特集/教育リハビリテーションの諸問題 障害児教育における将来の傾向としての個人主義と行動主義

特集/教育リハビリテーションの諸問題

障害児教育における将来の傾向としての個人主義と行動主義

Individualism and Behaviorism as Future Trends in Educating Handicapped Children

 Edwin.W.Martin*

細村迪夫訳**

 ホワイトハウスと国会議事堂の間のペンシルベニア通りを、わが国の歴史上重要な行進、諸大統領の就任パレード、殺された指導者たちの葬列、戦争終結を叫ぶ大衆のデモなどが通る。それらが国立公文書保存所を通過するとき、その表戸の上方に刻まれた文、すなわち、「過ぎにしは序幕なし(これからが本番だ)」“What Is Past Is Prologue.”が、その行進について論評する。

 わたしが、国家的見通しにたって「将来への展望」をするようにという編集者の勧めにこたえようとしたとき、わたしは、シェイクスピアのそのことばに強い影響を受けた。障害児教育における今後10年間の中心的主題は、現在すでに取り上げられており、ある場合には、かなり過去のものとなっているようである。本論としては、これら主題の可能性は、個人主義と行動主義との二つの広い概念の下に分類される。どの概念がどの事象にもっとも適合するかに関する決定は、当然主観的なものであり、明らかに、新しい傾向に影響をおよぼす諸概念の間には相互作用があるものである。

個人主義(Individualism)

 特殊教育の基本原則は、これまで常に個人に焦点を合わせることであった。この目標を達成する方法は発達しつづけている。今日、盛んに用いられる方法は、そのもっとも簡易化された意味では特殊学級と呼ばれる、小さな、比較的等質の集団を通して障害児教育を行うことによって、この教育の複雑性を減ずることである。しかしながら、われわれは、病因学的レッテルを用いて等質性を確保することは、期待するほど効果的でないことを見いだしている。そこで、われわれは他の分類方式(categorization systems)、すなわち、子どもの適切な行動、学習過程の型等による分類方式を探究している。障害児教育の複雑性を減ずることは、究極的には、小集団をこえて個人指導(individualized instruction)へ移行することである。

・主要な課題

 この個人指導をいかに発展させ、実施するかという問題がわれわれの主要な課題である。もし、われわれが、個人指導は経費が高すぎるからとか、子どもに対する他人の社会的・心理的刺激を否定するからとか、子どもの「完全性」または全体性によるよりは、むしろ特殊な状態に働きかけるように思われるからとかいって、この明白な解決法(すなわち個人指導法―the individual tutor model)を拒絶するならば、われわれはどこに行ったらよいのか。現在の特殊教育および普通教育プログラムを個別化する一つの方法は、それらを創造的に構成することによって、個々の子どものニードに最大限の包容力をもって応じることである。

・理念の変化

 真の教育の個別化(individualization)は、関心の中心としての子どもあるいは学習者の受容から始めなければならない。われわれは何年もの間、この概念に口先だけの誠意を示してきたにすぎず、この間われわれの主要な関心の的は、個々の子どもの学習過程ではなくて、教育の過程であった。われわれは子どもを制度、カリキュラム、学級の規模や編成、教員養成の特性、複雑な方法の他の諸相などに適合させることに関心をいだいてきた。学級に起こる過程を詳しく調べてみるとき、われわれは、課題への接近の多様性、提示の割合、学習者が提示された課題を習得しようとするときの彼の感情への反応などを含むような個別化を示す独特の教師―生徒相互作用(teacher―student interactions)があるとは思えないのである。

 さまざまな形において、新たに個人を強調する傾向が高まっており、今後10年間には、さらに強調されるようになろう。たとえば、教員養成プログラムは障害種別的接近を(categorical approaches)減少し、学級における学習指導的役割に加えて、学習過程の下位相、たとえば言語発達や知覚に焦点をあて、診断的な、治療訓練教材教具を用いた役割を探究するなど、新しい形をとっている。

 年々、障害者教育局の職員養成補助金の大部分は、教員養成の方法を再編成する特別計画に当てられている。また、学校においては、子どものニード、学習の型式および行動の分析がますます一般的なものとなっている。

 認知的教材に関して個々の学習者に焦点を合わせたり、教育の場において彼の学習や適応行動に焦点を合わせたりすることによって、われわれは学習者の感情や感情的な面をあまりにしばしば無視してきた。全人としての完全性、人間としての有限性、理想ならびに生産性へのこうした関心が、教育を特殊なものにすることを必要とさせる。

