとんどいないけれども、多くの事例では、雇用主は、AAW法やWAGW法に基づくような職場の用具や改善のための助成金を利用していない。(Timmermans and Shoemakers-Salkinoja,1996)。

AAW法(第57条)では、被用者が自分のニーズに合うように特別な改善をする場合に要する経費を、IIBから援助できるよう定めている。これは、職場内に限らず、他でもよい。例としては、通勤時の費用・特殊靴の製作費・研修受講費などがある。

表N.5 IIBによる被用者への助成金
該当者 研修へのギルダー所要額 研修以外のギルダー所要額
1994 4,900 1,100 3,800
1995 660 7,000 2,500

出典:De Vos,1996

AAW法第57条と第57条aによる助成金は、数年間交付されるので、こうした恩恵を受ける労働者の全体数は多い(該当者数は不明)。

介護

 1994年2月に、就業中の介助手当が導入された。これは、介助があれば一般就労できるという人にのみ適用される。雇用主は、障害労働者の就労時間の15%分の補償金を受領できる。知的障害者に対するジョブコーチの試行にも、この手当が活用されてきた(Krug,1995)。

1995年では、民間企業の全就労人口の0.01%がこの手当の給付を受けた(De Vos,1996)。

財政的措置の効果

 調査によれば、これらの措置は、予期したほどは効果が上がらなかった。特に、労働経費の助成金や労働者が疾病になったときに賃金の70%を支払う義務の免除がそうであった(ZWの第29条b)。助成金は一時しのぎであり、稼働能力の低下した労働者の雇用には気の進まない雇用主を誘導するには不充分であった(den Uijl et al.,1996)。雇用主が、教育研修費や作業改善費への補償を求めることはほとんどなかった。

Krugによれば(1996)、雇用主は障害者を新しく採用するよりは、障害者になった従前の従業員の再雇用の方を好むことがわかった。

利用すべきはずの被用者や雇用主の認識不足、ニードがあることを認めたくない気持ち、形式的並びに度々変わり断片的となっている法制、といったことが現状を招く要因として働いている(den Uijl et al.,1996)。壁となっている主な要因は、不健康のためにドロップアウトする危険のある者よりも健康な被用者を好む雇用主の側にある「危険回避」(Risk Selection)であることが判明している。危険回避は、賃金補給の助成金やその他の経済的補償に勝っているということである(den Uijl et al.,1996)。

最近の提案

 危険回避に対抗するために、政府は一般再雇用対策の拡大を打ち出そうとしている―賃金補助、労働費用助成金、雇用試行、高齢労働者への保証規定である。政府では、慢性病を持つ被用者の保険料減額を追加すること、危険回避がどこまで広がっているかを調査すること、採用、選考、カウンセリング、専門性推進のための情報センターを導入すること、さらに、1998年1月発効を予定して1997年半ばに議会へ提出する計画で現在準備中の「再雇用法」(Reintegration Act)の提案と組み合わせること、等を意図している。

障害被用者に対する財政支援

 十分な生産性のない被用者の場合は、部分賃金(partial wage)と部分給付(partial benefit)を受給できる。その併給額は、最低賃金の約85%になるのが通常である。1994年2月以来、障害労働者が保護雇用の有資格者に該当する場合にはさらに高い付加給付が支給される。この場合、部分賃金と部分給付の合計は最低賃金の100%にまで達する(Krug,1995)。

就労開始時あるいは研修開始時には、短期間ながら、給付を継続できる例もある。職を見つけそれを継続するための誘導策として、障害者は賃金と給付を継続併給することができる。

障害労働者にとっての障壁除去を特に目的とした規定は、賃金補助(WAO法第60条)と高齢労働者への保証規定(WAO法第61条)である。

自営業

 自営業に就こうとする障害者を支援する政策は、国にはない。しかし、障害者は、失業対策から援助を受けることができる。自営業に対する支援は、そのための職業指導や支援を行ういくつかの民間機関によって実施されている。このうちAVOが有名で、SeyfriedとLambert(1989)によると、ここは国の助成金を受けて自営業への援助を専門に行っているところだという(EC,1988)。

障害者になってしまった自営業者が、その業を継続するための経済的支援はある。

障害給付を制限する方策

 政策のもう1つの要素は、障害給付の受給資格を抑制してきたことである。オランダでは、長期の障害によって稼働能力を喪失したことに対する補償は、2層の障害保険制度によって実施されてきた。第1層は、市民権に基づく一般的な受給資格による。この資産調査に基づく一律の給付は、出生時・幼少期(18歳未満)に障害者になった者、28歳までに障害者になって就労経験のない者を対象としている。自営業も含まれる。賃金受給者は、第2層の制度加入が義務づけられている。加入について制限はなかったが、1993年に年齢を配慮した補足が導入された。

