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国連世界情報社会サミット報告会

講演1

社会福祉法人 浦河べてるの家
山根 耕平

講演をしている山根氏の写真

 ただ今紹介がありました、北海道の浦河町から来ました「浦河べてるの家」の山根と申します。

 今回、世界情報サミットに参加してということで、まず、どのようなことからお話しようかと思っていました。まず、参加して一番よかったと思ったことは、この写真にもあるように、世界中の人と交流が持てた、話をすることができた、仲間になることができたことが、いちばん大きな収穫だったと思っています。あとで、詳しくお話しますが、精神障害、心に傷を負ってしまった人たちは、他人と話をするということが非常に苦しい人が多く、べてるの家では話す練習、コミュニケーションする練習、ミーティングというものをたくさん開いています。みんな次々に、徐々にしゃべれるようになってきて、気持ちを伝えられるようになってきて友達ができます。友達ができると、自分のいままで伝えられなかった気持ち、壁を叩いたりすることでしか伝えることができなかった苦しい気持を苦しいよと言葉で伝えられるようになります。そして言葉によって伝えることの重要性をテレビカメラで、テレビ会議として伝えられるようにしたいという思いから作ったのが、今回発表する「べてるシステム」テレビ会議とデジタル・アーカイブのシステムです。こちらがなぜサミットで発表することができたかといいますと、河村先生が、昨年10月26日に浦河町に見学にいらっしゃった夜に懇親会があり、コミュニケーションの大切さを伝えたいと思っていろいろなものを作っていますという話をしたら「それを国連で発表しましょう。」と言われまして、この写真の右側に写っているのが、「ホクレンショップ」という浦河町でいちばん大きなスーパーです。僕はちょっと河村先生と席がはなれていて話がよく聞こえなかったので、このスーパーのホクレンさんがスポンサーになってくれたのかな、町をあげて協力してくれるのかなと思ってしまったのですが、会議が終わってからよく聞いてみたら「ホクレン」ではなく「国連」だよと言われて、げ、それはホクレンよりはるかに大きなスポンサーだと驚いてしまいました。

 僕らのドクターも川村先生というのですが、前回1,500人の方々に聞いてもらった講演会のときに川村先生が「次は武道館だ、わはは」と言われていたことがあったのですが「なんだか武道館を飛び越えて国連になってしまったけれど、いつもの通りで大丈夫だね。」と言われました。

 発表内容については15分間と言う短い時間でしたので何を発表するか非常に迷いました。情報社会サミットということで、システムの話に重点をおけばいいのかと思い、河村先生にご相談したら、講演を聞きに来る人はいつものべてるの講演とは違って医療関係者や作業所関係の人ではなく政治家や実業家の人達が多いから、そういう人達に分かるように、心の傷、心の病とはどういうものか、またそれにはどういうことが大切なのかを伝えたほうがいいと言われました。それでしたら大事にしているのは、コミュニケーションの大切さなのでそれを伝えたいとお話したところ、よし、それで行こうということになりました。システムの説明は最後にちょっとしますが、要は、システム、テレビ会議の中でどんなことを話し合っているかを報告して来ました。以下、サミットで使ったパワーポイントを日本語に訳したものを使います。

 べてるの家は北海道の襟裳岬の手前の浦河町という小さな町にあります。主な産業は馬です。競馬の馬のほとんどは浦河町産の馬で、また海産物、昆布などが有名な町ですが、近年過疎化が進んでいます。そのような町の中で25年前に浦河の日赤病院から退院した人達がつくった「どんぐりの会」から始まりました。町のためにできることをやろうと。町の人に受け入れられるか分からないが、まず勝手にこっちから町のために出来ることをやろうと決め、商売をやろうということから始まったそうです。しかし商売をやろうと言ったはいいけれども、話し合いがないと、ミーティングがないと誰が何をやればいいのか、何を考えているかも分からないので、頻繁にミーティングが開かれるようになったそうです。その時いくつかスローガンができました。その中からこの3つを説明します。