・情緒的行動の理解

 行動に障害のある子どもの教師を養成するプログラムに、教師が自分自身の情緒的行動の理解を深めるために計画されたコースワークや、諸経験を含めることがますます一般的なものとなってきている。集団の相互作用を研究する技術や、グループ・ディスカッションにおけるスピーチ行動とその底にある感情との関係を理解しようとする技術を通して、われわれは行動に障害のある子どもの理解をたすけるわれわれ自身の理解を深めることを試みている。教師と子どもはそれぞれ、こうした理解から利益を得るであろう。このような発展はりっぱなものであるが、しかし、感情は行動に障害のある子どもに限られていない。それはすべての人間的事象、すべての学級場面、すべての教師―生徒相互作用の一部分なのである。

 普通教育や特殊教育を観察したとき、わたしは、教師やスピーチセラピストが自分の担当する子どもや親の感情に対する敏感さに欠けているという思いに、しばしばおそわれたことがある。先日、りっぱなプログラムを参観にいったとき、わたしを案内した特殊教育の教師が一つのドアを開けて、「こちらが発達の遅れた子どもたちの父母です」と言って、ドアをしめ、そのことばを宙ぶらりんにして、わたしたちはその場を去った。このような例について気がかりなことは、やってよいことも悪いこともすべてをごちゃまぜにして、しかも重要なことではないと、むとんちゃくでいるのではないかということである。

 高等教育のカリキュラムの大部分を調べてみて認められることは、教科的教材(academic material)に多くの注意をはらうが、学習指導という対人関係(interpersonal relationships)の注意深い分析的研究には、ほとんど時間がさかれていないということである。学習指導は、われわれの行動が他人の感情や学習におよぼす影響を含んでいるのである。しかしながら、教育実習における学習指導は、実習生が本質的に自分自身にかかわる活動であることがあまりにもしばしばである。実習生がなにか直接的な方法で、知り合ったよい教師の感受性を吸収することが望まれる。とはいえ、これら対人関係の技能は学習されうるものであり、しかも教育研究の正当な分野であるから、偶然の学習にまかせられてはならない。日々、どの学級のどの子どもも、成功、失敗、喜び、苦しみ、帰属感、孤立を体験している。そこには、人間のすべてにわたる情緒がある。今後10年間、われわれはこのような面の教育と関係しなければならない。

・special educationかSpecial Educationか

 われわれは専門職にたずさわる者として、子どもが特殊な教育を受けるのをたすける援助者である。このことは、ますます、現在の制度―デイケア・プログラムや就学前プログラム、初等および中等学級、職業教育プログラム、大学および成人教育プログラム―を、「すべての」子どもに適合するように修正するのを援助することを意味するであろう。

 過去においては、われわれの専門性が発達するにつれて、なにか普通学校とは別のものとして、悪くいえば、付属的なものとして、“Special Education”をつくりあげることが必要であった。いまや、ひとりひとりの子どもが適切な教育を受ける権利を認めようとする動きが高まっており、より多くの子どもに、より大きなプログラムのなかの“a special education”を用意することにますます関心が集中されるであろう。

 少数グループの親の要求とより積極的に相互に作用することができるのは、この状況においてである。彼らの子どもの援助者として、われわれは子どもにレッテルをはったり、種別分けしたり、継続的に分離したりすることなしに、必要な制度の特殊化、適性化をもたらすよう援助しなければならない。レッテルはりの有用性に疑問をなげかけ、それがおよぼす害を真に理解する必要性は、少数グループの子どもに限られるものではなく、すべての子どもについてもいえることである。レッテルはりの手続きと関係なしに特殊教育プログラムの経済的援助を可能にした償還制度(reimbursement systems)が、いまや数州において発展している。今後10年間に、このような形の行政的柔軟性の成長がみられるように思われる。指導の個別化への基本的傾向と関連して、こうした柔軟性は、さらに多くの障害児が普通学校プログラムに参加することを可能にするであろう。専門職としてのわれわれの役割は、“Special Education”を維持することを主張することではなくて、個々の障害児に“a special education”を確保し、より大きな意味では、どの子どもにとっても「特殊」であるような教育制度のビジョンをより現実のものとすることである。

・学習教材教具方式(Learning Resource Systems)