1987年までは、法により、給付の裁決者は労働市場において就業機会が制約されている状況を配慮しなければならなかった。この労働市場を考慮するという寛大処置は、稼働能力を15%しか失っていない多くの者にも給付を適用するという結果になった。しかし、この規定を廃止しても受給者増に歯止めがかからなかったので、新たな改正が1992年~1994年に行われた。主な改正点は、障害が再認定されてから5年間を期限として支給するということであった。1995年末には、現受給者の75%がなお「全体」障害ということで給付を受けていた。

障害が厳しく定義されることになった1993年8月以降、50歳未満の受給者の審査が実施され、給付終了かもしくは再審査ということになった。1994年と1995年には、40歳未満の受給者91,500人が審査され、29%が終了となり、16%が再審査の結果下位の分類となって減額された(Aartsら.,1996)。1994年と1995年には、民間の障害保険受給者数は、1994年には2%、1995年には6%がそれぞれ減少した(同上)。しかしながら、就労に適しているかどうかの新基準の適用の結果は、失業給付の請求増につながったとみなされている(Grundemann,1995)。

保護雇用 2)

 保護雇用は、オランダでは「社会雇用」と呼ばれている。その歴史は19世紀までさかのぼる。つまり、民間団体が障害者のために特別の作業施設を運営したり、地方自治体が「貧困救済」として作業を提供したりしていた。中央政府が関与したのは、国家委員会報告(1938年出版)以降ということになる(Krug,1996)。1950年代後半から、ホワイトカラーの失業者も中央から地方への補助金交付を通して、既存の障害者のための保護工場を利用することになった。この財政援助により、「保護雇用法」(Sheltered Employment Act)(WSW)が発効した1969年までに、社会雇用は50カ所から100カ所に急速に成長して、被用者も25,000人に達した。財政援助を継続したことで成長拡大が続き、1984年には、350カ所の工場に82,000人の被用者を数えるまでに至った。コストを削減するために、政府はさまざまな特別な手段を講じ、被用者の数は一時的に2,000~3,000人減少した。1989年に導入された新しい財政システムによって、中央政府の財政支出は削減された。1996年半ばでは、87,000人(労働人口全体は670万人)が、約250カ所の工場で雇用されていた。

中央・地方政府関係の抜本的な改革が、1989年以降、実験的に実施された。4年から6年間で終る予定であったが、WSW法にとって代わる新法が1998年1月に成立するまで、1997年まで続いた。新法案は、1996年6月に示され、1996年末の議会に提出された。1997年中に決定される詳細な内容は、評議会令(Orders in Council)によって施行されるであろう。政府は、保護雇用の意義が変わったこと、中央・地方政府の関係が変化したこと、保護雇用を労働総合プログラムの他の対策と関連づけたいということがあるため、法を実質的に改正しなければならないと考えている。新法によって、大臣は、保護雇用の待機者の慢性的な増加という問題も解決できると期待している。1988年から1995年までに、待機者は8,300人から21,900人に増加した(Krug,1996)。しかし、ハンディを持っている者に雇用の場を提供すること、地方自治体が責任を履行することは、いずれもこの法の公式目標であり続けるであろう。

以下に、最近の状況を概観し、ここのところの政策の変動と1996年12月の法の意図について述べる。

目的と対象グループ

 1969年の「保護雇用法」(Sheltered Employment Act)(WSW)は、「地方自治体は、就労はできるが主として個人的理由により通常条件下での就労機会がない(直ちにはない)、あるいは作業能力をできる限り維持し、回復し、向上させるよう配慮された有給雇用を見つけられない人々に対する対策を講ずる」と規定している(第7条(1))。社会大臣の通知によって、「個人的理由」とは次のように定められている。つまり、疾病・事故、先天的な身体又は知的障害、又は、年齢・性格・私生活に関わりない身体・精神又は社会的理由による適応困難である。社会的不適応者も対象となる。「主として」という用語は、労働市場への圧力を軽減するため、社会雇用団体に失業者を受け入れる余地を認めている(Samoy,1992.Klosse,1995)。

1992年までは、保護雇用の被用者は、作業適性による2分類のどちらかに属していた。A群は環境整備された作業場面の下でならば普通に就労でき健常労働者の少なくとも1/3の能力を発揮する人たち、B群は一定の生産水準には達しないが適度に工夫された雇用形態を利用することで生き甲斐を持てる人たちである。定義とその適用のあいまいさから、一部の論者は、社会雇用措置を(労働市場の状況によって内容が変動する)「貯蔵庫」と呼称している(Samoy,1992)。