 1つは、安心してさぼれる会社づくり。安心してさぼるということは、安心してさぼっても仕事が止まってしまってはダメなのです。いわゆる今で言う、かっこいい言葉だと、「ワークシェアリング」と言うらしいのですが。自分が調子悪くて行けないときは、他に誰かメンバーにいってもらう。そのためには普段からコミュニケーションをとり、連絡をとっておかないと、いざというときに誰かが代わりになってくれないためにサボれない。安心してさぼれる会社づくりができる人は実は、コミュニケーションがうまくとれる人だ、とだんだん分かってきたそうです。「三度の飯よりミーティング」というのも、今の話と同じで、何か問題があったら陰口を言うのではなく、まずみんなで話し合おうと。最後の「手を動かすより口をうごかす」は、具体的には昆布の袋詰めなどでは、一生懸命昆布を詰めてばかりの人よりぺらぺらしゃべっている人のほうがどうも具合がよい、回復が早いと。一生懸命昆布を詰めて具合が悪くなるよりは、口を動かして自分の思いを伝えたほうがいいんじゃないかということで、手を動かすより口を動かすわけです。これはおととしにできた一番新しい標語です。

 具体的なミーティング風景がこちらです(と言ってパワーポイントを示す)。これは毎朝やっている朝のミーティング風景ですが、朝出てきたメンバーがまず自分の体調を報告します。「今日は調子がいいので3時まで」「今日は調子が悪いので12時で帰ります」とみんなの前で報告します。その後、今日の仕事の打ち合わせになって、今日の昆布の注文はこれだけ、他の商品の注文はこれだけあるので今日は何をどれだけやるかをみんなで話し合って決めて、それから1日がスタートします。その1日の中でまた問題があったらまたミーティングをやるという形で1日がどんどん過ぎていきます。

 私の場合、どうして「べてる」にたどり着いたかということですが、勤めていた会社がろくに試験もしないで危ないクルマを次々と世に送り出しているのを見て、これではいけない、安全な車をつくろうとメールマガジンを自発的に社内に発行していたところ、まずグループの仕事を全部外されて、市場調査の仕事のみを命じられて、次に段ボールで隣の人との間に壁をつくられて隔絶されたり、職場の同僚や上司に「1人で会社を変えられるわけがないだろう。死んでしまえ。」などと悪口を言われ続け、最後は会社のセミナーで、パラダイムシフトと称して遺書を書かされて、両親、兄弟、恋人などにそれぞれ今までの自分は死にますという決意の遺書を書かされました。そして、これでいままでのあなたは死んだので、これからはすべて何をするにもしゃべるにも水を飲むのにも歩くにも、まず会社のことを中心として考えるように生まれ変わりましたという決意文を書いてくださいと言われ、夢遊病者のように決意文を書きました。それ以降は自分が動作を行う度に、これは会社にとっていいことか、悪いことか考えるようになってしまいました。そしてそのセミナーの最後に4つのグループが結論を模造紙に書いたのですが、なぜかその4つのグループが書いた結論は「中堅社員は会社のために自立して働くこと。」という同じ結論になりました。私はふらふらとその4枚の模造紙をもらって帰り、自分の部屋の四面に貼って「自立、自立、自立…」とぶつぶつ言っているところを、このままでは会社に殺されると母がべてるに連絡をしてくれて、まさにべてるにたどりつくような形で生活を始めました。

 べてるで暮らし初めてからも、嫌がらせと普通の生活の区別がつかなくなっており、べてるにいる周囲の人たちもまた僕に脅迫してくるのではないかとびくびくしていました。しかし、2ヶ月くらい過ぎた頃、自分の家の周りで起こっていたような嫌がらせがべてるにはないことがわかってきました。家の周りでは玄関に落書きされるとか、ベランダの植木鉢が抜かれるとか、洗濯物が汚されるとか、母の通っていた幼稚園のプールに生ゴミが放り込まれて園児がプールを使えなくなるとか、幼稚園に「殺すぞ」という脅迫状が届いたり、また切り刻ざまれたり、撲殺されたり、内臓を引き出されたりしたウサギが何度も投げ込まれたりすることが会社での脅迫と同じ時期に発生していて、現実と被害妄想の区別がつかない状態でした。

 べてるの人たちは自分が部屋で固まっているときも、「大丈夫か?」と声をかけてくれたり、苦しんでいるときも、言葉でコミュニケーションをとろうとしてくれました。そこでは見捨てられるのではなくて助けてくれる。全部を助けてくれるところじゃないのもまたミソなんですが、私も部屋の中で固まっていたとき、経験のあるメンバーは助けてくれなかったし、後で聞いたらちょっとぐらい固まっているのは自分で何とかなるはずだと言われて厳しいなと思ったんですけど。確かに30分くらい固まっていて後で動けるようになったときは、自分の力で思考のループ状態から動け出せたというちょっとした自信になりました。つまりいろんな同じような経験をしてきた人たちのアドバイスの中で暮らすことで、ちょっとずつ現実と嫌がらせとの区別が付くようになってきました。