 障害児を普通教育プログラムに統合することによって障害児の“a special education”を達成することは、制度の修正なしには成功しないだろう。何百万もの障害児がいま普通学級におり、彼らの運命は失敗、欲求不満、社会的孤立であることがきわめて多い。大部分の教師は大部分のアメリカ人と同様に、障害者を知り、障害者とともに働く経験をほとんどもっていない。障害児を、学校から、輸送機関から、公園、運動場、建造物から、職業から、社会的接触から締め出す社会機構が、これまで、あまりにもじゅうぶんに働いてきた。障害者との人間関係における親密さと自信の欠如は、多くの教師が障害児の学習を援助するために相互に効果的にかかわりあうことができるようになるために、特殊の援助が必要であることを意味する。

 教師が子どもへの接近を個別化するのを援助するために、多様な学習教材教具方式が開発されなければならないであろう。すでに300か所以上の特殊教育指導教材センター(special education instructional centers)が開所している。また、そのほかに子どもの学習における問題点を確認するための助言、相談、資料を与える教材教具プログラム(resource programs)や、適切な学習指導法や教材を確かめ、使用することに関する援助がますます一般的なものとなってきている。

 指導をたすけたり、あるいは場合によっては、学生に一定の概念や概念群を自習させたりするために特別に計画された教材が、学校、大学、民間会社などによって開発されつつある。電子計算機は、これらの教材が使用される目的や教師がそれを使用したときの結果などの情報を収集している。今日、教育工学の使用について、しばしば不満の声が聞かれるが、しかし、将来において指導をより個別化させようとする、強い傾向を無視することはできない。

・児童援護(Child Advocacy)

 個人主義の立場から現れた児童サービスへの新しい、興味ある接近は、児童援護方式(the child advocacy system)である。児童援護の概念は、子どもに影響を与えて、彼を形成する社会や制度という、より大きなわく組みのなかの個人として、子どもの「全体性」を認識することから生まれている。それは、ただ子どもの教育的福祉だけでなく、子どもの全体的福祉を包含するものである。それは、子どもを援護するすべての社会制度をばらばらな状態でなくし、利用できるサービスの間のすき間をふさごうとする試みである。児童援護は、そのもっとも純粋な意味においては、健康、栄養、特殊教育、リハビリテーションのためのいずれであれ、治療プログラムに対してでなく、子どもに対して働きかけるのである。

 児童援護方式が新しいサービス職員やサービス機関を設けるかどうかは明らかではない。しかしながら、児童援護の精神は特殊教育に浸透し、われわれは学級の外の障害児(者)に対する責任ある援護の態度をすすんでとるようになると思われる。われわれは、学習や行動の問題における潜在能力の確認をたすけ、家族が子どもを教育するのをたすけ、子どもが必要とするサービス(それが学校の伝統的関心外であったにせよ)を見いだすことにおいて子どもをたすけ、そして究極的には、個人が生涯を通じて教育的・文化的刺激を見いだすのをたすけるために、われわれの関心は人生の幼少期に向かうだろう。

行動主義(Behaviorism)

 今日、行動主義の概念はオペラント条件づけと強化説の連合を促進しているように思われる。しかし、歴史的には、行動主義は刺激―反応学習理論やそれと同系の諸理論に限られていたわけではなくて、デューイの教育的機能主義を含む多様な学習およびパーソナリティ理論の一部であった。今日、行動主義の立場がみられるものの一つに、プログラムの計画および運営に適用されるシステム分析の分野(the discipline of systems analysis)があるが、これは興味あるものである。

・アウトプット・オリエンテーション(An Out-put Orientation)

 この新しい分野の焦点は、望ましい行動、すなわち「アウトプット(outputs)」に向けられる。障害児教育において計画され、運営されているプログラムのアウトプットは、児童中心の立場に、あるいは可能ならば、児童の行動に向けられる。このアウトプット・オリエンテーションは、プログラム自身(プロセス・オリエンテーション―process orientation)、すなわち、過程(process)への「インプット(inputs)」を強調する立場と対比されよう。