現在ではこの2分類は廃止され、1つになっている。従前のB群は最低賃金以下であって、給付で補足することになっていたが、通常の給料システムに合わせることになった。現行の5分類は、障害の種別によっている。身体障害、軽度知的障害、中度知的障害、精神障害、その他医学的分類によらないもの、である。

新法では、対象グループをより狭く定義している。身体・知的・精神障害の結果として、環境整備された状況でのみ働ける者にだけ、就労機会は与えられる。社会的不利益を被っている失業者(現行の第5分類)への就労機会は制限されることになる。就労能力を定義する新基準も、対象グループを限定することになる。社会雇用団体は、新案によって対象群が狭められることの悪影響に懸念を表明している。

現在は、潜在的被用者は、地域の職業センターに求職者として登録しなければならない。職業センターでは、その人は近い将来に一般雇用には結びつけられない、あるいは適切な訓練にも適さないという証明をしなければならない。地方自治体は、WSW委員会の助言に基づいて、各人の就労の場を定める責任を持っている。多くの場合待機者がいる。(往々にして)約2カ月の試行期間か4週間以上の作業観察期間が設定されている。試行期間又は作業観察期間中の者は、生産現場に配置される前に評価・訓練センター、専門的リハビリテーションセンター、あるいは職場内訓練センターに配置されることになる(Samoy,1992)。

被用者が新しい財政支援制度によって不利益を被らないよう、1993年に政府によって規則が更新された(以下を参照)。待機者リストからの採用は、その年の「先着順」で行われなければならない。しかしながら、毎年、団体はニーズが緊急であり、欠員が早急に補充されなければならない場合には、就労者の25%以上について「先着順」原則を無視している。配置はまた、待機者リストの障害別群の比率を考慮して実施されねばならない。生産性の低い被用者は、代わりの場所(多くはデイセンター)がなければ解雇されない。しかし、デイセンターにも待機者は大勢いる。

対象者の選定を行う新しく独立した機構が提案されている。社会・雇用大臣の所管の下の「国立認定サービス」(State Indication Service)がそれである。地方自治体は労働問題や労働市場、さらには医学・心理学の専門家から成る諮問委員会を設置することになる。地方自治体の職員は最終決定には参加できないが、候補者が対象者となるかどうか、つまり保護雇用・援助付き雇用なら就労できるかどうか、また障害の区分(軽・中・重度)についての助言を行うことはできる。「国立認定サービス」は、従うべき手順や下された決定を吟味し、各候補者の認定の通知を作成する。

候補者が保護雇用・援助付き雇用に不適とされたら、他の助成制度の責任者である地方自治体に紹介される。地方自治体は、その他の労働市場プログラムや職業センターによる通常の雇用市場への紹介、あるいはデイセンターの利用をすすめることになる。

2年間の雇用の後に、被用者のそれ以後の適性を再検討することも提案されている。

保護雇用契約は、被用者が協力的でない場合とか対象者でなくなった場合には、継続できない。後者の場合には、代替えのデイケアが利用できるようになれば、あるいはまた通常雇用の提案を拒否したときは速やかに解雇される。

1998年からは、一般雇用促進プログラムは提案中の「失業者就職支援法」(Involvement of the Unemployed Act)(WIW)に包含されよう。これによって、現在は種々のタイプの助成制度を利用している障害者・長期失業者・地方の若年者に、失業者等に対する共通的な対策が実施されるようになろう。労働時間と賃金は見合うように調整されよう。

団体

 ここ数年間、地方自治体の所管区域の拡大や団体間の合併によって、保護雇用団体数は減少してきた。1996年末には地方を基盤とする保護雇用団体は101あって、約250カ所の工場を運営していた。

団体には、いろいろな形(モデル)がある。公的団体としては2種あり、大きな自治体で独自に活動している場合と、いくつかの自治体が連合している場合がある。101団体の内、14が単一の団体が運営しているものであるが、この中には近隣の自治体をまきこんでいるものもある。残りは、自治体連合の運営によるものである。

民営の保護雇用団体もほんのわずかではあるが、ある。このうちのいくつかは財団であり、1995年以降には2カ所が有限会社となった。しかし、これら全てに地方自治体が役員を送り込んでいる。

各社会雇用団体は、全て自らの生産ユニットを持っていることとされている。役職員は地方自治体の職員である。約7,750名の一般職員が役職員として雇用されている。被用者は、WSW法の下の雇用契約を持っている。1996年半ばには、101団体で87,000人がWSW法に基づき雇用されている。81,500人は常用雇用(週38時間就労)に相当する。