 薬も飲んでいました。べてるにたどり着いたときにはうつ系の違う薬を飲んでいたのですが、浦河日赤病院で処方された統合失調症の新薬(SDA)を飲んでいると、恐れとかただ怖いというよりは、おなかの底からこみ上げてくるようなぞっとするような、殺されるかもというような恐怖感などがすごく少なくなるんです。それと同時に「うれしい」というような気持ちも薄れてしまうので、一緒に隣の部屋に住んでいるハヤサカキヨシさんという人の聞いても、こういう時は絶対に涙が出るだろうと思うときでも、統合失調症の新薬(SDA)を飲んでいると涙が出ないときがあるけど、しょうがないなぁと。こうしてみんなの中で暮らしているうちに、脅迫と日常生活の区別が自分できるようになったと思い薬を止めたんです。そうしたら5~6日したところで、幻聴が心の中に黙っていても聞こえる声で、耳に指せんしていても聞こえる声なんですけれども「襟裳岬に来て地球と会社を救って」って声が聞こえてきたんです。これは一大事と思って、「ぜひ襟裳岬に行かせてくれ。」と言ったらミーティングが開かれました。みんなには、まぁ急ぐな、冬の寒い時期の襟裳岬は氷点下10度近く、風も常に10メートルくらいのところで木も生えてないし草原だけのとんでもない所だけどおまえ行ったことないだろう、寒いしいいことないからやめとけってみんな言うけど、僕は「早く地球と会社を救って」って声が聞こえるからそんなのに負けているわけにはいきませんと。どうしても連れて行ってください、と言ったら、あるメンバーが「山根くん、気持ちはわかるけど宇宙船に乗るには、浦河では免許証が必要なんだよ。」と言われ、そんな話は聞いたことがなかったから、そんな話は信じられないと言ったんです。そうしたら多数決を取ろうということになってみんなで多数決を取りました。そうしたら僕以外のみんなが「免許証は必要」に手をあげたので、う~ん、浦河はそういう所なのかと思って、じゃあとりあえずその免許証を発行してくれるところに行きたいです。ところでなんというところで発行してくれるのですか?」って言ったら、「川村宇宙センターって所があるからそこへ行こう。」と言われたので、ふーん、どこにあるんだろうと思いながら車に乗って、着いたところが浦河日赤病院でした(笑)そこでDr.川村が待っていました。今までの話をしたら、川村先生はうんうんうなづきながら山根くんの気持ちはよくわかるけど僕より3年前に、同じく宇宙船に乗ろうとして2階の窓から転げ落ちて足を複雑骨折して大通りをはって病院にきた人がいるんだ。だからちょっと今の山根君を襟裳岬に行かせるわけにはいかないので、ちょっと休んでいかない? と言われて1週間入院しました。

 そして入院してすぐの1日目2日目ぐらいにはみんながお見舞いに来てくれて、いやぁ襟裳岬なんて行かないでよかったね、昨日はだいぶ寒かったらしいよ。病院のほうが居心地いいでしょうとかいろんなことを言ってくれました。確かに冷静に考えてみれば、なにもないとこらしいし、「何もない春です」という歌もあったなと思い出しました。みんなにひきとめてもらって助かった、ほっとしたような安堵感というか、後ろめたさも含めていろいろあったのですが、それが2002年の1月のことです。

 今、パワーポイントに映っている幻覚妄想大会の写真ですが、べてるでは年に1回総会をやっていまして、その総会のときにその年で一番ユニークというか、みんなに関わりのある幻覚妄想をあった人にグランプリが授与される。これ以外にもいくつか賞があって、新人賞とかいろいろあるんです。僕はいきなりグランプリをもらいまして、もらった理由も川村先生曰く、「宇宙船を呼んだからあげるんじゃないよ。みんなに助けてもらったことを評価してのグランプリだからね。山根君一人だったら這ってでも襟裳岬に行ちゃったでしょう。」って言われました。そうだなあと思いながらも正直嬉しかったですね。それに次の日町を歩いていると「おめでとう」と町の人とかに言われて照れましたね。この授賞式には、べてるのメンバーや町の人、日赤病院の人も来ていまして、ふだん、このメンバーがどういうふうに感じて、どういうふうに行動して、それに対してみんながどういうフォローをしてミーティングしているかとかなどという話ができるので、町の人との情報共有の場にもなっていると思います。