 たとえば、教員養成の過程において、われわれは大学レベルで、インプットに焦点を合わせてきた。免許状の基準は、たとえば、指導法に何時間、教育実習に何時間というようにインプットに基づいている。さらに、われわれは大学教職員の教育程度―学位はどの程度か、経験年数はどのくらいか―に関心をもってきた。連邦政府の特別研究費を受けるよいプログラムとは、伝統的に、主としてこのようなインプットによって評価されてきたのである。アウトプット分析において、われわれは他の質問、たとえば、「何人の教師が養成されたか、そしてどのくらいの経費で」という質問をするだろう。さらに、「教師は何をすることができるか」あるいは、「子どものどんな行動の変化が、教員養成プログラムに関係しているか」という質問をするのが適切だろう。単に、教育の過程にそそがれるものに中心がおかれるべきでなく、教員養成の究極的目的―学習する子ども―に関連して生ずるものに中心をおくことがより重要である。

 ことし、われわれは300以上の大学の教員養成プログラムを援助すべく、3,500 万ドルの予算でこの新しい計画に取り組んでいる。教員養成プログラムは、知識や技能に対する学生のニードの分析に基づいて、その目的を確認することを求められている。大学はまた、これらの目的達成への進歩を評価することを求められるであろう。それと同時に、そのプログラムは連邦政府助成金を割り当てることに、および課題への新しい接近を発展させることに新しい柔軟性をもっている。

 一つの機関として、われわれの目標は300の大学(プロセス・オリエンテーション)に補助金を与えることに、あるいは助成金のつくプログラムに参加するための、より新しくより高い基準をつくることに向けられるのではなく、養成される教師の数とこれら教師が取り扱うであろう、特殊なニードをもった子どもの数に向けられるのである。究極的には、何が子どもに起こるか、どんな種類の仕事を子どもが得るか、どんな種類の生活を子どもがするか、ということにかかわるのである。

 今後10年間に、このような形の企画方式が大学や連邦政府ばかりでなく、州や地方の特殊教育プログラムの多くの決定に影響をおよぼすであろう。われわれが何をなすかというアウトプットに注意を集中するよう要求するとき、この方式は、われわれのニードは何か、われわれの目的はどうあるべきか、われわれの目的を達成するにはどんな方法を用いるのかを、注意深く分析することを保証するのである。

・なすことと読むこと

 障害者教育に影響を与えている行動主義のもう一つの面は、教員養成プログラムにおいて「なすこと(doing)」がますます強調されてきている点に見いだされよう。教育実習の経験は、準備の順序において、より早期に与えられており、観察はじょじょに教師の助手あるいはボランティアとして実際に参加する形に進みつつある。特殊卒業生プログラムはインターン制や寄宿制をとっている。そこでの、コースワークは全時間の実践経験を中軸としている。われわれがこの傾向を強め、それを教員養成過程のアウトプットへの強調と関連させることが重要であると思われる。もし、われわれが指導レディネス、または指導能力(このほうがなおよいが)を実際の行動または能力の評価によって判定すべきであるとすれば、われわれのプログラムにおいて、その能力と相関していることがらを強調しなければならない。わたしは、もっとも重要な変数は、ますます複雑化する教科的教材の研究よりもむしろ過程それ自身との経験に急激に向かうだろうと推測する。専門職の社会学は、もし、例として心理学や言語病理学を観察するならば、学習される教科的教材をそれ自身のためにますます強調する学問的な人々と互いに関連するように思われる。

 その代わりに、われわれは学習過程を通じて多様な実際経験を用意すべきである。学生が進歩するにつれて、障害児との実際経験における責任のレベルはそれと比例して増大することができる。われわれの自然学習、すなわち、価値を認めることがら、趣味、興味等の学習に関する調査は、すべては、深い経験的なかかわりあいによって、つまり読むこととともに、なすことによって学習されることを示唆しているのである。

障害児に何が起こるか

 合衆国の600万人の学齢障害児の2分の1弱が特殊教育プログラムを受けているとき、すべての子どもにかれらの特殊なニードを満たすために計画された、ある種のプログラムを受けさせることに焦点を定めることは比較的容易である。しかし、このプログラム方式がうまくいくかどうか問うことはかなり困難であり、どのように成功を評価するか問うことはなおいっそう困難である。

 特殊教育の目標については、かなりの討議がなされてきており、「どの子どもも、その能力の最大限に達すべきである」という一般的合意がみられるが、障害児教育の明確な目標が今後さらに示されなければならない。個々の障害の状態や程度に応じて目標を個別化することの複雑性のために、こうした目標設定がすておかれてきたのであろう。もちろん、結局、障害者および障害のない者の両者に対する明確な目標は、社会の成員として生産的で満足のある生活である。下位目標は抽象的なものではなく、能力や社会化の発達によって達成される自己注目(self regard)とか、仕事や生産性によって達成される貢献的行動のような適切な要素に基づいている。