労働条件

 社会雇用の被用者の法的身分と雇用についての定義は、中央政府所管の法令に定められている。WSW法は地方自治体により実施されているので、その経費の大部分は州の負担である。被用者は地方自治体に雇用され、給料を支給される。職務には段階があり、被用者はその生産性でなく配置された職務段階に応じて給料を支給される。段階は9に分かれ、最低は法定最低賃金と同額である。被用者は失業・疾病・障害に対して保険給付がある。以前は、被用者のかなりの部分(1988年では42.2%)が給料の最高額と同額の障害給付を受けていたが、その後、障害の基準と給付の受給資格の再評価の結果、現在ではどの程度の比率で最高額の給付を受給している者がいるかは、明らかでない。契約は通常の労働法規の範囲を越えての特別な労働契約である。

1997年以降、1週当たり労働時間は38時間から36時間に減少した。医学的又は個人的理由によりパートタイム就労も可能である。

新法に示された給料表では、新規被用者の最初の2年間の給料は最低レベルである(保護雇用以外への移行を容易にするためである)。2年後の再認定後、被用者が社会雇用の対象とみなされたときには、現在と同様に、生産性と無関係に職務の段階に応じた給料が与えられる。最高の週当たり就労時間は32時間となるが、最初の2年間は従前通りである。同法案が制定されれば、労働契約は市民法に基づくことになり、団体交渉が労働組合連盟と地方自治体連合間で行われることになろう。提案されている法案に対する現場からの批判は、就労資格の分類と週当たり就労時間の減少に集中している。最低賃金に準拠した給料と週32時間就労は、障害給付を受給している障害者には魅力的でない。生産性に基づいた給料体系が期待されている。

作業内容

 産業界と社会雇用団体との関係が徐々に変化し、これと絡んで工場内の就労から工場外の就労へと変化してきた。

各社会雇用団体は、次のような作業内容の1ないし、2以上を用意している。

  • 鉱業関連作業(エレクトロニクス、金属加工、包装、組立作業(例.自転車、家具))
  • 行政からの委託作業(印刷、コピー、データ入力、パンフレット、雑誌、配達)
  • 文化的あるいは市民レベルの技能作業(公園管理、植物や花の栽培、建設工事、塗装、道路補修)
  • サービス領域(調理、安全管理、洗濯)

 大まかに分けると、半数が工業関係作業に、30%が公園管理等の公共事業に、14%が行政からの委託作業や印刷に従事している。

工場外の作業の一部は、シェルタード・ワークショップから提供さる。建前的には、被用者は工場のメンバーであり、工場外の作業でも雇用団体は専門的な指導や支援を行わなければならない。これら外部作業は、公共部門からのものが多い。1984年末には、シェルタード・ワークショップ被用者の13%が外部の作業に従事していた。1991年には12.1%に減少したが、1995年には再び13.2%に上昇した。表N.6は1995年末の工場内外の作業内容と従事者の内訳を示したものである。

表N.6 1995年末時点でのシェルタード・ワークショップ作業内容(常勤換算)
- 工場内作業 工場外作業 比率(%)
A 金属加工並びにエレクトロニクス 11,685 122,000 11,807 14.5
B 木材加工並びに据付 3,408 64,000 3,472 4.3
C 織物、菓子包装 16,984 231,000 17,215 21.2
D 印刷 3,507 327,000 3,834 4.7
E 行政委託 1,973 2,257 4,230 5.2
F 土建業造園 19,761 1,677 21,438 26.4
G 植物管理 2,312 66,000 2,378 2.9
H 無報酬作業 46,000 255,000 301,000 0.4
I 所内作業 6,922 - 6,922 8.5
J その他 70,545 5,717 9,571 11.8
70,545(86.8%) 10,714(13.2%) 81,168 100.0%

出典:1995年版白書(社会問題・雇用省)

ほとんどの社会雇用団体は、評価テストや訓練を行うセンターを持っている。ここでは、被用者の候補あるいは作業変更を要する被用者が、保護雇用団体内外での適切な仕事を見つけるために、観察され、テストや助言を受ける。検討されている新法の下では、評価が職務配置の一環として行われている場合には、テスト実施機関は保護雇用団体の外部に独立して置かれることが期待されている。

最近では、訓練やリハビリテーションサービスは、他の一般雇用促進プログラムにも提供されることが多い。保護雇用団体の他の部門は、こうした地方/地域のプログラムを促進するため、テストや訓練施設、インテーク、評価、実習、職業機会、総合支援といったサービスを提供している。