 やっとべてるシステムの話ですが、べてるシステム自体は、テレビ会議と、デジタル・アーカイブの2本立てです。今パワーポイントに出ているのは日本のどことどこを結んでいるかという日本地図です。北海道から始めたので北海道は3カ所ありますが、あとは本州に何カ所も散らばっています。作業所や大学や商売をやっている方ともつながっています。話している内容はミーティングなどもありますが、やはり始めは天気の話などから始まることが多く、たとえば北海道から九州・鹿児島に電話すると互いに着ている物がぜんぜん違って同じ季節とは思えないですね。

 そして前に会ったことのある人なら、「その後どうしていましたか。こちらは元気にやってるよ。」など普通の会話なのですが、相手の顔を見ながら話すというのは電話より随分違うのです。テレビ電話会議を皆さんも一回やってみると分かると思いますが、電話よりはるかにいろんなことが伝わるのがわかると思います。直接会うのに比べればちょっと落ちるかもしれませんが不思議な感じがします。何画面も並べられますけど、1画面ずつ、1対1で話している時はまだ普通に相手とコミュニケーションを取っている感じですが、3画面ぐらい並んで話をしているときに話している相手とは違う人から返事があるとかなりの違和感があるんです。普通に会って話している会議の時はどの人から返事があってもそんなに違和感はありませんが、画面を見つめているときに違う画面から声が出る感覚というのも普通のコミュニケーションとはちょっと違うので戸惑うかもしれないけど、これも電話にはないコミュニケーションなのかなと思いました。

 最後のパワーポイントはいま話したことの要約です。全国13カ所を結び、パソコンを使ってコミュニケーションの大切さを互いに確認しています。

 あと、デジタル・アーカイブについては、簡単に言うとビデオの自動配信です。浦河町は、北海道の田舎なので電話回線が非常に細くて、今でも最大伝送速度はADSLの8メガですので、高速の回線が必要なサーバがおけない状態です。今、千歳の別会社にサーバを置いて運営を頼んでいますが、光ファイバーが浦河町まで開通したらサーバを浦河町まで持ってきて、他の全国の作業所のこういった活動や写真、ビデオなどを一緒に配信して、互いが何をやっているかを伝えるようにしたい、ということを話してきました。

 サミットの感想ですが、発表しているときには僕はかなり頭の中が真っ白になり、読みあげるときも声が震えていていました。いちおう英語で話しましたが、隣の手話通訳の方が動きながらも訳せないところでぴたっと止まったりするのです。具体的には「昆布の販売をしてます。」と言ったらぴたっと通訳者の人が止まってしまいました。やばっと思いながらも昆布は「ケルプ」だったことを思い出し、「ケルプ イズ フード」と言ったら、また動き始めたのでほっとしました。あとは点字の自動通訳などもあり、その通訳の方も自分が話すとばーっと動くので、普段の講演の時はみんなこうやってうんうんと聞いてくれますが、サミットの発表の時は、自分が話すのと同時にぶわーっと観客に向かって動く通訳の人たちの動きがすごく気になってあまり観客席が目に入りませんでした。でも一緒に参加していたべてるの家から行った荻野さんからは、「山根さんの発表のとき、みんなちゃんと聞いてくれていたよ。発表が終わったとき視聴覚障害者の方とかは、頭の上で手を振る拍手を何度もしてくれていたよ」と言われてうれしかったですね。そして「コミュニケーションを大切にしているというのは伝わったでしょうか?」と荻野さんに聞いたら「それはもう大丈夫だよ」と言われて、すごくほっとした覚えがあります。

 発表が終わった直後にスイスの聾唖の方とダウン症の方、そして世界の精神障害のグループのコンサルタントの方などが来て激励してくださいました。その中でスイスの聾唖の方は筆談をしながら、このシステムは自分の表情を伝えるだけでなく、画面の下の方にあるチャットの機能も使えば、精神障害、心の傷のある人達以外の人たちにももっと広くコミュニケーションのツールとして使ってもらったほうがいいんじゃないかと教えてくれました。自分では全然そういう可能性や使い方を考えておらず、ただ他の作業所と各作業所の中で抱え込んでいる問題を伝えたいと思っていたのですが、それ以外にもいろんな人が抱え込んでいる問題をテレビ会議やアーカイブを使って伝えることができるのではないかと、最後に発表が終わってから教えてもらえました。ああ、やっぱりいろんな人に会って話をするのはすばらしいことだなと思いました。
みんなで撮った記念写真
この最後の写真は今回のサミットの写真の中でいちばん写りが気に入った写真(みんなで撮った記念写真)なので最後にこれをもってきました。以上です。