特集/教育リハビリテーションの諸問題 機能的精神遅滞に対する社会言語的研究

特集/教育リハビリテーションの諸問題

機能的精神遅滞に対する社会言語的研究

A Sociolinguistic Approach to Functional Mental Retardation

Sol Adler*

武田 洋訳

 知的な能力と学業成績の間に、何か重要な相関関係があるということは明白である。さらに、社会的経済的に低い階層が心理社会的に劣っていることが、その階層の子どもたちのこの相関関係をそこなわせていることもよく知られている。そして、多くのいわゆる劣っている子どもたちの学習問題や、成績の低さが、そういう条件からもたらされるために、長い間貧困による病と考えられてきた。しかし、貧困のために子どもの学習問題、つまり機能的精神薄弱が発展する環境が生じるということもいえるが、それだけか決定的要因とのみいえない。機能的精神薄弱が英語の標準語を話す人々と、そうでない人々との間の言語上の問題とも、密接に結びついていることを示すじゅうぶんな資料が集められてきている。

 教師と子どもの間の言語上の体系のそのような相違が、こういう子どもたちの教科的な行動に重要な影響を与えている。それにもかかわらず、こういう子どもたちの教育上の問題を治療する伝統的な方法には、このことはとり入れられていないようである。機能的な精神薄弱児の教師によって一般的にあげられる分類上の典型的なものによると「劣った」子どもの言語は標準語であり、ほんとうの言語の欠損として特徴づけられ、さらに認識を豊かにするプログラムのいくつかの形が、その言語上の不足を治療するのに必要なものであるという約束ができているかのようである。

 以上のべたことを実際に調べてみるのは、教師の義務であるといってもよいだろう。つまり、もしある言語伝達の相違が教師と子どもとの間にみられるならば、その食い違いの理由はできれば研究され、また治療されなければならない。私たちはよい教育のための必要条件とは、効果的な伝達であり、またそういう伝達は外延的なまた内包的な意味を、言語を相互伝達することにかかわる人たち全員が正確に理解する場合にのみ、起こるのであると提唱する。言語上の形式、とくに文章論の研究における意味の問題は、いくぶん怠ってきた問題であり、また現在実感されているよりも、はるかに重要な問題である(Adler.1971)。ひとつの文章をくり返すテストによって、子どもから知ることのできた反応様式は、子どもたちの記憶の間隔と関連している。たとえば、子どもの記憶の間隔よりも長い文をくり返させるのは、その子どもに聴覚的な文を、その子のもつ現在の言語と一致する反応へと、再編成させることになる。おそらくそういう修正は、教師と子どもの間のある伝達を凝固させることになるというのが私たちの論点である。

概念モデル

 教師と診療者に興味をいだかせる二つの概念のモデルは、文化的な栄養不足と文化的に不均衡なモデルとでもいえるものである。Public Health Service(National Institute on Child Health and Human Development 1969)の最近の刊行物にも指摘されているように、前者のモデルは次のように仮定されている。

 つまりある子どもというのは、とくに中産階層の子どもに適合して、その適切な成長と発達に必要なものであるが、文化的に低い階層の子どもにとっては、ふじゅうぶんで不適切な「何か」を受けることになる。そのため治療的で教育的な手だてが必要とされてくる。Williams(1969)に従えば、文化的栄養不足のモデルは、文化的に異なった子どもたちを教育し扱うのに関係した人たちと悪い意味で衝突するもの(習慣化された伝統)をもっている。たとえばDeutsch(1967)は、低い階層の子どもたちには「累積した言語の欠損」があると提唱している。つまり、言語の欠損が学校生活を通して、子どもにいちじるしく表れるようにあるというのである。

 実際には言語の困難とそのために教育的獲得が明らかに低くなるという困難を増大させるような体験を、ある子どもはするのだという事実はめずらしいことではない。Wolfram(1969)が指摘したように、文化的な不均衡の理由というものは、Deutschが提案したような心理社会的に低い状態にあるという概念や、文化的な栄養不足のモデルなどというのではなくて 学校が与える価値や言語体系と、子どもの仲間たちの価値や言語体系との間の混乱の方である、つまり学校の行動と仲間たちの中の行動との距離といってもよい。

 たとえばHolland(1970)のいうように、社会文化的慣習に関心がもたれてきたということは、研究者たちの間で、「援助」し、教えあうことが遅れていることを意味するということだけである。そういう見解によれば、文化的な栄養不足のモデルのように、文化的に欠落しているという相違を扱うよりも、むしろいろいろの下位文化の中にいる人々の相違を理解し、それを克服させるようにする必要が強調されてくる。したがって、そういう相違のある学級に効果的な伝達というものを発達させるには、子どもたちの教育プログラムに耳を訓練するという方法論が不可欠な部分となってくる。

 しかし伝統的な聴覚判別訓練プログラムは、文化的な栄養不足のモデルに関係したものであって、とくに伝達の障害を越えるために橋をかけるのに効果のあるものではない。標準的な言語とそうでない方言との間の相違や共通性を聞いて比較する(対照し分析するプログラム)ことは、そういう効果的な伝達の発達に基本的に重要なものといってよいだろう。

参考文献 略

*テネシー大学聴覚・言語病理学教授


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年7月(第7号)20頁~21頁

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