被用者

 社会雇用従事者の情況は、社会・雇用省が発表した1995年の年次白書で明らかにされている。

1995年12月31日では、85,576人が従事し、80%が男性、20%が女性であった。年齢別は表N.7の通りである。

表N.7 シェルタード・ワークショップ 被用者年齢別数(1995)
年齢 比率
15~24 4,079 5
25~34 20,363 24
35~44 27,135 31
45~54 24,667 28
55~64 10,333 12

 年齢分布は、1988年のSamoyによるデータ(1992)と比較することができる。25歳未満は全体のうちの10%から5%に減少し、55歳以上は変わらない。中間の3区分は、1988年以降から実施されている。

障害別は、表N.8の通りである。

表N.8 シェルタード・ワークショップ被用者障害別内訳(1995)
障害 比率
身体障害 (第1コード) 37,509 44
軽度知的障害 (第2aコード) 24,941 29
中度知的障害 (第2bコード) 3,303 4
精神障害 (第3コード) 14,519 17
その他 (第4コード) 6,304 7

 この新しい分類は、1992年以降採用されているが、1988年のSamoyの医学的分類と比較可能である。43%が身障、31%が知的障害、16%が精神障害、その他が10%というのがSamoyの分類である。

財政支援

 中央政府・地方自治体及び社会雇用会社との関係のリストラの狙いは、予算分担の新方式の導入と地方自治体のこれらの会社に対する責任範囲の拡大である。企業の組織を規定する法は、1989年に廃止された。中央政府の指導は、基本事項にしぼられた。

予算配分の新しい方式
Krug(1990,1995,1996)は、社会雇用の増大する経費の縮減策について、公式の説明を紹介している。従前には、次の2つの財政要素で成り立っていた。(1)被用者の賃金経費は全て中央政府の保障とする、(2)生産援助にかかる諸々の経費は、中央政府(80%)と地方自治体(20%)の分担とするというものである。予算配分の新方式の意図は、中央政府が保護雇用の経費をコントロールできるようにすること、地方自治体は年度が始まる前に予算確保が保障されること、地方レベルでの効率的な管理に対し、インセンティブを与えることである。

新しい方式の下で、毎年会社は中央政府からの一定の予算配分を受ける。この予算は常勤雇用者の標準報酬に基づき決められる。さらに、誘導策によって増額される可能性がある。常勤雇用者の標準報酬の保障額は、予算全体を現存する常勤雇用者の数で割って決定される。どの会社に対しても、この標準報酬の保障は、地域の経済事情、会社の内容、被用者の特色によって、必要に応じ調整される。ある会社の標準報酬保障は、例えばその会社の被用者の年齢が若いとか、身体障害者の数が平均より多いとかの場合は低くなる。地域の経済事情や会社の内容に係る項目は、社会・雇用省の調査では、経費の積算にはほとんど影響がないとされている。

保障が与えられる常勤雇用の職位数は、現存の数から、予算年度内の退職見込み分を除き、待機者数の一定部分を加えて決められる。この一定部分は、全国の退職見込み者数を待機者名簿の登載数で割って計算される。結果として、待機者名簿に登載されている候補者は、全て等しく就労の機会を持つということになる。待機者数の多い会社は多くの予算を獲得し、少ない会社は少額となる。予算分担の新しい方式の第3の要素は、誘導策である。つまり、一般雇用への移行(以下を参照)のような特別な目標に近づく努力を奨励する一時的な追加予算のことである。

ある会社が平均よりも効率がよい、あるいは生産収入が高水準となったときには、増額予算が付き、新しい職位の創出か、さらなる資本投下にまわされる。新しく創出された職位数は、次の予算年度に交付される政府の保障額が決定される際に、職位数として算入されることになる。社会雇用へ当てる中央政府の予算額は一定額なので、職位数の増加は、1職位当たりの標準的な保障額を減額させることになる。このようにして、社会雇用の会社はより効率性を高めるように求められるのである。

効果
この効率性向上運動の効果は、政府からみれば「顕著」であったといわれている(Krug,1995)。実験試行の発足時は、全体の生産高は7億6,700ギルダーであったが、1993年には11億3,900ギルダーに達した。同じ時期に、障害被用者は、1988年の78,000人から1993年末には約86,000人と増加した。賃金上昇に関する合意に基づく増加分保障以外には、政府の予算増を招くことはなかった。政府予算の削減も職位数の減少なしに可能であった(Krug,1996)。