 一つの下位目標を考えてみれば、たいていの人にはこの社会において成就と能力の重要な指標は適切な職を与えられることである、ということに同意するだろう。だが、わが障害児教育制度はこの目標に向かいはじめたばかりである。全特殊教育プログラムの3分の2から4分の3は、初等教育レベルにある。そして、多くのプログラムにおいて、労働社会に対する準備は、間接的に含まれているにすぎない。今後4年間に学校を卒業する障害児のうち、完全雇用されるか、または大学進学するのは21%にすぎないであろう。他の40%は不完全雇用され、26%は雇用されないだろう。さらに、10%は少なくとも部分的に「保護された」場や家族を必要とし、3%はおそらく、ほとんど完全保護を必要とするだろう。

 各州において、プログラムはいまや、障害者を仕事のために訓練し、かれらに仕事の経験を与えており、また多様な活動を通してかれらに経済的自立の準備をさせようとしている。どの子どもも「進路教育」(career education)と呼ばれているもの、すなわち、経験に関連した多様な仕事に関する具体的資料などを用意し、将来の就職に適した態度や技能を養成する教育に参加する機会をもてるように、これら特殊職業プログラムをさらに発展させていく一方、われわれは、基本的指導プログラムを再定義することが必要である。どの子どもも、仕事やさらに進んだ教育への準備をして学校を卒業すべきである。

 就職(employment)は、障害児教育プログラムの唯一の目的ではない。本論とのその関係は、就職は主要な目標であるが、しかし、特殊教育プログラムをリードしてきた計画には部分的にしか含まれていないように思われるということである。社会的活動、コミュニケーション技能、余暇を楽しむ能力―すべて、じゅうぶんな生活にとって基本的なもの―のような他の目標は、プログラムの間接目標でしかないことがしばしばである。障害児の特殊教育の結果あるいは望ましい目標、すなわち望ましい行動をさらに注意ぶかく分析するとき、われわれは、それに応じてわれわれのプログラムを改訂するであろう。このような意味において、説明できること(accountability)が今後10年間の重要概念になるであろう。

 最後の分析であるが、教育の機会均等の動きの哲学的基礎は、社会における各個人および人間としての権利に本質的な価値を認めることである。障害児教育への連邦政府の援助の理論的根拠を発展させることにおいて、われわれはますます、ひとりひとりの子どもが適切な教育を受ける本質的権利を強調してきた。障害児教育は慈善でも、総合的学校プログラムにおける望ましい例外でもない。それは、子どもとその家族に与えられた基本的権利なのである。

 こうした立場の発展は、かなりの年月を経て、州レベルでの「強制的(mandatory)」立法につながり、そして、ことし、すべての精神薄弱児に適切な教育を用意する義務を州に課した連邦地域裁判所(Federal District Court)によるペンシルベニア判決につながってきている。1980年までに「すべての障害児に適切な教育を」、という公約を州単位で州に実現することを働きかけるとき、われわれは以上のような論法を用いている。

 今後10年間に障害児に何が起こるかは、特殊教育の教師が、学校のなかの子どもの行動に関して果たす役割と同時に、学校の外で進んで果たそうとする役割いかんでほとんど決まるであろう。われわれの過去は、われわれが市民として障害児の親たちや他の関心のある市民といっしょになって、公的優先権に影響を与え、教育委員会がプログラムを援助するように促し、立法者が州法や連邦法を通過させるように、働きかけることが必要であったことを示唆している。この過去は、われわれが公共政策の創造にますます参加していくことの序幕である。なぜならば、われわれの努力は成功しうるし、また成功してきたことを学んだからである。

 障害児教育に関心をもつ人々は、教育の効果を示し、差別につながってきた不安や無知を減じながら、障害者に対する一般の人々の肯定的態度をつくりあげるために働くであろう。また、かれらは、法の下に等しく障害者を保護することを保障する裁判過程において、裁判所の味方となるであろう。さらに、かれらは、ひとりひとりの子どもに効果的なプログラムを発展させるために立法者や行政者とともに働くであろう。

(Exceptional Children、March,1972より)

*米国、保健教育福祉省教育庁障害児教育局次長

**東京教育大学教育学部附属桐が丘養護学校教諭


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年7月(第7号)2頁~8頁

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