しかしながら、この方式は、保護雇用団体や地方自治体には、マイナスの財政的影響を与えた。赤字転落の団体が増え、1993年末には全体の半数であったが、1995年には80%に達した。新しい方式は補助金の着実な削減をもたらした。1989年以後、積立金を作ることが難しくなり、財政困難さは厳しくなった。地方自治体の分担は、常勤者相当分について、1991年の743ギルダーが、1995年には1,200ギルダーに増大した。

効率性向上運動は、保護雇用団体にいろいろな意味で影響を与えた。全体的にいえば、これらの団体はケア団体から、市場指向・ビジネス優先に変身した。マネジメント機能をあまり持たない職員が増え、スタッフ職員の比率は減少した。生産工程は機械化され、不収益部門は閉鎖された。資本集約よりも労働集約の会社が成長し、また工場外部での就労が強調された。教育や訓練が強調されるようになった。多くの団体がリストラあるいは合併を進め、ワークショップ同士や民間との協力が進んだ(NOSW,私信)。

結果的には、障害者にとってリハビリテーション・社会自立の手段としての環境整備された状況下での就労機会は減少した(Klosse,1995)。Klosseは、「最近では、B分類の被用者は40%減少している」と述べている。、ニードの一部に対しては、例えば、一般労働市場で就労困難な重度障害を持つ人に対する援助付き雇用方策というような、地方自治体のプロジェクトで対応することになった。

システムが被用者に不利益をもたらすことのないようにするため、政府は団体に対して、各被用者の能力や希望を配慮した職場改善がされているか、また、最適な場に配置されているかについて、毎年評価するように義務を課した。

新しく検討されている法の下では、予算配分の原則は継続されよう。しかし、最も重要な変化は、就労上の障害程度(軽・中・重)に応じて、毎年の助成額が変動することである。3分類のそれぞれに対して、異なった額が計上されるであろう。額は、賃金コスト・団体のコスト(生産経費・資本金)、目標とする生産高・各被用者の年収などとは無関係に決められる。政府の意図は、より生産性が高く、障害が軽い従業員を採ろうとする傾向に釘を差すことにある。

NOSWと、そことの連携関係にある自治体の双方の反応をいえば、検討されているシステムでは、社会雇用団体の予算上のやりくりは難しくなるだろうということである。両者とも中央政府と地方自治体の責任分担の平等化を主張している。

一般雇用への移行

 保護雇用で通常の職務ができるまでに能力を回復した労働者を一般雇用に移行させることは、保護雇用政策の目標でもある。しかし、保護雇用から一般雇用に移行する被用者の数は年を追って減少している。1972年には、44,000人の内、約1,900人であったが、1977年には総数が67,000人に達したのに、移行したのは960人であった。1988年では78,000人に対し300人にしか過ぎなかった(Krug,1990)。最近では、移行率は年0.5%以下である。

Krug(1990)は、次のような歴史経過を説明している:社会雇用の賃金は、多くの産業分野の賃金に匹敵する水準に来た;1970年代後半から80年代初めにかけての高失業現象は、雇用主に対して、社会雇用の「経歴」を持つ人の採用を敬遠させる作用をした;社会雇用団体は、この不景気を反映して移行策を中止してしまった;また、団体は、移行してしまう基幹労働者の代替えを確保するためにコストをかけることに熱心でなくなった。Samoy(1992)は、生産性の高い人が移行してしまうと、「劣弱な」、生産性の低い人ばかり残ってしまうことを、社会雇用会社は恐れているという点を付け加えている。

1990年に政府は、移行促進策を採用した。第1段階として、保護雇用法(Sheltered Employment Act)の実施責任を持つ地方自治体に対して、一般雇用への移行を運営目的の1つとして宣言するよう通告した。最初は、毎年1%の保護雇用被用者を一般雇用に移行させることが目標とされた。移行した労働者の人数に応じた助成金の支給など、いくつかのモデル的試行を経て、政府はアメとムチのシステムを導入した。1%以上の移行を誘導する財政的措置もあり、1.5%を越えると助成金が増額される。しかし、1%に達しなければ、移行に不熱心とされて罰則が課せられる。団体によれば、この政策の実施初年度以降は、「移行すべき人物」は団体内にも待機者内にも多くは見あたらないと言っている。

1981年~88年の間の調査で、地方政府機関や非営利団体などへ配置された者が最高の移行率を示したという結果があるため、団体は、「工場外の作業」を移行の手段として見なすようすすめられてきた。団体は、カウンセリング・訓練・一般雇用主と連携した外部作業・積極的な就職斡旋などを組み合わせて、熱心に移行を働きかけるリハビリテーションプログラムを開発することを期待されている。

いろいろな財源による経費負担によって、付加的な訓練や指導を実施することができる。その1つは、「長期失業者の一般雇用促進計画」の活用である。この計画では、社会雇用企業の被用者は、長期失業者と同様に扱われる。この方策も他の方策も、政策目的は、社会雇用の被用者を全ての障害労働者向け対策の中に確実に包含されるようにしようというものである。

加えて、社会雇用会社との一時的な契約方式の試行も導入された。1996年の終わりには、700人の被用者がこうした契約を結んだ。被用者は、一時的な契約でも不定期の契約でもどちらでも選ぶことができた。この方策は、2年後には一般雇用に結びつきそうな人に最も多く適用された。しかし、各年の雇用や契約更改頻度は多くないため、適用可能なのは新規労働者のみであった。

被用者は、一般雇用への移行が成功しなかった場合には、1年間は、会社に戻れることが保証されていた。新しい雇用主がその契約継続を欲しない場合、又は、被用者が新しい職務が能力以上と思う場合には、新しい希望者として待機者名簿に記載されることなく企業に戻ることができるのである。実際には、この復帰保証の措置はめったに適用されず、被用者の確信を高めることにつながった(Krug,1990)。

Krug(1996)が認めるように、移行奨励策は成功したとはいえない。移行の多くが難しいことの背景には、次のような理由が複合している。内部の生産目標、地域の労働市場の状況、障害労働者雇用への雇用主の消極性を招くような州の疾病給付対策、一般雇用と比較した場合の保護雇用の給料や労働条件の水準。NOSWの「地平線計画」(Horizon Project)(保護雇用に関するヨーロッパ計画(1992~1994))の結果から見ると、団体には、移行促進のためのさまざまな方策が必要だということになる。こうした方策を進めるには、技能養成活動、教育・訓練、その他の関係部門の全てが、可能性と重要性について共通認識を持つ必要がある。

新法では、対象者群は、身体的・知的・精神科的な障害の結果として、一般企業にはない工夫された環境の下でのみ就労できる者、と規定されよう。したがって、将来は、保護雇用から一般雇用に結びつける機能はもっと小さくなろう。

要約

 歴史的に見ると、オランダにおける障害者対策には、保護的で福祉主体の施策と障害種別ごとの施設利用重点主義という特色を見ることができる。障害児教育を経た障害者は、社会(保護)雇用という大きな領域に入る傾向にある。知的障害を持つ者は、少数が一般雇用に結びつき、長期の精神障害者は表に出なかった。

1980年代以降、疾病欠勤率の上昇と障害給付受給者の急増に危機感を持つ政治勢力、あるいは国民一般によって、「部分的」障害者の雇用促進策が樹立されてきた。社会保障制度を急激に改革することによって、給付受給者の就労復帰を助長、あるいは障害労働者の受給層への参入を防止する新しい義務、あるいは誘導策も打ち出された。1990年代には、個々の責任と選択の自由を重視する新しい対策が導入された。つまり、社会保障制度をより制限的に、また市場指向にすることでオランダ流のもたれあいという「国民連帯」原則から切り離すということである。

社会・雇用省は、労働市場対策と所得保障制度の双方を所管している。中央雇用委員会は、経営者連盟・中央労働組合連合・中央政府の代表から構成され、政策形成に同等の責任を有しているが、28の同様な構成による地方雇用委員会を支配している。この地方雇用委員会が(中央委員会に)かわって雇用サービス庁(ES)を運営している。ESは、職業指導と訓練、失業者の求職への仲介や、斡旋に、努力を集中している。1998年から、ESは「部分」障害労働者へのサービス全てを所管することになろう。地方自治体は、雇用創出計画に直接助成する行政責任を有しており、この中には、保護工場や援助付き雇用についての計画も含まれている。

被用者障害保険制度(その他の被用者保険も含む)は、1997年3月まで、それぞれの産業分野に対応して設立された18の産業保険委員会(IIB)によって運営されていた。障害給付の所管は、GAKあるいは他のより小さな行政組織(AdOs)に移譲された。AdOsは、就労能力や障害給付のレベルさらには雇用の機会について方向づけをしている。さらにまた、障害者の就労に妨げとなるものを除去し、求職過程にある者を支援している。

1986年の「障害労働者雇用法」(Handicapped Workers Employment Act)(WAGW)は、公私両部門において、障害給付受給者の雇用促進の義務を経営者・経営者団体・労働組合に課した。WAGW法は、1947年以来の登録制を廃止した。法の適用範囲は、就労に際して特別な工夫が実施あるいは予定される障害労働者にも拡大された。めざすところは3年間に自発的に3~5%の雇用率を達成することであった。雇用率はまだ達成されることなく、経営者の反対に直面して、法的強制力がない。

1990年代には、かなりの法律が改正された。

  • 「給付請求者削減法」(Reduction of the Number of Benefit Claimants Act)(TAV,1992) は、雇用主や被用者に疾病休職を防止して「部分」障害者の職場定着や職場復帰をすすめることを目的としている。これは、疾病給付保険の掛け金を疾病欠勤率の低下に対応 して少なくする雇用主の努力を認めるものでもあった。
  • 「障害給付請求制限法」(Act to Restrict Claims on Disablement Benefit)(TBA,1993)は、障害認定について一層厳格な評価と、期間限定や年齢に対応した給付額、50歳未満受給者への強制的な再審査を行うものであった。
  • 「疾病休業削減法」(Reduction of Sickness Absence Act)(1994)は、(1)労働者が疾病や能力不足で休業する場合、第1週は少なくとも70%の給料を払うこと、(2)再就労に向けてカウンセリングを行うこと、(3)職業保健サービスを提供する民間団体への業務委託をすることを雇用主に求めている。1996年1月には改正され、雇用主が最大52週、疾病手当を支給するようになった。さらに同年にはまた「部分」障害者の疾病の場合には、賃金支給義務は最初の4年間と拡大された。
  • 「労働条件改正法」(Amendment to the Labour Conditions Act)(1994)は、全ての雇用主による疾病休業防止のための労働基準対策の遵守や、安全衛生サービスの利用について規定した。

 これらの法律は、障害労働者や雇用主に、収入補助や賃金補給、さらには環境整備・指導・人的援助・訓練に係る経費を助成するといった財政的誘導策をも導入した。しかし、これらの実施は小規模でしかなかった。訓練・環境整備・雇用主への助成といった職業リハビリテーション対策は、主として保険基金の枠内で賄われていたが、実際には支出の比率はわずかである。現在は、リハビリテーション基金を同一とし、社会保険基金からの導入を図り、財政支出を適性化して効果を上げるといった対策が検討されている。雇用主や被用者にとってより魅力的になるよう、新しい「再雇用促進法」(Reintegration Act)が検討されているところである。

改革の波は、障害保険への市場経済原理の導入にも及んでいる。いわゆる「ペンバ」(Pemba)計画が1998年1月に導入されようとしているが、これは雇用主が予防策や再雇用促進策を採用するよう財政的インセンティブを導入することで財政構造を変えようとするものである。改正法の下で、雇用主は「全体」又は「部分」障害者と認定された被用者の数によって変動する障害保険料を納付するようになろう。雇用主は民間保険会社を通じて5年間このリスクを回避するか、障害給付を自ら負担するかを選択するようになろう。

社会(保護)雇用は、1950年以降、中央政府の障害者雇用についての主要な政策であった。これは、1969年の「保護雇用法」によって一段と発展した。1984年、350の工場に82,000人の被用者を抱えたとき、政府はこれ以上の経費増には耐えられないとし、中央政府・地方政府・保護雇用会社の間の財政的・行政的関係の急激なリストラを1989年から実験的に開始した。新しい予算配分方式によって、政府予算を増額せずに被用者の数を増加させることができた。しかし、シェルタード・ワークショップを経営する団体や地方自治体に財政的悪影響をもたらすことになり、工場の市場指向が強化され、生産工程の近代化がすすめられることになった。

1996年半ばでは、87,000人の障害労働者が約250の工場に雇用され、待機者は22,000人であった。1998年1月に発効する新法の狙いは、対象者を、一般企業では実現することができないような改善整備された作業条件・環境下でしか就労できない人に限定することであり、社会的不利益者といわれる人たちは制限されることになる。新法で有資格とされない人は、他の労働市場プログラムかデイケアにまわることになろう。新法では、新規採用後の2年間は最低賃金額とする提案となっているが、これは、政府が誘導しても非常に低水準に落ち込んだままの一般雇用への移行率を高めることを期待したものである。しかしながら、将来は、保護雇用が一般雇用への移行のために果たす機能は低下すると見られている。

  1. Edwin de Vos, NIA-TNO,Amsterdam の多大な貢献に謝意を表する。
  2. Heleen Heinsbroek, National Overlegorgaan Sociale Werkvoor Ziening(NOSW) の多大な貢献 に謝意を表する。 

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主題:
18カ国における障害者雇用政策:レビュー No.7

発行者:
ヨーク大学社会政策研究所 1997

発行年月:
1997

文献に関する問い合わせ先:
Publications Office Social Policy Research Unit University of York Heslington York YO15DD UK
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Facsimile:+44(0)1904 433618
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